تسجيل الدخول『……さい』
霧の奥から、掠れた声が聞こえた。 何かが、こちらへ歩いてくる。 ゆらり、ゆらりと身体を左右へ揺らしながら。それでも一歩ずつ、確実に僕たちとの距離を縮めていた。「先輩、私の後ろへ」 美琴の声には、ほんのわずかな硬さがあった。 僕は黙って頷き、彼女の背後へ回る。 年下だとか、女の子だとか、そんなことを気にしている場合じゃない。霊を相手にするなら、美琴の方が比べるまでもなく頼りになる。 やがて白い霧を押し分けるように、その姿が現れた。 ――血に濡れた女だった。『ごめん……なさい……。ごめん……なさい……っ……!』 誰へ向けているのかも分からない謝罪を、壊れたように繰り返している。 長い黒髪は血に濡れ、何本もの束となって頬や首筋へ張りついていた。全身を覆う衣服も赤黒く染まり、青白い肌には紫色の死斑が浮かんでいる。 顔は、両手で覆い隠されていた。 けれど、細い肩は小刻みに震えている。指の隙間から漏れる声も、泣いているようにしか聞こえなかっあの頃、ぬいぐるみたちに囲まれた部屋で胸に誓った願いは、やがて叶った。 立派な会社に勤めて、今度は私が母さんを支える。 そう夢見ていた私は二十四歳になり、目標だった銀行に就職していた。 まだ入行して一年目の、ある夜のことだ。 広いオフィスは、私の席を残してすっかり暗くなっていた。 等間隔に並んだ机も、書類棚も、窓際に置かれた観葉植物も、夜の闇に輪郭を沈めている。その中で、私の頭上の照明と、パソコンの青白い画面だけが、ぽつんと灯っていた。 スーツの袖を肘までまくり、私は何度も同じ数字を打ち直す。「んん……。どうすればいいのよ……」 弱音が、誰もいないオフィスへこぼれた。 返事の代わりに聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけ。 一年目の私は、まだ仕事に慣れているとは言い難かった。 それでも、頼まれたことはできるかぎり早く終わらせたし、分からないことがあれば何度でも確認した。母さんに楽をさせたい。その一心で、どんな仕事にも手を抜かなかった。 きっと、そんな姿勢を評価してもらえていたのだと思う。 私は銀行の入出金に関わる記録を確認し、金額を管理する仕事を任されていた。 お金を扱う以上、たった一つの数字も間違えてはいけない。 分かっていた。 誰よりも気をつけていたつもりだった。 それなのに私は、その日、一つの金額を誤って入力してしまった。 しかも、間違いに気づかないまま、その数字をもとに次の処理を続けてしまったのだ。 一つのずれが次のずれを生み、そのずれを正しいものとして、さらに別の計算が重なっていく。 画面を遡っても、どこまでが正しくて、どこからが間違っているのか、もう簡単には見分けがつかない。 並んでいる数字のほとんどが、最初の過ちに引きずられていた。 上司や周囲の人たちは、明日、みんなで確認しようと言ってくれた。 初めての失敗なのだから、一人で抱える必要はないとも。 けれど、私には帰ることができなかった。 私が間違えたのだ。 このまま翌日の処理へ持ち越せば、影響がどこまで広がるか分からない。もしかしたら、取り返しのつかない損害を出してしまうかもしれない。 そんな不安が、椅子から立ち上がろうとするたび、私の肩を押さえつけた。 退勤の打刻さえしないまま、私は一人で数字を追い続けた。 けれど、焦れ
次に浮かんだ記憶もまた、夕日の色をしていた。 集落を縫う細い道も、家々の屋根も、遠くに広がる畑も、何もかもが柔らかな橙色に染まっている。 自宅の前に立つ私の背中を、沈みかけた夕日がじんわりと温めていた。まだ身体に馴染んでいない真新しいセーラー服。その襟にも、スカートの襞にも夕日の色が滲んで、いつも見ていたはずの我が家さえ、少しだけ特別な場所に見える。 そして記憶の中で、次にその扉を開けたとき――私はもう、高校生になっていた。「母さんっ! ただいま!」 弾む声とともに家へ飛び込む。 その途端、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。 |鰆《さわら》だ。 脂の乗った皮がぱちぱちと爆ぜる音に、ほどよく焦げる匂いがかすかに混じっている。私の大好物だった。「おかえり」 台所から顔を出した母さんが、いつもの声で迎えてくれる。 幼い頃と比べれば、目尻には細い皺が増えていた。それでも、私を見る眼差しだけは少しも変わらない。温かくて、優しくて――いつだって私の帰る場所になってくれる、自慢の母さんだった。「念願の高校生活はどうだった?」「うーん、ぼちぼちかな!」 なんて、わざと何でもなさそうに答えたけれど。 今思い返せば、ぼちぼちだなんて言える声音ではなかった。声は自分でも分かるほど弾んでいたし、きっと頬も緩みきっていたのだろう。 母さんは私の顔をしばらく眺めたあと、堪えきれなくなったように、ふっと笑った。「何さ、その顔」「別に。