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若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛
若頭に離婚された元妻は、極道一家を救う〜仕立屋の娘が背負った覚悟と、選び直す愛
Author: 中岡 始

1.離れの朝

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-05-28 09:17:14

離れの朝は、いつもと同じ音で始まっていた。

庭の砂利を箒が撫でる音。遠くで車のドアが閉まる低い響き。本家の方からかすかに聞こえる男たちの声。短く交わされる挨拶は、朝の空気の中で乾いていて、それでも美緒には、もう長いあいだ耳に馴染んだ音だった。

黒瀬本家の敷地内に建つ離れは、夫婦だけの住まいだった。けれど、完全に外から切り離された家ではない。庭を挟めば本家の気配があり、石畳を辿れば渡り廊下へ続く。季節ごとに手入れされた植え込みも、朝早くから動き出す人の気配も、ここがただの住宅ではなく、黒瀬の内側なのだと毎日知らせていた。

美緒は、その音を背に受けながら湯を沸かしていた。

やかんの底から小さな泡の音が立つ。湯気が細く上がり、台所の空気に淡い湿り気が混じった。美緒は棚から湯呑みを二つ出した。指が自然に、いつもの位置へ伸びる。迅が使う濃い灰色の湯呑みと、自分の白磁の湯呑み。何年も繰り返してきた朝の所作だった。

けれど、今日はその動きのすべてが、どこか空々しかった。

居間の低い机の上に、白い紙が置かれている。

離婚届。

その三文字を目でなぞらないようにしても、白さだけが視界の端に残った。畳の色も、湯呑みの丸みも、丁寧に畳まれた布巾も、壁際に掛けられた迅の黒いスーツも、すべていつも通りそこにあるのに、その紙一枚のせいで部屋の重心が変わっていた。

美緒は湯呑みに茶を注いだ。ほうじ茶の香ばしさがふわりと立つ。けれど喉は少しも温まらなかった。茶托の位置を直し、布巾の端を揃え、机の角度までほんのわずかに直す。しなくてもいいことばかりをしていると、自分でも分かっていた。

時間を稼いでいる。

そのことに気づいた途端、胸の奥が冷えた。

美緒は二十九歳だった。鏡の前で低くまとめた黒髪は、今日も乱れていない。生成りのブラウスの襟元を指先で整え、落ち着いた色のスカートの皺を掌で払う。装いは控えめだったが、粗末には見えないようにしていた。派手に飾るためではない。黒瀬の家にいる以上、誰の目に触れても礼を欠かないようにするためだった。

仕立屋の娘だった頃から、服は人を映すものだと教えられてきた。

襟が浮いていれば、その人がどこか落ち着かないことがある。袖口がくたびれていれば、手元をよく使う仕事をしている。肩の線が合っていなければ、本人も気づかないまま息を詰めていることがある。

美緒は人を値踏みするために見てきたのではない。相手が少しでも楽に立てるように、その人の癖や疲れを見てきた。

それなのに今朝は、自分の服の皺ばかりが気になった。胸元の布が、呼吸のたびにわずかに浮く。指先で押さえても、内側の乱れまでは整わない。

居間に戻ると、迅(じん)はすでに向かいに座っていた。

三十五歳。黒瀬興業の若頭で、次期三代目候補。六つ年上の夫は、いつものように仕立てのいい黒いスーツを着ていた。広い肩に布がきれいに落ち、袖口の長さも、背中の線も、乱れがない。黒い布地は朝の淡い光を吸い込み、迅の輪郭をいっそう硬く見せていた。

切れ長の目。整った横顔。薄く結ばれた唇。長身で、ただ座っているだけでも場の空気を沈めるような男だった。

美緒は、その姿を何度も見てきた。

本家へ向かう前。夜遅く帰ってきた後。急な呼び出しに立ち上がる時。煙草に火をつける前。ほんの少し疲れた顔で、何も言わずにネクタイを緩める時。

迅はいつも言葉が少なかった。けれど、美緒はその少なさの中にある違いを見てきたつもりだった。声がいつもより低い日。肩の力が抜けない日。眠れていないのに眠れているふりをする日。食事の箸が進まない日。

