LOGIN六月の湿った空気が、開け放たれた窓から重たく流れ込んでいた。 見上げる空はどんよりとした厚い雲に覆われ、今にも光を吸い尽くしてしまいそうなほど薄暗い。 ゼミ室の中央では、大きな机を囲むようにして学生たちが着席していた。各自が広げたノートパソコンの画面を見つめ、静かな緊張感が部屋を満たしている。 入口の扉から悪びれもせずに入ってきたのは、同じゼミの兵藤美玲だった。 明るく染め上げられた髪、身体の線に張り付くような腹出しの短いトップスに、極端に短いスカート。香水の甘い匂いが、湿った空気の中に混ざり込む。 周囲の視線を集めながら歩いてきた美玲は、杏莉の席の真横を通り過ぎる瞬間、小脇に抱えた大ぶりの革製バッグの角を、わざと杏莉の横顔へと打ち当てた。 硬い金具が頬の骨を強かに打ち、じんと熱い痛みが走る。「ああ、ごめん。見えなくて、当たっちゃった?」 見下ろしてくる美玲の瞳には、薄暗い嘲笑が浮かんでいた。 杏莉はずれた眼鏡のブリッジに指を添えて押し上げ、小さく頭を下げた。「……大丈夫です」 その時、ホワイトボードの前に立つ烏丸貴斗の、低いため息が静かな室内に届いた。冷徹な響きを帯びた声が美玲を射抜く。「兵藤、また遅刻か」 美玲は唇を尖らせてしたり顔を作った。「今度は五分ですから。追い出されないですよね?」 貴斗は無言のまま冷ややかな視線を送る。 美玲はつまらなそうに肩をすくめると、杏莉の隣の空席へ荷物を放り出し、腰を下ろそうとした。杏莉の耳元へ顔を寄せ、含み笑いを零す。「もうさ、彼氏のアレが強いと大変で。真鍋さんもわかるでしょう?」 耳朶に触れるほどの距離で囁かれ、杏莉は身を強張らせて首を傾げた。「さ、さあ……」「え? だってこれ――」 美玲の尖った爪先が、杏莉の首元へ伸びる。 朝の講義後に貴斗から指摘され、購買の化粧室で隠した絆創膏。その下にある熱い痕跡へ向けられた視線に、全身の血が引いていく。「兵藤、お前はこっちだ」 遮るように響いたのは、貴斗の鋭い声音だった。机の上座、自身の席の隣にある空いた椅子を指し示している。「は? ここがいいんですけど」 不満を露わにする美玲を、貴斗は威厳に満ちた眼差しで一瞥した。「私語は厳禁だ。俺の隣でみっちりと勉強しろ」 美玲は舌打ちをひとつ残し、椅子を引いて立ち上がった。 その背中
梅雨特有の湿気を帯びた空気が、肌を重く包み込んでいた。 六月の冷たい雨が窓ガラスを打ち据える朝。杏莉は大学の大講義室で、いつものように最前列の席に座っていた。分厚い丸眼鏡を指で押し上げ、質素なブラウスの襟元を無意識のうちに引き寄せる。 昨夜、婚約者である慶吾に強いられた痛みが、未だに肌の奥にこびりついているようだった。無理やりつけられた鎖骨の痕。恐怖で身体が強張り、ただ涙を流すことしかできなかった己の不甲斐なさが、胸を苦しく締めつける。 重く沈んだ心を抱えながらも、杏莉はこの講義の時間を心待ちにしていた。 烏丸貴斗准教授が教壇に立つと、講義室の空気が一瞬にして引き締まる。長身で引き締まった体躯を上質なスーツで包み込んだ彼は、学生たちから「鬼准教授」と恐れられる冷徹な美男子だった。 漆黒の瞳が冷ややかに室内を見渡し、講義が始まる。 マイクを通して響く彼の声は、心地よい低音だった。鼓膜を震わせ、胸の奥深くまで染み渡るようなその声色に、杏莉は小さく息を吐き出す。 厳格で冷たいはずの彼から発せられる声は、なぜかどこかで聞いたことがあるような、不思議な安心感を孕んでいた。