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第2話

Author: 青葉凛
店を出て車に乗り込むまで、結局、清也が追いかけてくる気配はなかった。

その代わり、紫音のスマホが短く震え、一通のメッセージが表示された。それはあまりに淡白で、それでいて隠しきれない非難の色が滲んでいた。

【俺と芙花はそんな関係じゃない。お前の勝手な思い込みだ。今日の態度は酷すぎるぞ、芙花に謝れ】

……芙花に、謝れですって?

紫音は口元を凍りついたように歪め、嘲笑を浮かべると、スマホを雑に助手席へと放り投げた。

清也は知らないのだろう。一ヶ月前から、私の手元には「証拠」が届き続けていることを。

彼らが二人きりで旅行を楽しむ姿、カップル同然に撮ったウエディングフォト、果ては芙花のために嫉妬に狂い、他の男と乱闘騒ぎを起こしている写真まで――

そのたびに彼は「出張だ」「仕事が忙しい」と白々しい嘘をついて私をあしらってきた。

けれど、もういい。これからは、彼も私への言い訳を必死に考える苦労から解放されるのだ。私が彼を捨てるのだから。

紫音はアクセルを踏み込み、かつて「二人の家」だった場所へと車を走らせた。

帰宅するなり、彼女は行動を開始した。

付き合い始めた頃に彼から貰ったプレゼント、肩を寄せ合って撮った写真の数々、交換日記――それら愛の残骸を全て引っ張り出し、庭へと運び出す。鉄製のバケツにそれらを無造作に放り込み、彼女は迷うことなく火を放った。

パチパチと音を立てて炎が上がり始めた、まさにその時だ。背後から男の怒声が響いた。

「貴様、何をしている!」

乱暴に腕を引かれ、紫音はたたらを踏む。視界の端で、清也が躊躇なく火の中に手を突っ込み、半分ほど焼け焦げた写真を拾い上げるのが見えた。

だが、勢いを増した炎は容赦なく広がり、他の思い出の品々を飲み込んでいく。清也の手の甲にも火の粉が飛び、彼は「っ!」と息を呑んで手を引っ込めた。

手の痛みが怒りに油を注いだのか、彼は抑えきれない激情を紫音にぶつけた。

「一体何のつもりだ!芙花はお前のせいであらぬ汚名を着せられたんだぞ!それでもあの子は『お兄ちゃん、紫音さんと喧嘩しないで。ちゃんと仲直りして』って俺を説得して、ここまで送り出してくれたんだ。それなのに、お前はここで思い出の写真を燃やしているのか!?」

清也は苛立ちを露わにし、吐き捨てる。「紫音、お前はいつからそんな聞き分けのない女になったんだ!」

紫音はゆっくりと顔を上げ、氷点下の眼差しで彼を射抜いた。美しい唇が弧を描き、決定的な言葉を紡ぐ。「ええ、おっしゃる通り。私は聞き分けのない女よ。だから――不破清也。私たち、別れましょう」

別れを告げると、紫音は彼に背を向け、屋敷の中へ戻ろうとした。

「別れる」――その言葉を聞いた瞬間、清也の心臓がドクリとけたたましい音を立てた。だが、すぐに思い直す。紫音は彼のために実家と絶縁寸前までいった女だ。あれほど自分を愛していた彼女が、たかがこれしきの事で本気で別れるはずがない。

これはきっと、気を引くための駆け引きか、拗ねているだけだろう。

そう確信すると余裕が戻った。彼は紫音の後を追い、階段の前で彼女の行く手を塞ぐ。「分かった、もうやめろ。記念日を忘れていたのは俺が悪かったよ。明日はバレンタインだろう?埋め合わせに、明日一緒に祝えばいい」

紫音が拒絶しようと口を開くより先に、彼は勝手に話をまとめにかかった。

目の前でスマホを取り出し、高級レストランと映画館の席を手際よく予約していく。そして満足げにスマホを置くと、仲直りの印とばかりに紫音を抱き寄せようと手を伸ばした。

だが、紫音は反射的に身を翻し、彼の手を避けた。

「なんだ、お前……」

「清也。自分からどんな匂いがしているか、嗅いでみたことはある?」

紫音は冷ややかな目で彼を見据えた。

鼻を突くのは、胸焼けするほど甘ったるいフルーティー・フローラルの香り。間違いなく、芙花が愛用している香水の匂いだ。

清也は一瞬呆気にとられ、自分のシャツに鼻を近づける。たちまちその表情が渋いものに変わった。

彼は慌ててネクタイを緩め、クローゼットから着替えを掴み出すと、逃げるように浴室へと向かった。「……シャワーを浴びてくる」

紫音はどうでも良さそうに見送った。

今夜、彼がこの家に泊まるつもりなら、同じ空気を吸うのも、同じベッドで眠るのも御免だ。彼女は自分の荷物を客室へ移そうと動き出したが、その時、放置された清也のスマホが着信を知らせた。

