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縁語り其の三:桜翁の呼び声

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-15 18:22:21

放課後の、まだ賑わいの残る教室。

ざわざわとした空気の中に、誰かが慌てて机を引く音や、弾けるような甲高い笑い声が混じり合っている。

黒板には、今日の授業の最後に書かれたであろう数式が消し忘れられ、それが西日を受けて、チョークの粉と共にぼんやりと白く光っていた。

「なぁなぁ……! 今日本当に行くんだってよ……!」

隣の席から、潜められているはずなのに妙に熱を帯びた声が聞こえてくる。

「え? どこに行くって?」

「ほら、奏多が言ってただろ? あそこだよ、あ・そ・こ・!」

「ん〜…?」

「あ〜!! あそこね!!! まじか!?」

「まじまじ! 今日配信するって言ってたぜ!」

「うはー!! アイツら肝が据わってんな〜! 俺なら絶対に行きたくねぇよ……!」

男子生徒たちの囁き声が、望みもしないのに耳に流れ込んでくる。

(……配信? 何の話だろう)

教室の隅の方で、そんなひそひそとした会話が交わされているのが耳に入る。僕は横目でその様子をちらりと見ながら、特に興味も示さず、静かに自分のバッグのチャックを閉じた。

「よっ、悠斗! 今さ、暇だったりしないか?」

不意にかけられた屈託のない声に、僕は顔を上げる。隣のクラスの幼馴染、不動ふどう翔太しょうたが人の好い笑顔で立っていた。

彼は僕の親友だ。空手部の次期主将と目される実力者で、困った人を放っておけないお人好し。──そして、僕に霊が見えるという秘密を知っている、数少ない友人でもある。

「ああ、ごめん。今日は母さんのお見舞いに行く日なんだ」

「あ、そうか……。そっかそっか、おふくろさん…早く目が覚めるといいな……」

「うん。ありがとう」

「ところで、翔太はなにか僕に用事があったの?」

翔太は少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、口ごもるように言葉を続けた。

「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ、俺、今夜、桜織旧病院に行くことになったんだ」

「……えっ? あの、旧病院に……?」

その名を聞いた瞬間、胃の腑が冷たくなるような感覚と共に、心臓が大きく脈打った。

桜織旧病院──。戦後間もない頃に建てられた、かつてはこの辺り一帯で最も大きな総合病院だった場所。

もう五十年も前に閉鎖されて以来、今では桜織市内でも有数の、そして最も質の悪い心霊スポットとして、その名を知らない者はいない。

鬱蒼とした林の奥深くに打ち捨てられたその白い骸は、興味本位で訪れた者の多くが、「あそこは異界そのものだった」「二度と近づきたくない」と、青白い顔で一様に語る、いわくつきの場所だ。

「翔太、僕が···ってこと、知ってるでしょ?」

そう。僕には、普通の人には見えないはずの霊的な存在が“視えてしまう”。祓うこともできず、ただ視えるだけのこの力に、物心ついた頃からずっと悩まされ続けてきた。

「わりぃわりぃ……。なんか、肝試し企画のボディガードみたいなの頼まれちまってさ。今月ちょっと欲しいモンがあって、金になるならって、つい引き受けちまったんだよ」

(さっきの配信云々の話はこれか……)

僕は思わず漏れそうになった溜息を、ぐっと飲み込んだ。

「ボディガードって……。翔太なら不審者には勝てるだろうけど、一体何から守るつもりなのさ。そういう場所にいるのは大抵、霊だよ」

「うっ……鋭い指摘だな…」

翔太が気まずそうに頭を掻く。それでもその瞳には、引き下がれないという意志が宿っていた。

「はぁ……。もし行くなら、面白半分では絶対に入ったらダメだ。それと、念の為に塩を持って行って。何かあってもそれで一時的に凌げるはずだから。でも、そうなったら絶対に長居せず、すぐにその場から離れること」

「さっすが悠斗! アドバイスサンキュ!!」

翔太はニカッと笑って手をひらひらと振り、足早に教室を後にしていった。その背中に、胸の奥で黒い煤のような嫌な予感がじわりと広がっていくのを感じていた。

(本当に大丈夫かな……)

