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義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる
義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる
Author: 青葉凛

第1話

Author: 青葉凛
「――拝島さん。半月後に湊都に戻って、貴方と結婚するわ」

ラウンジバーのテラス席。深い色合いのソファに身を沈めながら、京極紫音(きょうごく しおん)は受話器の向こうの相手に静かに告げた。

すぐに返ってきたのは、磁石のように人を惹きつける、冷ややかで知的なバリトンボイスだった。「紫音。私の記憶が確かなら、君は二ヶ月前にその『愛しい彼氏』とやらのために、私との婚約話を蹴ったはずだが?」

痛いところを突かれ、紫音は唇をぐっと引き結ぶ。

二ヶ月前――彼女は七年間愛し続けた恋人・不破清也(ふわ せいや)を正式に両親へ紹介しようとしていた。

だが、あろうことかその矢先に両親から告げられたのは、京極家と拝島家の政略結婚。彼女の名目上のフィアンセとなったのが、拝島律(はいじま りつ)だった。

紫音は清也のために家と猛衝突し、父を入院させるほどの大喧嘩を繰り広げた。さらには『清也と絶対に幸せになってみせる、私の選択は間違っていない』と証明するための賭けまでして、家を飛び出したのだ。

だが、あれからたったの二ヶ月。清也への情熱は、彼が義妹である江藤芙花(えとう ふうか)に見せる度重なる偏愛によって、見る影もなく消耗してしまった。

とりわけ、今日は酷かった。

今日は本来、二人の大切な記念日だったはずだ。それなのに清也は約束をすっぽかし、この店で芙花と恋人同然の戯れに興じている。

紫音はスマートフォンの縁が白くなるほど強く握りしめると、震えそうになる声を押し殺し、けれどきっぱりと言い放った。「……彼とは、別れるつもりよ」

「手は貸そうか?」

男の声はあくまで冷静だが、そこには隠しきれない強引な色気と侵略的な響きが滲んでいた。

「いいえ、結構よ」紫音は声を潜めて答える。「彼とのことは自分で綺麗に片付けるわ。貴方には迷惑をかけない」

一呼吸置いて、彼女は続けた。「この数年、彼を支えるために私の手腕も資産も注ぎ込んできたの。それらをきっちり回収するには、少し時間が要るわ。だから、待っていてほしいの」

「分かった。――半月後、空港で待つ」

男は短く了承すると、一方的に通話を切った。

紫音はスマートフォンをしまうと、虚空の一点をじっと見つめた。数秒の静寂の後、彼女は決意したようにソファから身を起こし、バーの二階にある個室へと足を進めた。

部屋に近づくにつれ、中からは下品な囃し立てる声が漏れ聞こえてくる。

ドアの隙間から、清也と芙花が人の輪の中心にいるのが分かった。

躊躇なくドアノブに手をかけ、押し開けようとした瞬間――中からこんな歓声が響いてきた。

「うわ、マジかよ!食いついてんじゃん!清也、舌入れてるし!このゲームでここまでやる奴いねぇって!」

「たかがグラス一杯の酒だろ?清也も必死すぎだって」

「お前バカか?酒が問題なんじゃない。大事なのは俺たちの芙花お嬢様だろ。ここで芙花が負けたら、下のフロアで知らねぇ男とチークダンス踊らなきゃなんねぇんだぞ。清也が自分の目の前で、芙花を他の男と密着させるわけないだろ?」

「……でも清也、彼女いなかったっけ?」

紫音がドアを完全に押し開けても、熱狂の中心にいる連中は誰一人として彼女に気づかなかった。

唯一、入口近くにいた数人がぎょっとして、慌てて互いの袖を引っ張り合っただけだ。

紫音は腕を組み、入り口に立ち尽くしたまま、凍てつくような冷ややかな眼差しを注いだ。視線の先では、清也が陶酔した様子で芙花をその腕の中に閉じ込めている。彼の大ぶりな手は、欲望を抑えきれないように芙花の細い腰をまさぐり、這い回っていた。その指先の動きはあまりに猥雑で、強烈な独占欲に満ちている。

……このままここにベッドがあれば、間違いなく最後までヤッていたでしょうね。紫音は冷静にそう分析した。

「し、紫音さん……!?」

誰かが幽霊でも見たかのような素っ頓狂な声を上げた。

その声に弾かれたように、清也が目を開ける。次の瞬間、彼の視線は、冷笑とも哀れみともつかない色を浮かべた紫音の瞳とかち合った。清也の表情が一瞬にして凍りつく。

彼は慌てて腕の中の芙花を突き放すと、人をかき分けて紫音の前まで歩み寄ってきた。その声は、居心地の悪さを隠すように低く、冷たい。

「……どうしてここにいる?」

浮気の現場を見られてなお、悪びれる様子もなく言い放つ彼。紫音は瞳の奥の嘲笑をさらに濃くし、清也の肩越しに視線を送った。そこでは、芙花が勝ち誇ったような挑発的な目でこちらを見ていた。

紫音はふわりと、唇の端だけで笑って見せた。「あなた、今日が何の日かお忘れ?」

今日――

それは、二人の交際記念日だったはずだ。

清也はようやく、紫音がなぜこの場所に現れたのかを理解したらしい。

彼の眉間にバツの悪そうな懊悩の色が浮かぶ。「……芙花の機嫌が悪かったんだ。だから気晴らしに仲間と集まって……さっきのはただの王様ゲームの流れで、みんなが煽るから仕方なく……」

