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第2話

Author: 林檎
柚希が戻ってきたのは、自分の荷物を持っていくためだった。

玄関に足を踏み入れた瞬間、聞こえてきた耳障りな笑い声。

普段は寡黙で滅多に笑わない柊馬が、どうやら莉奈の隣に座り、ジョークを言って彼女を笑わせているよだ。

「クシュンッ!」

莉奈がわざとらしいくしゃみをした。

「寒いのか?」柊馬はすぐに、自分自身のジャケットを脱ぎ、莉奈の肩に優しく掛ける。

顔を上げた莉奈と柊馬の目が合い、鼻先が触れそうな距離になった。

一瞬、そこだけ時間が止まったかのようだった。

二人だけの甘くて、曖昧な雰囲気……

玄関でその様子を見ていた柚希は、無言で唇の端を少しだけ歪ませた。

柊馬が莉奈に見せる行き過ぎた献身や庇護を、兄を亡くしたがゆえの純粋な責任感だと思い込んでいたのだが、それはどうやら違うらしい。

実のところ……二人の間には、もう何かが芽生えているようだ。

「ゆ、柚希ちゃん?」

柚希に気づいた莉奈が目を大きく見開き、狼狽えながら口を開く。「こ、これは違うの。私が寒くないようにって、柊馬くんが気を遣ってくれただけで……」

気遣い、か。

柚希は心の中で笑った。

暖房が効いてこんなにも暖かい室内なのに、莉奈のくしゃみひとつでそんなに慌てるなら、昨夜、薄着のまま雪の中に放り出された自分のことは心配しなかったのだろうか?

まあ、もうどうでもいい。

こんな茶番劇を見るのも嫌だった柚希は、何も言わずにリビングを通り抜け、そのまま階段を上った。

3年間の結婚生活。物はたくさんあったが、柚希が持っていこうと思ったものは、スーツケースひとつ分に収まった。

柊馬から贈られたダイヤモンドのネックレスや限定品のバッグ、それからラブレター……それらはすべてゴミ箱に投げ入れる。

あんな最低な人間からもらったものを残しておいて、自分が不快な思いをする必要はどこにもない。

婚姻届受理証明書をスーツケースの隙間に挟み、ファスナーを閉めようと立ち上がった瞬間、猛烈なめまいに襲われた柚希。

危うく倒れてしまいそうになったが、なんとかスーツケースの取っ手を掴み、その場に踏みとどまった。

やはり、体調を崩したか。

昨夜あんな薄着で雪の中にいたのだから、無理もないだろう。

炎真の家へ行く前に、病院へ寄らなければ。

柚希はめまいを堪えながら、スーツケースを引いて玄関へと向かったのだが、柊馬がドアの前に、行く手を阻むように立っていた。

柚希のスーツケースを見た柊馬は、たちまち表情を強張らせ、責めるような冷たい口調で言い放った。

「一晩外で頭を冷やして、お前はもう分かってくれたんだと思ってたんだけどな」

本当、聞いて呆れる。

この男は自分がどれだけ理不尽なことを言っているのかも理解せず、ただ一晩、私が冷静になればなんでもいうことを聞く従順な妻に戻ると思っていたなんて。馬鹿にするのも大概にしてほしい。

「うん。頭はもう冷えたよ」

柚希は冷ややかに笑う。「あなたみたいな最低な男なんか、腐った肉と変わらない。そんなものは捨てるべきでしょ?愛する人と、どうぞお幸せに。子宝に恵まれて、大家族になれたらいいね!」

「おい!柚希!」

柊馬は鋭い声で遮り、その顔は怒りで青ざめていた。「何度も言っているだろ?莉奈と子供を作ったのは、桐生家の後継を残すためだって。それに、俺とあいつの間に、お前が考えているような関係はないし、やましいことだって何ひとつない。

