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1.老婆令嬢と婚約写真

Penulis: 伊藤ほほほ
last update Tanggal publikasi: 2026-03-29 06:45:03

これは、こうなる以前――彼女がまだ別の人生を生きていた頃の記憶である。

過去と呼ぶには、それほど遠い出来事ではない。

マーガレット・ノブルスとして生きていた頃。

幸福な未来を疑いもなく信じていた、あの短い時間。

婚約が決まり、そして――死に至るまでの、かすかに色褪せつつある記憶の断片。

まずは、彼女が十八歳になったばかりの日のことから語ろう。

父が楽しげに、婚約者候補の写真を抱えて現れた、あの日の記憶から――。

*******

夕食を終えるや否や、椅子から飛び降りるようにして駆け出していったのは、五歳年下の弟ルアンだった。

「ごちそうさまでした! ボク、部屋に戻って勉強してくる!」

弾むような声を残し、広間を横切っていく小さな背中。

床に敷かれた深緑の絨毯が、その軽やかな足音を吸い込んでいく。

父譲りの赤毛はくるりと巻き、やや垂れ気味の灰色の瞳には無邪気な光が宿っている。

人懐こく、時に生意気な言葉を吐いては叱られることもあるが、その気まぐれさすら愛らしい。

家の中を自由に歩き回る猫のような存在――それが、マーガレットにとっての弟だった。

彼女にとって、ルアンは癒やしそのものだった。

頭を撫で、言葉を交わし、ただ側にいるだけで心がほどけていく。

気がつけば、いつでも構ってしまう。

「あっ、姉様。分からないとこがあったらまた聞きに行くかも!」

扉の前で振り返り、舌を少しだけ覗かせて笑う。

「ええ、いつも通りね。……じゃあ、私もそろそろ」

そう言って立ち上がりかけた、そのときだった。

「マーガレット」

穏やかな声が、彼女を引き留めた。

父――エンリケ・ノブルス。

やや赤みを帯びた茶色の髪は年相応に乱れ、整った容貌とは言い難い。

それでも、その青い瞳には疲労の色と同時に、深い包容力が宿っていた。

彼は片目を軽く閉じ、座っていなさいとだけ告げると、どこか浮き足立った様子で広間を後にする。

それを合図に、メイドたちが手際よく食器を下げ始めた。

銀の器が触れ合うたび、小さく澄んだ音が重なる。

それら一つ一つが、庶民の月収を軽く上回る価値を持つ。

スープ皿ですら、花模様のレースを敷いた皿の上に丁寧に置かれている。

貴族とは、かくも贅沢な生き物なのだと、マーガレットは内心で苦笑した。

「ふふっ。あの人ったら」

柔らかく微笑んだのは、母ビーブル・ノブルスだった。

天井から吊るされた控えめなシャンデリアの光が、彼女の金の髪を穏やかに照らしている。

娘であるマーガレットの目から見ても、母は美しい。

それも、ただの美しさではない。人の視線を自然と引き寄せる類のものだった。

本来ならば、王都から遠く離れたこの山奥の子爵家に収まるような女性ではない。

元は平民出身――新興男爵家の三女。

だからこそ、この婚姻が成立した。

この世界では、爵位こそがすべてだった。

さらに言えば、王都に近い領地を持つ家ほど強い。

では、辺境の弱小貴族がただ頭を下げ続けるだけの存在かといえば、そうでもない。

婚約を通じて有力貴族と関係を築き、発言力を得る――それが、彼らの生きる道だった。

だが、それは容易なことではない。

元平民上がりの家が手を伸ばせば、「身の程知らず」と嘲笑されることも珍しくなかった。

エンリケは、かつてこう語っていた。

――田舎貴族が背伸びしたところで、出る杭はすぐに打たれる。

――それでも権力を求めて伸び続けるより、最初から手を引き、美しい妻が笑ってくれる方がよほど幸福だ。

その言葉通り、彼は野心よりも家庭を選んだ。

そして、その選択は間違っていなかった。

社交の場で肩身の狭い思いをすることはあっても、二人は常に穏やかに笑っている。

マーガレットは、それでいいと思っていた。

父の選んだ人生は、きっと正しいのだと。

「ほらマーガレット、お前も見てみなさい。婚約者候補がこんなにたくさん!」

戻ってきた父は、何枚もの写真を抱えていた。

首から下げたチェーン付きの眼鏡を掛け、テーブルの上に一枚ずつ並べていく。

ふと彼女の顔を覗き込み、目尻を下げて微笑む。

幼い頃から変わらない、あの包み込むような笑顔。

それを見るたびに、胸の奥が温かくなる。

「可愛くて優秀で、うちの娘のどこが老婆令嬢だというんだ。なあ、マーガレット?」

その言葉に、彼女の意識はわずかに揺れた。

父は楽しげに写真を指差しながら説明を続けるが、その内容は耳に入ってこない。

老婆令嬢――それは、彼女を指す呼び名だった。

深い青の瞳は、自分でも気に入っている。

顔立ちも、決して悪くはないはずだ。

だが、問題は髪だった。

父の温かな赤茶でもなく、母の輝く金でもない。

灰色に近い白。

そのせいで、後ろ姿だけ見れば老女のようだと笑われる。

加えて、生まれつき肌が弱く、化粧もできない。

他の令嬢が白粉で整え、口紅で彩るのに対し、彼女の顔色は常に青白い。

――あの子、大丈夫かしら。まるで死にかけの老婆みたい。

そんな囁きが、耳に残っている。

やがてその呼び名は定着した。

老婆令嬢、と。

容姿が違えど、同じ人間だと分かるはずなのに――と、彼女は何度も思った。

「こんな弱小田舎貴族のノブルス家に、二十一もの家から声がかかるなんてな!」

父の声が、思考を引き戻す。

「最後の一枚は……なっ、ななな……! 嘘だろ、マーガレット! 侯爵家だ! キルエン・ファーブリック様からだ!」

興奮を隠しきれない父と、それに応じて声を上げる母。

ファーブリック侯爵家。

そして、その嫡男キルエン――“藤の貴公子”と呼ばれる、社交界の寵児。

その名を知らぬ貴族の娘はいない。

十八歳になれば、婚約者を探す。

だが通常は、同格か、せいぜい少し上の家まで。

子爵家が侯爵家へ手紙を送るなど、本来ならば無礼にあたる。

それでも許されるのは、明確な“価値”がある場合だけだった。

剣の才、知性、美貌――複数の突出した要素。

マーガレットは、自嘲気味に考える。

自分にそんなものがあるだろうか、と。

(……後ろ姿が老婆っぽいとか?)

ありえない、とすぐに打ち消す。

「来週、顔合わせだ。いいな、マーガレット?」

父の言葉に、彼女は一瞬だけ逡巡した。

だが、両親の顔を見た瞬間――答えは決まる。

「……はい。よろしくお願いします」

こうして、彼女はキルエンと会うことになった。

それが、彼女の運命を大きく動かすことになるとも知らずに。

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