記憶の底にある柔らかな熱を呼び起こすようなその響きに包まれていると、冷え切った身体が少しずつ温まっていく。(ずっと、聞いていたい……) 板書をノートに書き写しながら、杏莉は密かにそう願ってしまう。辛い現実を忘れさせてくれるこの時間だけが、今の杏莉にとって唯一の救いだった。 講義が中盤に差し掛かった頃、静寂を破って前方の扉が無遠慮に開かれた。 教壇のすぐ脇から悪びれもせずに入ってきたのは、同じゼミの兵藤美玲だった。明るく染め上げられた髪、身体の線に張り付くような腹出しの短いトップスに、極端に短いスカート。香水の甘い匂いが、湿った空気の中に混ざり込む。 空いている席に座ろうと歩き出した彼女を、マイクを通した低く冷たい声が引き留めた。「兵藤、遅れた理由は?」 貴斗の声音に感情の色はない。ただ純粋な事実を問うような鋭さが、講義室の空気を凍りつかせる。 足を止めた美玲は、悪びれる様子もなく肩をすくめた。「え? あー、寝坊しました。彼氏とついついアレが盛り上がっちゃって」 講義室に数人の失笑が漏れる。下世話な言い放ちに、杏莉は息を飲んだ。その瞬間、振り返った美玲と杏莉の視線が鋭くぶつ
叩かれた頬の芯に熱い痺れが残る中、杏莉は震える指先で、着ているオーバーサイズの服のボタンにゆっくりと手をかけた。 一つ、また一つと外していくたびに、指先から血の気が引いていく。 肩から滑り落ちた質素な布地が、床に音もなく崩れ落ちた。 ひんやりとした空気が剥き出しの肌を撫でる。下着姿になり、身を守るものをすべて剥ぎ取られたような心細さに苛まれながら、杏莉は慶吾の前に立つ。 ソファに深く腰掛けた慶吾は、杏莉の華奢な身体を値踏みするように舐め回した。その視線に、婚約者への愛情や慈しみなど微塵もない。「まじ色気ねえな」 吐き捨てられた言葉が、見えない刃となって胸の奥を鋭く抉った。 杏莉は反論することなく、ただじっと床を見つめ、両腕で自らの身体を抱きしめるように縮こまった。彼に促されるまま、重い足を引きずるようにして寝室へと向かう。 広いベッドの上に横たわると、シーツの硬く冷たい感触が背中から全身へと伝わってきた。 直後、慶吾の大柄な身体が上から覆い被さってくる。アルコールと鋭い香水の匂いが混ざり合い、密閉された空間の空気を重く澱ませていた。 労りなど一切ない、乱暴な愛撫が始まる。 素肌を這う無遠慮な手が、杏莉の身体を確かめるように強く圧をかける。そのたびに皮膚が粟立ち、冷たい悪寒が背筋を駆け上がった。 十二歳のあの夜、暗い別室で押し殺された恐怖。 男性の熱を伴う愛撫を受けるたび、細胞の隅々に刻み込まれた防衛本能が警鐘を鳴らし始める。意志とは無関係に、全身の筋肉が石のように硬直した。関節が軋み、激しい震えが波紋のように身体の芯から外側へと広がっていく。 杏莉の尋常ではない震えに、慶吾の手が不快そうにピタリと止まった。「大丈夫です。続けてください」 杏莉は即座に声を絞り出し、真っ直ぐに慶吾を見つめた。 チッ、と慶吾の苛立った舌打ちが頭上から降ってくる。 それでも彼は行為を止めず、無理やり杏莉の足を開かせた。無防備に晒された柔らかな内側に、冷たい空気が触れる。 鋭い痛みが鎖骨のあたりに走った。 慶吾が容赦なく歯を立て、薄い皮膚を強く噛みちぎるように吸い上げたのだ。肉に食い込む鈍い痛みとともに、赤黒い痕が確実に刻み込まれていく感覚がある。 さらに、彼の手が太腿の内側を乱暴に撫で上げた。 その瞬間、耐えきれずに杏莉の身体が大きく跳ねた。
