Share

第2章

Author: シゼン
物音を聞きつけた朔也が会議を放り出して駆け込んできた。

血だらけの私をちらりと見て、そのまま美羽のもとへ向かった。けがはないかと、何度も確かめていた。

美羽のふくらはぎにはガラスで切った細い傷ができてしまい、血がわずかににじんでいた。

朔也はハンカチを取り出し、そっと血を拭った。美羽を見る目がひどく優しかった。

「痛いか?」

美羽は涙に潤んだ大きな目を瞬かせ、今にも泣き出しそうに首を横に振った。

彼女の傷なんて爪の先ほどしかないのに、二人ときたら、まるで今生の別れみたいな空気を出している。

思わず鼻で笑うと、朔也がこちらを向いた。

私を見た瞬間、目に浮かんでいた憐れみが一瞬にして冷たい無関心へと変わり、声まで冷たくなった。

「澪、お前が美羽に何かしたのか!」

私は眉を上げ、皮肉っぽく笑ってうなずいた。

「自業自得でしょ」

朔也が何か言うより先に、美羽が声を張り上げた。

「好きな人を追いかけてるだけなのに、どうしてそんなこと言われなきゃいけないんですか!

朔也さんのこと、好きになっちゃだめなんですか?」

人の夫に手を出しておいて、誰に反対されても愛を貫くヒロイン気取りだ。

あんなに真剣な目をされては、私まで感動してしまいそうだ。

朔也は笑って美羽を抱き寄せた。

「誰にも俺たちを引き離させない」

朔也のことなら、嫌というほどわかっている。一目見ただけで分かった。今度は、本気なのだ。

ふと思い出したように、朔也が振り返った。

「何しに来たんだ」

私は床に落ちた、崩れたケーキを指さした。それ以上は何も言わなかった。

二人で交わした約束がある。

毎年朔也の誕生日には、私がケーキを焼く。

朔也は感情の読めない目で私を見つめ、声を落とした。

「澪。今年の願いは、お前が叶えてくれ」

私が姿を消していた間、彼が誕生日に願ったのは、私が帰ってくることだけだった。

結婚してからも、願いはたった一つ。私がもう離れていかないことだった。

それなのに今年は、美羽のために願いを変えた。

「美羽に謝ってくれ。それが今年の俺の願いだ」

彼の誕生日の願いに、初めて別の女の名前が出てきた。

耳鳴りがした。また周りの景色が変わり始めた。

手のひらに爪を食い込ませると、痛みで少しだけ意識がはっきりした。

私は何でもないように笑った。

「残念。その願いは、叶えてあげられない」

それだけ言って、背を向けた。

朔也。あなたの誕生日を祝えるのは、これが最後だと知ったら、少しは後悔するのかな。

どうやって家に帰ったのかは、もう覚えていない。

耳元がやけに騒がしかったことだけは覚えている。次に意識が戻ったときには、もう家にいた。

頭がぼんやりした。

時間を見ようとスマホを探し、部屋の隅々まで見ても、どこにもなかった。

結局、スマホは冷蔵庫の中にあった。

また悪くなったみたいだ。

薬を飲んでベッドに横になると、まぶたが重くなってきた。

寝よう。起きれば、きっと大丈夫。

私はそう自分に言い聞かせた。

うとうとしていると、誰かがベッドのそばに腰を下ろした気がした。

懐かしいコロンの香りがして、不思議なくらい安心した。

18歳のあの頃に戻ったような気がした。

私も朔也も高校を卒業したばかりだった。

二人とも行きたかった大学に受かった。けれど、うちは貧しかったうえに、弟の白石悠生(しらいし ゆうき)の学費も必要だった。

父の白石修司(しらいし しゅうじ)と母の白石絵里(しらいし えり)は、私を工場で働かせ、その給料を悠生の学費に充てるつもりでいた。

それを知った私は、こっそり家を抜け出した。朔也にしがみついて、声を上げて泣いた。

私の分まで勉強して、幸せになって、もっと広い世界を見てきてほしいと頼んだ。

朔也は何も言わず、私の背中を優しく叩いてくれた。

別れ際、両手で私の頬を包み、ゆっくり、はっきりと言った。

「俺を信じて」

泣きすぎて頭がぼうっとしていた私は、その言葉の意味がわからなかった。

その日から、朔也はぱったり姿を見せなくなった。

どんなに聞いて回っても、居場所がわからなかった。

大学が始まる前日、彼は突然、うちの玄関先に現れた。手には封筒が一つ。

中にはちょうど半年分の学費が入っていた。

工事現場で一日働いたって、せいぜい一万円ちょっとしか稼げない。この封筒のお金を稼ぐために、いったい何日も苦労したんだろう!