以前なら、声をかけていた。

「少し、休んだ方がいいと思います」

そう言えば、迅は面倒そうに眉を動かして、それでも湯呑みに手を伸ばした。礼を言うことは少なかったけれど、飲み干した茶の温度で、彼が少しだけ息を緩めたことが分かった。

けれど今朝の美緒には、その一言を口にする資格がないように思えた。

迅は美緒を見なかった。

机の上の離婚届。自分の手元。火をつけていない煙草。袖口。視線はどこかに置かれているのに、美緒の顔だけは避けていた。

美緒は湯呑みを迅の前へ置いた。

「冷めないうちに」

いつものように言ったつもりだった。けれど声が少し掠れた。

迅は湯呑みに触れなかった。指先だけが机の上に置かれている。長い指は、火のついていない煙草をゆっくりと転がしていた。吸う気があるようには見えない。ただ、そこに何かを置いておかなければならないように、指先で触れているだけだった。

外で、砂利を掃く音が一度止まった。

離れの中だけが、音を失ったように静まり返る。

美緒は座った。低い机を挟めば、迅との距離は近い。手を伸ばせば湯呑みに触れられるほどで、膝を少し寄せれば机の下で足が触れそうなほどだった。それなのに、迅はひどく遠かった。

机の上の白い紙が、二人の間に横たわっている。

美緒はその紙を直視できなかった。白さが目に痛い。何も書かれていない欄がある。そこに、自分の名前を書くことになる。そう思っただけで、指先に冷えが上がってきた。

まだ、何か言ってくれるかもしれない。

美緒はその細い希望を、胸の奥で握りしめていた。理由があるのなら聞きたかった。自分が知らないところで何かが起きているのなら、せめて話してほしかった。たとえ結果が変わらないとしても、夫婦だった時間に対する言葉が欲しかった。

迅が黙っているから、美緒は息を吸った。

「本当に、これでいいんですか」

声は思ったより静かだった。

迅の指先が止まった。煙草が机の上でわずかに傾く。ほんの小さな変化だったが、美緒の目はそれを拾ってしまう。何か言いかけたのかもしれない。顔を上げるのかもしれない。そう思った瞬間、迅は指を離した。

そして、低く言った。

「決めたことや」

その言葉は短く、隙がなかった。

美緒は唇を結んだ。

決めたこと。

それは、二人で決めたことではなかった。少なくとも美緒には、決めた記憶がない。相談された記憶も、迷いを分けられた記憶もない。ただ、すでに用意された紙を前にして、終わりだけを差し出されている。

「私は、何も聞いていません」

美緒の声は震えていなかった。震えなかったことが、かえって痛かった。

迅は視線を上げない。

「聞いても変わらん」

「変わらなくても、聞く権利くらいはあると思っていました」

迅の手が、わずかに握られた。

美緒はそれを見てしまった。黒いスーツの袖口から覗く手首。大きな手。昔なら、その手が自分の肩に置かれるだけで、心臓が静かになることもあった。夜遅く帰ってきた迅が、何も言わずに背後から手を回し、短く息を吐いたこともあった。

今は、その手が机の向こう側にある。

触れることも、触れられることもない場所に。

迅は言った。

「理由を聞いても、何も変わらん」

美緒は、その言葉の奥に何かがないか探そうとした。声の低さ。間の長さ。煙草に触れない指。どこか強張った横顔。見れば見るほど、分からなくなる。

この人は、本当に何も感じていないのだろうか。

そう思った次の瞬間、美緒は自分を責めた。感じているのなら、なぜ言わないのか。何かあるのなら、なぜ自分を外へ置くのか。

夫婦だったはずなのに。

美緒は、息を整えてから言った。

「岩本さんのことですか」

その名前を口にした途端、部屋の温度が変わった気がした。

岩本由香。

美緒が知っているのは、表面だけだった。岩本組の娘であること。最近、迅の周辺でその名前が出るようになったこと。本家の中に、どこか言いにくい空気が流れていたこと。美緒が部屋に入ると会話が途切れる日が増えたこと。

