ふわり、と桜の花びらが一枚、僕の頬を優しくかすめていった。
甘く澄んだ春の風が、そっと肌を撫でていく。その清浄な香りが、ほんのりと胸の奥に残る。 ──なんとなく、また、桜翁に呼ばれたような気がする。 一体、どうしてこんなにも、あの古木に心が引かれるのだろうか? まるで、見えない糸で手繰り寄せられているような、そんな不思議な感覚。 ……気づけば、僕は今日もまた、桜並木を抜け、この巨大な桜の木の前に一人、立っていた。 *** 放課後の、まだ賑わいの残る教室。 ざわざわとした空気の中に、誰かが慌てて机を引く音や、弾けるような甲高い笑い声が混じり合っている。 黒板には、今日の授業の最後に書かれたであろう数式が消し忘れられ、それが西日を受けて、チョークの粉と共にぼんやりと白く光っていた。 「なぁ、今日、あいつらマジで行くんだってよ…」 「うわ、マジかよ? ……よりによって、あそこにか?」 教室の隅の方で、そんなひそひそとした会話が交わされているのが耳に入る。僕は横目でその様子をちらりと見ながら、特に興味も示さず、静かに自分のバッグのチャックを閉じた。 「よっ、悠斗! お前、今日この後、空いてたりする?」 不意に、隣のクラスの幼なじみが、いつもの人の好い笑顔で近づいてきた。その屈託のない声に、僕は顔を上げる。 彼は 不動 翔太《ふどう しょうた》 僕の親友だ。 彼は、空手部の副主将となり、時期主将と呼ばれるほどの実力者で、 性格は、困った人を放っておけないお人好しだ。 「ああ、ごめん、翔太。今日は母さんのお見舞いに行く日なんだ」 「あ、そうか……。そっかそっか、それなら仕方ないよな!」 翔太はあっけらかんとそう言った後、少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、口ごもるように言葉を続けた。 「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ、俺、今夜、桜織旧病院の方に、ちょっとした金稼ぎで行くことになっててさ」 「……えっ? あの、旧病院に……?」 その名を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。 桜織旧病院《さくらおりきゅうびょういん》──。戦後間もない頃に建てられた、かつてはこの辺り一帯で最も大きな総合病院だった場所。 だが、もう五十年も前に閉鎖されて以来、今では桜織市内でも有数の、そして最もたちの悪い心霊スポットとして、その名を知らない者はいないほどの廃墟だ。 鬱蒼とした林の奥深くに打ち捨てられたその白い廃墟は、興味本位で訪れた人の多くが、「あそこは異界そのものだった」「二度と近づきたくない」と、青白い顔で一様に語る、いわくつきの場所。 「なんでまた、そんなところに……。翔太、僕が“視える”ってこと、知ってるでしょ?」 そう。僕には、普通の人には見えないはずの霊的な存在が、“視えてしまう”。この、忌々しくも、切り離せない力に、物心ついた幼い頃から、ずっとずっと悩まされ続けてきた。 「わりぃわりぃ……。なんか、肝試し企画のボディガードみたいなの頼まれちまってさ。今月ちょっと欲しいモンがあって、金になるならって、つい引き受けちまったんだよ」 「……はぁ。悪いことは言わないから、絶対に面白半分で中には入らない方がいい。あそこは本当に良くないって噂だしさ」 「おうよ! 俺だって好き好んで中に入るつもりは毛頭ねぇから、安心しろって!」 翔太はニカッと軽く笑って手をひらひらと振り、他の仲間たちと共に教室を後にしていった。そ の背中に向けられた、どこか軽薄な笑顔に、僕は拭いきれない、かすかな不安を感じていた。 (本当に大丈夫かな……) *** 校門を出ると、空はすっかり美しい茜色に染まり始めていた。 