彼の手には、古い傷の上に新しい傷が重なっていた。手のひらはたこだらけで硬くなっていた。

私は力いっぱい彼の胸を叩き、泣きながら叫んだ。

「朔也のばか!何でこんなことしたの!この手をダメにしたらどうするの?

朔也には、もっと素晴らしい未来が待ってるのに!」

言えば言うほど涙があふれた。最後はしゃくり上げて、うまく言葉にならなかった。

「私なんかのために、そこまでしなくていいのに……」

朔也は笑って、私の目尻の涙を拭ってくれた。

「澪は、俺にとってそれだけ大事なんだよ。

澪のためなら、何だってする」

まっすぐな、熱のこもったまなざし。その目に宿る愛情が、私の人生を照らしてくれた。

あの日は朔也の誕生日だった。

私は家にあった食材で彼にバースデーケーキを焼いた。ケーキと呼ぶには不格好すぎる出来だったけど。

二人であの約束を交わしたのも、その日だった。

私は夢の中に浸り、目を覚ましたくないまま、うわごとのように彼の名前を呟いていた。

「朔也……」

「ここにいるよ」

うれしくて、頬が緩んで、ますます目を覚ましたくなくなった。

「誕生日おめでとう。一緒にろうそく、消そう」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第7章

    悠生は片時も私のそばを離れなかった。トイレに行くとき以外は、目を開けるたび、その姿が目に入る。父の代わりに、今度は自分が私の面倒をきちんと見るのだという。でも……いくらなんでも、過保護すぎないだろうか。ある日、悠生が会計を済ませに行った隙に、私はこっそり病室を抜け出した。病院の敷地内にある小道を歩く。降り注ぐ日差しが、体を隅々まで包んだ。ぽかぽかして、気持ちいい。そのとき、見知らぬ男が突然、私を呼び止めた。「澪!こんなところで何をしてる!」振り返り、首をかしげて相手の顔を見つめた。「私たち……どこかでお会いしましたか?」男の顔が悲しみにゆがんだ。目を赤くし、声を詰まらせながら名乗る。「澪……俺だ。朔也だよ」朔也が伸ばした手に触れた瞬間、感電したように手を引っ込めた。それでも無理に笑みを浮かべ、冗談めかして言った。「知ってる。ちょっとからかっただけ」けれど、朔也の表情は晴れなかった。私の手を握り、そのまま病室へ向かって歩き出す。私は拒まなかった。自分の病室がどこにあるのか、もう思い出せなかったから。部屋へ戻るなり、朔也は深く息を吸い、真剣な顔で問いかけてきた。「どうして、もっと早く病気だと教えなかった?もっと早く分かっていれば、まだ何かできたかもしれないのに……」私は首を横に振った。「何も変わらないよ」昔、父が発病したとき、私も同じように考えた。早く分かれば、きっと何とかできる。そんな願いは、結局かなわなかった。「私は一度も隠してない。あなたが信じなかっただけ」誕生日に言い争ったときも、インタビュー中に血を吐いたときも……思い返せば、私は何度となく病気だと伝えていた。ただ、朔也が信じようとしなかっただけだ。記憶をなくしても飲み忘れないように、抗がん剤は家中の目につく場所に置いてあった。それなのに、朔也は一度も気づかなかった。その目は、いつも美羽だけを追っていたから。病気の発作で道に迷ったとき、朔也は美羽を抱きしめていた。血を吐いて苦しんでいたときも、美羽の耳元で甘い言葉を囁いていた。だから朔也は最後まで、私が病気のふりをしていると思い込んでいた。朔也は長い間、黙ったまま椅子に座っていた。やがて、独り言のように呟く。「お前は、いつも

