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3.見ない男

Author: 中岡 始
last update Petsa ng paglalathala: 2026-05-28 09:20:08

伏せられた離婚届の上に、迅の手が置かれていた。

その手は、今まで何度も美緒の暮らしの中にあった手だった。夜遅く、何も言わずに帰ってきて、肩口に触れた手。湯呑みを受け取る時、ほんの一瞬だけ美緒の指先に触れた手。外では若頭として人を黙らせるほどの圧を持つのに、離れの中では、時々ひどく疲れたように力を抜いていた手。

けれど今、その手は美緒ではなく、紙を押さえている。

美緒はその事実から目を逸らせなかった。

離婚届に名前を書けば、何かが動くのだと思っていた。終わるなら終わるで、せめて理由が語られるのではないか。迅がなぜここまでしたのか、一言くらいは聞けるのではないか。そんな期待が、まだどこかに残っていた。

けれど迅は何も言わない。

伏せた紙の上に手を置いたまま、低い机の向こうで黙っている。

朝の光は少しずつ強くなっていた。障子越しの白い明かりが畳の目を浮かび上がらせ、湯呑みの影を薄く伸ばす。本家の方からは、人の気配が途切れず届いていた。庭を掃く音。誰かが短く交わす返事。遠くで車の扉が閉まる音。

黒瀬の朝は、何事もなかったように続いている。

その中で、美緒だけが、息をする場所を見失っていた。

「理由を、聞かせてもらえませんか」

声は思ったよりも静かだった。

迅の手が、紙の上でわずかに止まった。指先が動く。離婚届の端にかかった親指が、ほんの少しだけ紙を押す。けれど迅は顔を上げなかった。

「聞いても変わらん」

低い声が落ちる。

美緒は唇を引き結んだ。前にも似た言葉を聞いた気がした。聞いても変わらない。決めたことだ。関係ない。言葉の形は少しずつ違っても、迅が美緒へ差し出すものは同じだった。

入ってくるな。

そう言われているようだった。

「変わらへんとしても、聞くことくらいは許されると思ってました」

美緒は膝の上で指を重ねた。指先にまだペンの冷たさが残っている。掌の内側に、自分で名前を書いた感触が残っている。その手を見下ろすと、急に自分が何をしたのか分からなくなりそうだった。

だから、迅を見た。

迅は美緒を見ない。

伏せられた離婚届。机の端。火のついていない煙草。視線はそのあたりを静かに移るだけで、美緒の顔には届かなかった。

美緒はその視線の動きを追ってしまう。署名前からそうだった。名前を書いてもそうだった。理由を求めてもそうだった。迅は一度も、美緒の目を正面から見ていない。

見たくないのだろうか。

もう自分の顔を見る価値もないのだろうか。

そう思うたび、胸の内側が少しずつ削られていく。

迅の手が煙草の箱に触れた。黒いスーツの袖口から覗く指が、箱の角を押さえる。取り出すのかと思ったが、迅はすぐにやめた。ライターにも触れかけて、結局、机の上に戻す。

火はつかない。

煙も上がらない。

ただ、触れては離す小さな動きだけが、沈黙の中で妙に目立った。

美緒は、向かいに座る迅を改めて見た。

三十五歳。美緒より六つ年上の男。黒瀬興業の若頭で、次期三代目になると誰もが思っている人。切れ長の目は伏せられ、整った横顔は朝の光の中でも硬い。黒いスーツは今朝も完璧に身体に沿っていて、広い肩の線には隙がない。

何も変わっていない。

変わっていないからこそ、遠かった。

迅はいつも、先に決める人だった。危ないことは言わない。重いことは見せない。黒瀬の中で何が起きても、美緒の前では必要なことだけを短く告げる。以前は、それを強さだと思おうとしていた。自分を不安にさせまいとしているのだと、受け取ろうとしていた。

けれど、別れまで一人で決められるとは思っていなかった。

夫婦の終わりまで、知らされるだけの立場に置かれるとは思っていなかった。

美緒は息を吸った。喉が痛い。泣きたいのではない。声を荒げたいのでもない。ただ、言葉にしなければ、自分が何を失ったのか分からないまま押し流されそうだった。

「岩本由香さんのために、私が出ていかなあかんのですか」

その名前を出した瞬間、迅の指が止まった。

ほんの一瞬だった。けれど美緒は見た。伏せられていた視線がわずかに揺れ、机の上に落ちる。肩が動くほどではない。声が漏れるほどでもない。それでも、由香の名に迅が反応したことだけは分かった。

岩本由香。

その女のことを、美緒は詳しく知らない。ただ、岩本組の娘であること。迅の周囲で、いつの間にか名前が出るようになったこと。美緒が近づくと、誰かが言葉を飲み込むようになったこと。本家の空気の中に、説明されない沈黙が増えたこと。

美緒は、それらを断片として知っていた。

けれど誰も、ひとつの形にして教えてはくれなかった。

迅は顔を上げないまま言った。

「それは、お前が抱えることやない」

その言葉は、一見すれば美緒を遠ざけるためのものだった。

けれど美緒には、もっと深く突き刺さった。

抱えることではない。

つまり、自分には背負わせないということ。知らなくていいということ。迅の隣にいた時間も、黒瀬の内側で暮らした朝も、若奥さんと呼ばれた日々も、本当に重いところには届いていなかったということ。

「抱えることやないって……私は、迅さんの妻やったんです」

声が少しだけ乱れた。

美緒はそれを抑えようとして、さらに背筋を伸ばした。膝の上の手を握る。爪が掌に触れる。痛みは小さい。その小さな痛みに意識を寄せていないと、声が崩れてしまいそうだった。

