Masuk柊馬の顔から、一瞬で血の気が引く。目を限界まで見開き、信じられないといった様子で柚希を凝視し、まるで石のように硬直していた。どうして柚希がノクターン財閥のチーフエンジニアなのだ?「そんな……ありえない!柚希ちゃんがノクターン財閥のチーフなわけがないでしょ!」真っ先に理性を保っていられなくなった莉奈は、柚希を指差して叫んだ。必死に保っていた上品なイメージも崩れ去り、ただ極限の恐慌と狂気に駆られている。「トムディレクター、人違いですよね?!彼女は桐生柚希。FSグループをクビになったただの平社員ですよ?彼女なんて……」「莉奈さん」トムが静かに言葉を遮った。「柚希は、ノクターン財閥が3年にわたって、社長自らが頭を下げ、誠意を尽くしに尽くして、ようやくお迎えすることができた世界最高クラスの研究開発者なんです。彼女のことは、誰であろうと疑えるものではありません。むしろ、あなたは……」隠しようのない嫌悪と冷ややかな嘲笑が混じっているトムの声。「私たちノクターン財閥の開発チーフが、あなたの成果を盗もうとした、とおっしゃいましたか?冗談はよしてくださいよ。ノクターン財閥の中核プロジェクト『バイオニック・ニューロン・マトリクス』は、すべて柚希の理論が基礎となっています。だから『ココロガタリ』程度のプログラムなんて、柚希に言わせればおもちゃに過ぎないのに、盗む必要があるとでも?」トムは、顔面蒼白になっている柊馬と莉奈をちらりと見た後、最後は柊馬へと視線を戻し、一言一句はっきりと告げた。「FSグループさん。今日柚希に対して、あなたたちがとった行動、ノクターン財閥は忘れませんから。ただいまをもって、全世界、全事業ラインにおいてFSグループとの取引を永遠に停止します」ドンッという音と共に、莉奈が糸の切れた人形のように力なく床にへたり込んだ。その表情は絶望に打ちひしがれている。トムはまるでゴミを見るかのような目で二人を一瞬見たが、柚希に向き直ると、さっと笑みを浮かべた。「柚希、会場に入りますか?それとも、会議室に?あなたの貴重な時間を、こんなつまらないものに割く必要はありません……こんな人たちなんか、ゴミ以下ですから」最後の一言は、顔面蒼白になっている莉奈と柊馬に向けられたものだった。「会場に入ろう」柚希は落ち着いた口調でそう言うと、乱
その時――閉まっていた会場の扉が、勢いよく開け放たれ、ひときわ洗練された雰囲気と圧倒的な存在感をまとった一団が、姿を現した。先頭に立っていたのは、長身で冷徹な顔立ちをしたE国の男性。その人物こそ、見る目の鋭さと容赦のない手腕で名を馳せる――ノクターン財閥・AI研究開発部でグローバル・チーフディレクターを務めるトム・スミスだった。彼らが放つ威圧感により、その場の空気は一瞬にして凍りつき、人々の視線が一斉に注がれる。会場内の人々もまた、彼らの後に続いて外へ出てきた。莉奈は一瞬呆気に取られていたが、すぐさま大きな喜びが胸を駆け巡った!ノクターン財閥の上層部自らが顔を見せるとは!間違いなく、自分に会いに来たのだ!すぐに完璧な笑みを浮かべた莉奈は、背筋を伸ばし、ハイヒールを鳴らして小走りで歩み寄ると、自信に満ちた声でトムに挨拶をする。「トムディレクター、初めまして。ココロガタリを開発した莉奈です。お会いできて光栄です……」すると、トムの足が止まり、意味ありげな視線を莉奈に向けた。しかし、すぐに目を逸らすと、玖に取り押さえられ青ざめている柚希の方を見る。柚希がそのように扱われているのを見て、彼の顔つきは一瞬にして嵐の前のような静かな暗い色に染まった。「何をしているんだ!」莉奈の胸がひやりとした。目の前のチャンスを逃すわけにはいかない。柚希に台無しにされてたまるものか。即座に先手を打って口を開いた莉奈。声にやるせなさと痛ましさを滲ませる。「トムディレクター、見苦しいところをお見せして申し訳ありません。彼女は義妹の柚希といって。私が『ココロガタリ』の開発に成功したのを嫉妬し、さらには家庭内で自分の居場所がなくなるのを恐れ……あろうことか私の研究データを盗み、ここで自分の手柄にしようとしたんです……」莉奈はわざとらしく深いため息をついた。「本当は身内で、密かに片付けるつもりだったのですが、皆様の目に入るような騒ぎにしてしまい、本当に申し訳ありません」「研究データを盗んだ」その一言は、実に陰険で、たちが悪かった。たとえ柚希がオリジナルのデータを取り出したところで、何を言っても誰も彼女を信じてくれないだろう。周りで見ていた人々の中で、ざわめきが起こる。軽蔑の視線と陰口が冷たい波のように柚希へと押し寄せてきた。「信
