Masukこれは、こうなる以前――彼女がまだ別の人生を生きていた頃の記憶である。
マーガレット・ノブルスとして生きていた頃。
まずは、彼女が十八歳になったばかりの日のことから語ろう。
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夕食を終えるや否や、椅子から飛び降りるようにして駆け出していったのは、五歳年下の弟ルアンだった。
「ごちそうさまでした! ボク、部屋に戻って勉強してくる!」
弾むような声を残し、広間を横切っていく小さな背中。
父譲りの赤毛はくるりと巻き、やや垂れ気味の灰色の瞳には無邪気な光が宿っている。
彼女にとって、ルアンは癒やしそのものだった。
「あっ、姉様。分からないとこがあったらまた聞きに行くかも!」
扉の前で振り返り、舌を少しだけ覗かせて笑う。
「ええ、いつも通りね。……じゃあ、私もそろそろ」
そう言って立ち上がりかけた、そのときだった。
「マーガレット」
穏やかな声が、彼女を引き留めた。
父――エンリケ・ノブルス。
彼は片目を軽く閉じ、座っていなさいとだけ告げると、どこか浮き足立った様子で広間を後にする。
それを合図に、メイドたちが手際よく食器を下げ始めた。
それら一つ一つが、庶民の月収を軽く上回る価値を持つ。
貴族とは、かくも贅沢な生き物なのだと、マーガレットは内心で苦笑した。
「ふふっ。あの人ったら」
柔らかく微笑んだのは、母ビーブル・ノブルスだった。
娘であるマーガレットの目から見ても、母は美しい。
本来ならば、王都から遠く離れたこの山奥の子爵家に収まるような女性ではない。
この世界では、爵位こそがすべてだった。
では、辺境の弱小貴族がただ頭を下げ続けるだけの存在かといえば、そうでもない。
だが、それは容易なことではない。
エンリケは、かつてこう語っていた。
――田舎貴族が背伸びしたところで、出る杭はすぐに打たれる。
その言葉通り、彼は野心よりも家庭を選んだ。
そして、その選択は間違っていなかった。
マーガレットは、それでいいと思っていた。
「ほらマーガレット、お前も見てみなさい。婚約者候補がこんなにたくさん!」
戻ってきた父は、何枚もの写真を抱えていた。
ふと彼女の顔を覗き込み、目尻を下げて微笑む。
それを見るたびに、胸の奥が温かくなる。
「可愛くて優秀で、うちの娘のどこが老婆令嬢だというんだ。なあ、マーガレット?」
その言葉に、彼女の意識はわずかに揺れた。
父は楽しげに写真を指差しながら説明を続けるが、その内容は耳に入ってこない。
老婆令嬢――それは、彼女を指す呼び名だった。
深い青の瞳は、自分でも気に入っている。
だが、問題は髪だった。
父の温かな赤茶でもなく、母の輝く金でもない。
そのせいで、後ろ姿だけ見れば老女のようだと笑われる。
加えて、生まれつき肌が弱く、化粧もできない。
――あの子、大丈夫かしら。まるで死にかけの老婆みたい。
そんな囁きが、耳に残っている。
やがてその呼び名は定着した。
容姿が違えど、同じ人間だと分かるはずなのに――と、彼女は何度も思った。
「こんな弱小田舎貴族のノブルス家に、二十一もの家から声がかかるなんてな!」
父の声が、思考を引き戻す。
「最後の一枚は……なっ、ななな……! 嘘だろ、マーガレット! 侯爵家だ! キルエン・ファーブリック様からだ!」
興奮を隠しきれない父と、それに応じて声を上げる母。
ファーブリック侯爵家。
その名を知らぬ貴族の娘はいない。
十八歳になれば、婚約者を探す。
子爵家が侯爵家へ手紙を送るなど、本来ならば無礼にあたる。
それでも許されるのは、明確な“価値”がある場合だけだった。
マーガレットは、自嘲気味に考える。
自分にそんなものがあるだろうか、と。
(……後ろ姿が老婆っぽいとか?)
