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3.甘い罠は藤の花が香る

ผู้เขียน: 伊藤ほほほ
last update วันที่เผยแพร่: 2026-04-02 18:10:21

御者が手綱を引くと、馬が低く嘶いた。

十日に及ぶ長旅の末、ノブルス家の馬車はファーブリック侯爵家の屋敷、その門前に到着する。

窓越しに広がる庭園は、王都近郊に領地を持つ上位貴族らしい、洗練された趣を湛えていた。

緩やかに描かれた花壇の曲線、絶え間なく水を湛える噴水の流れ――そのすべてが、意図して配置された優雅さを纏っている。

マーガレットは、思わず小さく息を呑んだ。

山奥に佇む自家の屋敷とは、あまりにも違う。

婚約の申し込みは受けているとはいえ、ここで粗相をするわけにはいかない。

その緊張を察したのか、隣に座る母ビーブルがそっと手を握った。

「大丈夫よ、マーガレット。あなた、可愛いもの」

その言葉に、わずかに肩の力が抜ける。

「自慢の娘を嫁にやるんだから、少しくらい大きな態度を取ったほうがいいのかな? ……なんてな」

冗談めかして笑う父エンリケ。

だがその目尻には、隠しきれない不安が滲んでいた。

この婚約が、ノブルス家にとってどれほど重要な意味を持つのか。

家格も財力も遥かに上回るファーブリック家との縁組であることを、彼が最も理解しているからだ。

「さあ、行こうか!」

父にエスコートされ、マーガレットは馬車を降りる。

話はすでに通っていたのだろう。

使用人に迎えられ、ほどなくして屋敷の内部へと案内された。

応接間の扉が開く。

目に飛び込んできたのは、豪奢な内装と、整えられた調度の数々だった。

壁には美しい風景画が掛けられ、色鮮やかな花が活けられた壺が、さりげなく空間を彩っている。

そして、その中央にはすでに――婚約者となる青年が立っていた。

「マーガレット嬢、お会いできて光栄です。長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがですか? 僕の気に入っている場所があるんです」

キルエン・ファーブリックは、マーガレットの姿を認めるとすぐに立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべて頭を下げた。

背は高く、噂に違わぬ美貌。

藤の花を思わせる薄紫の髪は、柔らかな波を描きながら肩へと流れている。

その分け目から覗く瞳は、吸い込まれそうなほど澄んだアメジスト色。

白いドレススーツに身を包んだその姿は、どこか現実離れしていた。

まるで月光の下で舞う妖精のようだ、とマーガレットは思う。

その視線を真正面から受け止めた瞬間、頬が自然と熱を帯びた。

「こちらこそ、キルエン様。お気遣いありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください」

丁寧に頭を下げる。

そのとき、肩からさらりと白い髪が落ち、視界に入り込んだ。

――はっとする。

条件反射のようなものだった。

肌に触れる空気が、瞬時に冷えた気がして、顔を伏せたまま視線だけを動かす。

周囲の反応を、無意識に探ってしまう。

「そうね、若い二人で楽しんでらっしゃい」

優雅に微笑んだのは、モルガン夫人。

深紅の髪と緑の瞳を持つその姿は、かつて“夜会の薔薇”と呼ばれた面影を色濃く残している。

しかし、その目元がわずかに曇ったように見えた。

視線は、マーガレットの髪へ。

そして、化粧の施されていない顔へと滑っていく。

「親同士で話すこともあるからな! さあキルエン、可愛らしいお嬢さんを案内してあげなさい!」

ダグルド侯爵が朗らかに声を張り上げる。

その言葉を合図に、メイドたちが慌ただしく動き出し、茶の準備が始まった。

歓迎はされているのだろう。

だが――胸の奥に、あの言葉がよぎる。

老婆令嬢。

陰で囁かれる、その呼び名。

忌避されるこの容姿。

慣れる日が来るのかは分からない。

だが、これから義理の家族になる人たちだ。

愛されるように努力しなければならないと、マーガレットは静かに自分へ言い聞かせる。

「ではマーガレット嬢、こちらへ」

キルエンの優雅な所作に導かれ、彼の後を追う。

屋敷を出て、庭へと足を踏み入れる。

よく手入れされた芝生と、白い石畳の道。

苔の緑すら見当たらない、徹底された管理。

マーガレットは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

自然の香りが、確かにそこにはあった。

都会にありながら、これほど清々しい感覚を味わえるとは思っていなかった。

「気に入ってくれましたか? 我が家の庭。母が好きでして、幼い頃はよく一緒に散歩したものです」

「はい、とっても素敵です。うちの周りは、もっと自由に草木が生い茂っていて……ずいぶん雰囲気が違います」

キルエンは、よく気がつく人だった。

マーガレットの小さな仕草や視線を拾い、自然に話題を差し出してくる。

「はは、そのうち僕もノブルス家に伺ってみようかな。もっとマーガレット嬢のことを知りたいですし」

「そ、そんな……光栄です。ぜひ、いつでもいらしてください」

その一言で、胸が跳ねた。

楽しい、と彼女は思う。

家族と話すのとは違う。

誰かとこうして言葉を交わすのは、いつぶりだっただろう。

自分は一人の時間が好きなのだと思い込んでいた。

だが、それはただ、そうするしかなかっただけなのかもしれない。

友と呼べる存在はいない。

時間があれば、勉強か読書。

それが当たり前だった日々に、いま初めて風が通る。

どこか懐かしく、そして新しい。

ふと、記憶の奥がかすかに揺れた。

幼い頃、初めて出たパーティで出会った少年のことが、ぼんやりと浮かび上がる。

――誰だっただろう。

「着きましたよ。ここが、僕の一番好きな場所です」

キルエンの声に、思考が現実へ引き戻される。

顔を上げた瞬間、マーガレットは息を呑んだ。

「……わぁ」

そこには、幻想的な光景が広がっていた。

一面に広がる藤棚。

垂れ下がる花房の隙間から、木漏れ日が差し込む。

その光の中に立つキルエンの姿は、まるで絵画のようだった。

藤色の髪が、淡く輝いている。

「私も、ここが好きになりました。こんなに可愛らしい藤の花がたくさん……」

石造りのテーブルに腰を下ろすと、メイドが茶の準備を始める。

注がれた液体は琥珀色。

だが、香りが違った。

紅茶のそれとは異なる、甘く華やかな香り。

「さすがですね。ここの藤は特別に育てていて、香りが違うんです。乾燥させて紅茶に混ぜると面白いですよ。どうぞ」

促されるまま、口をつける。

渋みの奥に広がる甘み。

それを覆うように、藤の花の香りが鼻を抜けていく。

「……とても美味しいです」

素直な感想だった。

「いくつか試した中で、この組み合わせが一番でした。僕のオリジナルなんです。このお茶は、大切な人にしかお出ししていません」

そう言って、キルエンは微笑む。

「これから、よろしくお願いします」

――大切な人。

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。

こんなにも美しい場所で。

こんなにも特別な時間を用意してくれて。

「……はい。キルエン様、こちらこそ末永くよろしくお願いいたします。精一杯、お支えいたしますので」

藤の香りに包まれながら、マーガレットは微笑んだ。

甘く、穏やかな時間が、確かにそこに流れていた。

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