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第3話

Author: 青葉凛
「紫音、わがままにも程があるぞ」

清也は心底失望したという目を向け、低い声で脅すように告げる。「今すぐ芙花の居場所を吐け。そうすれば、これまでの事は全部水に流してやる」

「だから、知らないと言っているでしょう」

紫音は一歩も引かず、清也の目を正面から見据えて、一言一言区切るように宣言した。「芙花の拉致に、私は一切関与していない」

その瞬間――清也の手が伸び、紫音の細い首を鷲掴みにした。

万力のように締め上げられ、呼吸が止まる。酸素を遮断された視界が暗く明滅し、意識が遠のきかけたその時――救いの鐘音のように、けたたましい着信音が鳴り響いた。

清也の手がパッと離れる。

彼が応答すると、電話口からはアシスタントの報告が聞こえてきた。芙花が見つかったらしい。

清也は、床に崩れ落ちた紫音に一別もくれることなく、踵を返すと足早に出て行ってしまった。

残された紫音は、蒼白な顔で床に座り込んでいた。白磁のような首筋には、くっきりと紫色の指の跡が浮かび上がっている。それはあまりにも痛々しく、おぞましい光景だった。

窓の外で、猛スピードで遠ざかっていく車のエンジン音が聞こえる。

紫音は荒い呼吸を数分かけて整えると、震える足に力を込め、ようやく立ち上がった。ふらつきながら洗面所へ向かい、鏡を覗き込む。そこに映っていたのは、かつての誇り高い令嬢とは程遠い、惨めな自分の姿だった。

その瞬間、堪えていた涙が決壊し、頬を伝って溢れ出した。

彼とは七年間、一緒にいた。けれど、その七年という歳月ですら、彼に私を信じさせるには足りなかったのだ。

紫音は大きく深呼吸をし、無理やり感情を押し殺して平静を取り繕った。顔を洗い、首の無惨な痣に薬を塗ると、鉛のように重い体を引きずってベッドへ潜り込む。心も体も限界だった。彼女は泥のように深い眠りへと落ちていった。

翌朝早く、紫音のもとにアシスタントから一通のメッセージが届いた。

【京極常務、不破社長側より取締役会の招集がありましたが、そちらに通知は届いておりますでしょうか?】

清也が現在経営する会社は、かつて紫音と彼が二人三脚で築き上げた城だ。中でも会社の屋台骨を支える重要プロジェクトのいくつかは、紫音が競合他社との過酷な接待の席で、それこそ胃に穴が空くほどの酒を飲み、身を削る思いをして勝ち取ってきたものだ。道理からすれば、取締役会の開催通知が彼女に来ないはずがない。

しかし、紫音のもとには何の連絡も来ていなかった。

彼女はすぐにアシスタントへ返信し、清也側の動きを厳重に監視するよう指示を出すと、急いで会社へ向かう準備を始めた。

身支度を整えてマンションを出る。駐車場の愛車に近づき、ドアを開けた瞬間――違和感を覚えた。逃げようとしたが、時すでに遅し。背後から伸びてきた手にタオルで口元を強く塞がれる。強烈な薬品の臭いが鼻をつき、紫音の意識は瞬く間に暗い底へと沈んでいった。

次に目が覚めたとき、紫音は麻袋のようなものに入れられていた。口にはタオルらしきものが固く噛ませられ、手足も荒縄で厳重に縛り上げられている。

もがいてみたが、拘束はあまりにもきつく、解けそうになかった。

一体誰がこんなことを――どうにか脱出する方法はないのか。混乱する頭で思考を巡らせようとしたその時、袋の外から聞き覚えのある男の声が響いた。

「こいつが、芙花をいじめていた奴か?」

抵抗しようとしていた紫音の動きが、ぴたりと止まる。全身を雷に打たれたような衝撃が走った。

――清也、だ。

彼女は喉の奥で悲鳴を上げ、袋の中身が自分であることを必死に伝えようとした。だがその瞬間、誰かに横腹を強く蹴り上げられた。

「おい、暴れるな!」

清也は地べたに転がる袋を汚いものでも見るような目で見下ろし、氷のように冷たい声で言い放つ。「俺の大事な女に手を出そうとは、いい度胸だ。……たっぷりと、後悔させてやれ」

「ねえ、少しやりすぎじゃない?」

芙花は清也の腕に絡みつくと、その胸に身を預けるようにして身体を縮こまらせた。「もう許してあげて。わたし、別に何をされたわけでもないし……お兄ちゃんがすぐに助けてくれたじゃない?だから、本当に大丈夫だから」

大人しく従順な芙花の様子に、清也の張り詰めた心も解けていくようだった。

彼は指先で芙花の頬を優しく撫で、甘く諭すような声を出した。「だめだ。これくらいの『仕置き』をしておかないと、またお前を攫おうとする輩が出てくる」

「芙花、お前を傷つけるような真似は、俺が絶対に許さない」

二人の会話を聞いて、身をよじっていた紫音の抵抗がぴたりと止まった。次の瞬間、彼女の身体はロープで宙に吊り上げられる。

麻袋の隙間から漏れる微かな光の中、バットを引きずった清也が近づいてくるのが見えた。

ドゴッ!

