陽菜と呼ばれる、あの不思議な霊が、ふわりと湯煙の中に溶けて消えた後、夕暮れの空は吸い込まれそうなほど美しい薄紫色に染まり、桜織温泉郷の静かな露天風呂には、先ほどまでの|喧騒《けんそう》が嘘のような穏やかな静寂が戻ってきた。 僕は湯船の岩でできた縁に腰を下ろし、濡れたタオルを手に持ったまま、じんわりと熱い湯気の湿気を頬に感じていた。少し離れた女湯の側では、美琴も同じように湯に浸かっている気配がする。幸い、僕たちの間を|隔《へだ》てる年季の入った竹の柵は、その隙間こそあれ、互いの姿をはっきりと見ることはできないように視界を遮ってくれていた。 それでも、さっき目の当たりにしたあの光景――陽菜さんが化けた、偽物の美琴が、悪戯っぽく笑いながらタオルをずらし、夕陽の赤い光に照らし出された汗ばんだ白い肌――その鮮烈なイメージが、まるで焼き付いたように、頭の片隅にしぶとく、そして繰り返し再生されてしまう。 いけない、いけない。あれは美琴じゃないんだ。陽菜さんっていう霊の悪ふざけなんだから。 僕はぶんぶんと首を振って雑念を振り払い、湯船の湯を両手ですくうと、思い切りバシャッと顔にかけた。思ったよりも熱い湯の滴が頬を伝い、夏の夕暮れの気だるい暑さと混じり合って、少しだけぼんやりとしていた意識を覚醒させてくれるようだった。 「……ごめん、美琴。さっきは、その……」 僕は、気まずさから視線を湯面に落としたまま、湯煙の向こうにいるであろう彼女に向かって、小さな声で呟いた。 すると、ほとんど間を置かずに、くすくす、という楽しそうな笑い声と共に、美琴の返事がすぐに返ってきた。 「ふふっ、少し恥ずかしかったですけど、別に本気では怒っていませんから、大丈夫ですよ、先輩」 そのどこまでも穏やかで、優しい声の響きに、僕の胸の奥で硬くなっていた何かが、ほっと音を立てて緩むのを感じた。 ……でも、こうやって彼女に優しくされると、ますます申し訳ないというか、罪悪感みたいなものが、むくむくと込み上げてくる。 だって、まだ頭のどこかで、さっきの陽菜さんが化けた”彼女”の姿を、僕は思い出してしまっているのだから。 僕は、ごまかすように深く息を吐きながら湯の中に身体を沈め、首までゆっくりと浸かって、そっと目を閉じた。ちゃぷん、と立てた小さな波紋が、湯面に浮かぶ黄色い睡蓮の花をかすかに揺らす。
ふわり、と湯気が優雅に舞い上がり、温泉特有の、どこか懐かしい硫黄の香りが僕の鼻腔を優しくくすぐる。 静かな湯面には、どこからか紛れ込んだのか、鮮やかな黄色い山吹の花びらが数枚、まるで小さな舟のように静かに浮かび、 夏の夕暮れの、淡く美しい橙色が、その水面にゆらゆらと映り込んで、幻想的な模様を描いていた。 男湯の、岩で作られた風情のある湯船に肩までゆっくりと浸かりながら、僕は、ふぅー、と深く安堵の息を吐き出す。 極上の湯の温もりが、じんわりと、そして確実に身体の芯まで染み込み、 昼間の長い道のりを歩き続けたことによる心地よい疲労感が、まるで薄紙を剥がすように、ゆっくりと消えていくのを感じた。 「……ああぁ……気持ちいい……」 誰に言うでもなく、思わずそんな小さな呟きが、僕の口から満足げに漏れた。 遠くの方からは、川のせせらぎが絶え間なく聞こえ、そして、夏の夕暮れを惜しむかのように、蝉の声がゆるやかに、そしてどこまでも優しく響いていた。 湯船のすぐそばに植えられた木々の葉が、時折そよぐ夜風に揺れて、さらさら、さらさらと、涼やかで心地よい音を立てる。 この露天風呂の周囲は、自然の大きな岩で巧みに囲まれていて、 そして、湯船全体を包み込むようにして、背の高い竹林が、まるで屏風のように立ち並んでいた。 そのおかげで、まだ残っていた西日や、外部からの視線は完全に遮られ、 立ちのぼる白い湯煙が、この空間にやわらかく漂いながら、僅かに顔を出し始めた月明かりに照らされて、美しく輝いている。 湯気と淡い月光が静かに交じり合うその場所は、まるでこの世のものとは思えないほど、どこまでも静かで、そして幻想的な雰囲気に満ちていた。 僕は、もう一度、湯の中に深く、深く身を沈め、そっと目を閉じる。 ──こんなにも穏やかで、心安らぐ時間なんて、一体いつぶりだろうか。 母さんのこと、呪いのこと、そしてこれから起こるかもしれない様々な困難のこと…。 そんな、いつも僕の頭を悩ませている全てのことから解放されて、 ただ、この身体の芯の芯まで温泉の優しい熱が浸透し、心の奥底から、ゆっくりと、でも確実に解き放たれていくような、 そんな至福の心地よさが、僕の全身へと広がっていく。 その、まさに至福の瞬間──。 不意に、竹の柵
