LOGIN楓の寝室の前に到着した執事の耳に、沙弓がメイドたちを怒鳴りつける声が飛び込んできた。「あの子を屋根裏部屋に閉じ込めるよう命じただけよ!誰がこんな無惨な姿にするように命じたの!」メイドたちは誰一人として声を発することができず、沙弓の目に留まるのを恐れるように、深く頭を垂れて息を殺していた。執事は軽くノックをしてから部屋へ入った。「奥様。楓様はM国に来られたばかりで、まだこちらの気候に慣れず、お体が弱っていらっしゃるのかもしれません。昨夜は屋根裏で一晩過ごされたのですから、体調を崩されても無理はないでしょう」沙弓は深呼吸をして胸の内の怒りをねじ伏せ、執事に向き直った。「アンドレは帰った?」「はい。アンドレ様をお見送りする際、ちょうどデイジーお嬢様と鉢合わせまして。お嬢様はご自身の車が故障したと仰り、アンドレ様に市街地のデパートまで送ってほしいと頼み、お二人で一緒に出発されました」その報告を聞き、沙弓は渋い顔をした。自分がアンドレのことをよく知らないとしても、自分の娘の性格くらいは把握している。普段のデイジーは、男とはあまり関わろうとしない。それに、彼女のガレージには何台もの車が並んでいるというのに、そのすべてが都合よく同時に故障するなどあり得るはずがなかった。「……分かったわ。あの子が戻ったら、私のところへ来させなさい」言い捨てるなり、沙弓は未だに頭を下げて震えているメイドたちを一瞥し、楓の寝室を後にした。高熱を出してベッドに横たわっている楓など、今の彼女にとっては利用価値がなく、これ以上気にかけるつもりはなかったからだ。執事はメイドたちに向き直り、厳しく告げた。「楓様をしっかりとお世話するんだ。明後日の朝までに必ずお体を回復させなさい。さもなくば、お前たち全員クビだ」言い残し、執事も足早に沙弓の後を追った。「奥様、デイジーお嬢様の方に監視の者を差し向けましょうか?」デイジーの様子からして、アンドレにかなり関心を抱いているように見えたからだ。「必要ないわ。戻ったら私のところへ寄らせなさい。今後アンドレが来た時は、二度とデイジーをあいつに近づけないように」「かしこまりました、奥様」デイジーが邸宅に戻ってきたのは、夕暮れ時になってからだった。エントランスホールに足を踏み入れるなり、ソファ
そう言いながら、沙弓はすでに立ち上がり、屋根裏部屋へと向かっていた。アンドレも立ち上がった。「マダム。私もご一緒します」沙弓は一瞬足を止めたが、すぐに頷いた。「ええ、いいわ」そして、傍らに控えていたメイドに目配せをした。「先に行って、楓の世話をしておきなさい」沙弓のその命令の裏にある意図を察し、メイドは慌てて頷き、足早に立ち去った。沙弓は行き先を変え、アンドレを連れて楓の寝室へ向かった。道中ではわざと歩くペースを落とし、何気ないふりをしてアンドレに話しかけた。アンドレは目を細め、考え込むような表情を浮かべた。……どうやら、沙弓は先日のパーティーで公言したほど、再会したばかりの楓を大切にしているわけではないらしい。もし本当に娘の身を案じているのなら、高熱で倒れたと聞いて、こんなにゆっくり歩きながら、呑気に世間話などしていられるはずがない。それに、さっきメイドを先に行かせたのも、楓の世話をさせるためではなく、私に知られたくない何かを隠すためだろう。二人が楓の寝室の前に到着した時、ちょうど慌てて駆けつけてきた主治医と鉢合わせた。主治医は沙弓に挨拶すると、薬箱を手に寝室へ入った。ベッドに横たわる楓の唇はカサカサに乾いて白くなっていた。対照的に、頬は異常なほど赤く染まり、額には冷や汗がにじみ続けていた。主治医は手早く体温を測り、一通りの診察を終えると、沙弓を振り返った。「奥様。体を冷やして風邪を引かれたのが原因です。解熱剤を処方いたしますので、熱が下がれば、大事には至らないでしょう」沙弓は冷淡に頷いた。「ええ、大したことがないのなら、それでいいわ」主治医が薬の処方を終えると、沙弓はメイドに薬を飲ませるよう命じ、アンドレに向き直った。「あの子は今日と明日は授業を受けられそうにないわ。明後日、また来てちょうだい」アンドレは恭しく頷いた。「承知いたしました。楓さんのご回復が最優先です。それでは、私はこれで失礼します」「ええ。執事に見送らせるわ。せっかく来てもらったのに、無駄足を踏ませてしまって申し訳なかったわね」「とんでもございません。私の役目ですから」執事に先導されてアンドレがリビングを通った時、デイジーに出会った。アンドレの姿を見るなり、デイジーの顔にパッと歓喜の色が広が
