LOGIN新は冷笑を漏らした。「必要ありません。私のことが嫌いなら、今後二度とここへは来ないでください。あなたの顔はもう見たくありません」そう言い放つと、彼は顔を背け、朱音の方を二度と見ようとはしなかった。彼の冷淡な横顔を見つめ、朱音はしばらく沈黙した後、低い声で言った。「あなたが私に会いたくないと言うなら、もう来ません。何か私にできることがあれば、弁護士さんを通じて伝えてください。河合さん。あなたは私を二度も助けてくれました。そのことには深く感謝しています。だからこそ、さっき私が言った言葉は完全にあなたを思ってのことです。他の誰の意思も関係ありません」新は全く動じず、ただ真っ白な壁の一点を見つめたままだった。まるでそこに何か彼を強く惹きつけるものがあるかのようだった。朱音は深くため息をつき、立ち上がって面会室を後にした。彼女の背中がドアの向こうに消えようとしたまさにその瞬間、新はようやく顔を向け、その去りゆく姿を一瞥した。弁護士は新を見て、口を開いた。「河合さん。あなたが協力してくださらなければ、私としても弁護のしようがありません」新は弁護士に視線を戻し、感情のない声で答えた。「協力はします。ですが、先生にも一つお願いしたいことがあります」弁護士は頷いた。「分かりました。合法的な範囲の要求であれば、全力を尽くしましょう」朱音が警察署の前で三十分ほど待っていると、ようやく弁護士が鞄を提げて出てきた。「柴田さん。先ほど河合さんとお話ししました。彼もすべての横領金を返還し、罰金を支払う意思があるとのことです。彼が素直に捜査に協力してくれれば、事件の処理は随分とスムーズに進むはずです。私も彼の減刑に向けて最善を尽くせるでしょう」それを聞き、朱音はホッと息を吐いた。「良かったです。本人が協力してくれるなら安心しました。私は仕事があるので、頻繁にこちらへ足を運ぶことはできません。今後の手続きはすべて先生にお任せします。もし何か必要なことがあれば、直接私にご連絡ください」「承知いたしました」その後、朱音は毎日弁護士に状況を確認するだけで、警察署へ足を運ぶことは二度となかった。海外にある耀の邸宅。半月以上待ったというのに、拓海の方からは何一つ進展の報告がなく、黒木の苛立ちも限界に達しつつあった。「遠
電話の向こうで、朱音の顔から一瞬にして血の気が引いた。彼女は無意識に服の裾をきつく握りしめた。「先輩、展望技術に敵対するつもりなんてありません。私はただ弁護士を雇って、彼を助けるために私にできることがないか、弁護士に聞いてもらいたいだけなんです」「それはあなたの問題よ。私に報告する必要はないわ。もう遅いから、これで切るわね」スマホを下ろすと、楓は大きく息を吸い、胸の奥に湧き上がる苛立ちを鎮めた。冷静に考えれば、朱音が間違っているわけではない。新に二度も命を救われた以上、彼を助けたいと思うのも人情だ。しかし、彼女は自分で弁護士を探すべきであり、楓に助けを求めるのは筋違いだ。シャワーを終え、タオルで髪を拭きながら出てきた雅也は、楓の顔に怒りが滲んでいるのを見て眉を上げた。「誰に腹を立てているんだ?」「別に誰でもないわ」楓は唇を引き結んだが、それでも我慢できずに尋ねた。「そういえば……河合新の件だけど、本当に一生刑務所から出られないの?」雅也の髪を拭く手がピタリと止まり、その声には明らかな嫉妬が混じっていた。「楓、どうしてそんなに奴のことを気にかけるんだ?」昨夜帰宅した時も、彼女はこの件について尋ねてきた。そして今夜もまた同じ質問だ。彼女が他の男の心配をしているのを聞くと、嫉妬がとめどなく溢れ出してきた。やはり、彼女の周囲は女性社員だけで固めるべきだ。「朱音に代わって聞いてるだけよ。河合新は彼女を二度も助けたことがあるから、彼女はこの件をすごく気にしてるみたいなの」それを聞き、雅也の表情はようやく少しだけ和らいだが、それでも冷淡な口調で答えた。「もし奴がこれまで横領した資金を全額返還すれば、せいぜい一、二年の実刑で済むかもしれないな。だが、奴が二度とこの業界で生きていけないことだけは確かだ」会社の研究開発資金を横領するような人間を雇う大企業など、この世に存在しない。奴のキャリアは完全に終わったのだ。楓は頷いた。「そう。でも、あの告発メールの送り主が誰なのか、分かったの?」雅也の瞳が微かに揺らいだ。「いや、完全な匿名メールで、発信元の特定は困難だ」楓もそれ以上追及しなかった。元々彼女自身、この事件にはそれほど興味がなかったのだ。雅也は髪を乾かし、反対側からベッドに入った。
