共有

2.署名欄に残る黒瀬

作者: 中岡 始
last update 公開日: 2026-05-28 09:17:29

迅の言葉が落ちたあと、離れの中には、紙一枚分の沈黙が広がった。

美緒はすぐにペンを取れなかった。

低い机の上に置かれた離婚届は、先ほどよりも近くにあった。迅が指先で押し出したぶんだけ、美緒の膝元へ寄せられている。白い紙は薄い。指で持てば簡単に折れてしまうはずなのに、いまの美緒には、本家の門よりも重く見えた。

記入欄の上には、すでに迅の名前があった。

黒瀬迅。

黒いインクで書かれたその字は、乱れていなかった。跳ねも、止めも、いつもの迅らしく無駄がない。強く押しつけた跡もなければ、迷いで滲んだ形もない。きれいに整った名前だった。

美緒は、その字を見つめた。

自分の知らないところで、迅はもうここまで終わらせていた。紙を用意し、自分の欄を書き、あとは美緒が名前を置くだけにしていた。その事実が、胸の奥に冷たい針のように刺さる。

美緒の署名欄だけが空いていた。

そこに書く名前を、美緒は知っている。

黒瀬美緒。

まだ自分の名前のはずなのに、紙の上ではすでに、手放すための文字になっていた。

迅は何も言わなかった。急かしもしない。ただ、止めもしない。その沈黙が、かえって答えだった。待っても何も変わらない。これ以上、問いを重ねても返ってくるものはない。そう告げられている気がした。

美緒は、ペンへ手を伸ばした。

指先は冷えていた。ペン軸に触れた瞬間、金属の冷たさが皮膚を通って骨まで届くようだった。普段なら、手はもっと確かに動く。布を押さえ、糸を選び、針先を見ながら、ほつれた部分を直していく。誰かの身体に合うように、服の余りや張りを確かめるための手だった。

それなのに、今からこの手で、自分の居場所を終わらせる。

美緒はペンを持ったまま、しばらく動けなかった。

低い机の木目が見える。白い紙の端が見える。迅の手が見える。大きな手は机の向こう側にあり、紙に触れてはいなかった。けれど、その手がこの離婚届をここまで運んできたのだと思うと、美緒の喉が詰まった。

「書けば、終わるんですね」

自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

終わることなど、分かっている。分かっているからこそ、目の前の紙が怖い。それでも、聞かずにはいられなかった。もしかしたら、その問いの隙間に、迅が何か別の言葉を挟んでくれるのではないかと思ってしまった。

迅はすぐには答えなかった。

そのわずかな間に、美緒はまた期待してしまう。

やめろ。

書かなくていい。

そんな言葉が返ってくるはずがないと分かっているのに、心のどこかが、まだ愚かに待っていた。

迅の声は低かった。

「そうや」

それだけだった。

美緒は目を伏せた。

これ以上、何を待てばいいのか分からなかった。

ペン先を紙の上へ近づける。署名欄は白いままだった。自分の名前を書くために空けられたその場所が、今は何より残酷に見える。

三嶋美緒だった頃、名前はもっと軽かった。

大阪市内の古い仕立屋の奥で、母に呼ばれる名前。帳場で伝票を受け取る時の名前。常連客に頭を下げる時の名前。布の匂い、アイロンの熱、糸巻きの影、古いミシンの音。その中にあった名前だった。

黒瀬美緒になった時、その名前は急に重くなった。

黒瀬。

その二文字は、ただ夫の姓というだけではなかった。本家の敷地。離れの玄関。庭を渡る朝の音。渡り廊下の先の気配。佳穂に教わった所作。若奥さんと呼ばれた時に、背筋を伸ばした自分。迅の隣に立つと決めたあの日から、少しずつ受け取ってきたもの。