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第6章

    私は、どこまでも真っ白な世界に閉じ込められていた。ここから出たいのに、出口が見つからない。ただ当てもなく歩き続けるしかなかった。そのとき、朔也の声が聞こえてきた。ずっと泣きながら、もう自分を置いていかないでくれと訴えている。「やっとお前を取り戻したのに、また俺を捨てていくのか?澪、頼むから目を開けて、俺を見てくれ」朔也は昔と変わらない。相変わらずの泣き虫だ。慰めてあげたいのに、声が出なかった。次の瞬間、今度は知らない人の声が聞こえた。「九条さん、申し訳ありません。できる限りのことはしました。本来なら、澪さんはあと数か月は持ったかもしれません。ですが、病状があまりにも重く、激しい感情の揺れが引き金となり、がん細胞がほぼ全身に広がっています。どうか、最悪の場合に備えてください」何かが床に落ちる音に続いて、朔也の罵声が響いた。「ふざけるな、このやぶ医者ども!妻が死ぬわけないだろうが!金ならいくらでもある!俺が必ず澪を治してみせる!」その日から、入れ替わり立ち替わり、いろいろな人の声が聞こえるようになった。けれど、最後は誰もがため息をつき、もう覚悟を決めたほうがいいと告げた。結論は、いつも同じだった。それでも朔也は、私が知る誰よりも頑固だった。あらゆる研究機関へ連絡を取り、私を受け入れて治してくれるなら、数億円を寄付すると申し出た。何かに取りつかれたように、誰にも私を傷つけさせまいとする。看護師が注射をするだけでも声を荒らげ、私に痛い思いをさせたと責め立てた。病院の人たちは朔也に逆らえず、ひたすら耐えるしかなかった。夢の中でそれを聞きながら、私は危うく笑いそうになった。私を誰より深く傷つけたのは、ほかでもない朔也なのに。そんな朔也がようやく少し静かになったのは、長く離れて暮らしていた弟の悠生が、私の終末期の希望を記した書面を持って現れてからだった。父が亡くなったとき、私は悠生に連絡し、葬儀に来てほしいと頼んでいた。それでも、葬儀の日に本当に悠生が姿を見せたときには驚いた。悠生は葬儀の間、父の遺影の前に座り、私と一緒に弔問客一人ひとりへ頭を下げた。身長が180センチを超える長身の青年が、子どものように泣きじゃくっていた。自分の意思で出ていったわけではない。あ

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第5章

    焼酎を一本買って、牛肉のしぐれ煮を一品作り、父の墓へ向かった。生前の父が何より楽しみにしていたのは、畑仕事を終えたあと、小さな盃で一杯だけ酒を飲むことだった。当時は牛肉など買えず、つまみは少しの枝豆で我慢していた。私はよく、いつかたくさん稼いで、トラック一台分の牛肉を買ってあげると冗談を言ったものだ。今では、買おうと思えばいくらでも買える。でも、父はもういない。墓石の前に腰を下ろし、自分の盃に焼酎を注いで、一気に飲み干した。それから、父へとりとめもなく語りかける。「お父さん、私、結局朔也と結婚したよ。でも、あいつ最低なの。大嘘つき!ずっと私を愛するって、そばにいるって約束したくせに……」話しているうちに、声を上げて泣いていた。「お父さんの人形、やっぱり私たちを守ってくれなかったよ……」その言葉を口にした瞬間、はっとして顔を上げた。涙を乱暴に拭い、墓地を飛び出す。私をかたどった木彫りの人形は、まだ朔也のもとにある。父は実直な農家で、高価なものを贈れるような人ではなかった。その代わり、畑仕事の合間を縫って、小さな木彫りの人形を二つ作ってくれた。一つは朔也、もう一つは私をかたどったものだった。父は照れくさそうに頭をかきながら言った。「昔から、人形は幸運を運んでくれるっていうだろう。父さんは、二人がいつまでも無事で、幸せでいてくれるよう願ってるよ」二つの人形を朔也のもとへ持っていくと、彼は私をかたどったほうを手に取った。手のひらほどの人形に銀色のキーリングをつけ、自分の鍵にぶら下げた。こうすれば、澪がいつもそばにいてくれるから、と朔也は笑った。今、その人形を取り戻したい。父が私に遺してくれた、たった一つの形見だから。会社に着くと、社長室のテレビには、私が受けたインタビューの映像が流れていた。病気だと告げて血を吐く場面を、朔也は何度も繰り返し見ている。私はまっすぐ朔也に近づき、そのままポケットへ手を入れて鍵を探った。朔也は私から漂う匂いに気づき、眉をひそめた。「酒を飲んだのか?」答えず、ポケットの中を探り続ける。いら立った朔也が私を押しのけると、鍵が床に滑り落ちた。人形の姿が消え、空になったキーリングを見た瞬間、頭に血が上った。「人形はどこ!」ちょう

