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第3話

Author: 林檎
豪華なVIP病室。

病室のベッドの上で、莉奈は柊馬がいれてくれた温かいお茶を、ゆっくり飲んでいた。

「ねえ、柊馬くん。家政婦さんから聞いたんだけど、今朝柚希ちゃんが乗ってきた車、ロールス・ロイスだったんだって。それに、昨日の夜だって、ずっと帰ってこなかったでしょ?もしかしてさ……怒って誰かと……」

「そんなことはないよ」

柊馬は顔も上げず、不器用に林檎の皮を剥きながら、はっきりと言った。「柚希は絶対に、俺を裏切るような真似なんかしない。それに今日はこれから二人で籍を入れにいくんだから」

「籍を入れるの?」

驚いた莉奈の瞳の奥で、激しい嫉妬の炎が燃え上がる。

自分の夫はもうこの世から去ってしまった。それに今は、柊馬がお腹にいる子の父親だというのに、どうして柚希はいつも自分から柊馬を奪っていくのか。

黙って柊馬を自分に譲ってくれればいいのに!

その時、携帯の着信音が鳴った。

電話口から聞こえてきたのは、洋子の怒ったような声。

「柊馬!柚希ったら、スーツケースを持って家を出て行くなんて、一体どういうつもり?!あの子がいなくなったら、誰が家のことをするっていうの?それに、入院している莉奈ちゃんには、誰が荷物を届けるのよ!」

「柚希が家を出ていった?」

林檎を剥く手を止めた柊馬は、驚きの表情で固まった。今日入籍しようと約束していたはずなのに、これはどういうことなんだ?

「柚希ちゃんってそんな感じなのね。柊馬くんと入籍するって決まったのに、何が不満なんだろう?柊馬くんに大切にしてもらえるだけで、幸せなのに……私なんか……もう旦那すらいないのに……」

俯いた莉奈の目から、シーツの上に涙が溢れた。「でも、いいの。柊馬くん、早く柚希ちゃんのところに行ってあげて。私は大丈夫だから。もし、体調が悪くなっても、ナースコールがあるし……なんとかなるよ」

柊馬は、傷つきながらも健気に耐え、すべてを受け入れようとする莉奈を見つめる。彼女は、こんなに理解してくれるのに、柚希ときたらいつも騒ぎを大きくするばかり……そう思った瞬間、抑えていた怒りが一気に込み上げてきた。

母さんが言っていた通り、自分はどうやら柚希を甘やかしすぎていたようだ。

あいつは妊娠している莉奈を思いやらないどころか、こんな時に嫉妬で家出をするなんて。全く理解ができない。

柊馬の顔色がふっと暗くなる。秘書へと電話をかけた。「今すぐ柚希のクレジットカードを止めろ。金がなければ、今夜には泣きついて帰ってくるはずだからな」

――

5袋目の点滴を終えた柚希の体調は、いくらかマシになっていた。

すると、柚希のクレジットカードを握り締めた看護師が、申し訳なさそうに近づいてきた。「桐生さん、このカードで治療費の支払いをしようとしたのですが、エラーで使えませんでした。どうやら、停止されているようで……」

カードが止められてる?

朦朧としていた柚希の意識は、氷水を頭から浴びせられたように、一瞬ではっきりとし、痛みの中にあることを理解した。

柊馬と一緒になった後、柚希は柊馬のためにキャリアを諦め、彼が経営する会社で、プロジェクト管理や運営に携わってきた。

そのため、柚希は給料制ではなく、会社の財務管理を任され、経費として無制限のカードを持たされていたのだ。

以前はこのカードが愛情の証だったかもしれないが、今では自分を制御するための武器にされている。

まったく……なんと都合のいい話なのだろう。

機嫌がいい時は惜しみなく甘やかしながら、ひとたび関係が拗れれば、卑劣なやり方さえ平然と自分に使ってくるなんて。

「退院の手続きをするにも、カードが使えないとなると……桐生さん、ご両親にお電話してみたらどうでしょうか?」

両親はここから離れた盛沢市にいて、体もあまりよくない。それに、自分が入院費用すら払えないことを知ったら、どれだけ心配をかけることか。

柊馬は自分が親に迷惑をかけられないことを知っているからこそ、こんなことをするのだ。

しかし、柊馬は分かっていない。今回自分がしているのは、彼の気を引くためのわがままではなく、本気で柊馬のことがいらなくなったのだということを……

たとえ道端で野垂れ死んだとしても、もう二度と戻りはしない。

「申し訳ないんですが……」

柚希は異常なほど落ち着いた声で、看護師に声をかけ、薬指に光っていたダイヤの指輪を外す。「これを近くの買い取り店に持っていって、売ってきてくれませんか?」

荷造りをする際に捨て忘れていたが、手にはまだこれが残っていた。

まあ、いい。売ってお金に換えればいいだけだ。こんなろくでもない恋も、せめて最後くらいは何かの役に立ってもらわなくては。

それから、柚希は迷うことなく、ある番号へと電話をかけた。

「もしもし、佐藤先生ですか。労働紛争の申し立てをお願いします。ええ、桐生柊馬を訴えるんです。雇用契約もなしに3年間こき使われたうえ、給料は一円もなしですから」

――

病院を後にした柚希は、タクシーで高級別荘地であるスカイ・ペニンシュラへと向かった。

車を降りて仰ぎ見ると、中腹に佇むその壮麗な屋敷は、暮れゆく空の下、まるで息を潜めた獣のようだった。見慣れているはずなのにどこか遠く感じる――そんな異様な威圧感が、正面から押し寄せてくる。