怖くなかったと言えば嘘になる。

黒瀬の名は、明るい場所だけを連れてくるものではなかった。沈黙の重さも、人の目の厳しさも、言えない事情の多さも、その名前には含まれていた。それでも、美緒は嫌だと思ったことはなかった。

逃げたいと思ったこともなかった。

自分で選んだのだと思っていた。

迅の隣に立つことも、黒瀬の姓を持つことも、そこにいる朝を自分の日常にしていくことも。

それなのに今、その同じ名前を、終わらせるために書かなければならない。

美緒は一度、顔を上げた。

迅は署名欄を見ていた。いや、見ているようで、焦点は少しずれている。美緒の顔ではない。美緒の手でもない。紙の端か、机の木目か、どこか曖昧な場所に視線を落としている。

止めてはくれない。

それが分かった瞬間、胸の中に残っていた細い温度が消えた。

美緒はペン先を紙につけた。

最初の一画は、思ったよりも重かった。

黒。

その文字を書きながら、黒い門を思った。迅の黒いスーツを思った。夜遅くに帰ってきた迅の肩に落ちていた街の影を思った。黒瀬という名前が、この家の空気そのもののように自分を包んでいた時間を思った。

瀬。

筆跡がわずかに揺れた。流れる水のような字なのに、今は喉の奥で止まっているもののようだった。指先がうまく動かない。けれど途中で止めることもできない。止めれば、そのまま崩れてしまいそうだった。

美。

自分の名の一文字目を書く時、息が浅くなった。

三嶋美緒だった自分が、遠くからこちらを見ているような気がした。黒瀬美緒になった自分も、同じ紙の上にいる。どちらの自分も、ここにいるのに、どちらにも戻れない。

緒。

最後の線を引く時、指先が小さく震えた。

ペン先が紙から離れた。

美緒はしばらく、そのまま手を動かせなかった。

黒瀬美緒。

そこに書かれた自分の名前は、まだインクの艶を残していた。たった今、自分の手で書いた文字なのに、もう自分のものではないように見える。紙の上の名前は整っていた。美緒が長い間、崩さないようにしてきた姿勢と同じように、かろうじて乱れずにそこにあった。

けれど内側では、何かが剥がれ落ちていた。

音が戻ってくる。

庭を掃く音。本家の方で誰かが短く返事をする声。遠くの車のエンジン。茶が冷めていく気配。畳の上に落ちる朝の光。

黒瀬本家の朝は、何も変わっていない。

美緒が名前を書いても、誰かが足を止めることはない。庭の砂利は掃かれ、車は動き、男たちは低い声で用件を交わす。ここにいる一人の女が、黒瀬美緒という名前を紙の上で終わらせても、朝は朝のまま進んでいく。

そのことが、ひどく静かに痛かった。

美緒はペンを置いた。

机に触れた音は小さかった。けれど、その音だけで胸がびくりとした。指先には、まだペンの冷たさが残っている。紙の抵抗も、最後の線を引いた時のわずかな震えも、皮膚にこびりついていた。

迅が手を伸ばした。

美緒は思わず、その動きを見てしまう。

大きな手が離婚届の端に触れる。迅の指は、紙をつまむ前に一度止まった。ほんの一瞬だった。けれど、美緒はその間を見逃せなかった。紙の上に書かれた二つの名前を、迅が見ている。

黒瀬迅。

黒瀬美緒。

並んだ名前は、夫婦だった時間の最後の形だった。

迅の指に力が入った。紙の端がわずかにたわむ。薄い紙が、その力を受けて小さく曲がった。

美緒は息をのんだ。

迅が何か言うのかと思った。名前を呼ぶのかもしれないと思った。せめて、顔を上げるのかもしれないと思った。

けれど迅は、何も言わなかった。

離婚届を手元へ引き寄せると、すぐに伏せた。

美緒の名前が見えなくなる。

その動作は丁寧だった。乱暴に隠されたわけではない。けれど美緒には、自分の名前ごと閉じられたように見えた。

黒瀬美緒としての最後の証が、迅の手で伏せられた。

美緒は、自分でも分からないまま指先を膝の上で握った。爪が掌に触れる。痛いほどではない。ただ、そうしていなければ、指が震えた。

迅はまだ、美緒を見ない。

署名したのに。

名前を書いたのに。

これで終わると分かっているのに。

最後に一度くらい、顔を見てくれてもいいのではないかと思った。情が残っているかどうかではなく、夫婦だった時間への礼のように。黒瀬美緒と名乗った時間を、なかったものにしないために。