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第4章

    翌日、朔夜はSNSに一枚の写真を投稿した。彼と美羽のツーショットだった。誰もが、美羽はいずれ九条夫人になるのだろうと噂している。朔也が私以外の女性との関係を公にしたのは、これが初めてだった。その投稿は瞬く間に何万回も拡散され、SNSのトレンド一位に躍り出た。財力も容姿も申し分のない朔也。清楚で愛らしく、誰からも好かれる美羽。並んでいる姿は、確かにお似合いに見える。コメント欄は二人を祝福し、理想のカップルだとはやし立てる声で埋まった。けれど、まもなく私の存在を突き止める人が現れた。今度は私のSNSに押しかけ、真相を教えろとコメントを残していく。本妻が不倫相手を徹底的に叩きのめす、そんな修羅場を見たくてたまらないらしい。でも、私にはどうでもよかった。どうあがいても妻にはなれない不倫相手と、何があっても離婚しようとしない男。騒いだところで、何かが変わるわけでもない。そう思っていたのに、あるライブインタビューをきっかけに、表面上の平穏はあっけなく崩れた。番組の主催会社は、朔也の会社の取引先だった。本当は出演するつもりなどなかった。けれど、無事に終えれば出演料として二千万円を払うと、朔也は約束した。私には金が必要だった。それも、途方もない額の金が。病気の進行を抑える薬は、あまりにも高い。インタビュアーはまだ若い女性で、私を見る目には最初から敵意があふれていた。今日の配信は、きっと面白いことになる。予想どおり、彼女は冒頭から私だけを狙い撃ちにした。「世間から『金目当ての女』と呼ばれていることについて、何かおっしゃりたいことはありますか?九条社長がまだ貧しい青年だった頃、お二人は婚約していたそうですね。ところがあなたは金持ちの男を捕まえると、何も告げずに姿を消した。その後、九条社長が成功すると突然戻ってきて、過去の婚約を盾に取り、自分と結婚するよう迫ったと聞いています。今も九条夫人の座に居座り、社長が本当の愛を貫くことを許さず、愛する女性を不倫相手という立場に追いやっている。ご自分でも、あまりに身勝手だとは思いませんか?」正義を振りかざすような勢いに、思わず笑ってしまった。よくもまあ、ここまでそれらしい話を作れたものだ。彼女の手首で光る銀色のブレスレットに目をやった。美羽も