硬質な音が響き、野球のバットが容赦なく紫音の身体に叩きつけられた。

苦痛に呻き声が漏れる。口の中には鉄錆のような血の味が広がり、激痛で視界が歪んでいく。

それでも目の前の男は手を止めない。一撃、また一撃。何度も何度も執拗に殴り続け――その回数が九十九回に達したところで、ようやく清也の手が止まった。

男はバットを放り捨て、芙花の方へと背を向ける。

清也が背を向けたその隙に、紫音を吊っていたロープが解かれ、彼女はドサリと床に降ろされた。猿轡(さるぐつわ)代わりの白いタオルは、見るも無惨な鮮血に染まりきっていた。

「お兄ちゃん、怖かった……!」

芙花は駆け寄るようにして清也の胸に飛び込み、その腰にきつく腕を回した。清也の胸に顔を埋めながら、彼女はそっと視線だけを動かす。その目は、麻袋から引きずり出された血まみれの紫音に向けられていた。

瞳には勝ち誇った優越感と、あからさまな挑発の色が浮かんでいる。その目は、音のない声でこう告げていた。――『わたしの男を奪おうとするから、こうなるのよ』

喉の奥から込み上げる血反吐を吐き出しながら、紫音は霞む視線で清也の背中を睨み据えた。しぼり出すような声で、その名を呼ぶ。「せ……清、や……」

虫の息、とでも言うべき微弱な声に、清也は眉をひそめた。

――今の声、紫音に似ていなかったか?

まさかと思い、振り返って正体を確かめようとしたその時、腕の中の芙花がガクリと力を失った。

「芙花!」

清也の意識は瞬時に芙花へと切り替わる。呼んでも反応がないのを確認するや、彼は迷いなく彼女を抱き上げ、大股で車の方へと歩き去ってしまった。そのままエンジン音が遠ざかっていく。

地面に這いつくばったまま二人の背中を見送る紫音の心は、冷たい底なし沼へと沈んでいった。

手首を縛っていた荒縄が雑に解かれたかと思うと、彼女の身体はまるで生ゴミでも捨てるかのように、ワンボックスカーの荷台へ放り込まれた。

衝撃で脇腹に激痛が走り、呼吸が止まりそうになる。肋骨がいっているかもしれない。

紫音の視界は、痛みでさらに黒く明滅した。

車の外にいる男たちは、彼女の容体など少しも気にしていない様子で、次の場所へ向かう算段を話していた。

「江藤様からは、何人かの男をあてがってたっぷり『可愛がって』やれとお達しだが……この状態で生きてられるかね」

「知ったことか。俺たちの仕事は写真を撮ることだ」

「それにしても、いい身体してやがるぜ」

……

……下種でねっとりとした笑い声が響く。

「江藤様」という言葉、そして男たちの卑劣な目的――紫音はすべてを悟った。

芙花は、自分を社会的に殺し、徹底的に破滅させるつもりなのだ。

ここで終わるわけにはいかない。紫音は必死に意識を保ち、芋虫のように身体を這わせ、反対側のスライドドアへと向かった。震える指先がドアノブに触れた、その瞬間だった。頭皮が剥がれるような勢いで、髪の毛を後ろからわし摑みにされ、強引に引きずり戻された。

「このアマ!まだ逃げる気か!」

紫音は唇を噛み締め、目の前の男たちを射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。しかし、逃げ場がないことを悟ると、絶望の闇が心臓を冷たく覆い尽くしていく。

その時、背後に回していた手が、ひんやりとした硬いものに触れた。

鋭利な鉄片、だろうか。

刹那、紫音の腹は決まった。男の一人がロープを手に近づいてきた瞬間、彼女は隠し持った鉄片を握りしめ、電光石火の早業で男の喉元に突きつけた。

「な、何しやがる!」

鉄片が薄皮を食い破り、男の首筋から血が滲み出る。

「私を解放して!」

紫音は獣のような目で男を威嚇し、枯れた声で叫んだ。

男が何か言い返そうとしたその時、車外からドスンという鈍い衝撃音が響き、続いて激しい乱闘の音が聞こえてきた。

間髪入れず、スライドドアが勢いよく開け放たれる。

そこには黒いスーツに身を包んだ数人の屈強な男たちが立っていた。先頭に立つのは、縁なし眼鏡をかけた理知的な顔立ちの男だ。

「京極様、遅くなり申し訳ございません」

紫音は警戒と困惑が入り混じった目で彼らを見つめ、強張る喉から声を絞り出した。「……誰?」

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