「桐生社長、柚希さんが来ました!」莉奈の秘書が慌てて、柊馬に駆け寄る。「もう発表は終わっていますし、莉奈さんが『ココロガタリ』の公式開発者として認識されてしまいました。今ここで柚希さんが入ってきて……全部暴露されたら、ノクターン財閥との契約どころか、FSグループ全体が大恥をかくことになりますよ!」「やっぱりあいつは来たのか!」柊馬の胸がふっと軽くなった。しかし次の瞬間には、怒りが込み上げてくる。勢いよく背を向け、大股で会場の入り口へと向かった。周囲から羨望の眼差しを浴びていた莉奈も、それを見た瞬間顔色を変え、慌てて人波をかき分けて追いかけた。莉奈は追いかけながら、猛烈な勢いで携帯を操作する。「本当、使えないね!何で、あの女が会場に来たの?あんた、今どこにいるのよ!」それでも、返信は一向に来なかった。柊馬は会場の入り口まで着いたところで、柚希の姿を捉えた。シンプルなオフィススタイルの柚希。華奢な背筋をピンと伸ばし、迷いのない足取りで会場へと向かっている。しかし、よく見ると彼女の顔色はあまり良くなく、額には薄っすらと汗が浮いていて、息もどこか荒かった。「今更来たのか?お前が来て、何か変わるとでも?」柊馬は失望を滲ませ、責めるように言う。「発表はもう終わってるんだぞ?幸い、莉奈が代わりに壇上に立ってくれたから、穴を開けずに済んだ。お前が遅刻したせいでこうなったんだから、文句言わずに受け入れろよ」柚希がゆっくりと目を上げた。その眼差しには、骨まで凍りつきそうなほど冷たい嘲りの色が満ちている。非常階段へと引きずり込まれた瞬間、莉奈の狙いが「ココロガタリ」の横取りだと確信した。FSグループを離れるつもりだった柚希にとって、「ココロガタリ」など、もうどうでもよかった。それに、莉奈なんかにあのシステムが扱えるわけがない。だが、ノクターン財閥の開発部チーフが設計したシステムとなれば話は別で、FSグループの利益も何十倍にも膨れ上がらせることができる。引き際を見誤らない。それが自分の原則だ。ましてや、システムの発表はあくまで通過点に過ぎない。後々のメンテナンスやアップデートを行わないとシステム自体が致命的なバグを起こす……それへの対処は、自分にしか構築できないのだから。莉奈がいま浴びている賞賛など、バグが起こった
莉奈は突然の平手打ちに完全に面食らい、作りかけていた悲しげな表情すら顔に張り付いたまま固まっていた。頬には焼けつくような痛み……え?何?この女、本当に叩いたの?柊馬も呆気に取られていたが、すぐさま怒りを露わにした。「柚希、気でも狂ったのか?お前がこんなに嫉妬深くて、性根の腐った女だとは知らなかったよ!今のお前、はしたないにもほどがあるぞ!」「あら、そう?で、それがどうしたの?」柚希は気にする様子もなく手首を回すと、冷徹な視線で二人を見つめた。「もう次はないよ。もし、またこんなことしたら、二人まとめてだから」その冷たい瞳と顔の激痛に、莉奈は思わず身をすくませる。弱い者には強く、強い者には弱い。柚希は鼻で笑うと、この汚らわしい二人には目もくれず、ゴミ箱に捨てられたノートパソコンを拾い上げてそのまま歩き出した。「柚希!待て!」柊馬は顔を真っ赤にして叫んだ。「それでも行くって言うなら、もう二度と戻ってくるなよ。AIエモリンクシステムの発表にも、お前の名前は載せてやらないからな!」しかし、そんな脅しは何の意味もなさない。柚希は足を止めることも、一度振り返ることもなく、その場を去った。ドンッ。腹の虫が収まらない柊馬は、力任せに、持っていたジュエリーケースを地面に叩きつけた。和解したかったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだ?気力を振り絞って開発部から出た柚希だったが、腰の痛みでまともに立っていられなくなり、壁に手をついた。「柚希さん」雅美は柚希に駆け寄り肩を貸し、同情の視線を向ける。「病院に行きましょう」「ありがとう」——腰を痛めた柚希は、スカイ・ペニンシュラへ戻り、ベッドの上で安静にせざるを得なくなった。部屋の外、廊下には人影が……健一が真剣な面持ちで報告する。「炎真様、調べて参りました。奥様はFSグループで莉奈様から嫌がらせを受け、そして柊馬様は事情も聞かずに莉奈様をかばったらしく……奥様の腰の怪我は、柊馬様に突き飛ばされたのが原因だそうです」「死にたいようだな」殺気が闇の中から一気に漏れ出す。影の中に佇む長身の男は、その場の空気を一変させた。まるで地獄から現れた魔王のような圧倒的な威圧感をまとっている。「あいつは自分の手すら制御できないようだ。だったら、そ