子供だって、人工授精なんだから」

まるでこの言い訳が、こんなにも異常な出来事を正当化できるとでも思っているかのように、柊馬は険しい顔で言い訳をしている。

柚希は皮肉に思った。「そう?じゃあさ、生まれてきた子に自分のことをなんて呼ばせるの?叔父さん?それとも……お父さん?」

「……なんでお前は、そんな嫌味な言い方しかできないんだよ?もう理由は説明しただろ?」

「説明した?あなたの言い訳で、お腹の子供がなかったことになるの?時を戻せる?あんな言い訳で、あなたを許せっていうわけ?」

柚希は柊馬を押し除け、スーツケースを持って歩き出す。「あなたが莉奈さんと子供を作ることを決めた時点で、私たちの関係は終わったの」

「終わった、だと?」

柊馬が柚希の腕を引き戻し、激しく抱きしめ、柚希を引き止めた。「納得できないことがあるなら、俺にぶつければいいし、喚いたっていい。でも、俺たちの関係を終わらせることだけは駄目だ。そんなこと、二度と口にするなよ。

いいか、柚希。お前は一生俺の妻だからな!」

妻?

柚希は可笑しくて、思わず鼻で笑ってしまった。「籍もいれてないのに?」

その一言で、柊馬が固まる。どうやら、今になって籍を入れていないことを思い出したらしい。

しかし、何を思ったのか、柊馬はすぐに安堵の表情を浮かべ、小さく笑った。「なんだ、柚希。お前は俺と籍を入れたかったのか?

分かった。望み通りにしてやるよ。

莉奈も妊娠したことだし、母さんたちももう反対しないだろうからな。今すぐ役所に行こう」

柊馬が柚希の手をとり、優しく言い聞かせるように言う。「でも、籍を入れたら、大人しくしてくれよ。家のことをしっかりして、莉奈のことも大事にするんだ」

柚希はこれ以上ないほどの嫌悪感に襲われた。

ここまで自分たちの関係を壊しておいて、婚姻関係ひとつで全てを水に流せるとでも思っているのか?それどころか、莉奈とその子供の世話まで押し付けてくるとは……

柚希は吐き捨てるように言った。「柊馬。いい加減にしてくれる?言っておくけど、私、もう別の人と入籍してるから!」

「柊馬!」

その瞬間、腹部を押さえた莉奈が、壁を伝いながらやってきた。「柊馬、お腹が痛いの……病院まで連れてってくれないかな……?」

柊馬は躊躇うことなく柚希の手を放し、莉奈に駆け寄って彼女を支える。

緊張した面持ちで、優しく声をかける柊馬。「大丈夫だ。今すぐ病院に連れて行ってやるからな」

「柚希、入籍の話はまた後でしよう」

莉奈が弱々しく柊馬にもたれかかる。「倒れちゃいそうなの……柊馬……」

柊馬は何の迷いもなく莉奈を横抱きにして、玄関を飛び出して行った。

莉奈は彼の胸に甘えるように身を寄せた。そして広い肩越しに、立ち尽くす柚希をじっと見つめる。

その目には、あからさまな挑戦の色が混じっていた。

柚希はもう笑うしかなかった。どうやら莉奈は、自分の前で本性を隠すことすらやめたらしい。

二人の姿が見えなくなった後、柚希は心の痛みを抑えつけ、毅然とスーツケースを引いて家を出た。

――

病院。

すでに診察を受け終わった柚希だったが、熱がひどく、体は鉛のように重く、意識が朦朧としていた。

「桐生さん、今回の点滴には鎮静成分が含まれていますので、強い眠気が出ることがあります。安全のため、ご家族の付き添いが必要なんですが……ご家族の方は?」

家族?

柚希は乾いた唇の端をそっと上げながら、無意識に携帯の画面を開いた。

明るくなった画面には、莉奈がたった今投稿したばかりの写真。

写真には、病院のベッドの上で、男の肩に頭を乗せ、穏やかな表情で微笑む莉奈が写っていた。

【少し気分が悪いって言っただけなのに、誰かさんは本当に大袈裟なんだから。それに、仕事までキャンセルして、ずっと付き添ってくれてる……もう、私ったらこんな投稿して、恥ずかしいかな?

もう、愛されるのも大変】

たとえ写真の中に写る男がぼやけていたとしても、柚希にはそれが誰だかはっきりと分かる。

柊馬。

指先が冷たくなり、携帯を落としそうになるほど、体が震え始めた。

柚希はその画面をいつまでも、じっと見つめていたが、その手の震えが止まった時、柚希の瞳からすっと光が消えた。

「すみません……付き添ってくれる家族がいないので、看護師さんの付き添いをお願いできますか?」

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