慶吾の父親からの電話は、いつもと同じ内容だった。「慶吾とはうまくやっているか。あいつは優柔不断な節があるから、杏莉さんのほうから入籍について話をするといい」 義父なるなる人の言葉に、杏莉は「はい……慶吾さんと相談します」と返すことしかできなかった。 通話を終え、冷たい洗面所のシンクに手をつく。 鏡の奥に映る自分の顔が、ひどく強張っているのがわかった。 結婚は確実なのだから、早いうちから一緒に暮らすべきだ――。父と慶吾の父、二人の意向によって、杏莉の高校卒業と同時にこの同棲生活は始まった。 最初は、それなりに関係は悪くなかった。慶吾も時折、杏莉を気遣う素振りを見せていた。 だが、杏莉が過去のトラウマからどうしても身体を重ねられないとわかると、彼の態度は一変した。「芋女」と蔑まれ、家政婦のような扱いを受けるようになり、冷え切った関係が日常となった。 夜、リビングのソファに腰を下ろし、杏莉は帰宅した慶吾がネクタイを乱暴に緩めるのを待って、静かに口を開いた。「お義父さまから電話があって……入籍のこと聞かれて」「うるせえな」 言葉を遮るように、鋭い音が響いた。 乾いた衝撃とともに、頬に焼け付くような痛みが走る。 弾き飛ばされたように顔が横を向き、視界が大きく揺れた。ジーンとした痺れが頬から耳の奥へと広がり、熱を持った痛みが遅れてやってくる。 杏莉は床を見つめたまま、微かに震える指先で頬に触れた。熱い。「今、人とメッセージのやり取りしてるの! 見てわからない?」 怒気を含んだ苛立たしい声で杏莉に言うと、鋭い視線で睨んでくる。 慶吾はスマートフォンを片手に持ち、もう片方の手で苛立たしげに髪を掻き上げていた。その画面には、誰かとのメッセージアプリが開かれている。「声かけたときはしてなかったから」「いちいちうるせぇって言ってんだよ」 慶吾はスマートフォンをソファに放り投げ、立ち上がると杏莉を見下ろした。「セックスもできない女と結婚? まじであり得ない。入籍したいならそこをクリアしろよ。親父に結婚してもらえない理由を説明してやれよ、セックスできなくて夫婦になれそうにないんですってね――ウケる」 嘲笑を含んだ薄ら笑いが、杏莉の胸を深く抉る。 その通りだ。婚約者として、妻として、彼に応えられない自分がすべての元凶なのだ。父の会社を救うため
朝の冷たい空気が澱む洗面所で、杏莉は静かに鏡に向かっていた。 蛇口をひねり、手のひらに掬った冷水で顔を洗う。肌を刺すような水の冷たさが、昨夜の惨めな記憶と身体に残る生々しい恐怖を少しだけ麻痺させてくれる気がした。タオルで水気を拭き取り、再び鏡に映る自分を見つめる。 そこにあるのは、血の気の引いた青白い肌と、ひどく怯えたような瞳。自分を綺麗だと思ったことなど一度もない。 けれど、八年前のあの日――暗い別室で恐怖に凍りついていた十二歳の自分に、伊達眼鏡をかけてくれたあの青年の言葉を、今も忘れられずにいる。(素の自分を知っているのは好きな人、たった一人でいい) あの夜に中年男が向けてきた、粘りつくような気味の悪い視線と濁った熱。それが消えないトラウマとなり、杏莉は人から注目を受けることを極端に嫌うようになった。 両手を伸ばし、背中に垂れる長い黒髪を無造作にまとめ上げる。ゴムで一つにきつく結びあげると、頭皮が引っ張られる微かな痛みが走った。 傍らに置かれた眼鏡へ指を伸ばす。度数の合わない、分厚い牛乳瓶のような丸眼鏡。 指先に触れる冷たいフレームを掴み、鼻梁へと乗せる。