僕は、先程の翔太との会話で感じた胸のざわつきを振り払うように、ふたたび、あの桜翁のもとへと自然に足を向ける。 ふと、その桜の木の根元に、見覚えのある可憐な後ろ姿が目に入った。夕風に、丁寧に結われた茶色のポニーテールが、さらさらと優雅に揺れている。 「お疲れ様、月瀬さん」 「あっ……先輩。お疲れ様です」 僕の声に気づいた彼女──月瀬美琴は、驚いたように少しだけ肩を揺らし、それから、くるりと振り返って、今日もまた深く丁寧に、美しいお辞儀をした。 (相変わらず、本当に礼儀正しい子だな……。それに、立ち居振る舞いのどこかに、育ちの良さからくる気品みたいなものが感じられるんだよな……) 「先輩は、よくこの桜翁のもとへ、こうしていらっしゃるのですか?」 美琴が不思議そうに小首を傾げながら尋ねてくる。 「うん、そうだよ。……なんだか、分からないけど、この木に呼ばれてる気がしてさ」 「変かもしれないけど、つい、放課後になると足が向いちゃうんだ」 「呼ばれてる……ですか。ふふっ。いえ、少しも変だなんて思いませんよ。この桜翁には、きっと何か特別な想いが宿っているのでしょうね」 彼女の、全てを包み込むような優しい微笑みは、まるで春の陽だまりそのもののようだった。 不意に向けられたその笑顔に、僕の心臓が跳ねた。 言葉少なに、僕たちふたりは、夕陽に照らされる雄大な桜翁の姿を、しばらくの間、並んで見上げていた。この、穏やかで、何も語り合わなくても満たされるような静けさが、なんだかとても心地いい。 「では、先輩。私はそろそろこれで失礼しますね」 「うん。気をつけて帰るんだよ」 もう一度、彼女は僕に対して丁寧に頭を下げてから、静かに夕焼けの小道を歩き出した。 「……本当に、不思議な雰囲気の子だな」 ふと、そんな独り言が、僕の口からこぼれ落ちる。 彼女といると、心が安らぐような、それでいてどこか切なくなるような、不思議な感覚になるんだ。 そういえば……この感覚は桜翁に呼ばれる、あの感覚に似ている気がする。 *** 母さんが入院している総合病院へと向かう道すがら。 今日は美琴と少し話していたから、いつもより少しだけ帰りが遅くなってしまっていた。あたりはすっかり薄暗く、古い街灯が、頼りなげにチカチカと不規則な点滅を始めている。 その時だった。 ひやり、とまるで氷のような冷たい風が、僕の頬を不意になぞった。 そして── 目の前の電柱の、濃くなり始めた影が、まるで生きているかのように、ゆらりと大きく揺れた。 やがてそれは、おぼろげながらも人の形をとり、僕と同じくらいか、それよりも少し幼い、中学生くらいの少年の姿へと、ゆっくりと変わっていく。 (っ……まずい、ここは──) 全身の血の気が、さぁっと引いていくのを感じた。 ──数日前、まさにこの場所で、一台のトラックにはねられて、少年が亡くなった、と聞いていた。 その電柱の根本には、誰かが供えたのであろう、萎れかかった小さな花束が、夕闇の中にひっそりと揺れていた。 (視えてない……視えてない……!) 気づかれないように。絶対に、関わらないように。 僕は、“何も見えていない”という必死の演技をしながら、足早にそこを通り過ぎようとした。 だけど。 「っ……!」 ぎゅううっ──と。 まるで雪のように真っ白な、そして氷のように冷たい小さな手が、僕の右手首を、ありえないほどの力で、強く、強く掴んだ。 全身に、悪寒とも違う、魂の芯まで凍りつかせるような、冷たい何かが一気に走る。 恐る恐る振り返ると、そこには── 頭から生々しい血を流した、あの少年が、その虚ろな瞳で、僕のことを、心の底から恨めしそうに、じっとりと睨みつけていた。 『……お兄ちゃん……僕のこと……“視えてる”んでしょ……? 』 その声は、幼い少年のものとは思えないほど、冷たく、そして重かった。 「う、うわああああぁぁぁぁっ!!」 