ぼちぼちだったんだなと思ってね」「そうだよ。ぼちぼち!」 言い張る私に、母さんはますます可笑しそうに目を細める。「はいはい。ほら、早く上がんな。夕飯の支度、もうできてるからね」「うんっ!」 靴を脱ぎ、鞄を置くと、私は着替えもせずに居間の食卓へ向かった。 待ちに待ったセーラー服を、まだ脱ぎたくなかったのだ。今日一日だけでは足りない。家に帰ってからも身につけたまま、何度だって眺めていたかった。 そんな私を見て、母さんが呆れたように唇を尖らせる。「こら、詩織。いくらそのセーラー服が気に入ったからって、家に帰ったらちゃんと着替えな」「えーっ。だって、ずっと着たかったセーラー服なんだよ? 母さん、ちゃんと見てよ。可愛くない?」 椅子から立ち上がり、母さんの前で両腕を広げてみせる。その場でくるりと回れば、スカートの裾がふわ
──松田詩織── あれはまだ、ブランコに座った私の爪先が、地面に届かなかった頃の話。 物心がついたときから、私の家には母さんと私しかいなかった。 世間では、そういう家庭を母子家庭だとか、シングルマザーだとか呼ぶらしい。けれど幼い私に、自分の家に何かが足りないという感覚はなかった。 母さんがいてくれれば、それで家族は全部だった。 父がどんな人だったのか、私は母さんから聞いた話でしか知らない。 ただ、そのわずかな話だけでも、どうして母さんがそんな人を愛してしまったのかと、不思議に思うほどひどい男だった。 その人がいなければ、私はこの世に生まれていない。 それでも、母さんを傷つけたことも、私たち親子を置き去りにしたことも、許せる理由にはならない。 幼い頃の記憶にいる母さんは、いつも少し疲れている。 重そうな肩。目の下にうっすらと落ちた影。ふとした拍子にこぼれる、小さなため息。 それでも、私に向けられる手はいつだって優しかった。声を上げて笑ってくれたことも、一緒になってはしゃいでくれたことも、数えきれないほどある。 これは、そのひとつ。 母さんが私を公園へ連れていってくれた、ある夕暮れの記憶だ。 夢の中で見るその公園は、いつも茜色に染まっている。 滑り台も、砂場も、金網の向こうの街並みも、何もかもが同じ色に沈んで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに静かだ。 私は古びたブランコに座り、短い足を懸命に前後させていた。鎖が軋むたび、きい、きい、と寂しげな音が響く。手のひらに残るのは、錆びた鉄の冷たさ。地面に伸びた影が、漕ぐたびに長くなり、また短くなる。 母さんは少し離れたところから、そんな私をずっと眺めていた。 そこへ、幼い子供を連れた女の人が二人、公園に入ってきた。 女たちは母さんに気づくと、ちらりと視線を交わし合う。そして自分の子供の帽子を直しながら、潜めたつもりの声で話し始めた。「ねえ、聞いた? 松田さん、離婚したんですって」「まあ。あんなに格好いい旦那さんだったのに、もったいないわねえ」「でも、松田さんって気が強いところがあるでしょう? 家でもあんな調子だったなら、旦那さんも息が詰まったんじゃない?」「ああ、それで逃げられたのね」「仕方ないわよ。男の人だって、安らげる家に帰りたいでしょうから」 くすくすと、押し殺した
結局、僕たちは男性のあとを追い、再び風鳴トンネルの前まで戻ってきていた。 美琴の突然の提案に振り回される格好にはなったけれど、これがあの女性を救う手掛かりになるのなら、断る理由なんてない。「あれ? どうしたんだい。まだ私に何か用でも?」 足音に気づいた男性が、怪訝そうに振り返る。 先ほど抱えていた白い花は、トンネル脇へ新しく供えられていた。代わりに男性の手には、そこに置かれていた枯れかけの花束がある。「いえ、そういうわけではございません。ただ……」 美琴はそれ以上を言葉にせず、男性の隣へ進み出た。白い花へ向き直り、胸の前で静かに両手を合わせる。「……本当にありがとう。きっと、詩織も喜んでいるはずだ」 男性の声が、ほんの少しだけ和らいだ。「その詩織さんという方が、こちらで亡くなられた方なのですね」 僕も美琴の隣に並び、花へ向かって手を合わせた。 ――どうか、詩織さんが安らかに眠れますように。 目を閉じ、胸の内でそう祈る。「ここで亡くなった私の婚約者は、詩織というんだ」 男性は、トンネルの暗がりを見つめたまま話し始めた。「あの晩、私たちの結婚をめぐって、詩織はお義母さん……静江さんと口論になってしまってね。深夜に家を飛び出して、このトンネルを歩いていたところを、速度を出しすぎたトラックに……」 それ以上は口にできなかったらしい。男性は顔を伏せ、目頭を指で押さえた。「……さぞ、お辛かったことでしょう」 美琴の声が、湿った風の中へ静かに溶けていく。「もちろんだよ。私の中の時計の針は、あの日から止まったままだ」 男性は自嘲するように、かすかに口元を歪めた。「これがきっと、後悔というものなのだろうね」「後悔……ですか」「彼女は、私に出会わなければ命を落とさずに済んだのかもしれない」 聞いているだけで、胸の奥が痛んだ。 彼はずっと、詩織さんを失った理由を自分の中に探し続けてきたのだろう。そして見つけてしまった答えが、自分と出会ったことそのものだった。「あの……先ほど、結婚のことで揉めたとおっしゃいましたよね」「ああ。静江さんは、ご主人とのことで深い傷を負っていてね。それで、私と詩織の結婚にも強く反対していたんだ」 男性の手の中で、枯れた花がかさりと鳴る。「その夜も二人は言い争いになって……詩織は家を飛び出した」 その言