ありえない、とすぐに打ち消す。
「来週、顔合わせだ。いいな、マーガレット?」
父の言葉に、彼女は一瞬だけ逡巡した。
だが、両親の顔を見た瞬間――答えは決まる。
「……はい。よろしくお願いします」
こうして、彼女はキルエンと会うことになった。
それが、彼女の運命を大きく動かすことになるとも知らずに。
――それから五年後。 バロンブルグ王国は、かつてないほどの活気に満ちていた。 王都の大通りには新しい店が並び、地方と王都を繋ぐ街道はよく整えられ、人と物の流れは以前とは比べものにならないほど滑らかになっている。各地の騎士団詰所には改良された通信装置が置かれ、緊急時の連携も早くなった。職人たちは新たな仕事に恵まれ、商人たちは国の未来を語り、平民も貴族も、この国はこれからもっと豊かになるのだと信じていた。 その繁栄の中心に立つのは、アスリー・レイ・ギルフォード国王だった。 即位から二年。 あの方は、口にした通りの王になった。 民を見下ろすのではなく、近くで見ようとする王。必要とあれば泥のつく仕事も引き受けるくせに、その手でちゃんと明日を示してくれる王。 バロンブルグ王国はいま、愛によって治められている――そう言えば大袈裟かもしれない。けれど、少なくともマーガレットには、それ以外にうまく表す言葉が見つからなかった。 その国政を支える柱の一つとして、いまやファーブリック公爵家の名も広く知られている。 事件の後、ダグルドは第二王子派を支え抜いた功績と、その後の王政改革への尽力を認められ、公爵へと陞爵した。さらに、エンヴィが再び立ち上げた工房と機械開発、それを支えるファーブリック家の後ろ盾は、国の経済を大きく押し上げることとなった。 そしてその流れの中で、マーガレットもまた、自分の立場を確かなものにしていた。 表向きの肩書きは公爵家夫人。 けれど実際の彼女は、それだけではない。 人と人、家と家、商会と貴族、王城と地方。表に見えるものと、まだ表に出ていないもの。その間にある流れを見極め、繋ぎ、時には危険の芽を先に摘む。 女だからと軽んじられたことも一度や二度ではないが、それでも今では、困り事を抱えた者が「まずはマーガレット様に」と口にすることも増えていた。 彼女はもう、守られるだけの令嬢ではなかった。 自分で選び、自分で立ち、自分の名で生きる人間になっていた。 そんな日々の中でも、今日ばかりは仕事のことを考える余裕はない。 ファーブリック公爵家の私室。陽だまりの落ちる広い部屋で、マーガレットは深く息を吐きながら、ゆったりとした椅子に腰掛けていた。丸みを帯びた腹にそっと手を当てる。出産を間近に控えた体は重
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ノブルス家との再会を終えた夜。 平民街の小さな家には、久しぶりに穏やかな静けさが満ちていた。 窓の外では、夜風に揺れた木の葉がささやくような音を立てている。遠くで犬が一度だけ吠え、また静寂に戻った。戦いの最中には気にも留めなかった、ありふれた夜の気配だ。 マーガレットは二階の自室で、姿見の前に座っていた。 今日の涙の跡はもう消えている。けれど、胸の奥にはまだ、家族に抱きしめられたときの温かさが残っていた。死んだと思われていた娘が戻ってきたのだ。喜びも、戸惑いも、悲しみの余韻も、全部が入り混じっていた。 そしてそのどれもが、今の自分を確かに“生きている者”にしてくれている。 鏡の中の自分を見つめていると、控えめなノックの音がした。「マーガレット。起きてる?」 エンヴィの声だ。「ええ」「少しだけ、話してもいい?」 少しだけ、という言い方が妙に彼らしい。 マーガレットは小さく息を吐き、立ち上がって扉を開けた。