僕は、恐怖のあまり、情けない悲鳴を上げ、その場にへたり込むように尻もちをつく。 見上げると、少年はまだ、表情一つ変えずに、こちらを睨み続けていた。その瞳の奥には、深い哀しみと、そしてやり場のない怒りが渦巻いているように見えた。 そのとき、背後から誰かが慌てて駆け寄ってくる足音が、やけに大きく聞こえた。 「おい、どうした!?大丈夫か、坊主!」 走って現れたスーツ姿の中年の男性が、心配そうに僕へと手を差し伸べてくれる。 「す、すみませんっ。ちょっと、躓いてしまって……」 「そうか? 怪我はないか? 夜道は危ないから、気をつけろよ?」 男の人は、それでもまだ不思議そうな顔を浮かべながらも、僕の肩を軽くポンと叩き、すぐに雑踏の中へと去っていった。 僕の大きな叫び声を聞いたのか、周囲には、遠巻きながらも何人かの人が集まり始めていた。 (あの人が声をかけてくれたおかげで、霊が一旦消えた……? だとしたら、今のうちに、ここを早く離れないと……!) 僕はすぐに震える脚で立ち上がり、一刻も早くその場を離れようとする。 ──だが、その瞬間。 背後から、まるで重い鉛でも叩きつけられたかのような、強烈で、明確な悪意を伴った“圧” が、僕の全身に飛んできた。 (……まだ、だ。まだ、すぐそこに、いる……!) 振り返らなくても、痛いほど分かる。 あの電柱の深い陰から、あの少年が、まだ僕のことを、じっとりと恨めしそうに睨みつけている。 「っ……!」 僕は振り返ることなく、ただひたすらに、全力で走り去った。どうにか写真の場所にたどり着いた僕たちは、ぜいぜいと肩で息をしていた。全力で走ってきたせいで、心臓が今にも破裂しそうだ。 「はぁ……はぁ……」 「はぁ……っ」 息を整えながら、僕たちは同時に霊眼術を発動させる。だが、やはり僕の目には、街の雑踏と、車のヘッドライトが流れていくだけで、何も見えない。 「うん…さっきまでここにいたみたい」 美琴が、悔しそうに呟いた。 「美琴、どうして僕には迦夜の痕跡が見えないんだろう…?」 僕がずっと疑問に思っていたことを口にすると、彼女は、少しだけ悲しそうな目で僕を見た。 「それはきっと、悠斗くんが呪われてないからだと思う」 「この身に宿ってる呪いが、迦夜の痕跡に反応してるみたいだから」 淡々と、まるで他人事のように告げられるその事実に、僕の胸は、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。彼女のその力が、彼女自身を蝕む呪いの副産物でしかないという現実。 「……そうなんだ」 僕がそう相槌を打った、まさにその瞬間だった。 「っ……!悠斗くん!!」 美琴が、悲鳴に近い声で叫んだ。 次の瞬間、彼女は僕の体に、全体重を預けるように強く抱きついてきた。 ドンッ、という衝撃と共に、僕の身体が突き飛ばされる。それと同時に、僕がさっきまで立っていた場所で、空気が破裂するような、肉が引き裂かれるような、悍ましい音が響き渡った。 「な、何が起きたの……!?」 何が起きたのか、まったく理解が追いつかない。僕は、尻もちをついたまま、呆然としていた。 僕を突き飛ばした美琴は、膝を折って地面に座り込む体勢になりながらも、その瞳は、鋭く前方を睨みつけている。 「迦夜……!」 美琴が睨みつける、その視線の先。 そこには、ふわり、と。 音もなく、まるで、そこにいるのが当たり前かのように、迦夜が宙に浮いていた。 目の前に、あの恐怖そのものがいる。 その事実だけで、僕の思考は、再びあの悪夢に引きずり込まれていた。 空間が引き裂かれる、耳障りな音。意識のない母さんの、虚ろな顔。終わらない路地裏を、ただひたすらに追いかけられた、あの絶望的な時間。 過去の恐怖が、次々と脳裏にフラッシュバックし、僕の身体を、見えない鎖でがんじがらめに縛り付けていく。 「迦夜……!!ようやく見つ