迅は黙っている。

美緒は続けた。

「黒瀬のことも、迅さんのことも、私は何も知らんでよかったんですか」

迅の視線は動かない。

「知らんまま笑って、知らんまま若奥さんって呼ばれて、知らんまま出ていけば……それでよかったんですか」

言い終えたあと、離れの空気が一段深く沈んだ気がした。

若奥さん。

その呼び名を、自分から口にした瞬間、美緒の胸が痛んだ。最初は戸惑った呼び名だった。振り向くたびに、自分がその立場に足りているのか不安になった。けれど少しずつ、その呼び方に背筋を伸ばすようになった。粗末な振る舞いはできないと思った。黒瀬の人たちの前で、迅の隣に立つ自分を恥ずかしくないようにしたいと思った。

それが、何も知らないまま飾られていただけの呼び名だったのだとしたら。

美緒は、何を信じればいいのか分からなかった。

迅の喉がわずかに動いた。

何か言うのかと思った。

けれど返ってきた声は、やはり短かった。

「知らんままでええ」

美緒は瞬きを忘れた。

知らんままでええ。

その言葉は、部屋のどこにもぶつからず、まっすぐ美緒の胸に入ってきた。

由香に奪われたのなら、まだ憎めたかもしれない。迅の心が離れたのなら、泣けたかもしれない。けれど、何も知らされず、何も選ばせてもらえず、ただ外へ出されることを、どう受け止めればいいのか分からない。

知らなくていい。

それは、信じられていなかったということではないのか。

美緒は迅を見つめた。

「それは……私には、知る資格もないってことですか」

迅は答えない。

その沈黙が、答えのように聞こえた。

机の上の火のつかない煙草が目に入る。迅がそれに触れることはもうなかった。伏せた離婚届の角に、彼の指がかかっている。力が入りすぎたのか、紙の端がほんの少し折れていた。

美緒はそれに気づいた。

迅が完全に平然としているわけではないのかもしれない。そう思いかけて、すぐに心の中で打ち消した。

平然ではないのなら、なぜ見ないのか。

何かあるのなら、なぜ言わないのか。

美緒が傷ついていると分かっているなら、なぜそのままにしておくのか。

迅は、最後まで目を合わせない。

それだけで、美緒には十分だった。

「……せめて」

声が、今度は少しだけ掠れた。

迅の指が止まる。

美緒は唇を湿らせた。これ以上求めるのは惨めだと分かっていた。理由を求めて答えられず、由香の名を出しても突き放され、黒瀬のことを聞いても知らなくていいと言われた。もう、何も得られない。

それでも、最後に一つだけ欲しかった。

夫婦だった時間を、完全に紙だけで閉じられたくなかった。

「せめて、一回くらい、こっち見てください」

迅の呼吸が止まったように見えた。

本当にわずかな間だった。迅の顎が少しだけ動く。伏せていた目が上がりかける。美緒はその動きを見て、胸の奥が痛いほど締めつけられた。

見てくれる。

そう思いかけた。

けれど迅は、顔を上げなかった。

視線は美緒の手前で止まり、また落ちた。

「見たら、変わるんか」

低い声だった。

美緒は、言葉を失った。

その問いは、冷たく聞こえた。見たところで何も変わらない。だから見る必要もない。そう突き放されたように聞こえた。

けれど、なぜか胸の奥で違う痛みも生まれた。

見たら、変わるのだろうか。

迅自身がそう思っているようにも、一瞬だけ聞こえたからだった。

だが、その一瞬に縋るには、迅はあまりにも美緒を見なかった。

「変わらへんのですか」

美緒は問い返した。

迅は答えない。

答えないまま、伏せた離婚届の端を押さえている。黒いスーツの袖口が、朝の光を受けてわずかに白く縁取られていた。その横顔は相変わらず整っていて、表情は読めない。

美緒は静かに息を吐いた。

もう、分かった。

理由は聞けない。

由香のことも、黒瀬のことも、迅の中で何が起きているのかも、何も知らされない。

そして、顔すら見てもらえない。

離婚届に名前を書いた瞬間より、そのことの方が、美緒の中で夫婦の終わりを決定的にした。

美緒は泣かなかった。

泣けなかったのではない。泣かないと決めた。ここで泣いたら、迅の前に残る最後の自分まで、置いていかれるだけの女になってしまう。そう思った。

だから、膝の上で握っていた指をほどいた。ゆっくりと、布の皺を伸ばすように掌を重ねる。呼吸を整える。背筋を伸ばす。

迅に見てもらえなくても、自分だけは、自分の姿勢を崩したくなかった。

迅が、伏せた離婚届を手に取った。

紙の端が小さく鳴る。彼はそれを丁寧に揃え、用意してあった封筒へ滑り込ませた。何の音もしないような動作だった。黒瀬の若頭らしい、無駄のない所作。そこに感情は見えない。

封筒の口が閉じられる。

その瞬間、美緒は、自分の名前が完全に見えない場所へしまわれたのだと思った。

迅は立ち上がった。

背が高い。朝の光を背に受けると、黒いスーツの輪郭がいっそう濃くなる。美緒は座ったまま、その姿を見上げた。何度も見てきたはずの姿なのに、今は自分とは違う世界の人のようだった。

迅は障子の方へ歩いた。

畳を踏む足音は静かだった。離れの扉に手をかける。そこで一度だけ、動きが止まる。

美緒は息を詰めた。

振り返るのかと思った。

けれど迅は振り返らなかった。

扉が開く。

朝の光が、離れの中へ流れ込んできた。外の空気がわずかに冷たい。庭の匂い、砂利の湿り気、本家の方から届く人の声。その向こうに、渡り廊下が見える。

離れの中で夫婦は終わった。

その先には、黒瀬本家の朝が続いている。

けれど美緒はもう、同じ顔でその朝を歩くことはできない。

迅は最後まで、美緒を見なかった。

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