「ええ、分かっているわ」

紫音は彼の言い訳を遮り、穏やかな声で答えた。「たかがゲームでしょう?気にしていないわ」

清也は言葉を喉に詰まらせた。

飲み込むことも吐き出すこともできず、ただ不快そうに眉を寄せる。

彼が気まずさに耐えかね、とりあえず紫音を連れて帰るとみんなに告げようとしたその時――それを遮るように、割って入ってきた声があった。

「紫音さん、ごめんなさい!今日、わたしどうしても辛くて……だからお兄ちゃんに無理言って、付き合ってもらってたの。お兄ちゃんを責めないであげて。悪いのは全部わたしだから」

芙花だった。彼女は片手にカクテルグラスを持ったまま、殊勝な顔で紫音の前に歩み出る。「せっかく来てくれたんだし、紫音さんも一緒に飲まない?このお酒、お兄ちゃんがわざわざわたしのために呼んでくれたバーテンダーさんが作ったの。美味しいよ、飲んでみて?」

紫音の視線は、芙花が無防備さを装って大きく開けた胸元に吸い寄せられた。そこには、生々しい赤い跡が点々と散っている。

さらに視線を上げれば、輪郭が乱れ、少し滲んだ口紅。

……なるほど。衆人環視の中でこれ見よがしにマーキングを見せつけてくるとはね。ここまであからさまな挑発を受けて、黙って引き下がるほど紫音は甘くない。

紫音は口元の笑みをさらに深くした。「あら、そう?」

芙花が何か言い返す隙も与えず、彼女は残酷な問いを投げかける。「じゃあ、その特製カクテルと、『義兄の唾液』と――どっちが美味しかったのかしら?ねえ、芙花ちゃん?」

彼女はことさらに「義兄」という言葉を強調した。

その一言で、場の空気が凍りつく。周囲の人間たちは、改めて芙花と清也の関係を思い出したのだ。

――義理とはいえ、二人は兄妹だということを。

いくら血が繋がっていないとはいえ、清也にとって芙花は戸籍上の妹である。さっきまで二人が人前で見せつけていたあの濃厚な口づけは、インモラル極まりない行為だったのだ。

一瞬にして、芙花を見る周囲の視線に軽蔑や困惑の色が混じり始める。

「紫音さん……酷い、どうしてそんな言い方するの?」

芙花はとっさに目元を赤く染め、声を震わせた。「さっきのは、お兄ちゃんがわたしを助けるためにゲームに参加してくれただけで……それに、わたしだって自分の立場くらい分かってる。お兄ちゃんとそんな関係になるわけないでしょう……」

彼女はすがるように清也の方をチラリと見やり、言葉にならぬ悲痛な表情を作ってみせた。まるで、耐え難い屈辱を受けている被害者のように。

「……もう、いいよ」

数秒の沈黙の後、芙花は全ての理不尽を飲み込むような健気な声で続けた。「元はと言えば、わたしのお父さんがお兄ちゃんを庇って死んだから……だからわたしは不破家に引き取られて、ずっとお兄ちゃんに面倒を見てもらってきたけど。

でもやっぱり、わたしが身の程知らずだったんだね。全部、わたしが悪いの。

安心して、紫音さん。これからはお兄ちゃんとは距離を置くから。どんな辛いことがあっても、二度とお兄ちゃんに助けを求めたりしないから……!」

語尾を震わせ、消え入りそうな声で訴える芙花。

そのあざとい芝居は、個室にいた野次馬たちの良心を揺さぶるには十分すぎた。彼らは思い出す。なぜ芙花が清也の「家族」になったのかを。かつて拉致された清也を救うために、彼女の実父が犯人に殺された――その痛ましい事件を。

命の恩人の娘に対して、清也が過保護になるのは当然の道理だ。

それに、さっきのキスだって、所詮は酒の席のゲームに過ぎない。

――だというのに、目くじらを立てて追い詰める紫音の方が、心が狭いんじゃないか?

周囲の視線に混じる非難の色を、紫音は冷めた目で見渡した。瞳の温度が、氷点下まで下がっていく。「そうね。確かにあなたの命は……」

「いい加減にしろ!」

紫音の言葉を遮り、清也が乱暴に彼女の手首を掴み上げた。彼は鋭い眼光で紫音を睨みつけ、吐き捨てるように言う。「芙花の気晴らしにゲームに付き合っていただけだぞ?たかがそれだけの事で、いつまで根に持つつもりだ。大体、記念日だなんだと騒ぐが、俺は今まで散々お前の相手をしてやってきただろうが」

呆れたように、彼は続けた。「紫音、お前はいつからそんな理不尽でヒステリックな女に成り下がったんだ?」

体の横に下ろしていた紫音の拳が、ぎゅっと握りしめられる。

私が、理不尽……?

恋人である自分の目の前で、義妹とあんな熱烈な見せ物を演じておきながら。

たった一言、問い詰めることすら許されないというの?

心臓を大きな手で鷲掴みにされたような圧迫感。呼吸が浅くなり、胸の奥が軋む。清也を見つめる紫音の瞳から、光が消え――代わりに深い失望だけが残った。

ああ、もういいや。私は今まで、この男に何を期待していたんだろう。

紫音は、荒れ狂いそうになる感情を無理やりねじ伏せ、強制的に冷静さを取り戻した。そして、怒りに燃える清也の視線を受け止めながら、唇の端を持ち上げ、完璧で余所行きの「作り笑い」を浮かべてみせた。

「……ええ。あなたの言う通りだわ」

彼女は静かに、抑揚のない声で告げる。「お楽しみのところ、お邪魔して悪かったわね。ごゆっくり」

それだけ言い残すと、紫音は未練なく踵を返し、その場を後にした。

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