その命令を聞き、メイドは明らかに困惑した表情を浮かべた。「お嬢様……それは、いくら何でも……」いくら沙弓が楓を冷遇しているとはいえ、彼女が沙弓の血を引く実の娘であるという事実に変わりはない。こんなに寒い日に、屋根裏部屋に閉じ込められている楓に水を浴びせて、万が一何かあったらどうなるだろう。沙弓が責任を追及した時、困るのはデイジーではなく私だ。デイジーは彼女を冷酷に睨みつけた。「私の命令に従えないなら、今すぐ荷物をまとめて出て行きなさい。二度とこの邸宅の敷居を跨ぐことは許さないわよ。ウチは無能なクズを養う気はないの」メイドの顔から血の気が引いた。「お嬢様、申し訳ありません……!すぐに参りますから、どうかクビにしないでください……!」「なら、さっさと行きなさいよ!」メイドは逃げるように部屋を飛び出し、氷のように冷たい水を張ったバケツを抱え、震える足で屋根裏部屋へと向かった。その頃。楓は真っ暗な屋根裏部屋の中で、冷たい壁に寄りかかって目を閉じていた。早朝に叩き起こされた睡眠不足と、デイジーとの乱闘による疲労が重なり、彼女の体力はすでに限界に達していた。うとうとと眠りかけたその時、突然、屋根裏部屋のドアが押し開けられた。楓が顔を上げた瞬間、骨まで凍りつくような氷水が、頭のてっぺんから容赦なくぶちまけられた。水を浴びせた人物はすぐに身を翻し、部屋を出た。素早くドアを閉めると、そのまま立ち去った。……メイドはデイジーの部屋に戻り、命令通りに実行したと報告した。デイジーの口元に、残忍な笑みが浮かんだ。「よくやったわ。これからも私のために忠実に働けば、絶対に悪いようにはしないから」メイドは怯えた声で尋ねた。「お嬢様……こんなに寒いのに、屋根裏部屋には何もありません。楓様、大丈夫でしょうか?」彼女はただ、メイドとして働いて家計の足しにしたいだけだった。厄介事に巻き込まれるつもりはない。デイジーは鼻で笑った。「心配しなくていいわ。何かあったとしても、あんたが責められることはないから」風邪を引こうが熱を出そうが、あの女の体が弱すぎるだけだ。いっそ高熱で白痴にでもなってしまえばいい。そうすれば、二度とアンドレの前にしゃしゃり出て、彼を誘惑するような真似はできなくなる。「……は、はい。承知いた
デイジーは首を横に振ったが、沙弓の凍てつくような眼差しに射すくめられ、慌てて頷き直した。「……はい。私が、あの女の子供を私生児呼ばわりしたから……」沙弓は険しい顔で黙っていた。さっき、私がもっと叩いておけばよかった。少しは物事を考えるようになっただろうに。デイジーは下唇を噛み締め、沙弓と目を合わせることもできずに震える声で尋ねた。「お母様……私、何か間違ったことを言った?」デイジーがおどおどしながらも、まだ腑に落ちない様子でいるのを見て、沙弓は深く後悔した。これまでデイジーを甘やかしすぎ、駆け引きの術を何一つ学ばせなかったせいで、こんなに愚かになってしまった。「私が怒っているのは、お前が彼女の子供を私生児呼ばわりしたからじゃないわ。あんなみっともない騒ぎを起こして、メイドたちの笑いものになったからよ!」もしこの一件がマリーの耳にでも入れば、きっと大喜びするだろう。またエドワードの前で、私とデイジーの悪口を言うに決まっている。マリーが現れる前から、エドワードとの夫婦仲は冷めていた。それでも、私や二人の子供に何かと不満をぶつけるほどではなかった。だが、あの女が彼の愛人となってからは、事あるごとに自分たちの悪評を吹き込み、たまにエドワードが帰宅しても、ブライアンやデイジーはあの隠し子に劣ると難癖をつけられるようになったのだ。そのことを思い出すだけで、沙弓は重苦しい気持ちになった。