***

校門を出ると、空はすっかり美しい茜色に染まり始めていた。

僕は、先程の翔太との会話で感じた胸のざわつきを振り払うように、ふたたび、あの桜翁のもとへと自然に足を向ける。

ふと、その桜の木の根元に、見覚えのある可憐な後ろ姿が目に入った。夕風に、丁寧に結われた茶色のポニーテールが、さらさらと優雅に揺れている。

「やぁ、月瀬さん」

僕の声に、美琴がゆっくりと振り向く。

「……先輩、またお会いしましたね」

彼女は陽だまりのように柔らかく微笑んだ。

僕たちは並んで、夕空に映える桜翁を見上げる。

「もうすぐ、この桜翁も散っちゃうね」

「そうみたいですね…。寂しいです」

美琴が慈しむように目を細めてそう言った。

「そうだね……。でもまたきっと来年も、見事な桜を咲かせてくれると思う」

「そう…ですね。この別れがあるからこそ、きっと桜はこんなにも美しいのだと思います」

「……すごく、大人びたことを言うんだね」

思わず驚いて、僕は彼女の顔を見た。

美琴は、まるで幾度もの出会いと別れを経験してきたかのような──そんな不思議な雰囲気を纏っている。

「ふふっ、そうでしょうか?」

「少しびっくりしたよ」

僕たちはどちらからともなく笑い合う。

「先輩はこの桜翁へ、よく足を運ぶのですか?」

「うん。変かもしれないけどさ、なんだかこの桜翁に呼ばれてるような気がするんだ」

そう口にした瞬間、僕は自分の言葉に内心慌てた。

(あれ…なんで僕、こんなことを……)

急に気まずくなって、僕は意味もなく視線を逸らす。

「呼ばれている……ですか…」

「へ、変だよね! 忘れて!」

美琴は少しだけいたずらっぽく瞳を輝かせ、首を横に振った。

「ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ」

「きっと、この桜翁には誰かの強い想いが込められているのかもしれませんね」

その穏やかな微笑みに、僕たちは言葉もなく、しばらく散りゆく桜を眺めていた。風が吹き、薄紅色の花びらがシャワーのように舞い落ちる。静かで、穏やかな時間だった。

***

「では、先輩。私はそろそろこれで失礼しますね」

もう一度、彼女は僕に対して丁寧に頭を下げてから、静かに夕焼けの小道を歩き去った。

「……本当に、不思議な雰囲気の子だな」

彼女といると、心が安らぐような、それでいてどこか切なくなるような、不思議な感覚になる。その感覚は、桜翁に呼ばれるあの感覚に少し似ている気がした。

***

母さんが入院している総合病院へと向かう道すがら。美琴と話していたこともあり、あたりはすっかり薄暗く、古い街灯が頼りなげにチカチカと不規則な点滅を始めている。

その時だった。

ひやり、とまるで氷の刃のような冷たい風が、僕の頬を不意になぞった。

そして──数本先の電柱の根元から、アスファルトの染みのように黒い影がゆらりと揺らめいた。

全身の血の気が、さぁっと引いていくのを感じる。

その影は急速に人の形を帯び、やがて中学生くらいの男の子へと姿を変えた。

(っ……まずい、ここは──)

脳裏に、数日前の朝のニュースが蘇る。この近くで、トラックにはねられて少年が亡くなったという、あの──。

電柱の根本には、誰かが供えたのであろう、萎れかかった小さな花束が、夕闇の中にひっそりと揺れていた。

“何も見えていない”という必死の演技をしながら、足早にそこを通り過ぎようとした。

だけど。

ガシッ。

まるで万力で締め上げるような力で、氷のように冷たい手が僕の手首を掴んだ。

息が、喉の奥で凍った。

恐る恐る顔を上げると、そこには──頭から生々しい赤い何かを流した少年が、その虚ろな瞳で、僕のことを、心の底から恨めしそうにじっとりと睨みつけていた。

『……お兄ちゃん……僕のこと……“視えてる”んでしょ……?』

その声は、深い井戸の底から響いてくるように、冷たく、そして重かった。

「う、うわああああぁぁぁぁっ!!」

僕は、恐怖のあまりに情けない悲鳴を上げ、その場にへたり込むように尻もちをつく。

そのとき、背後から誰かが慌てて駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「どうした!? 大丈夫か!?」