湊は頷いた。「そっか、分かった」「さあ、プレゼントをもらうんだから、そんな暗い顔をしないの。ほら、手を洗ってご飯にしましょう」「うん」夕食後、雅也はすぐに書斎へ向かい、仕事に取り掛かった。彼が寝室へ戻ってきたのは、深夜になってからだった。楓がまだ起きているのを見て、彼は眉をひそめた。「夜はもう待たなくていいと言っただろう?夜更かしは体に障るぞ」「今夜はあなたを待っていたわけじゃないの。なんだか眠れなくて」「どうした?何かあったのか?」楓は彼に湊の件を話そうとしたが、考え直して首を横に振った。「ううん、何でもないわ。ただ目が冴えちゃっただけ」彼はただでさえ毎日仕事で疲労困憊しているのだ。これ以上、家庭のことで彼の心を煩わせたくなかった。「楓。君の悩みはすべて顔に書いてあるぞ。吐き出さないと、今夜は一睡もできないんじゃないか?」雅也は彼女を見つめ、微かに微笑んだ。本当は彼自身も限界まで疲労していたが、会社の仕事が重要なのと同じように、楓もまた彼にとってかけがえのない存在なのだ。仕事の忙しさを理由に彼女を蔑ろにするような真似は、彼女に対してあまりにも不誠実だ。「……そうね」少し躊躇った末、楓は胸の内の不安を打ち明けた。「私たち、最近二人とも忙しすぎて、湊のことが少し疎かになってる気がするの」雅也は唇を引き結んだ。「君の言う通りだ、俺もそれは感じていた。それに、俺は湊だけでなく、君のことも疎かにしている。だから今週の日曜日は丸一日空けて、家族三人で遊びに行こう」その言葉を聞いて、楓の目に気遣わしげな色が浮かんだ。「もし丸一日休みを潰しちゃったら、あなたが疲れて倒れちゃうわ。本当は、もし夜に会議が入っていないなら、仕事は家に持ち帰ってやってほしいの。その合間に、少しだけ湊と遊ぶ時間を作ってあげてほしいなって」「その提案も考慮しよう。だが、君たちのための時間も必ず作る。そもそも、仕事なんていくらやっても終わりはないんだからな」雅也の真剣な眼差しと向き合い、楓の胸の奥に温かな感情がじんわりと広がっていった。「でも、無理だけはしないでね。仕事は大切だし、私や湊と一緒に過ごす時間は、これから先いくらでもあるんだから」雅也は頷いた。「ああ、分かっている。無理はしないさ」「
雅也は楓を腕の中に抱き寄せ、愉快そうに笑った。「それは最高の褒め言葉だな」彼のひどく真面目くさった顔を見て、楓も思わず吹き出した。二人がリビングに入ると、湊が小さな足を懸命に動かし、二人の元へ駆け寄ってきた。あまりにも慌てて走ってきたため、楓の目の前で足をもつれさせ、そのまま彼女に向かって倒れ込んだ。楓は慌てて彼を受け止め、しっかりと立たせてから言った。「湊、次からはもっとゆっくり走りなさい。転んだら危ないでしょ」湊は手に持っていたチョコレートを楓に差し出し、誇らしげな顔で言った。「お母さん!今日幼稚園で、先生からご褒美のシールをもらったんだ!これ、その時にもらったチョコレートだよ。お母さんにあげる!」彼は、お母さんが甘いものが大好きなのを覚えていて、わざわざ食べずに取っておいたのだ。自分を期待に満ちた目で見上げる湊を見て、楓の心は温かな愛情で満たされ、彼の小さな手からチョコレートを受け取った。湊がずっと手の中に握りしめていたせいで、袋の中のチョコレートはすでにドロドロに溶けていた。「ありがとう、湊。どうして先生からご褒美のシールをもらえたの?」湊はツンと顎を上げ、興奮した顔で言った。「お昼寝の時間にね、拓斗くんが隣の席の結衣ちゃんの髪をずっと引っ張って泣かせちゃったんだ。だから僕、先生に教えてあげたの。そしたら先生が拓斗くんを叱って、結衣ちゃんに謝らせたんだよ。