それなのに、このデイジーという娘は、ただ純粋な悪意しか持ち合わせておらず、策謀の欠片もなく、ひたすらに愚かだ。「お母様……ごめんなさい。もう二度とあんなヘマはしないわ……」沙弓は表情を少し和らげ、低く凄みのある声で言った。「いいこと、デイジー。私は、お前が楓を陥れることを禁じているわけではないの。ただ、やるならもっと完璧に、誰にも尻尾を掴まれないように巧妙にやりなさいと言っているのよ。分かるわね?」デイジーの目には戸惑いが浮かんでいた。言われたことは少し分かったものの、分からないことのほうが多かった。だが、分からないとは言えず、ただうつむいて「……分かりました」と答えるしかなかった。この様子では、また同じような愚かな真似をするのだろう。沙弓はため息をついたが、これ以上娘を叱るのは忍びなくなり、口を開いた。「……ソファに座り
パァァァンッ!!再び乾いた音が弾け、デイジーの反対側の頬にもくっきりと紅い手形が浮かび上がった。デイジーは怒りで目を血走らせ、狂ったように金切り声を上げながら暴れ始めた。その凄まじい叫び声に、周囲のメイドたちが慌てて駆けつけてきた。二人が取っ組み合いになっており、しかもデイジーが一方的に押さえ込まれているのを見て、メイドたちはパニックに陥り、一人が血相を変えて沙弓の書斎へ走った。廊下での騒ぎを知らされた沙弓は、表情を険しくし、すぐさま書斎を飛び出した。遠くから二人が揉み合っている姿を認めるなり、沙弓の瞳に激しい怒りが燃え上がった。彼女は傍らで立ち尽くすメイドたちに怒鳴りつけた。「さっさと二人を引き剥がしなさい!」その一喝でようやく我に返ったメイドたちが、慌てて二人を力ずくで引き離した。デイジーは髪を振り乱し、服は乱れ、頬には鮮烈な平手打ちの痕が焼き付いていた。彼女は狂気じみた憎悪の目で楓を睨みつけていた。だが、沙弓の姿を認めた瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。「お母様……!この女が、私を叩いたの……!」沙弓は、見るも無惨なデイジーの姿と、髪が少し乱れただけで怪我一つ負っていない楓を交互に見比べた。その表情は一瞬にして冷ややかなものになった。「楓!どうして妹に手を上げたの!?」楓は冷笑した。「沙弓さん。私の息子を私生児呼ばわりするような妹を持った覚えはないわ」沙弓は眉を深くひそめ、デイジーを厳しく見据えた。「……本当に、あなたがそんな暴言を吐いたの?」デイジーは泣きじゃくりながら首を横に振った。「違うわ、お母様!私、そんなこと一言も言ってない……!この女が嘘をついてるのよ……!」沙弓は冷たく言い放った。「言ってないならそれでいいわ。涙を拭きなさい。いい歳をして、いつまでみっともなく泣き喚いているの!」そう言って、彼女は再び楓に向き直った。その眼差しは、先ほどよりもさらに冷酷なものだった。「楓!お前は妹に手を上げたばかりか、嘘までついて私を騙そうとしたのね。本当に、躾の欠片もない女だこと!」楓は嘲るように笑った。「私の言うことは信じないのに、デイジーが何か言えばすぐ信じるのね。本当に、あの子にはいいお母さんだこと!」その露骨な嫌味に、沙弓の怒りはついに頂点に達した。彼女はメイ
アンドレは頷いた。「マダム沙弓。私がすべきことは理解しております」「ええ」「それでは、私はこれで失礼いたします。また明日」「ええ。執事に見送らせるわ」アンドレが退出した後、沙弓はデスクに戻り、メイドを呼びつけた。「楓を書斎へ呼んできなさい」一方、自室に戻ったばかりの楓は、メイドから沙弓の呼び出しを伝えられ、あからさまに不快感を顔に滲ませた。苛立ちを隠そうともせずに書斎へ入ると、彼女の目は不満で満ちていた。沙弓はその態度を完全に無視し、冷ややかに口を開いた。「……アンドレから聞いたわよ。今日の授業中、ずっと居眠りをしていたそうね?」楓は眉をひそめた。「わざわざ私を呼びつけたのは、この件のため?」「お前は私の質問にだけ答えなさい。質問はしなくていいの」楓は呆れた表情になりかけるのをこらえ、いらだたしげに口を開いた。「ええ、そうね。でも、私が居眠りしたのは二つ理由があるの。