僕たちが風鳴トンネルを離れ、バス停へ向かっていた途中のことだった。 山道の向こうから、一人の男性が歩いてきた。 くたびれた紺色のスーツを身にまとい、ワックスで整えていたらしい髪もすっかり崩れている。けれど、その手に抱えられた花束だけは、ひどく丁寧に包まれていた。 白い花々が、男性の歩みに合わせて小さく揺れている。 すれ違いざま、僕たちは互いに軽く会釈を交わした。 そのまま数歩進んだところで、背後から聞こえていた靴音がふいに止まる。「君たち」 突然呼び止められ、肩が跳ねた。 白い花束を抱え、風鳴トンネルへ向かう人。 もしかすると、あの場所で亡くなった誰かの関係者なのではないだろうか。そんな考えが、真っ先に頭をよぎった。「はい?」 振り返ると、男性は僕たちをじっと見つめていた。 眼差しは肌にまとわりつくように疑い深い。それなのに、その瞳自体は妙に乾いて見えた。怒っているというより、怒ることにさえ疲れてしまったような目だった。「……君たちは、どうしてあのトンネルへ行っていたんだい?」「それは……」 言葉に詰まる。 本当のことなら、はっきりしている。 あの場所を彷徨っている女性を救いたくて、手がかりを探しに来た。 けれど、そんな説明で納得してもらえるはずがない。見えないものが見えるから信じてほしい――なんて、知らない人に話したところで、怪しまれるだけだろう。 どう答えるべきか迷っていると、美琴が静かに一歩前へ出た。「私たちは、異常現象研究会というサークルで活動しております。こちらで過去に繰り返されてきた事故について、その原因を調べに参りました」 あまりにも淀みのない返答だった。 異常現象研究会。 少なくとも僕は、今この瞬間に初めてその存在を知った。 危うく「何それ」と聞き返しそうになったけれど、どうにか堪える。美琴は顔色ひとつ変えていない。その堂々たる様子に、隣で聞いている僕の方が冷や汗をかきそうだった。「異常現象研究会……?」 男性の眉間に皺が寄る。 無理もない。たった今会員にされた僕にだって、よく分
「霊の影に……色?」 美琴の言葉を繰り返してみたものの、やはり意味をうまく掴めなかった。 色と言われても、影の色といえば黒だ。それ以外の色なんて、あるのだろうか。「影なら黒しかないだろう――そうお考えですね?」 美琴が口元を緩め、どこか楽しそうに笑う。 まさか、そこまで顔に出ていたなんて。「そ、そんなことは……」「大丈夫ですよ。そう思われるのが当然ですから」 美琴はゆるやかに首を振ると、こほん、と可愛らしい咳払いをひとつ挟み、改めて僕へ向き直った。「では、説明を続けさせていただきますね。――先輩、霊の纏う影には、いくつかの色があります。まず、白い影。これを纏う霊は、私たち生者にとって無害な存在です」「白い影……」 頭の中に浮かんだのは、地面に白い影を落としている霊の姿だった。 けれど、すぐに美琴が「纏う」と言ったことに気づく。足元へ伸びるものではなく、霊そのものを覆う、白い靄のようなものなのだろうか。 実物を見たことがないせいで、いまひとつ像を結ばない。余計な質問を挟むより、まずは最後まで聞いてみることにした。「続いて、黄色い影を纏う霊です。こちらは、警戒を示す色となっています」 白に続いて、黄色。 ――まるで信号じゃないか。 思わずそんな連想が浮かんだものの、口には出さないでおく。 けれど、その並びでいくのなら、次はきっと――。「続いて――」「赤?」 美琴が言いかけたのと、僕の口が勝手に開いたのは、ほとんど同時だった。「ふふっ。やはり、お分かりになりますよね」 小さく笑ってから、美琴は僕の顔を覗き込んでくる。「先輩、まるで信号みたいだ――なんて思いませんでしたか?」「そ、それは……まあ」「素直でよろしいと思います。それに、そのほうが覚えやすいですから」「美琴も、最初はそう思ったの?」 そう尋ねると、美琴は華奢な人差し指を唇の下へ添えた。 考えごとをするときの、彼女の癖。 最近よく目にするおかげで、僕にもそれと分かるようになってきた仕草だった。「私は――……いえ。私の故郷には、信号といったものが存在しませんでしたので、教わったままを受け入れることができましたよ」「信号が……ない?」 あまりに予想外の答えに、僕は呆気に取られてしまった。 彼女の故郷。 その口ぶりからすると、信号ひとつないほどの田舎