けれど迅の視線は、伏せた紙の上に落ちていた。

美緒は低い机の向こうにいる男を見つめた。

六つ年上の夫だった人。黒瀬の若頭。何もかも自分より先に決める人。守るものを持つ男。美緒の知らない場所で何かを抱え、その重みをこちらへ渡さないまま、終わりだけを差し出した人。

怒ればよかったのかもしれない。

なぜと言い続ければよかったのかもしれない。

けれど、美緒の中にあるのは怒りだけではなかった。怒りなら、もっと声を荒げられた。悲しみだけなら、泣けたかもしれない。けれど今は、あまりにも静かに、自分の一部が剥がされていく感覚だけがあった。

「これで、いいんですね」

言葉は、ほとんど息のようにこぼれた。

確認ではなかった。

まだ、どこかで揺れていた。迅が否定する余地を、ほんのわずかに残していた。もう遅いと分かっているのに、最後に何か違う言葉が返ってくるのを待ってしまう自分がいた。

迅は顔を上げなかった。

短い沈黙が落ちる。

その沈黙のあいだ、美緒は、自分の心臓の音を聞いていた。速くはない。むしろ遅い。体の内側に重いものを吊るされたように、一つ一つの鼓動が遠かった。

迅の返事は、低かった。

「……ああ」

それだけだった。

すまない、とは言わなかった。

言い訳もしなかった。

否定もしなかった。

美緒は目を閉じなかった。閉じれば、涙が出ると思った。泣きたくなかった。ここで泣けば、黒瀬美緒として最後に残る自分が、すがる女になってしまう気がした。

だから背筋を伸ばした。

その姿勢だけが、自分に残されたものだった。

ペンは机の上に置かれている。離婚届は迅の手元で伏せられている。湯呑みの茶は冷め始め、朝の光は少しずつ部屋の奥まで差し込んでくる。

何も大きな音はしなかった。

紙に名前を書いただけだった。

それだけで、夫婦としての形は終わった。

美緒は、伏せられた離婚届を見た。もう自分の名前は見えない。けれど、たしかにそこにある。消えたわけではない。ただ、見えない場所へ裏返された。

それが今の自分のようだった。

まだこの離れにいる。まだ荷物も持っていない。まだ本家の門を出てもいない。けれど美緒は、もう黒瀬の内側から一歩押し出された気がしていた。

外では本家の玄関が開く音がした。

誰かが低く返事をし、足音が石畳の方へ遠ざかっていく。

美緒はその音を聞きながら、膝の上で指をほどいた。

黒瀬美緒と書いた手は、まだ自分のものだった。

けれど、その名前だけが、もう少しずつ遠ざかっていた。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   108,今度は、ちゃんと合ってる