一つは、あんたが朝早くからメイドを使って無神経に叩き起こしたせい。もう一つは、私がビジネスになんて一ミリも興味がないからよ」「朝が早くて辛いなら、夜はさっさと寝ること。興味がないなら、無理にでも興味を持ちなさい。お前の甘えを許してくれる人間など、ここには一人もいない」楓は鼻で笑った。「あんたが私を甘やかしてくれるなんて、これまで一度だって思ったことはないわ。それに、あんたにはとっくに何の期待もしていないの」沙弓は満足げに頷いた。「分かっているなら、これからは大人しく言うことを聞いて、私が命じたことをきちんとやりなさい」「ええ、安心して。あんたの手駒の役目はきちんと果たすわ。ただし、私の大切な人たちに危害を加えないこと。さもないと、手駒であると同時に、あんたの命を奪う刃にもなれるのよ」言い捨てるなり、楓は背を向けて書斎を出た。自室へ戻ろうと廊下を曲がったところで、不意にデイジーが立ちはだかった。デイジーは怒りを顔に浮かべ、楓を憎々しげに睨みつけていた。「今日、あなたに授業をしに来たのって、アンドレなのね!?」彼女の瞳にドロドロとした嫉妬が渦巻いているのを見て、楓は片眉を上げた。「ええ、そうよ。それがどうかした?彼と知り合いなの?」「警告しておくわ!アンドレには絶対に近づかないで!もしあなたが彼を
雅也のどこ吹く風という態度に、麗子はこめかみを押さえた。頭痛が増したようだ。小さく首を振り、それから視線を大輔と楓へ向ける。「結婚して、もう三年になるのよ」穏やかな口調を装ってはいる。けれど言葉の刃は隠せていない。「子どもはいつ?ひ孫の顔を見るのを楽しみにしているのだけれど」その話題が出た瞬間、リビングの空気がぴんと張りつめた。楓は無意識にティーカップを強く握り、指の関節が白くなる。――いちばん触れられたくない話。口にされるたび、胸の奥をえぐられる。そこへ、大輔の叔母・雪乃(ゆきの)が身を乗り出した。「楓。大輔と結婚して三年よ?」薄く笑いながらも、声の端には
吐き気が一気に込み上げ、楓は息を詰めた。首元に手を伸ばしてネックレスを外し、そのまま迷いなく寝室のゴミ箱に投げ捨てる。ダイヤが金属に当たった音がした。楓はその足で客用バスルームに飛び込み、シャワーを全開にした。熱い湯が肌を刺す。でも、そんな痛みはどうでもいい。ボディソープを掴み、首元から身体まで必死に洗い続ける。大輔の痕跡を、触れられた記憶を、全部流し去りたかった。肌が赤くなってヒリつくのに、まだ汚れている気がした。あのネックレスが、別の女の首にかかっていた――それだけで胃がひっくり返りそうになる。想像してしまう。昨夜、大輔のそばで笑っていた女。そして、さっきまで自分に向け
楓は家に戻ると、そのままリビングのソファに沈み込んだ。スマホの画面には、さっきかけた番号がまだ残っている。怒りと悲しみが少し引いたぶん、現実がじわじわ押し寄せてきた。離婚するなら、まずは自立しなきゃいけない。――でも、父の治療費。今、毎月の医療費は全部大輔が出している。月に600万円。とてもひとりで背負える額じゃない。楓は指先を震わせながら連絡先をスクロールした。そして、ある名前で手が止まる。安藤教授。大学院時代の指導教官だった人。迷う時間はなかった。楓は通話ボタンを押した。「もしもし……安藤(あんどう)教授ですか?私です。木村楓(きむら かえで)です」落ち着い
「楓……本当に、離婚届を作ってほしいの?」電話の向こうで、早川明里(はやかわ あかり)の声が少し掠れた。迷いと心配が滲んでいる。「よく考えて。サインしたら……もう大輔とは、戻れないよ?」木村楓(きむら かえで)はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。ウイスキーは喉を焼く。けれど昨夜の光景だけは、脳裏に焼きついたまま離れることはなかった。握り締めたスマホが、手汗で少し滑った。「うん」楓は短く言った。「彼から離れることにしたの」「どうして……?大輔、楓には優しかったじゃない。愛されてるって――」その言葉に、楓は笑いそうになったが、喉の奥で押し殺した。愛だって?なんて面白い冗談だ。通話







