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一一六:明かりの並ぶ商店街へ

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-07-08 19:48:57

 夕暮れの商店街には、店先の明かりがひとつずつ灯り始めていた。最近は日が落ちるのが早い。ついさっきまで青みを残していた空も、もうすっかり夜の色へ沈み、吐く息にはうっすら白さが混じっていた。

 そんな通りを並んで歩きながら、悠斗は足を止める。

「それじゃあ、ここなんてどうかな?」

 目の前にあるのは、年季の入った小さなラーメン屋だ。派手さはないが、このあたりでは知る人ぞ知る店として通っている。気取らないのに入りやすく、味はしっかりしている。それでいて重すぎない一杯が出てくるから、女性でも気兼ねなく入りやすい。悠斗にとって、美琴を連れてくるなら安心できる店のひとつだった。

「ラーメンですか。寒いですし……とてもありがたいですね」

 美琴がそう言って店先を見上げる。柔らかな声だったが、冷えた空気のなかではそれだけで少し温度が上がるようだった。

「じゃあ入ろうか」

 暖簾のれんをくぐると、すぐに湯気と出汁の匂いが迎えてくる。奥の厨房からは鍋の鳴る音がして、店の中には古びた木の艶と、長く親しまれてきた店らしい落ち着きがあった。

「いらっしゃいませー。何名さまですか?」

「二名です」

「二名様ですね。お好きな席にお座り下さい」

 案内を受け、二人は空いている席へ向かった。椅子を引きながら、美琴が店内を見回す。

「なんだか、趣のあるラーメン屋さんですね」

「そうだね。一応、隠れ有名スポットみたいなものなんだ」

「隠れてるのに有名なんですか?」

 思わぬところを突かれて、悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。けれど実際、そうとしか言いようがない。軽く咳払いをしてから、話をずらすようにメニューを手渡す。

「ありがとうございます。こちらは何がおすすめなんです?」

「ここはね……サクラ咲ケ咲ケラーメンがおすすめだよ」

「サク……え?」

 美琴の目がメニューの一点で止まる。悠斗がこの名前を初めて見たときと、まったく同じ反応だった。

 その後店員を呼び、二人とも同じものを頼んだ。カウンター越しに鍋の音が近い。しばらくして、湯気を立てた丼がふたつ運ばれてきた。

「はい、こちらサクラ咲ケ咲ケラーメンおふたつになりますね」

「ありがとうございます」

 丼から立ちのぼる湯気が、美琴の前髪をふわりと揺らした。

「わぁ……いい匂いですね」

「でしょ?  桜のエキスが入ってる特製ラーメンなんだ」

 スープの表面にほんのり桜色が差している。名前は壊滅的でも、見た目と香りには品がある。

「なるほど……楽しみですね」

「じゃあ、食べようか」

「いただきます」

 二人の声が揃った。

 *

「とっても美味しかったです……」

 美琴が箸を置いて、満たされた息をついた。丼は綺麗に空になっている。

「満足してもらえたなら良かったよ」

「さて、堪能したことだし。遅くならないうちに行こうか」

「そうですね。とても素敵なラーメンを教えていただいたので——」

 次の言葉が読めた。悠斗はさりげなく伝票を取り、先に席を立つ。

「ちょ、ちょっと悠斗くん!」

「ん?  なに??」

「何じゃないですよ。私が出しますから」

「いいって、これはいままでのお礼なんだから」

「で、でも……」

「いいから。今回は僕に奢らせて」

 美琴が悠斗の顔をじっと見つめた。数秒。やがて小さなため息がこぼれる。

「……ではお言葉に甘えさせていただきますね。ご馳走様です」

 胸元に手を添えて頭を下げる仕草は、路地裏で柳田に名乗ったときと同じだった。丁寧すぎるくらい丁寧で——ラーメン一杯の礼にしては、少しおかしい。悠斗は笑いを噛み殺しながら、レジへ向かった。​​​​​​​​​​​​​​​​

 *

 支払いを済ませたあと商店街を歩き出して、数分。

 商店街のアーケードを抜けると、夜の冷気が一段深くなった。店先から漏れる灯りが歩道にまだらな影を落とし、二人の靴音だけが等間隔に響いている。

「美琴、そこの花屋に寄ってもいいかな?」

「もちろんです」

 悠斗たちが足を止めたのは、商店街の角にひっそりと佇む古い花屋だった。木枠のガラス戸は曇りがかって、店先に並んだバケツの切り花だけが道行く人に向けて色を広げている。戸を引くと、水気を含んだ緑の匂いが冬の乾いた空気を押し返すように漂ってきた。

「あら、悠斗君じゃない!  お母さんへのお見舞い?」

 カウンターの奥から、顔馴染みのおばさんが身を乗り出す。エプロンの裾で手を拭きながら、人懐こい笑みを浮かべた。

「はい」

 おばさんの目が悠斗の隣へ滑った。美琴を見て、悠斗に戻り、もう一度美琴。視線が往復するたびに、口元の弧が深くなっていく。

「可愛い子だねぇ。悠斗君の彼女かい?」

「ぶっ!??」

 二人の声が見事に重なった。

「ち、違いますよ!  彼女を母さんに紹介したくてですね……!」

 口にしてから、全身が固まる。今の言い回しは——どう聞いてもかえって疑惑を補強している。

「おやおや」

 おばさんの眼差しが温かい。温かいが、完全にこちらの弁明を聞き流している。

「美琴もなにか……」

 横を見た。美琴は耳の先まで赤く染めて、棚に並んだドライフラワーをじっと見つめていた。目が合わない。この状態の彼女に援護射撃を求めるのは、さすがに酷だろう。悠斗は静かに言葉を飲み込んだ。

 おばさんは慣れた手つきで花を選び、茎を揃え、淡い色の紙でふんわりと包み上げる。一連の所作に迷いがなかった。

「はい、お花だよ。また来てね」

「ありがとうございました」

 花束を胸に抱えて表に出ると、冬の空気が火照った顔に沁みた。それがどうしようもなく心地いい。

「行こうか」

「悠斗くんは、お母様にいつもお花を?」

「そうだよ。と言っても月に一回くらいだけどね」

「…素敵ですね」

 美琴はそれだけ言って、何も訊き足さなかった。その沈黙の優しさに、悠斗は小さく息をつく。

 商店街の喧騒が背中で遠ざかり、街灯の間隔が広がっていく。歩道の先に、病院の白い外壁が夜の中に浮かんでいた。

 母に誰かを会わせるなんて、ほとんど経験がない。何かを掴むためだとわかっていても、正面玄関が近づくにつれて胸の奥がきつく締まった。廊下のリノリウムを踏む靴音が、妙に大きく壁に跳ね返る。

「母さん、入るよ」

 病室のドアを引いた。消毒液の匂いと、かすかな機械音。いつもと変わらない部屋だった。ただ、ベッドの脇に見覚えのない花が添えられている。自分が前回持ってきたものではない——誰かが足を運んでくれたのだろう。

 枯れかけた花を下げ、新しい花束をそっと置く。それから振り返った。

「母さん、この前話してた女の子を連れてきたんだ」

 美琴は、病室の入口に立ったまま動けなくなっていた。

 片手が口元を覆っている。大きく見開かれた瞳が、ベッドの上の母をまっすぐに捉えて離さない。驚きとは少し違う。もっと深い場所を揺さぶられたような——信じられないものを前にした人間の顔だった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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