    閉店後の三嶋洋服店には、作業場の灯りだけが残っていた。表の照明はすでに落としてある。ガラス戸の向こうには、昼の熱をわずかに残した初夏の通りがあり、時折、車のライトが滑るように過ぎていく。その光が一瞬だけ店内へ入り、壁際に並ぶ生地見本や、裁ち台の角を淡く照らしては消えた。美緒は、ハンガーに掛けた黒いスーツの前に立っていた。深い黒は、作業灯の下で静かな艶を返している。光を受けても華美にはならず、ただ布の奥にある端正さだけが浮かび上がる色だった。袖口へ指を添え、縫い目を確かめる。襟の返りは左右とも落ち着いている。前身頃は、釦を留めても余計な皺が出ない。背中から裾へ落ちる線にも、無理な引きつれは残っていなかった。仮縫いの時に留めていたしつけ糸は、もうない。何度も見直し、布をほどき、線を整え、ようやく一着の服として迅へ渡せるところまで来た。美緒は、袖先からそっと手を離した。迅が三代目として正式な席へ出るための服であることは、分かっている。けれど、威厳をまとわせるためだけに仕立てたのではなかった。人の前に立つ時も、座って話を聞く時も、歩いて誰かの隣へ並ぶ時も、迅が必要以上に身体を固めずにいられるように。立場へ押し込められた人に見えるのではなく、迅自身がその服を着て立てるように。それを考えて、一針ずつ整えた。裁ち台の端には、柔らかな布を掛けた細長い包みが置かれている。玲子から預かった、淡い灰青の単衣だった。その横には、軽い羽織ものへ仕立て直すための提案をまとめた控えが置いてある。襟の線をどう生かすか。織りの美しい部分を、どこへ置くか。玲子が洋装の上へ羽織った時に、布の品が過剰にならず、けれど静かに映える形はどれか。明日、もう一度紙の上で整えてから、正式に返事を出すつもりだった。迅の一着は、今夜ここで渡す。玲子の一着は、明日からまた手を入れていく。どちらかが終われば、どちらかだけが残るわけではない。作業場には、これからも、着る人の違う布が届き、美緒はその一つずつへ向き合っていく。美緒は、黒い上着の肩へ掛けていた薄布を外し、ハンガーごと鏡の前へ移した。その時、店先の戸が控えめに鳴った。美緒は時計を見た。約束した時間だった。奥から表へ出ると、ガラス戸の向こうに迅が立っていた。今夜のために整えた白いシャツに、落ち着いた色のネクタイ。足元

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   107.美緒さんのお仕事として

    「美緒、京都からお荷物が届いてるよ」店先から母の声がして、美緒は、裁ち台の上に広げていた仮縫い用の黒い上着から顔を上げた。昼を少し過ぎた三嶋洋服店には、初夏の明るい光が入り込んでいる。ガラス戸の向こうでは、通りを行く人の影が白っぽい舗道へ短く落ち、開けていた小窓からは、風に混じって遠い車の音が聞こえていた。美緒は、迅の上着へ掛けていた薄布を整え直した。深い黒の生地は、すでに上着らしい形を持ち始めている。まだしつけ糸が残り、襟の返りも、脇の線も、これから実際に身体へ合わせて直す余地がある。午後には迅が仮縫いへ来る予定だった。それまでに確認しておきたかったところへ、小さな待ち針を一本だけ残し、美緒は作業台から離れた。「京都から?」「ええ。桂木玲子さまのお名前になってる」母の言葉に、美緒の足が一瞬だけ止まった。「……玲子さまから」店先には、品のよい和紙で覆われた細長い箱が置かれていた。大げさな飾りはない。けれど、角のひとつまで崩れないように包まれた荷には、中に収められたものを丁寧に預けようとする気遣いが表れていた。送り状には、確かに桂木玲子の名がある。宛先は、黒瀬本家ではなかった。三嶋洋服店。その文字を見た時、美緒の胸へ、静かな重みが落ちた。玲子から便りが届くことは、不思議ではない。けれど、これは美緒個人の住まいへ届いたものではなく、店へ預けられた荷だった。美緒は、箱へすぐ手を掛けることはせず、まず送り状を丁寧に外した。「作業台、空けてくるね」「そうし。お預かりものやったら、ゆっくり見た方がええから」美緒は頷き、作業場へ戻った。迅の仮縫い用の上着は、別の台へ慎重に移し、薄布を掛ける。裁ち台の上を清めた布で軽く拭き、新しい薄紙を広げた。荷を受け取るための場所をきちんと整えてから、母が持ってきてくれた箱を中央へ置く。手を洗い、乾いた布で指先の水気を確かめる。それからようやく、紐をほどいた。