あれから、三日ほどが経った。 僕と美琴は、学校が終わると毎日、迦夜の痕跡を辿っていた。だが、手掛かりはいつも途中でふつりと消えてしまう。相変わらず痕跡はあるものの迦夜は見つからず、結界への入口も、まだ見つかってはいない。 「うーん…なかなか見つからないね…」 夕暮れの公園のベンチで、隣に座る美琴が、ため息混じりに呟いた。 「ここまで探して見つからないとなると…。」 僕が言いよどんだ、その瞬間だった。 脳内に、まるで微かな電流が走ったかのような、鋭い閃きがあった。 「あっ!!!」 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。 「ど、どうしたの!?」 僕の突然の奇声に、美琴がびくりと肩を揺らした。 「もしかしたら、オカルト系の掲示板やまとめサイトが役に立つかもしれない……!」 我ながら、なんて突飛なアイデアだろうか。だが、もう藁にもすがりたい気分だった。 「なる……ほど……??」 美琴は、不思議そうに小首を傾げている。その様子からして、彼女はそういった掲示板とかは、まったく見ないし、詳しくないのだろう。 それにしても、まさか僕自身が、こんな形で真剣に心霊掲示板を覗くことになるとは、夢にも思わなかった。 僕はスマホを取り出すと、画面のロックを解除し、検索窓に心霊系まとめサイト『Uチャンネル』と打ち込んだ。 「どれどれ……」 悠斗は指をスクロールして記事のタイトルを眺めていく。 指先で画面を滑らせていくと、次々と目に飛び込んでくる記事のタイトル。 「速報!桜織市上空に謎の飛行物体!まさか天狗か!?」 「桜織森林公園で妖精を目撃!?純白のドレスだったとの証言多数!」 「【朗報】温泉郷の迷い人を導く謎の美少女アイドル!その名は陽菜ちゃん!!」 ……なんていう、どこか現実離れした見出しが並んでいる。 天狗や妖精はともかくとして…… 陽菜さんの存在が、いつの間にか「導きのアイドル」として祭り上げられている事実に、僕は驚きと、何とも言えない脱力感を隠せなかった。 その当事者を知ってる身として、気になった僕はコメント欄を覗いた。 『わざと霧の中で迷子になれば、陽菜ちゃんに会えるってマジ!?』 『やめとけ!あそこの神隠しの霧は洒落にならんぞ!死ぬぞ!』 『でも、そのピンチを助けてく
「なら……僕はもう逃げない。」 夜の静寂に、僕の声が、低く、だけどはっきりと響いた。さっきまでの、情けない自分に別れを告げるように。心の中で、確かな覚悟が芽生える。 「迦夜と真っ向から対峙してみせる。美琴の負担を…僕が少しでも担ってみせる…!」 そうだ、もう独りで背負わせない。その想いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくるのを感じた。 「悠斗くん……」 美琴が、息を呑むように僕の名前を呟く。 「だから美琴…今度こそ、二人で迦夜の事を祓おう。」 まっすぐに彼女の目を見て、僕は言った。 もちろん、今の僕自身に、二人を祓うほどの力なんてない。その無力さが、また胸にちくりと痛む。だけど、もういい。今は力がなくても、必ず、彼女と肩を並べて戦えるくらい、強くなってみせる。その覚悟が、僕の中でさらに強く、固く、根を張った。 僕の言葉を、美琴は静かに受け止めていた。 やがて、その唇に、ふわりと微笑みが浮かぶ。 それは、どこまでも優しい微笑みだった。 「悠斗くん…ありがとう。」 だけど、その瞳は。 どうしようもなく、深く、哀しい色をしていた。 まるで、僕のその決意が、巡り巡って、彼女自身の、逃れられない運命を証明してしまったとでも言うように。 その切なげな表情の意味を、今の僕には、まだ知る由もなかった。 *** 翌日の放課後。 西日が差し込む無人の教室は、どこか気だるいオレンジ色に染まっていた。窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が、微かに聞こえてくる。 そんな、ありふれた日常の中で、僕たちは、ありえないほど非日常的な話をしていた。迦夜の対策についてだ。 「今日の放課後、私が迦夜の痕跡を辿るね。」 机を挟んで向かいに座る美琴が、静かに切り出した。 「うん。ひとつ聞きたいんだけど…迦夜の痕跡…って、普通の霊の痕跡とは違うの?」 昨日の今日で、僕の質問も、少しだけ具体的になっていた。 「うん。普通の霊は痕跡として、残り香やその気配が残るけど、迦夜に関しては違うの。」 美琴は頷く。 「迦夜の痕跡は、紫色の瘴気っていうのかな?それが、迦夜の歩いた道に残ってるんだ。」 「紫色の…瘴気…?」 その言葉に、僕ははっとした。 (そういえば…昨日、迦夜に遭遇する前に
俯く僕の顔を、美琴はまっすぐに見つめていた。 「悠斗くん、あなたはね…間違いなく成長してるよ」 その声は、どこまでも優しかった。だけど、その響きには、揺るぎない確信が込められている。 「だから…自分が成長してない、なんて思わないでね」 「………!」 僕は、思わず顔を上げる。 「本当に…そうなのかな…?」 自分でも、縋るような声が出たのがわかった。 「うん。霊力の扱いに関しては、もう比べ物にならないくらいに上手になってるもん」 彼女は、きっぱりと言い切った。 「………」 その言葉に、僕は何も返せない。 「きっと悠斗くんは、迦夜っていうトラウマに遭遇しちゃって、今は自信が持てないかもしれない。けどね、あなたは間違いなく成長してる」 繰り返される、その真っ直ぐな言葉。 それは、まるで固く閉ざしていた僕の心の扉を、一枚、また一枚と、ゆっくりと開けていくようだった。 「だから、心配しなくても大丈夫なんだよ?」 美琴の言葉が、冷え切っていた胸の奥に、じんわりと染み渡っていく。僕は、無意識に止めていた息を、長く、静かに吐き出した。 *** しばらくの沈黙の後、僕はようやく、ちゃんとした声で言うことができた。 「ありがとう、美琴」 「落ち着いた?」 彼女が、少しだけ安心したように、ふわりと微笑む。 「うん、おかげさまでね」 僕も、ようやく力の抜けた、小さな笑みを返す。 あんなに取り乱して、情けない姿を見せてしまった。その恥ずかしさが、今になって込み上げてくる。 でも、それと同時に、不思議な安堵感があった。 きっとこの子は、僕がどんなに弱くても、みっともなくても、こうして隣で、静かに全部受け止めてくれるんだろうな、と。 その確信が、何よりも僕の心を、温かくしてくれていた。 「それなら良かった。」 彼女は、心の底から安心したように、ふわりと微笑んだ。 その笑顔に、僕も少しだけ救われた気持ちになる。だが、その安堵が、僕の思考の隅に追いやっていた、ある決定的な違和感を呼び覚ましてしまう。 そうだ、あれは。 「あっ……!そういえば…迦夜が、幽護ノ帳を使ったんだ…!」 我に返った僕が、切羽詰まった声でそう告げると、美琴の表情から、すっと笑みが消えた。その顔が、見る間に曇っていく。 「美琴…隠さないで教えて欲しい…迦夜って…何
どれだけの時間、そうしていたのだろう。 迦夜が去った後も、僕はあの鉄の箱の中で、ただ身を丸めていた。冷たい汗が肌に張り付き、体は意思とは無関係に、カタカタと震え続けている。 (でも…いつまでもこうしてはいられない…) 脳裏に、美琴の顔が浮かんだ。 そうだ、伝えなければ。迦夜が現れたこと、そして、あの「黒い帳」のことを。 その使命感が、ようやく凍りついていた僕の身体に、か細い熱を灯していく。 僕は、震える腕で、重いゴミ入れの蓋をゆっくりと押し上げた。 闇に慣れきった目に、路地裏を照らす街灯の光が、やけに眩しく突き刺さる。 鉄の箱から這い出ると、ひんやりとした夜気が、汗で濡れた身体を撫でた。