宿の、あの気まずくもどこか落ち着く和室に戻った僕たちは、 小さなちゃぶ台を挟んで、しばし言葉もなく、窓の外へと視線を向けていた。 窓の外に広がる景色は、もうすっかり夕陽に照らされていて、 木々の緑や遠くの山々がきらきらと、まるで燃えるように輝いている。 どこか懐かしくて、そして物悲しいような、不思議な風情が、部屋全体を包み込んでいた。 その、静かで、でもどこか緊張感の漂う空気を破ったのは、障子戸が控えめに軋む音だった。 女将さんが、にこやかな笑顔で顔を覗かせる。 「失礼するよ、お二人さん」 穏やかな声と共に、お盆に乗せた湯呑みを二つ、ちゃぶ台の上にそっと置き、 またあの、太陽みたいに優しい笑顔を向けてくれた。 「お若いお二人さん、この温泉郷の街並みは、もう楽しんだかい?」 「はい、おかげさまで。すごく雰囲気が良くて、どこか懐かしい感じで……」 美琴が、少しだけ頬を赤らめながら微笑んで答えると、 女将さんは満足そうに頷いた。 「それは何よりだったねぇ。ところで、お二人さん、このあと何か予定は立てているのかい?」 「いえ、特にこれといっては……あ、そういえば…」 僕がふと何かを思い出したように言うと、美琴も「そうでしたね」と小さく頷いた。 「僕たち、実は、この温泉郷に古くから伝わるという、巫女の伝説について、少し調べに来たんです」 その瞬間、女将さんの表情が、ふっと興味深そうなものに変わる。 彼女は身を乗り出し、悪戯っぽく片目を瞑って言った。 「ほう、巫女様の伝説ねぇ……。それなら、行ってみるといいかもしれない場所が、ひとつあるよ」 そう言って、一度部屋を出ていった女将さんは、すぐに一枚の古びた手書き地図を持って戻ってきた。 「はい、これがその場所への、おおよその道順さね。ちょっと分かりにくいかもしれないけどね」 渡されたその和紙の地図には、温泉郷のさらに奥へ続く細い小道や、 古い石碑、変わった形の木など、特徴的な目印が丁寧に描かれていた。 「わぁ……ありがとうございます! こんなものまで……!」 美琴と僕がほとんど同時にお礼を言うと、女将さんはにっこり笑った。 「ちなみにね、その道中に、“陽菜の湯”っていう、ちょっと変わった名前の露天風呂があるんだけど……知ってるかい?」 「陽菜の湯……ですか?」 どこかで聞
夏の夕暮れが、ここ温泉郷の全てを、 優しい薄橙色にゆっくりと染め上げていく。 川沿いの、風情ある石畳の小道を歩く僕と美琴の影が、 まるで寄り添うように、長く、長く伸びていた。 軒先に灯り始めた提灯の柔らかな明かりが、木々の緑の間で淡く、そして温かく揺れている。 温泉特有の、硫黄を含んだ湯気の香りが、しっとりと夕暮れの空気に溶け込み、 時折そっと頬を撫でていく風が、汗ばんだ僕たちの首筋に、心地よいやさしい涼しさを運んできた。 美琴の白く小さな手には、さっき僕が贈った、 あの桜の形をした勾玉のアクセサリーが、大切そうに握られている。 傾きかけた夕陽の最後の光を受けたそれが、彼女の指の間で、 小さく、けれど確かに、きらりと光った。 その控えめな光を見つめながら、僕の胸の奥が、またほんのりと温かくなるのを感じる。 ……でも、それとほぼ同時に、どこか落ち着かない、 そわそわとした気持ちも、確かにそこにあった。 新学期に、あの桜の下で美琴と出会ってから、まだたった二ヶ月と少ししか経っていない。 それなのに── あの廃病院の、血の匂いがした冷たい廊下。 風鳴トンネルの、息が詰まるような静寂と恐怖。 彼女と過ごした時間は、およそ「日常」という言葉では到底語り尽くせないほどに、 あまりにも濃く、そして深かった。 時折、こうしてふと振り返るたびに思う。 ……まだ、そんなにも短い時間しか、僕たちは一緒に過ごしていないんだ、って。 「美琴、そろそろ、予約した宿に行ってみない? まだチェックインの手続きもしてないからさ」 僕が、少しだけ照れ隠しに早口でそう声をかけると、 美琴は、こくりと小さく頷いた。 「はい、先輩。そうですね、私も少し疲れましたし、お宿へ行きましょうか」 彼女の、どこまでも柔らかい声色が、 僕の耳に、そして心に、なんだかとても心地よく響いた。 *** 温泉郷の中心部へと、僕たちはゆっくりと足を進める。 そこかしこから立ち上る白い湯煙が、 美しいグラデーションを描く薄橙色の空へと、ゆらゆらと頼りなげに溶けて消えていった。 道の両脇には、風格のある木造の宿がいくつも軒を連ねている。 その軒下には、趣のある提灯がいくつもぶらさがり、 夕闇が迫る周囲に、やわらかな、温かい灯りをぽうっと灯し始めていた。 その中