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   106.帰る先の灯り

    夕方の光が、三嶋洋服店の作業台へ斜めに差し込んでいた。昼間の白い明るさはもう薄れ、ガラス戸の向こうを通る人の影も、少しずつ長くなっている。店内には、仕立てを終えた上着を包む薄紙の音と、母が帳場で伝票を揃える音が静かに重なっていた。美緒は、作業台の端に置いていた採寸表の控えを、透明な書類入れへ収めた。その横には、小さく切り分けた深い黒の布見本がある。先日、迅のために選んだ生地だった。光を強く返さず、けれど沈みすぎることもなく、立った人の線をきれいに見せる黒。今日、美緒が持ち帰るのは、その見本と、確認用の記録だけだった。型紙へ引く線も、仮縫いへ向けて整える布も、この店に置いていく。三嶋洋服店の仕事は、黒瀬の家へ持ち帰り、夜の合間に済ませるものではない。美緒が明日もここへ来て、作業台の前に立ち、自分の手で進める仕事だった。鞄の口を閉じたところで、母が帳場から声を掛けた。「今日は、そのまま本家へ帰るんやろ?」美緒は、肩へ掛ける前の鞄へ手を添えたまま頷いた。「うん。明日の確認用に、見本と控えだけ持って帰る」布見本が動かないよう、書類入れの間へもう一度きちんと収める。「作業は、また明日ここでするから」母は、それを聞いて、少しだけ表情を和らげた。「ほな、ええわ。家へ帰ってからまで、針仕事を抱え込まんようにね」「分かってるよ」「ほんまに?」「ほんまに。今日は見るだけ」美緒が小さく笑うと、母もようやく笑った。奥で作業をしていた父が、裁ち台の向こうから顔を上げる。「明日は、仮縫いまでの段取り見るで」「うん。お願いします」「こっちも、先に確認しとく」父は、それだけ言うと、再び手元へ視線を戻した。美緒は、胸の奥に静かな温かさを感じた。迅の服を仕立てることを、父は特別に扱わない。黒瀬の三代目の服だからと大げさに構えることも、娘の夫の服だからと任せきりにすることもない。

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   105.新しい一着

    初夏の光は、まだ夏ほど強くなく、三嶋洋服店のガラス戸を通して、店内へ柔らかく差し込んでいた。表に並べた生地見本の上に、淡い光の筋が落ちている。深い紺、灰色、炭色。その中から、美緒は黒の見本帳を抜き出し、作業台の上へ広げた。黒といっても、ひとつではない。光を強く返すものは、改まった席では華やかに映るが、迅には少し目立ちすぎる。重みの強い生地は、立場を示すには十分でも、長い時間身に着ければ、ただでさえ張りやすい肩へ負担を掛けるかもしれない。美緒の指は、数枚の生地を順に撫で、最後に、艶を抑えた深い黒の上で止まった。静かで、奥行きのある黒だった。立った時の輪郭を端正に見せながら、着る人を必要以上に大きく飾り立てることはない。正式な席にも耐え、けれど、服そのものが前へ出すぎない。美緒は、その生地の端を少し持ち上げ、光の下で落ち方を見た。作業台の脇には、採寸用の用紙と、仕立て用の鉛筆、巻き取ったメジャーが揃えてある。予約欄の今日の日付の横には、黒い文字で名前が記されていた。黒瀬 迅。夫の名である。同時に、今日この店へ、新しい一着を依頼しに来る客の名でもあった。迅は、三嶋洋服店へ来る時、必ず事前に時間を確認する。美緒が店にいるから、妻の実家だからと、都合のよい時間に突然姿を見せることはなかった。忙しい時期には、仮縫いや受け取りの日程も、ほかの客と同じように店の予定へ合わせる。最初、美緒がそれを少し堅すぎるのではないかと思ったこともある。けれど今では、迅が自分の仕事を、妻がしてくれることとしてではなく、三嶋洋服店の職人へ預ける仕事として扱ってくれているのだと分かっている。美緒は、選んだ黒の生地見本を採寸表の隣へ置いた。今日仕立て始めるのは、既にある服の直しではない。黒瀬興業の三代目となった迅が、これから正式な席へ着ていくための、新しい一着だった。代を継いだ直後に慌ただしく揃えたものではなく、今の迅の身体を測り直し、今の彼が立つ場所に合わせて、一から作る服。