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第3章

    食器がぶつかり合い、キッチンからガチャガチャと音がする。重く痛む頭を揉みながらベッドを下り、様子を見に行った。そこにいたのは、朔也だった。朔也は、もう長いことこの家へ帰っていない。彼は、美羽と別の家で住むようになった。だから、ここで暮らしているのは私一人になった。ところが今、朔也はエプロン姿でコンロの前に立ち、慣れた手つきで野菜を切り、料理を作っている。私の視線に気づいたのか、朔也は笑いながら近づき、くしゃりと髪を撫でた。「手を洗ってこい。もうすぐできるから」朔也の目には、確かに愛情が浮かんでいる。私はその手を払いのけ、鼻で笑った。「朔也、もう芝居はやめて」かつては誰よりもよく知る相手だったのに、今では一番遠い他人みたいだ。それでもまだ、私を深く愛しているふりをする。本当に、気持ち悪い。朔也は赤くなった手の甲を見つめた。口元に浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えていく。冷蔵庫の前を通りかかったとき、扉に自分の姿が映った。額には包帯が巻かれている。ぼんやりとそれを眺めてから振り返ると、食卓のケーキには、ろうそくが何本も立てられていた。少し崩れてはいるものの、見間違えるはずがない。今日、私が会社へ持っていったケーキだ。やっぱり、あれは夢ではなかった。私が「誕生日おめでとう」と言ったから、朔也は崩れたケーキを直して持ち帰った。一緒にろうそくを消そうと言ったから、キャンドルディナーまで用意してくれた。今度は、いったい何の芝居をするつもりなのだろう。喧嘩した恋人同士が、愛を確かめ合って仲直りする場面でも演じたいのか。もう疲れた。自分を偽ることにも、朔也の芝居に付き合うことにも、うんざりだ。私は食卓の料理を、腕で一気に床へなぎ払った。ケーキのクリームが床一面に飛び散り、かすかに揺れていたろうそくの火も完全に消えた。朔也は目を真っ赤にして私を睨みつけ、手首を強く握り締めた。「澪!お前、頭がおかしいんじゃないか!」私は目を細めて笑った。「そうよ。私は病気なの」朔也は冗談でも聞かされたような顔をして、歯を食いしばりながら荒い息を吐いた。でも、嘘はついていない。「俺をもてあそんで、そんなに楽しいか?」口の端を上げ、私はわざと笑ってみせた。「ええ、楽しい。必死に私の機

  • 脳腫瘍と診断された私に、夫はあまりにも冷酷だった   第2章

    物音を聞きつけた朔也が会議を放り出して駆け込んできた。血だらけの私をちらりと見て、そのまま美羽のもとへ向かった。けがはないかと、何度も確かめていた。美羽のふくらはぎにはガラスで切った細い傷ができてしまい、血がわずかににじんでいた。朔也はハンカチを取り出し、そっと血を拭った。美羽を見る目がひどく優しかった。「痛いか?」美羽は涙に潤んだ大きな目を瞬かせ、今にも泣き出しそうに首を横に振った。彼女の傷なんて爪の先ほどしかないのに、二人ときたら、まるで今生の別れみたいな空気を出している。思わず鼻で笑うと、朔也がこちらを向いた。私を見た瞬間、目に浮かんでいた憐れみが一瞬にして冷たい無関心へと変わり、声まで冷たくなった。「澪、お前が美羽に何かしたのか!」私は眉を上げ、皮肉っぽく笑ってうなずいた。「自業自得でしょ」朔也が何か言うより先に、美羽が声を張り上げた。「好きな人を追いかけてるだけなのに、どうしてそんなこと言われなきゃいけないんですか!朔也さんのこと、好きになっちゃだめなんですか?」人の夫に手を出しておいて、誰に反対されても愛を貫くヒロイン気取りだ。あんなに真剣な目をされては、私まで感動してしまいそうだ。朔也は笑って美羽を抱き寄せた。「誰にも俺たちを引き離させない」朔也のことなら、嫌というほどわかっている。一目見ただけで分かった。今度は、本気なのだ。ふと思い出したように、朔也が振り返った。「何しに来たんだ」私は床に落ちた、崩れたケーキを指さした。それ以上は何も言わなかった。二人で交わした約束がある。毎年朔也の誕生日には、私がケーキを焼く。朔也は感情の読めない目で私を見つめ、声を落とした。「澪。今年の願いは、お前が叶えてくれ」私が姿を消していた間、彼が誕生日に願ったのは、私が帰ってくることだけだった。結婚してからも、願いはたった一つ。私がもう離れていかないことだった。それなのに今年は、美羽のために願いを変えた。「美羽に謝ってくれ。それが今年の俺の願いだ」彼の誕生日の願いに、初めて別の女の名前が出てきた。耳鳴りがした。また周りの景色が変わり始めた。手のひらに爪を食い込ませると、痛みで少しだけ意識がはっきりした。私は何でもないように笑った。「残

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status