「奥様。今、炎真様が対応している問題は……かなりややこしくて。もしかしたら、数日どころか、半月は戻ってこないかもしれません」柚希は少し考えた。どうやら、直接話すことは難しそうだ。ラインで伝えるなんて、失礼だとはわかっているが、それ以外に方法がない。柚希は携帯を取り出し、炎真にメッセージを打つ。【忙しい?少しだけでいいから時間作れないかな?話したいことがあるの】送信ボタンを押した。一向に変化がない、トーク画面。そこに表示されているのは、自分が送った緑色のメッセージだけ。ぽつんと取り残されたように画面に残っている。おかしい。仕事のできる炎真は、返信が驚くほど早いことで知られているはずなのに……柚希の口角が自嘲気味にくっと上がった。まあ、当然と言えば当然か。炎真が自分と結婚したのも、ただ柊馬を牽制するため。それに、自分個人に対しては……おそらく昔と変わらず、距離を置き、もしかすると嫌悪感すら抱いているのだろうから。自分がいようといまいと、彼には関係のないことなのだろう。柚希は静かに携帯をしまい、部屋に戻った。サイドテーブルに無造作に指輪を置く。落ち着いたら買い取りに出して、莉奈のせいで無くなった4000万のインセンティブの代わりにしようと思った。「奥様。安眠効果のあるお香をご用意しました。ゆっくりおやすみください」メイドがお香に火をつけると、部屋にはとてもいい香りが漂った。柚希が深い眠りについた頃……夜の静寂に包まれた部屋、ドアが静かに押し開かれる。すらっとした人影がベッドのそばへ近づき、サイドテーブルに置かれた指輪を見下ろした。長く伸びた指が指輪を摘み上げ、掌の奥へと力任せに握り込む。指の関節が白くなるほど、手のひらが強く握り締められた。それはまるで、指輪を粉砕しようとするかのようで、すーっと、男の指の間から血が一筋滴った。その痛みが、怒りでどうにかなりそうな男の衝動を少しだけ鎮める。男はふっと自嘲の笑みを漏らすと、その血で染まった指輪をゴミ箱へと投げ捨てた。まるでガラス細工でも扱うかのように、男は血で濡れた指で、眠る柚希の頬を優しく撫でた。暗闇の中、執着にまみれた眼差しが彼女に絡みつく。「柚希……俺から離れられると思うなよ」――海外に飛ぶのは来月のことだが、この
「柚希!」柊馬は青ざめた顔でそう叫ぶと、なりふり構わず柚希を追いかけて走り出した。レストランを出たところで、柚希はすぐさま健一に電話をかけた。「もしもし、健一さん。ちょっとしたアクシデントで契約がキャンセルになったので、直接挙式場のチェックに行きます。担当者の連絡先を教えていただけますか?」「奥様、こちらへどうぞ」柚希が顔を上げると、そこには優しげな笑みを浮かべた健一がエレベーターの前で待っていた。まさか、ずっとここで待っていてくれたなんて。柚希は小さく微笑み、エレベーターへと乗り込む。扉がゆっくりと閉まりかけた時、後を追ってきた柊馬の目に、健一と柚希が二人で並んで立っている姿が飛び込んだ。不審そうに眉をひそめる。「健一がなぜここに?」それを聞いていた店員が、気を利かせて答えた。「桐生社長、健一さんは挙式場の視察でいらっしゃったそうです。今月末、炎真様の結婚式が控えておりますが、ご存知ないのですか?」海外で育った炎真は、6年前に帰国すると、その強烈なやり方で海鳴市のビジネス界を制圧した。あの凄まじい粛清の嵐は、一ヶ月も続いたという。それ以来、業界の人間からは「閻魔」と呼ばれ、畏敬の眼差しを向けられていた。「炎真さんが結婚?」柊馬は驚きを隠せなかった。これまで数多くの名家の令嬢たちがいくら見合いを申し込んでも、一切興味を示さなかったあの人が、なぜ急に結婚を?一体、どれほどの相手だというのだ?驚きながらも、柊馬は慌てて隣のエレベーターのボタンを押した。一刻も早く、柚希を連れ戻さなければならない。なぜなら、炎真の邪魔をし、彼を怒らせるわけにはいかないから。あの人は本当に狂ってる。相手が女であっても容赦はしないだろう。最上階に着き、静かにエレベーターの扉が開いた。健一は体をさっと引く。「奥様、どうぞ。海鳴市を一望する挙式場、『スカイ・ミラー』でございます」柚希は健一の案内で、夢のように美しい挙式場へと足を踏み入れた。時を同じくして、すぐ横のエレベーターも開いた。焦った柊馬が勢いよく飛び出してくる。鋭い視線でフロアを見渡したが、そこに柚希の姿はない。胸が一気に重くなった柊馬は、重々しい足取りで「スカイ・ミラー」の入口へと向かった。柚希は入ってしまったのか?恐れていたことが起きてしまった