まさに、その時だった。 聞き慣れた、今一番聞きたかった声が、すぐ側から響く。 「悠斗くん!?」 その声の方へ、ゆっくりと顔を向ける。 そこに立っていたのは、息を切らし、心配そうに僕を見つめる美琴だった。 「美…琴…?」 彼女の姿を、その顔を、その声を認識した瞬間。 胸の奥で張り詰めていた氷の糸が、ぷつりと切れるような感覚がした。全身から、急速に力が抜けていく。ああ、よかった。助かったんだ。 そう、心の底から安心したら、もうダメだった。 急に視界がぐにゃりと歪み、足がもつれる。倒れかけた僕の身体は、駆け寄ってきた美琴の華奢な腕に、力強く支えられた。 「どうしたの…!??すごい汗だよ…!?」 僕の顔を覗き込む彼女の声が、ひどく遠くに聞こえていた。 *** 美琴の肩に寄りかかるようにして、僕たちは近くの公園までなんとかたどり着き、湿った夜気を含むベンチに腰を下ろす。 「悠斗くん…どうしたの…?何があったの?」 心配そうに僕の顔を覗き込む美琴に、僕はすぐには答えられない。 瞼の裏に、あの光景が焼き付いているんだ。空間を裂いて現れた異形。血の涙を流す、黄金の瞳。そして、僕の技をいとも容易く、絶望の色に染め上げた、あの黒い帳。 「迦夜が…現れたんだ…。」 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 「えっ…!?」 美琴が息を呑む気配が、隣で伝わってくる。 「迦夜は、僕を追いかけて来た。なんの目的があったのかは分からない。でも…体感では、すごく長い時間、あの路地裏から出ら
「あれは…!!幽護ノ帳…!?」 間違いない。 見た目も、そこから発せられる禍々しい気配も、僕の知っているものとはまるで違う。けれど、その術が持つ根本的な構造、その霊的な“骨格”とでも言うべきものが、僕自身の術と寸分違わず一致している。魂が、それが同質のものであると理解していた。 だが、どうして使える? なぜ、あの怨霊が、僕たちに伝わるはずの術を。 思考が混乱の渦に飲み込まれかけた、その時だった。脳裏に、先ほどの光景がフラッシュバックする。 (そういえば…迦夜はボロボロの巫女服を…着ていた…。) それを思い出した瞬間、頭の中で何かが、かちりと音を立てて繋がった。 散らばっていたパズルのピースが、一つの悍ましい絵を形作る。 巫女の装束。そして、巫女の使うはずの術。 (つまり…迦夜は僕達、古の巫女の末裔と…何かしら関係がある…!!もしくは…!) そうだ、断言できる。あれは偶然じゃない。 その結論に至った途端、僕の身体は恐怖を振り払うように、再び駆け出していた。振り返り、追いすがる絶望に向かって、立て続けに霊力の弾丸を撃ち込む。 ここで僕は、ある可能性に気づいた。あの「黒い帳」は完璧な防御であると同時に、術者の視界を完全に塞ぐ、分厚い「目隠し」でもある、ということに。 僕は走りながら、闇に慣れた目で必死に周囲を探る。あった。少し先の薄暗がりに、大型の業務用ゴミ入れが転がっているのが見えた。 「はぁ…!はぁ…!星燦ノ礫!!」 碧い光弾を連射して迦夜の注意を真正面に引きつけ続け、僕はゴミ入れの目前で急停止する。 「そして…!幽護ノ帳!!」 僕がそう叫ぶと、今度は澄んだ青い光を放つ、本来の結界がゴミ入れの数メートル手前に展開された。 これは、隠れるための陽動。僕の霊力が込められたこの結界に、迦夜の意識はまず向かうはずだ。僕がその奥にある、ただの鉄の箱に身を潜めたとは、思わないだろう。 (一か八か…賭けだ…!) 僕は結界を展開した直後、すぐさまその奥にあるゴミ入れの蓋を押し上げ、その中に転がり込んだ。 僕は息を殺す。震えが止まらない喉を、爪が食い込むほど強く、押し潰すようにして、音を漏らさないように必死に耐える。 ぺた…ぺた…。 不気味な、あの裸足の足音が、ゆっくりと、確実に、こちらへ近づ