さっきのお土産屋さんのおばあちゃんの言葉を思い出しては、 まだ少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、僕たちは気まずさを誤魔化すように、そそくさとその場を立ち去った。 次に僕たちの目に飛び込んできたのは、 石畳の小道沿いに佇む、|趣《おもむき》のある一軒の茶店だった。 年季の入った木の看板には、掠れた墨文字で「休み処」と書かれている。 店先には、蒸篭からほかほかと湯気を上げる温泉卵や、 冷たい緑茶の入ったガラス瓶が涼しげに並べられ、 店の奥へと続く縁側には、腰を下ろして一休みできそうな、磨かれた木のベンチがいくつか置かれていた。 店番をしていたのは、柔和な目元が優しい、白髪頭のおじいちゃんだった。 僕たちに気づくと、|皺《しわ》だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと手を振ってくれた。 「おやおや、可愛らしい、若いお二人さんだねぇ。 よかったら、うちの名物の温泉卵でも、どうだい? 今できたばかりで、熱々だよ」 「温泉卵……食べる、美琴?」 隣の美琴に、僕はそう尋ねてみた。 すると、彼女の大きな茶色の瞳が、ほんの少しだけ、きらりと子供みたいに輝いたのが分かった。 「はい、先輩! 私、温泉卵が大好きなんです。ぜひ、いただきたいですね」 え、そうなの? いつも冷静で、大人びて見える彼女の、そんな意外な、そしてなんだかとても可愛らしい一面に、 僕も自然と頬が緩んで、笑顔になってしまう。 おじいちゃんから、まだ温かい温泉卵を受け取り、そっとその薄い殻を剥くと、 中からほんのりと独特の硫黄の香りが立ち上り、 つやつやと輝く白身の間から、とろりとした鮮やかなオレンジ色の黄身が、ゆっくりと溢れ出した。 美琴が、小さなスプーンでそれをそっと掬い、小さな口へと運ぶ。 すると、彼女の表情が、ふっと、どこか遠くの景色を見つめているかのような、そんな物憂げなものに変わった。 「……美味しいですね……。 なんだか、この温かさが、身体にじんわりと染みてくるようです……」 彼女の声が、最後のところで小さく途切れ、 そこには、どこか遠い日を懐かしむような、そんな響きが、確かに帯びていた。 僕も、促されるように温泉卵を一口食べてみる。 優しい塩気と、黄身の濃厚な旨味、そしてじんわりとした温もりが、口の中いっぱいに広がり── なんだか心ま
温泉郷の、どこか懐かしい街並みを眺めながら、 僕と美琴の間には、さっきからずっと、なんとも言えない微妙な沈黙が流れていた。 あの陽気なおじさんに、からかうように言われた「お似合いのカップル」という言葉が、 まるで頭の片隅にこびりついてしまったかのように、どうしても離れてくれない。 霧の中で、無意識に繋いでいた彼女の手を慌てて離した後も、 僕の指先には、まだあの小さくて柔らかな手の温もりが、じんわりと、そして確かに残っていて、 それが消えてくれないものだから、妙に意識してしまう。 隣を歩く美琴も、心なしかいつもより口数が少ないような気がした。 時折、彼女の白い頬に、ほんのりと、夕焼けみたいな優しい赤みが残っているように見えるのは、 きっと、夏の強い陽射しのせいだけじゃないのかもしれないな……なんて、 僕もらしくないことを考えてしまった。 僕たちの目の前に広がるこの温泉郷は、 古いけれど手入れの行き届いた木造建築が並び、 どこか懐かしさと、そして穏やかな時間がゆっくりと溶け合うような…本当に美しい街並みだった。 しっとりとした湯気を上げる川沿いには、 風情のある木造の旅館や、こぢんまりとした土産物屋が軒を連ね、 石畳で舗装された趣のある小道には、 色とりどりの可愛らしい提灯が、夏のそよ風に楽しげに揺れている。 遠くの源泉の方からだろうか。 硫黄の混じった独特の湯気の香りが、ふわりと僕たちの鼻先をかすめ、 そっと頬を撫でるように吹き抜けていく優しい風が、 じりじりと照りつける夏の暑さを、ほんの少しだけ和らげてくれる。 「と、とりあえず……せっかくだし、少しこの街を見て回ろうか、美琴?」 なんだか気まずいような、でもほんのり温かいような、 この沈黙を破るように、僕が努めて明るくそう提案すると、 美琴は、一瞬だけ僕の顔を見て、そしてすぐにまた視線を逸らしながらも、 静かに、そして小さく頷いた。 「はい、先輩。そうですね、せっかくですから、少しだけ散策してみたいです」 彼女の声は、いつも通り落ち着いていたけれど、 やっぱりその頬の柔らかな赤みが、まだ完全には引いていないような気がした。 僕も、なんだか照れくさくて、少しだけぎこちなく笑いながら頷くしかなか