それ以上は知らされなかった。

知ろうとしても、誰もはっきりとは言わなかった。

迅の指先がまた止まる。今度は、煙草ではなく、机の端に置いた手がわずかに強張った。目を上げるのかと思った。けれど迅は、結局美緒を見なかった。

「お前には関係ない」

息が止まった。

由香に負けたのだと感じるより先に、その言葉が胸の真ん中へ落ちた。

関係ない。

美緒は、喉の奥がゆっくり狭くなっていくのを感じた。怒りよりも、悲しみよりも先に、体がその意味を理解してしまう。

自分はもう、迅の隣で事情を分け合う相手ではない。

妻でありながら、夫の抱えるものから締め出されている。黒瀬の内側にいて、黒瀬の朝の音を聞き、迅の帰りを待ち、茶を淹れ、スーツの袖を整えてきた。それでも、肝心な場所には入れてもらえなかった。

「私は、関係ないんですか」

声が小さくなった。

迅は答えなかった。

外で誰かが短く挨拶をした。低い声が二つ重なり、すぐに遠ざかる。いつもの朝だった。黒瀬本家はいつも通り動いている。誰かが車を回し、誰かが庭を掃き、誰かが本家の玄関を出入りしている。

この離れだけが、朝から切り離されていた。

美緒は迅を見た。

いつも整っている横顔。黒いスーツ。低く伏せられた睫毛。年上で、黒瀬を背負う男。美緒よりずっと先に危険を見て、ずっと先に決めて、必要なものを選び取ってきた人。

迅はいつも、先に決める人だった。

黒瀬のこと。組のこと。危険なこと。自分が負うべき痛み。美緒に見せないと決めたもの。

それを、強さだと思っていた時もある。頼もしさだと思いたかった時もある。けれど今朝、その強さは美緒を守るものではなく、美緒を遠ざける壁になっていた。

「迅さん」

名前を呼ぶと、迅の喉がわずかに動いた。

それでも、顔は上がらない。

「私は、あなたの妻だったんじゃないんですか」

迅は黙っていた。

その沈黙で、美緒は自分がまだ問いの形を保っていることに気づいた。答えを期待している。否定してほしいと思っている。違うと言ってほしい。そうではないと言ってほしい。お前には関係ないなど、本心ではないと言ってほしい。

けれど迅は、低く言った。

「そう思ってくれてええ」

一瞬、言葉の意味が分からなかった。

分かった時、美緒の胸の奥で、何かが静かに割れた。

そう思ってくれてええ。

それは、否定ではなかった。弁解でもなかった。美緒が傷つく方へ受け取ってもかまわない、という言葉だった。迅が本当はどう思っているのか、美緒には分からない。ただ、その言葉は、美緒の前にあった最後の細い糸を切った。

湯呑みから上がっていた湯気が、いつの間にか薄くなっている。

美緒は膝の上で両手を重ねた。指先が冷たい。けれど震えなかった。震えてしまえば、何かを求めているようで嫌だった。泣けば、引き止めてほしいとすがっているようで、自分がもっと惨めになる気がした。

本当は、まだ引き止めてほしかった。

一言でよかった。

待て。

そう言われたら、美緒はこの紙を見ずに済んだかもしれない。

けれど迅は言わない。

美緒は、もう一度離婚届を見た。署名欄は空白だった。そこに名前を書くまでは、まだ何も終わっていないはずなのに、心のどこかはすでに終わりを告げられていた。

離婚届そのものよりも先に、迅の言葉が美緒を妻ではなくしてしまった。

迅が机の上の紙へ手を伸ばした。

その動作は乱暴ではなかった。むしろ、あまりにも静かで丁寧だった。指先で端を押さえ、離婚届を美緒の前へ少し滑らせる。紙が机の上を擦るかすかな音がした。

その音が、美緒にはひどく大きく聞こえた。

庭の砂利を掃く音が、また外から届く。誰かの足音。車のエンジン。朝の空気。日常は止まらない。黒瀬は動いている。動いているのに、美緒だけがこの白い紙の前で立ち止まっている。

迅は言った。

「書いてくれ」

美緒はペンを見た。

黒い軸の、何の変哲もないペンだった。昨日までなら、帳簿に名前を書く時にも、荷物の宛名を書く時にも、何気なく手に取れたはずのものだ。けれど今は、その一本がとても重く見えた。

まだ、名前は書いていない。

けれど美緒は分かってしまった。

自分はもう、選ぶ側にはいない。

迅が一人で決めた終わりに、ただ署名する側として、ここに座らされているのだと。

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