浴室からはシャワーの音が聞こえる。

紫音は何気なく画面をタップした。表示されたのは、芙花とのトークルームだった。

画面をスクロールする指が止まる。そこには、友人や兄妹の枠を遥かに超えた、爛れたやり取りが延々と連なっていた。

そして最新のメッセージには、露出の激しい際どい自撮り写真が添付されていた。【ねぇお兄ちゃん、これ似合うかな?またこの前みたいに、お兄ちゃんに身体検査してほしい】

写真の中で、芙花は挑発的なポーズをとっている。さらに紫音の目を钉付けにしたのは、彼女の下腹部近く、腰のあたりに彫られたタトゥーだった。

そこには、清也のイニシャルが刻まれている。まるで家畜に焼き印を押すように、あるいは「自分は清也のものだ」と誇示するように。

生理的な嫌悪感が爆発した。紫音はスマホを放り出し、ゴミ箱へ駆け寄ると、胃の中身をぶちまけるように激しく嘔吐した。

「おい、どうした!?」

異変に気づいた清也が、濡れた体もそのままに浴室から飛び出してくる。

彼は蒼白な顔で紫音の背中に駆け寄り、心底心配そうな声をかけた。「どこか悪いのか?大丈夫か!?今すぐ医者を呼ぶか、病院へ行こう」

「触らないで!」

清也が抱き上げようと手を伸ばした瞬間、紫音は全身の力を込めて彼を突き飛ばした。真っ赤に充血した瞳で目の前の男を睨みつける。指先はおろか、体中が怒りと嫌悪で小刻みに震えていた。

私は……この男の何を知っていたんだろう?

私の知っている不破清也は、こんな人じゃなかったはずなのに。

かつての彼は違った。

紫音の一言があれば、公の場でも「恋人がいるから」と他の女性の誘いをきっぱり断ってくれた。

彼女が風邪をひけば一晩中ベッドの脇で看病してくれたし、学生寮が停電した時には、怖がる彼女のために一晩中寮の下で見守っていてくれたこともあった。

あの頃の温かい思い出が走馬灯のように蘇る。

けれど、目の前の現実はあまりに残酷で、違いすぎる。

あんなに私を愛してくれていた彼が、いつからこんな風に腐ってしまったの……?

「……お前、俺のスマホを見たのか?」

低く抑えた清也の声が、紫音を現実へと引き戻した。

顔を上げると、そこには心配の色など消え失せ、怒りを湛えた男の目があった。紫音は冷笑を浮かべて言い返す。「やましいことがないなら、見られたって困らないでしょう?」

「紫音ッ!」

清也は荒々しく彼女の肩を掴み、壁へと押し付けた。その声は氷のように冷たい。「スマホは俺のプライバシーだ!それに、芙花があのタトゥーを入れたのは、兄である俺への純粋な思慕と尊敬の表れだ。お前のその卑しい思考回路で、あの子を汚すな!」

……卑しい思考回路、ですって?

壁に押し付けられたまま、体側の手が怒りで震える。

恥知らずでインモラルなことをしているのは彼らの方だ。それなのに、あろうことか私を責めるというの?

人は極限まで怒りが達すると、逆に笑ってしまうものらしい。

紫音は乾いた笑いを漏らした。目尻は涙で濡れていた。

清也はそんな彼女をしばらく見下ろしていたが、ふと肩を掴む力を緩めた。彼が何か言いかけた、その時――スマホの着信音が空気を切り裂くように鳴り響いた。

通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから芙花のパニックに陥った悲鳴が飛び出してきた。

「お兄ちゃん、助けて!だ、誰かが追いかけてくるの……!」

「芙花!?」

芙花の泣き叫ぶ声に、清也は血相を変えてスマホを握りしめた。「今どこにいる!?すぐに行くから、そこで待っ――」

「いやっ、やめて!服を破かないで!お願い、やめてぇ!!」

断末魔のような絶叫の後、通話はプツリと途切れた。画面がブラックアウトする。

一瞬の空白の後、事態を飲み込んだ清也は、狂ったように部下へ電話をかけ、芙花の捜索を命じ始めた。

「紫音!芙花をどこへやった!?」

アシスタントとの通話を切るなり、清也は憎悪に満ちた目で紫音を睨みつけた。その眼差しは、彼女を八つ裂きにしかねないほど険しい。

彼はギリと歯を食いしばり、威圧的に迫った。「俺への当てつけなら俺にしろ!芙花はお前に何もしていないだろうが!あんな卑劣な真似ができるなんて、お前の心はどこまで腐りきってるんだ!?」

浴びせられる罵声に、紫音の瞳は急速に温度を失い、凍りついていく。

彼女は冷ややかに言い放った。「その件に私は関係ないわ。知らないことよ」

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