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第5話

Author: 林檎
「柚希!」

柊馬は青ざめた顔でそう叫ぶと、なりふり構わず柚希を追いかけて走り出した。

レストランを出たところで、柚希はすぐさま健一に電話をかけた。「もしもし、健一さん。ちょっとしたアクシデントで契約がキャンセルになったので、直接挙式場のチェックに行きます。担当者の連絡先を教えていただけますか?」

「奥様、こちらへどうぞ」

柚希が顔を上げると、そこには優しげな笑みを浮かべた健一がエレベーターの前で待っていた。

まさか、ずっとここで待っていてくれたなんて。

柚希は小さく微笑み、エレベーターへと乗り込む。

扉がゆっくりと閉まりかけた時、後を追ってきた柊馬の目に、健一と柚希が二人で並んで立っている姿が飛び込んだ。

不審そうに眉をひそめる。「健一がなぜここに?」

それを聞いていた店員が、気を利かせて答えた。「桐生社長、健一さんは挙式場の視察でいらっしゃったそうです。今月末、炎真様の結婚式が控えておりますが、ご存知ないのですか?」

海外で育った炎真は、6年前に帰国すると、その強烈なやり方で海鳴市のビジネス界を制圧した。あの凄まじい粛清の嵐は、一ヶ月も続いたという。

それ以来、業界の人間からは「閻魔」と呼ばれ、畏敬の眼差しを向けられていた。

「炎真さんが結婚?」

柊馬は驚きを隠せなかった。これまで数多くの名家の令嬢たちがいくら見合いを申し込んでも、一切興味を示さなかったあの人が、なぜ急に結婚を?

一体、どれほどの相手だというのだ?

驚きながらも、柊馬は慌てて隣のエレベーターのボタンを押した。一刻も早く、柚希を連れ戻さなければならない。なぜなら、炎真の邪魔をし、彼を怒らせるわけにはいかないから。

あの人は本当に狂ってる。相手が女であっても容赦はしないだろう。

最上階に着き、静かにエレベーターの扉が開いた。

健一は体をさっと引く。「奥様、どうぞ。海鳴市を一望する挙式場、『スカイ・ミラー』でございます」

柚希は健一の案内で、夢のように美しい挙式場へと足を踏み入れた。

時を同じくして、すぐ横のエレベーターも開いた。

焦った柊馬が勢いよく飛び出してくる。鋭い視線でフロアを見渡したが、そこに柚希の姿はない。胸が一気に重くなった柊馬は、重々しい足取りで「スカイ・ミラー」の入口へと向かった。

柚希は入ってしまったのか?

恐れていたことが起きてしまった。

炎真は性根が陰湿で、やり口も容赦がない。彼に逆らった者、彼の機嫌を損ねた者は、例外なく見るも無惨な結末を迎えてきた。

焦った柊馬は、「スカイ・ミラー」へと急ぐ。

「桐生社長、今はお入りいただけません」入口にいたスタッフが柊馬を止めた。「只今、『スカイ・ミラー』にはお客様がいらしておりますので、アポイントのない方はお通しできないんです」

「どけ!」

柊馬は険しい表情で扉を開けた――

「柊馬!」

その時、慌てた様子の莉奈が、柊馬の腕をつかんだ。「落ち着いて。今でも炎真さんとの関係は良いって言えないんだから、あの人が挙式を選んでいるときに騒動でも起こしたら、間違いなく火に油を注ぐことになるよ?」

柊馬は眉間に深い皺を寄せる。「柚希が中にいるんだ」

「エレベーターを見て。もう1階へ降りてるでしょ?だから、柚希ちゃんはあのエレベーターに乗って、もうどこかへ行ったんじゃないかな?」

先ほど柚希が乗っていたエレベーターを、莉奈が指さした。

「1」という階数を見た柊馬は、張り詰めていた緊張をようやく緩め、長く息を吐き出す。

その安堵の表情を見て、莉奈の心には激しい嫉妬が燃え上がった。これほどまで事を大きくしている柚希なのに、柊馬はなぜこれほどまで彼女に執着するのか……

「柊馬くん、本当は言うつもりも無かったんだけど、柚希ちゃんに振り回されてばかりのあなたを、もう見ていられないから。

考えてみて?柚希ちゃんが3年も心血を注いできた『AIエモリンクシステム』、やっと完成して、発売を待つばかり。そんなタイミングで名誉も成功も手放して、辞めるなんてそんなことするかな?」

