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2.老婆がやってくる

Penulis: 伊藤ほほほ
last update Tanggal publikasi: 2026-04-01 18:10:32

「キルエン、明日にはノブルス家が到着する予定だ。マーガレット嬢、あれは優秀だ。この家のためにも、絶対に逃がすんじゃないぞ。……よいな?」

ファーブリック侯爵家当主、ダグルド・ファーブリックの私室。

呼びつけられたキルエンは、またかと内心で小さく嘆息した。

婚約が決まってからというもの、同じ言葉を何度も繰り返されている。

薄く紫がかった髪に、宝石のようなアメジストの瞳。

ひとたび微笑めば、公爵家の令嬢ですら容易く心を奪われる。

“藤の貴公子”――そう呼ばれる自分が、なぜよりにもよって、あの女と。

マーガレット・ノブルス。

名前だけは覚えている。

いくら優秀とはいえ、所詮は山奥の子爵家の娘。

この国――バロンブルグ王国で家名を高めるのであれば、他にいくらでも相応しい相手がいるはずだった。

「えぇ、分かっていますよ。ですが僕は、ヴァランティン公爵家のマリス嬢とも親交を深めていました。向こうのほうが、よほど好条件ではありませんか?」

わざとらしく柔らかな声音で言い放つ。

その奥に、僅かな挑発を滲ませて。

ダグルドの眉がぴくりと動いた。

彼は紺色の短髪を苛立たしげにかき上げ、青い瞳でキルエンを睨み据える。

だが、キルエンは一歩も引くつもりはなかった。

父は知らないのだ。

自分がすでに次期当主として、水面下で動き始めていることを。

(もう子どもじゃないんだよ、父上)

胸の奥で、冷ややかな笑みが広がる。

退くことが決まっている人間が、何をそんなに焦っているのか。

老いた思考で権威を守ろうと足掻いているだけにしか見えない。

すべては自分に任せればいい。

優秀な後継者がいるのだから、黙って見ていればいいだけだ。

「この家に生まれ、すべてを持っていると勘違いしたお前は――井の中の蛙だな」

ダグルドの声は、低く重かった。

「どこで育て方を間違えたのか。私は、お前に海を見せる機会を与えている」

一瞬、空気が張り詰める。

(……井の中の蛙?)

キルエンの内側で、何かが軋んだ。

社交界の中心にいるのは誰だ。

貴族も、商人も、自分との繋がりを求めて群がってくる。

自分が身につけた装飾品は飛ぶように売れ、愛用する藤の香水は生産が追いつかない。

名を貸すだけで価値が跳ね上がる――それがキルエン・ファーブリックという存在だった。

どれほどの人間が媚びへつらい、笑顔の裏で必死に機嫌を取ろうとしているか。

父こそ、それを何も理解していない。

「家格を上げ、発言力を得たところで――実力が伴わなければ、いずれは担ぎ上げられ、利用されるだけの道化になる」

ダグルドは、静かに言い切った。

「お前を心配しているのだよ、キルエン。父の最後のわがままだと思って、マーガレット嬢と結婚しなさい」

道化。

その言葉に、キルエンの口元がわずかに歪む。

(……言ってくれる)

老婆令嬢と婚約することこそ、道化の所業ではないのか。

だが――いいだろう。

そこまで言うのなら、受けて立つ。

(証明してやる)

父と自分、どちらが正しいかを。

マーガレットと結婚する。

そのうえで結果を出し、父の判断が誤りだったと叩きつけてやればいい。

そして――最終的に手に入れるのは、マリス・ヴァランティン。

すべては計画のうちだ。

「それほどまでのお考えとは、僕が至りませんでした」

恭しく頭を下げる。

完璧に作られた、従順な後継者の仮面。

「父上、学びの機会をいただきありがとうございます。マーガレット嬢とともに、この家を守り抜いてみせましょう」

「うむ……分かればいい」

満足げに頷く父の顔を見ながら、キルエンは内心で冷笑する。

もはや、その評価などどうでもよかった。

(面倒なことになったな)

老婆令嬢を隣に置いて歩く日々。

周囲の視線は、きっと愉快なものになるだろう。

だが――それすらも悪くない。

しばらくは嘲笑を浴びればいい。

そして、頃合いを見て切り捨てる。

(使えない駒は、不要だ)

マーガレットを捨て、マリスを手に入れる。

そして証明するのだ。

キルエン・ファーブリックという名が、いかに特別であるかを。

貴族社会に。

いや――バロンブルグ王国、その隅々にまで。

その名を刻みつけてやると。

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