慌てた様子で、通りがかりの男性が近づいてくる。

「す、すみません……! なんでもないです、転んでしまって…」

「転んだって……心臓に悪いな、脅かすなよ…」

男性はそう言いながらも、僕に手を差し伸べてくれた。

「立てるか?」

「ありがとうございます…」

「この辺りは暗いからな。足元に気をつけて帰るんだぞ!」

男性はすぐに雑踏の中へと去っていった。

(あの人が来てくれたおかげで、一瞬気配が消えた……! 今のうちに……!)

僕は震える脚で立ち上がり、一刻も早くその場を離れようとする。

──だが、その瞬間。

背後から、まるで重い鉛でも叩きつけられたかのような、強烈で、明確な悪意を伴った“圧”が、僕の全身を襲った。

(……まだ、だ。まだ、すぐそこに、いる……!)

振り返らなくても、痛いほど分かる。

あの電柱の深い陰から、あの少年が、まだ僕のことを、じっとりと睨みつけている。

僕は決して振り返ることなく、ただ無我夢中で駆け出した。

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  • 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   縁語り其の百七十八:呪いからの解放

    『……行ってしまわれた……』 琴音様の声が、静かに宙に溶けていく。 彼女は、白蛇様が消えた空を、ただ静かに見上げていた。その横顔に、ふと寂寥の影が落ちる。 「やっぱり……琴音様も、寂しいですよね」 僕の口から、自然とそんな言葉が漏れた。 美琴を失った時の、あの胸を抉るような悲しみとは違う。それでも、この別れを「大したことない」と割り切るべきではないと思った。 あの白蛇様との別れは、琴音様にとっても、心の奥底をじんわりと締めつけるものだったに違いない。 『うむ……そして、悠斗。そなたは……落ち着いたようだな』 琴音様が、僕を気遣うように言葉を紡ぐ。 その声に、僕は小さく頷いた。 「はい……まだ、引きずっていないと言ったら嘘になりますけど。でも、あなたの過去を見て……白蛇様や琴音様と、言葉を交わせて……」 そう言いながら、僕は自分の胸に手を当てた。 そこには、美琴への喪失感から生まれた激しい怒りも、琴音様への憎しみも、もう渦巻いてはいない。感情の嵐は去り、ただ深い悲しみが、どこか遠い場所で静かに沈んでいるのを感じる。 癒えたわけではない。けれど、確かに鎮まった悲しみだった。 「……それだけで、充分でした」 僕の言葉は、偽りない本心だった。 彼女たちの過去を知り、その想いに触れたことで、僕の心は救われていたのだ。 『……悠斗』 琴音様が、ゆっくりと僕の名を呼んだ。 『彼女……美琴が、このまま救われぬまま終わりを迎えるなど、この妾が……断じて許さぬ』 その言葉に、僕の心臓が大きく跳ねた。 彼女の声には、揺るぎない決意と、美琴への確かな想いが宿っていた。 「えっ……?」 呆然とする僕に、琴音様は真っ直ぐな目で告げる。 『故に断言しよう。美琴は、十数年後――輪廻転生を果たし、そなたの元へと帰ってくるであろう』 輪廻転生……? それは……確か幼い頃に母さんから、聞いていた。 輪廻転生……。 本当にそんなものが存在するなんて……。 でも、美琴に……会えるかもしれない……? 僕の胸に、驚きと、信じられないほどの希望が波のように押し寄せる。絶望で固まっていた心が、少しずつ溶けていくようだった。 『彼女は、それだけ偉大なことを成し遂げたのだ。それくらい転生が早くとも……世界の理も、許してくれよう。悠斗……そなたも、よくやった』

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