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   104.選びなおす夜

    美緒は、膝の上でほどいた手を、そのまま静かに置いていた。迅は、待っている。立ち上がったまま、卓の向こうから一歩も動かずに、美緒の答えだけを待っている。作業場の灯りが、迅の濃い色のスーツの肩へ淡く落ちていた。昼間なら、わずかな布の張りや縫い目の流れまで見ようとしていたかもしれない。けれど今、美緒の目に映るのは、その身体が自分へ近づきたい思いを抑えて、きちんと留まっていることだった。妻だった頃なら、尋ねられることなどなかった。迅が腕を伸ばせば、美緒はそこへ入った。帰りの遅い夜も、言葉の少ない朝も、触れられることを拒む理由などないと思っていた。それは、愛されていると信じられる日常だった。けれど、その日常は、一度、美緒の意思とは関係のないところで終わらされた。だから今、迅が問いを置いたことには、言葉以上の意味があった。触れることさえ、もう自分一人の思いで決めない。美緒が望むのかを、待つ。その姿を見ているうちに、胸の奥へ張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。怖くないわけではない。この距離を越えれば、身体が覚えているものまで戻ってくる。迅の体温も、匂いも、腕の中にいた頃の安心も、それを失った日の痛みも、同じ場所から押し寄せるかもしれない。それでも、美緒はもう、怖さに代わりに答えを出させたくなかった。迅へ近づきたいと思っているのは、自分だった。美緒は、迅を見上げた。「……はい」小さな声だった。けれど、自分でも分かるほど、はっきりとした返事だった。迅の目が、深く揺れた。すぐに歩み寄ってくることはなかった。声を上げることも、安堵したように息を吐くこともない。ただ、短く息を呑んだように胸元が動き、それから、迅は一歩だけ美緒へ近づいた。そこで止まる。まだ、卓の端を回れば触れられる距離には至っていない。美緒の返事を聞いてなお、最後の距離は美緒へ残されていた。

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   103.戻るのではなく

    氷が、グラスの内側で小さく触れ合った。母が置いてくれた冷たいほうじ茶は、ほとんど減っていない。透明なグラスの表面には結露が重なり、コースターへ落ちた水滴が、淡い輪を広げていた。迅の言葉は、まだ作業場の中に残っている。お前に、もう一度選んでもらえる男になりたい。美緒は、膝の上で組んだ指を見た。その手で、今日も布へ針を通した。ほつれを拾い、肩の癖を見て、生地が無理なく身体へ沿うように整えた。一度歪んだものを、何もなかった頃と同じ形へ戻すのではない。今そこに残っている癖や傷みを見て、それでも使い続けられる形へ整える。自分と迅の間にあるものも、きっと同じだった。傷がないふりをして、以前の夫婦へ戻ることなどできない。離婚を告げられた夜を忘れたように、また黒瀬の中へ入っていくこともできない。けれど、傷が残っているからといって、自分の中に残る思いまで、すべてなかったことにするのも違う。美緒は、ゆっくり顔を上げた。迅は、向かい側の椅子に座ったまま、動かなかった。美緒が何を言うのかを待っている。返事を急かすことも、先ほどの言葉を取り消すこともない。ただ、選ばれることを望んだ自分が、次に決める側へ回らないようにしているのが分かった。その姿を見ていると、胸の奥が痛んだ。以前なら、こんなふうに待ってはくれなかった。迅は、美緒のためだと信じたことを、自分の中で決めてしまった。美緒がどう思うのかを聞く前に、守る形も、別れる形も、すべて一人で選んだ。今、目の前にいる迅は、美緒が口を開くまで、どんな答えも取りに来ようとしない。だからこそ、美緒は、自分の中にあるものを曖昧にしたくなかった。「迅さん」迅の目が、静かに美緒へ向いた。「私には、まだ傷があります」迅の呼吸が、ほんの僅かに止まったように見えた。美緒は、続けた。「あなたを見たら、離婚を告げられた日のことを思い出さないとは言えません