これまで無理やり記憶の奥底にしまい込み、目を背けていた過去を、嫌でも思い出す。

ここまで追い詰められていなければ、一生この場所には近づかなかったはずだ。

だがしかし……権力を持っている柊馬は、自分のことをそう簡単には自由にしてくれないだろう。それに、遠方に住む両親に危害を加えてまで、自分のことを脅しかねない。

だから柊馬の手から完全に逃れ、一切の関係を断ち切るには、柊馬ですら頭が上がらない人物——炎真を頼るしかなかった。

炎真は桐生家の真の後継者と目される男で、柊馬の従兄にあたる人物。卓越した手腕と冷徹な決断力を持ち、一族内の後継者争いでは、柊馬以上に次期当主の座へ近い存在とされていた。

柊馬ですら炎真に会えば、「炎真さん」と頭を下げる。

鳴海市で柊馬から女を奪える人間など、彼しかいない。

柚希は深く呼吸を繰り返し、何分もかけ、動悸と胸に渦巻く緊張を奥底へと封じ込めた。

こぶしを握り締め、決意を固めると、柚希はその広大な別荘へと足を踏み入れたのだった。

結局、いつかは向き合わないといけないのだから。

「奥様、お帰りなさいませ」

そう言って柚希を笑顔で迎えてくれたのは、桐生家に長年仕えてきた長谷川健一(はせがわ けんいち)。皺ひとつないスーツを着こなし、相変わらず丁寧な立ち居振る舞い。「炎真様は急な海外出張が入りまして、ここ数日はおそらく戻られないと思いますよ」

ということは、炎真は家にいない?よかった!

柚希の張り詰めていた心が、その瞬間ふっと軽くなる。

健一は彼女の一瞬の安堵を見逃さなかった。事情を察したような笑みを浮かべると、恭しく彼女を豪奢な本館へと案内した。

「こちらが奥様のお部屋です。衣服、身の回りの品から宝飾品まで、全て揃えております。もし、お気に召さないものがございましたら、おっしゃってください。すぐに交換いたしますので。

そして、日々のお支払いはこちらの無制限のブラックカードと、現金で1億円、そして小切手で20億円をお渡ししておきますので、お好きなようにお使いください。

それと、こちらで控えておりますのが、奥様にお仕えする使用人、総勢108名でございます。どのような要求にも、瞬時に対応できるようにしてあります」

そこにいる人々を見て、柚希は思わず声を失った。「……ちょっと多すぎませんか?」

このもてなしは、柊馬の家とは比べ物にならないほどだった。

しかし、健一は「当然です」と言わんばかりの謙虚な笑みを崩さない。

「奥様。あなた様の夫は、我が家の炎真様です。柊馬様のことは……まあ、あの方のやり方については今さら申し上げるまでもありません。とにかく、あの方が奥様に与えなかったものも、与えることのできなかったものも、旦那様にとっては、全てごく当たり前のものなのですから。

それに、奥様がお使いになる物、お召しになる服、娯楽に至るまで、全て最高級のものをご用意するように、と炎真様から言われておりますので、奥様は何もご心配なさらないでくださいね」

柊馬の屋敷とはあまりにも次元の違う、贅を尽くした対応に、柚希は驚きを隠せない。

柚希の脳裏に、ふと炎真の姿がよぎった。感情を露わにした時の彼の低い息遣いには、不思議なほど人を惹きつける力があり、気づけば心を乱され、いつの間にかその魅力に飲み込まれてしまう。そして今もなお、柚希は忘れられずにいた。鎖骨の下、汗に濡れて艶めいていたあの小さなほくろ……

でも、惜しいことに……

柚希は慌てて、その場にそぐわない考えを頭の中から追い払った。気持ちを切り替え、健一に向かって口を開く。「健一さん。彼が帰ってくる時には、一声知らせてもらえますか?」

炎真と会うには、心の準備をする時間が必要だ。

健一が深く頷く。「もちろんです。それと、少々先のお話なのですが、結婚式は今月末の28日に予定しております。準備は全て一流のスタッフが対応しますが、会場の選定やデザインなどの確認が必要ですので、奥様のご都合の良い日を教えていただけると……」

「すべてお任せします」

「いえ、奥様!それではいけません!結婚式の主役は奥様なんですから!それに、炎真様からも出発前には『すべては柚希の好み通りにやれ』との言付けでして」

私の、望み通り……

柚希は胸に何かがこつりと触れたのを感じた。

柊馬との結婚式は、簡素だった上に、洋子が全て決めた地味なもので、誰も自分の希望を聞いてくれなかった。

だから柊馬も、機会があれば、いつか必ずもう一度盛大な結婚式を挙げてくれると言っていたのに。

もうあれから3年が経つ。あの約束はどこに行ってしまったんだろう。

しかし、なんという巡り合わせか、柊馬の従兄である炎真が柊馬の代わりにその約束を果たしてくれることになった。

なんとも馬鹿げた話だ。

自分と炎真の結婚式を見た時、柊馬はどんな顔をするだろうか?

柚希は寂しげな笑みをこぼした。「暇だからいつでも大丈夫です」

「承知いたしました。では、お休みになってください。もし何かご用がございましたら、枕元のボタンを押してください。私がすぐに参りますので」

そう言って健一は深く一礼し、静かにドアを閉めて去っていった。

扉が閉まるのと同時に、まとわりつくような昏い視線も、その向こう側へと遮られた。

薄暗い廊下の奥で、男はじっと立ち尽くしている。高い背丈は影と一体化し、その場の空気を重く沈ませていた。

男の視線は、なおも閉ざされた扉に釘付けのまま。ねっとりと絡みつくようなその視線は、まるで分厚い木の扉さえ貫き、その向こうにいる柚希の身に焼き付こうとしているかのようだった。

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