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第4話 母が眠る場所

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-15 18:22:57

病室の窓から、夕陽の最後の光が、淡く、そして優しく差し込んでいた。

風に揺れる薄手のカーテンが、壁の上で光と影の柔らかい模様を静かに描き、そして溶け合わせていく。

薬と消毒液の、ツンとしながらもどこか清潔な匂いが、この部屋の静謐な空気に、そっと混じり合っている。

その中で、僕はいつも通り、ベッドのそばに置かれた簡素なパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

「……来たよ、母さん」

誰に聞かせるともなく小さく呟き、僕はベッドから投げ出された母さんの、細く冷たい手をそっと両手で包み込むように握る。

その手は、まだ確かな温もりを僕に伝えてくれる。

けれど、純白の病衣に包まれたその身体は、お見舞いに来るたびに、少しずつ、でも確実に細く、小さくなっているように感じられた。

それでも、穏やかな呼吸を繰り返す母さんの寝顔は、不思議なほど安らかで、どこか遠い夢を見ているかのようだった。

「そういえばさ、母さん。この間、学校の桜の木の下で、ちょっと不思議な雰囲気の女の子に出会ったんだ」

独り言のように、でも、確かにそこにいる母さんに話しかけるように。

「月瀬美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくて、なんだか、とても綺麗な子でね……」

母さんの閉じられたままの瞼は、ぴくりとも動かない。もちろん、返事はない。

それでも、この誰にも邪魔されない、母さんと二人きりの静かな時間が、今の僕にとっては、かけがえのない大切なものだった。

母さんは、もう十年もの間、ずっと意識のないまま、この殺風景な病院の一室に入院している。

その理由は、表向きには、“原因不明の突発的な意識障害”とされている。

けれど僕には、本当の理由が、分かっていた。

いや、分かりたくなくても、魂に刻み付けられてしまっている。

──今から、十年前。

まだ幼かった僕が、この生まれ持った厄介な霊感という力に振り回され、怯えてばかりいないようにと、

母さんが、特別な帰り道を教えてくれた、あの日のこと。

その時、僕たち親子は、“何か”に、不意に襲われたんだ。

正確に言えば、僕自身……その時の記憶が、まるで濃い霧に包まれたように曖昧で、

どんなに思い出そうとしても、肝心な部分が、はっきりとは思い出せない。

でも、僕たちを襲ったのが、この世ならざる“霊的な存在だった”ということだけは、

今でも、鮮明に、そして確信を持って覚えている。

僕も、あの場にいたはずなんだ。

なのに、あの瞬間のことを思い出そうとすると、途端に全身の皮膚が粟立ち、

心臓が氷水で締め付けられるように痛んで、思考がそこで強制的に停止してしまう。

父さんは、そんな母さんの高額な入院費用をたった一人で稼ぐため、

今はもう、遠く離れた土地の会社で、それこそ身を粉にして働いてくれている。

だからこそ、母さんは今もこうして、かろうじて“生きていられる”。

静まり返った病室に、夕暮れの、もの悲しい時間だけが、ただゆっくりと、そして残酷に流れていく。

「……また、明日も来るよ、母さん」

そっと、温もりを感じるその手を離し、僕は静かに病室をあとにした。

***

桜織市の夜は、古い街並みにも関わらず、意外なほど街灯がきらびやかに輝いている。

病院の自動ドアを抜けると、先程の幽霊との遭遇で感じた精神的な疲労と、

そして母の姿を見たことによる、ずっしりとした気だるさが、足元に重く絡みついてくる。

思わずそう溜息《ためいき》混じりに考えながら、僕は重い足取りで、自宅へと向かう。

玄関の古びたドアを開けると、シンと静まり返った誰もいない部屋に、

春の夜の、少しだけ冷たい風が、ふっと寂しく入り込んできた。

母さんが、いつも笑顔で出迎えてくれた頃の姿が、一瞬だけ鮮明に|脳裏をよぎり、すぐに消える。

もう一度、深く、重い溜息をひとつ。

軋む階段を上がり、自分の部屋のベッドに、倒れ込むように腰を下ろす。

その瞬間、ようやく全身の緊張の糸が切れ、どっと疲労が押し寄せてきた。

薄暗い部屋の中。

僕は、ぼんやりとシミの浮いた天井を見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。

──すると、まるで|水面《みなも》に広がる波紋のように、あの遠い日の記憶が、静かに、そして鮮明に浮かび上がってきた。

***

それは、今からちょうど、十年前のこと。

まだ、僕が七つだった、春の夜。

廃れてしまった神社へと続く、長く薄暗い石段を、

母さんが、僕の小さな手を優しく引いて、ゆっくりと登っていた。

月明かりにぼんやりと照らされた苔むした石畳を、

母さんのすぐ隣で、僕は小さな歩幅で、一生懸命について歩いていたのを覚えている。

夜風が、ひんやりと、でも心地よく頬を撫でる。

母さんの、陽の光に透けるような美しい茶色い髪が、その風にふわりと揺れて、

淡い月光に照らされて、まるで絹糸のようにきらきらと輝いていた。

その穏やかな横顔は、どこまでも、そしていつまでも優しかった。

「悠斗、霊というのはね、本当は、そんなに怖がるものじゃないんだよ」

神社の|朱塗《しゅぬり》りの鳥居をくぐったところで、母さんがふと立ち止まり、

僕の目線に合わせて屈み込みながら、優しく微笑んだ。

夜の、どこか神聖な空気を静かに胸いっぱいに吸い込み、それからゆっくりと続ける。

「ただね、あの人たちは、道に迷って、さまよってるだけなの。

たくさんの悲しみや、やり残した後悔を抱えたまま、自分がどこへ行けばいいのか分からなくなってしまった、人たちなんだよ」

その声は、まるで子守唄のように穏やかで、静かな夜の風に溶けていくようだった。

僕は、そんな母さんの優しい横顔を、じっと見つめた。

まだ、彼女の言葉の本当の意味は、幼い僕にはよく分からなかったけれど、

それでも、なぜだか不思議と心が安らいで、温かくなったのを、今でもはっきりと覚えている。

「ほら、悠斗。あそこを、よおく見てごらん」

母さんが、神社の境内のはずれ、古い灯篭の陰を、そっと指さす。

その指し示した先──

ふわり、と。

まるで陽炎のように、淡く揺らめく人影があった。

──それは、腰の曲がった、優しい瞳をした、おじいさんの姿だった。

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