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   4.渡り廊下の向こう

    迅が立ち上がったあとも、美緒はすぐには動けなかった。畳に座ったまま、膝の上で指を重ねる。指先にはまだ、ペンを握っていた時の冷たさが残っていた。離婚届はもう迅の手元にあり、封筒に入れられている。自分の名前は見えない。見えないのに、そこに書いた感触だけが、掌の内側に残っている。迅は何も言わず、離れの扉へ向かった。美緒は、その背中を見た。黒いスーツの背中。広い肩。整った立ち姿。何度も見送ってきた姿だった。本家へ向かう朝、組の用件で出ていく朝、夜明け前に呼び出される朝。美緒はいつも、その背中を見ながら、気をつけてください、と言う代わりに、襟元や袖口を整えてきた。今朝は、そのどちらもできない。

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   3.見ない男

    伏せられた離婚届の上に、迅の手が置かれていた。その手は、今まで何度も美緒の暮らしの中にあった手だった。夜遅く、何も言わずに帰ってきて、肩口に触れた手。湯呑みを受け取る時、ほんの一瞬だけ美緒の指先に触れた手。外では若頭として人を黙らせるほどの圧を持つのに、離れの中では、時々ひどく疲れたように力を抜いていた手。けれど今、その手は美緒ではなく、紙を押さえている。美緒はその事実から目を逸らせなかった。離婚届に名前を書けば、何かが動くのだと思っていた。終わるなら終わるで、せめて理由が語られるのではないか。迅がなぜここまでしたのか、一言くらいは聞けるのではないか。そんな期待が、まだどこかに残って

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   1.離れの朝

    離れの朝は、いつもと同じ音で始まっていた。庭の砂利を箒が撫でる音。遠くで車のドアが閉まる低い響き。本家の方からかすかに聞こえる男たちの声。短く交わされる挨拶は、朝の空気の中で乾いていて、それでも美緒には、もう長いあいだ耳に馴染んだ音だった。黒瀬本家の敷地内に建つ離れは、夫婦だけの住まいだった。けれど、完全に外から切り離された家ではない。庭を挟めば本家の気配があり、石畳を辿れば渡り廊下へ続く。季節ごとに手入れされた植え込みも、朝早くから動き出す人の気配も、ここがただの住宅ではなく、黒瀬の内側なのだと毎日知らせていた。美緒は、その音を背に受けながら湯を沸かしていた。やかんの底から小さな泡

  • 若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛   13.また、頼む

    受け取りの手続きが終わる頃には、店の外の光が少し傾き始めていた。三嶋洋服店のガラス戸の向こうを、仕事帰りらしい人影が通り過ぎていく。大通りから一本入った裏通りにも、夕方の気配はゆっくり流れ込んでいた。遠くの車の音、誰かが店先で自転車を止める音、古いビルの壁に反射する淡い光。店の中には、布とアイロンの匂いが残っていた。迅は、新しく仕立て上がった黒いスーツをそのまま着ていた。以前着てきたスーツは、母が丁寧に畳み、持ち帰り用に整えている。迅の付き添いの男がそれを受け取るために控えていたが、迅自身は鏡の前から戸口の方へ移るまで、新し

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status