莉奈は断言するように続けた。「だからね、私はただのわがままだと思うの。柊馬くんの気を引くために、わざと契約を台無しにして、構ってくれるのを待ってるんだよ。

それに、あわよくば、私たちの子供をおろさせようとしているに違いない。柊馬くんは無視してればいいの。発表の時になれば、向こうが勝手に慌てだすはずだから」

柊馬の胸にあった不安は消え去り、冷静さが戻ってきた。

莉奈の言う通りだった。「AIエモリンクシステム』は、柚希が桐生家で自分の価値を証明するための唯一の手段だ。彼女がFSグループ、そして自分を見捨てられるはずがない。

その瞬間、柊馬の顔からは緊張が消え、いつもの冷徹な表情へと戻っていた。

柚希が駆け引きをしてくるというのなら……こちらも発表するまで放っておけばいい。その時、柚希がどうするのか見てやろうじゃないか。

――

暗い部屋の中。

冷酷な表情をした莉奈が。ある電話番号へと電話をかけていた。「どこにいるの?今すぐ海鳴市に戻ってきて」

すると受話器の向こうから、男の軽薄な笑い声が返ってきた。「どうしたんだよ、急に。俺に会いたくなったのか?まあ、もう妊娠も後期だもんな。もう、俺たちが愛し合っても大丈夫なんじゃないか?ちょうど、新しい玩具も買ったし、妊婦のお前が使えばもっと刺激的に……」

「黙って!」莉奈は凍りつくような声で遮った。「今お腹にいる子が、あんたとの子だって柊馬くんにばれて、海の底に沈められたくなかったら、余計なことは考えないことね」

「あーあ、つまんねえな。で、俺に何をさせたいんだよ?」

「あと数日で『AIエモリンクシステム』の発売発表会があるの。その日、柚希を拉致して、出席できないようにしてほしい」

柚希が出席できなければ、柊馬は激怒し、二人の関係は修復できなくなるだろう……それに自分なら、堂々と代理で発表会を取り仕切り、開発の功績をすべて手に入れられる。

柚希が3年をかけて作り上げた努力の結晶、そして栄光も権利も、すべて私のものだ!

そうすれば、堂々とノクターン財閥と接触ができる!

ノクターン財閥はAI業界における紛れもない頂点の存在であり、現在開発中のバイオニックロボットはまさに時代を一変させる革新的な技術だ。もしノクターン財閥との提携を実現し、このプロジェクトに参画できれば、FSグループはAI分野で一気に飛躍を遂げるだろう。

そして自分自身も、桐生家にとってなくてはならない存在になれるはず!

――

挙式場の下見を終えた柚希は、スカイ・ペニンシュラへと戻った。

車を降りた瞬間、海外の番号から電話がかかってきた。

「柚希!今聞いたんですけど、FSグループを辞めるんですか?!」

電話の向こうの男はE国訛りの英語で、ひどく興奮している。「あ、ごめんなさい。つい興奮してしまって。でも、本当に嬉しいんです!だって、この時を3年も待ち望んでいたんですから!

柚希、3年前の話は今も有効ですし、なんなら、条件ももっと良くします。我が社のグローバルAI研究開発部チーフの席は、ずっと柚希のためのものですからね。

一緒に働きましょう、柚希。あなたは、あんな小さなFSグループなんかで、AIのエモリンクを開発してる場合じゃない。こっちに来て、3年前のあの構想を……本物のAIバイオニックロボットを実現させるんです!柚希自身の手で、人工知能の新時代を切り拓いてください!」

3年前、柚希はもうすでにバイオニックロボットの概念とデータモデルを提唱していた。そして、その壮大な構想を実現できるだけの技術力と基盤を備えていたのは、当時ノクターン財閥だけだった。

だが、あの時の柚希は、柊馬のためにその夢を諦めた。

そして今……

柚希の瞳に消えていた光が再び宿り、強烈な輝きを放ち始める。

「うん、ぜひ一緒に。来月の頭には、そっちに向かえると思う」

――

結婚したばかりだというのに海外へ行くことが決まった。柚希は何度も思い悩んだ末、やはりこのことを炎真に伝えることにした。

健一を呼び止める。「健一さん、炎真はいつ戻ってきますか?少し話したいことがあって」

健一はとっくに柚希の指にはめられた指輪に気づいていたし、彼女がホテルで柊馬と会ったという話も耳にしていた。さらに、炎真は「柚希はピンクが好きだ」と言っていたのに、彼女が選んだ結婚式のテーマカラーは青系。そのことからも、この結婚に対する彼女の態度がどこか投げやりで、あまり心を込めていないことがうかがえた。

それに先ほどの電話中も楽しそうに笑っていた……おそらく、柊馬とよりを戻したのだろう。

そんな直後に浮かない顔で、炎真と話がしたいなど、これは相談ではなく、結婚の取り消しに違いない。

健一は思わず視線をある薄暗い隅へと向けた。次の瞬間、その顔にはこの上なく重々しい表情が浮かび、空気までも張り詰める。

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