それに、僕にシールをくれて、みんなにも『これからこういうことがあったら、ちゃんと先生に教えてね』って言ってくれたんだ!」その話を聞いて、楓は微笑んだ。「湊、よくできたわね。じゃあ、お母さんからもご褒美をあげる。明日、前から欲しがってたあの玩具を買ってあげるわ」子供の教育について、楓は褒めるべき時は褒め、叱るべき時はきちんと叱ることを心がけており、むやみに甘やかすことはしなかった。もっとも、聖都にいた頃の湊はほとんど手のかからない大人しい子供だった。ここへ来てから、彼は随分と活発になり、ようやく年相応の子供らしさが出てきたのだ。湊は首を横に振り、ひどく大人びた顔で言った。「ううん、いらないよお母さん。あの玩具、すっごく高いもん。お母さんからのチューだけでいいよ!」お父さんとお母さんは、お金を稼ぐためにすごく大変なんだ。だか
夕食後、楓は湊としばらく遊んでから、彼を真綾に預けて二階へシャワーと寝かしつけに向かわせた。自分は本を一冊手に取り、ソファに座りながら雅也の帰りを待った。一方、警察署に駆けつけた朱音だったが、結局新と面会することはできなかった。どうにか事情を聞き出そうとしたものの、警察からは何一つ情報を得ることができず、彼女は仕方なく家へ帰るしかなかった。その夜、朱音はほとんど眠れず、翌朝はひどく頭が重かった。会社に到着し、彼女の目の下のクマを見た楓が尋ねた。「昨夜はよく眠れなかったの?」「はい」「河合新のことで?」朱音は少し躊躇ってから頷いた。「昨夜は結局彼に会えなくて、どんな状況なのかも全く分からないんです」楓はしばらく沈黙し、眉をひそめて言った。「朱音。あなたは河合新のことを、少し気にかけすぎていると思わない?」「先輩。彼は私を二度も助けてくれました。今彼が窮地に陥っているのに、何も知らないフリなんてできません」楓はため息をついた。「この件は、あなたが首を突っ込んだところでどうにもならないわ」昨夜、楓が雅也に尋ねたところによれば、新は業務上の立場を利用して会社の医薬品開発資金を横領しており、その額は一生刑務所から出られないほど巨額なものだという。朱音の顔色が青ざめた。「先輩、分かっています。でも、私にできる限りのことはしたいんです」「できることもあれば、どれだけ頑張ってもどうにもならないこともあるわ。今後、もし彼に何か必要なものがあれば差し入れしてあげるくらいはできるでしょうけど、それ以外にあなたが彼を助ける術はないわ」朱音は目を伏せ、ゆっくりと答えた。「……はい、分かりました。ありがとうございます、先輩」新が連行された後、彼が担当していたチームはリーダー不在となったため、一時的に楓が兼任することになった。そのせいで楓も急激に忙しくなり、雅也よりは早いものの、帰宅は毎晩八時を回るようになった。雅也自身も多忙を極めていたが、楓が残業を余儀なくされている状況を知り、すぐさま人事部に指示を出し、新の後任を大至急手配させた。三日も経たないうちに、新のチームに新しいリーダーが着任した。新しいリーダーは楓と同年代の女性で、北都の出身らしく、非常にサバサバとした豪快な性格だった。新がリーダーだっ
「リストにある提携先の多くが、展望技術の主要な取引先の子会社です!」つまり、遠藤拓海の本当の標的は……展望技術そのものだ!もし昨夜、雅也が恭平に調査を命じていなければ、遠藤グループとこれらの企業との水面下の繋がりに気づく者など誰もいなかっただろう。「社長……遠藤グループは、展望技術に牙を剥くつもりでしょうか?」雅也の表情は氷のように冷え切っていた。「今の奴にそこまでの度胸はない。まずは桜井グループから切り崩す腹積もりだろう」「では、どう対処なさいますか?」「まずは奴の進めているプロジェクトをすべて白紙に戻してやれ。その上で、遠藤グループの内部を徹底的に洗え」恭平は即座に意図を汲み取り、深く頷いた。「承知いたしました。直ちに取り掛かります」それからの数日間、楓は雅也が目に見えて多忙になったのを感じていた。毎日昼休みに彼のオフィスを訪ねても、会議室にこもりきりか、会議から戻った直後という有様で、夜も深夜まで残業が続いていた。楓は家で彼を待っていても、いつも途中で眠り込んでしまった。