ずしりとした重みが肌を押しつけ、視界が不自然に歪んで鏡の中の自分の輪郭が曖昧にぼやけた。 中学、高校と進むにつれて急激に視力が落ちても、コンタクトレンズを使うことは頑なに拒んできた。この分厚いガラスの盾の向こう側にさえいれば、誰も自分に興味を持たない。人の視線を避けて影のように生きられることに深い安堵を覚える一方で、分厚いレンズ越しに見る世界はどこか遠く、胸の奥に小さな寂しさが疼くのも事実だった。 寝室へ戻り、クローゼットを開く。 並んでいるのは、どれもくすんだ色合いの質素な服ばかり。その中から一着を選び、袖を通す。オーバーサイズの服が華奢な身体をすっぽりと包み込み、女性らしい身体のラインを完全に消し去っていく。 布擦れの音が静かな室内に響く。本来の自分を隠し、気配を殺すための「擬態」。これが、殻に閉じこもるように生きてきた杏莉の毎朝の支度だった。 身体のラインが美しく出るような服や流行の服を着てみたいと思う気持ちはある。でも手に取ると思い出してしまう。あの中年男から注がれた視線を――。だから、自分には不釣り合いな服として、ずっと避けてきている。 服の皺を伸ばしながら、ふと胸の内に
冷え切った同棲マンションの寝室。 一人残された広いベッドの上で、杏莉は震える手の甲で頬を濡らす滴を拭っていた。 どれだけ拭っても、身体の奥底で暴れ狂う恐怖の残滓が涙となって溢れ出してくる。男性の滾る熱に触れられた瞬間、意志とは無関係に凍りついた身体の強張り。 暗闇の中で瞳を閉じると、いつも決まって同じ光景が脳裏にフラッシュバックする。 ずっと奥底に蓋をしてきたはずの、十二歳の朧げな記憶。 豪華なシャンデリアの眩い光。むせ返るような甘ったるい香水の匂い。大人の男の粘ついた視線。 そして――。 豪奢なホテルの大宴会場は、熱気とざわめきに満ちていた。 父の事業が最盛期を迎えていた頃。取引先が開いた大規模なパーティーの場に、十二歳の杏莉は父と一緒に参加していた。 すれ違う大人たちが漂わせる、アルコールと濃厚な香水の混じり合った匂いが鼻をつく。大人の足に埋もれそうになりながらも、杏莉は父の会社のために、挨拶に訪れる人々へずっと愛想の良い笑顔を向け続けていた。「君、可愛いね」 ふいに、上から降ってきた声。「ありがとうございます」 見上げると、父の取引先の社長だという中年の男が立っていた。顔の輪郭も表情も、なぜか靄がかかったように朧げにしか思い出せない。ただ、その目が纏っていた粘液のような気味の悪い光だけが、肌に粟を立たせた。 たぶん二言、三言の会話を交わしたと思うがあまりよく覚えていない。 記憶にあるのは有無を言わさぬ強い力で手首を掴まれ、杏莉は華やかな会場から薄暗い別室へと連れ出されていた。 扉が閉まり、喧騒が遠のく。部屋には使われていない家具が置かれ、微かに埃っぽい絨毯の匂いがした。 父から笑顔を絶やさないようにと言われていたが、杏莉の表情からは笑顔で消えていた。 男の荒い吐息が頭上から降ってきて手首を握る指の力が強まり、骨が軋むような痛みが走った。逃げようと足を踏ん張るが、大人の男と十二歳の少女とでは圧倒的な体格差がある。 男の太い指が杏莉の肩や背中を撫で回し、気味の悪い湿った吐息が顔に吹きかかった。(変だ。逃げなきゃ――) 防衛本能が警鐘を鳴らす。明確な身の危険を感じた杏莉は、全身の力を振り絞って男の胸を力いっぱい押し返し、激しく抵抗した。 その弾みで、杏莉の身体が脇の小さなテーブルにぶつかった。上に置かれていたワイングラス