第一王子カイセルの失脚が公にされると、王都の空気は一変した。 それまで水面下で繋がっていた夫人会の残党は、潮が引くように静かになった。もっとも、静かになったからといって罪が消えるわけではない。ダグルド侯爵家の一室では、その後処理が着々と進められていた。 大きな机の上には、夫人会に属していた女たちの名と、ヴェルン商会との接点を書き出した紙が並んでいる。モルガン夫人が捕らえられたあとも残っていた緩い繋がりは、思った以上に広かった。 ただ、その性質はさまざまだ。 深く関わり、実際に細工や連絡役を担っていた者。 名だけを貸し、流れに乗っていただけの者。 何かおかしいと感じながら、立場を失うのが怖くて目を逸らしていた者。 全てを同じ重さで裁くべきではない。そう判断したのは、ダグルドだった。「罪の軽重を見誤れば、また同じことが起きる」 青い瞳を細め、彼は紙の束を前にそう言った。「恐れから沈黙した者と、積極的に手を汚した者を同列に並べるのは違う。見せしめだけで終わらせれば、残るのはまた怯えた沈黙だ」 その言葉に、マーガレットは静かに頷いた。
第一王子カイセルの微笑が、ついに消えた。 小謁見の間に満ちていた空気は、もはや社交の場のものではない。誰もが息を潜め、ただ次の言葉を待っている。 拘束されたグラウス、ヤーサック男爵夫人、ベルトラン。彼らの視線は泳ぎ、主の顔色をうかがっていた。だが、今この場で彼らを救える者は、もはや誰もいない。 アスリーは一歩前へ出たまま、兄を見据えていた。「兄上。まだ続けるか?」 カイセルは返事をしなかった。 代わりに、ゆっくりと周囲を見回す。ダグルド侯爵。クリス。エンヴィ。リシェラ。最後に、マーガレット。 その視線が彼女に止まった瞬間、かすかな憎悪が滲んだ。「……死んだ女が、よくもまあ」 低く零れた言葉に、部屋の温度がさらに下がる。 だが、マーガレットは怯まなかった。「死んだ女だからこそ、見えるものがあります」 静かに返すと、カイセルは鼻で笑った。「見える? お前に?」
その場にいた三人の身柄が押さえられても、小謁見の間の空気は緩まなかった。 ヴェルン商会の番頭グラウスは騎士に腕を取られたまま、脂汗を浮かべている。ヤーサック男爵夫人は顔色をなくし、今にも椅子へ崩れ落ちそうだった。第一王子近習ベルトランだけは、なおも平静を装っていたが、その唇はわずかに引きつっていた。 アスリーは立ったまま、冷えた目で三人を見下ろす。「まだ兄上のお名前は出てこないか」 その問いに、誰も答えない。 だが、マーガレットには分かっていた。ここから先が本番だと。 慈善会の細工を示し、商会と夫人会と近習の線を並べた。だがそれだけでは、第一王子本人へまでは届かない。向こうはきっと、配下が勝手にやったことだと言い逃れるだろう。 だからこそ、ここから先は一段深く刺さなければならない。「殿下」 マーガレットがアスリーを見た。「兄君をお呼びください」 小謁見の間が静まり返る。 ダグルドが、低く息を吐いた。
どうせならとパンまで添えて、少し少なめの夕食とした。 エンヴィが洗い物をしてくれており、拭き終えた食器が重なって乾いた音を鳴らす。 騒ぎ始めた虫の声、カエルまで加わって大合唱だ。 ふと窓の外を見ると、もう夜の帳が下りていた。星々が手拍子するように瞬いている。
今日は初仕事の日。 ダグルド侯爵に呼ばれ、マーガレットはキルエンと一緒に書斎へとやってきた。「父上、マーガレットと共に参りました」「入りなさい」
なにがパパだ、父上は実に調子がいい。キルエンは内心で毒づいた。頑張ります――マーガレットはそう言っただけで、自らの能力を何ひとつ示していない。 それなのに、父はあの女に大きな期待を寄せているらしい。どこをどう見れば、そこまで買えるのか理解に苦しむ。