朝目を覚ますと、彼女は必ずベッドに運ばれていた。隣に手を伸ばせばまだかすかな温もりが残っているのに、雅也はすでに仕事へ出ていた。楓も何度か遠回しに「会社で何かトラブルでもあったの?」と尋ねたが、彼はいつも首を横に振るだけだった。「いや、心配しなくていい。この時期を乗り切れば落ち着くさ」そんな日々が月末まで続いた頃、不意にある事件が起きた。金曜の午後、楓が新と今後の実験スケジュールについて話し合っていた時、突然二人の警察官がラボにやって来たのだ。「河合さん。業務上の地位を利用し、会社の資金を横領した疑いがあります。署まで同行願います」新の顔から一瞬にして血の気が引き、その目は信じられないというように見開かれた。「ち、違います。そんなことはしていません。何かの間違いではありませんか?」警察官は事務的な口調で返した。「間違いかどうかは、署で話を聞けば分かることです」新が警察に連行された後、楓はすぐに恭平に連絡して事情を聞こうとした。しかし、彼からは一向に返信がなく、楓は心の中の疑問を押し殺して午後の実験を続けるしかなかった。しかしその日の午後、朱音はずっと上の空だった。楓は彼女の様子がおかしいことに気づき
楓は家に戻ると、そのままリビングのソファに沈み込んだ。スマホの画面には、さっきかけた番号がまだ残っている。怒りと悲しみが少し引いたぶん、現実がじわじわ押し寄せてきた。離婚するなら、まずは自立しなきゃいけない。――でも、父の治療費。今、毎月の医療費は全部大輔が出している。月に600万円。とてもひとりで背負える額じゃない。楓は指先を震わせながら連絡先をスクロールした。そして、ある名前で手が止まる。安藤教授。大学院時代の指導教官だった人。迷う時間はなかった。楓は通話ボタンを押した。「もしもし……安藤(あんどう)教授ですか?私です。木村楓(きむら かえで)です」落ち着い
「楓……本当に、離婚届を作ってほしいの?」電話の向こうで、早川明里(はやかわ あかり)の声が少し掠れた。迷いと心配が滲んでいる。「よく考えて。サインしたら……もう大輔とは、戻れないよ?」木村楓(きむら かえで)はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。ウイスキーは喉を焼く。けれど昨夜の光景だけは、脳裏に焼きついたまま離れることはなかった。握り締めたスマホが、手汗で少し滑った。「うん」楓は短く言った。「彼から離れることにしたの」「どうして……?大輔、楓には優しかったじゃない。愛されてるって――」その言葉に、楓は笑いそうになったが、喉の奥で押し殺した。愛だって?なんて面白い冗談だ。通話
突然、父の木村恒一(きむら こういち)の身体が大きく痙攣し、激しい咳が止まらなくなった。息を吸い込めず、胸元を掴む指が小刻みに震えだした。顔色はみるみる青から紫へと変わり、手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかって乾いた音を立て、そのまま転がっていく。楓は落ちたスマホの画面に映った内容を見て、すぐに察した――これが引き金になったんだ。怒りが一気に噴き上がる。けれど今は、智美を責めている場合じゃない。父の命が最優先だ。楓はナースコールを必死に押し、廊下へ向かって叫んだ。「誰か!先生呼んでください!今すぐ!」医療スタッフが一斉に駆け込んできて、父の状態確認が始まる。楓は部屋の
楓は大輔のほうを向いた。その瞳から、いつもの温もりは完全に消えていた。「……もう、前と同じ味がしないの」声は不思議なくらい静かだった。けれど、その静けさが大輔の背筋を冷やす。大輔は慌てて駆け寄り、楓を抱きしめる。「きっと店がレシピを変えたんだ」必死に取り繕う。「明日、電話して確認するよ。いくらかかっても、前とまったく同じ味に戻させる」楓の体は、腕の中で硬くこわばったまま。淡々と言う。「一度変わったら、もう元には戻れない」その言葉は氷の刃みたいに、大輔の胸に突き刺さった。彼女がケーキの話以上のことを言いたがっているのは、嫌でも理解せざるを得ない。胸の奥に焦