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4.渡り廊下の向こう

作者: 中岡 始
last update publish date: 2026-05-28 09:20:26

迅が立ち上がったあとも、美緒はすぐには動けなかった。

畳に座ったまま、膝の上で指を重ねる。指先にはまだ、ペンを握っていた時の冷たさが残っていた。離婚届はもう迅の手元にあり、封筒に入れられている。自分の名前は見えない。見えないのに、そこに書いた感触だけが、掌の内側に残っている。

迅は何も言わず、離れの扉へ向かった。

美緒は、その背中を見た。黒いスーツの背中。広い肩。整った立ち姿。何度も見送ってきた姿だった。本家へ向かう朝、組の用件で出ていく朝、夜明け前に呼び出される朝。美緒はいつも、その背中を見ながら、気をつけてください、と言う代わりに、襟元や袖口を整えてきた。

今朝は、そのどちらもできない。

迅が扉に手をかけた。

木枠が小さく軋む。外の空気が、細く部屋へ入ってきた。障子越しの白い光とは違う、庭から直接差し込む朝の光だった。冷えた沈黙に閉ざされていた離れの居間が、扉一枚で本家の朝へつながる。

美緒はゆっくり立ち上がった。

膝に力が入りにくい。けれど畳に手をついて崩れるような真似はしたくなかった。背筋を伸ばす。肩を落とさない。視線をむやみに揺らさない。そう教えられたわけではなくても、黒瀬の家で暮らすうちに、自然と身体に染み込んだ所作だった。

その所作を保とうとするほど、胸が痛んだ。

まだ自分は、黒瀬の嫁のように立とうとしている。

扉の向こうには、渡り廊下が見えた。

離れから本家へ続く廊下は、庭を横切るように伸びている。磨かれた木の床。脇に敷かれた石畳。朝露を含んだ植木。砂利はすでに掃き清められ、玄関先には水を打った跡が薄く残っていた。

竹箒が砂利を撫でる音がする。車を回す低いエンジン音が、本家の奥から聞こえた。男たちの声は短く、無駄がない。誰かが低く返事をし、足音が石畳を踏んで遠ざかっていく。

いつもの朝だった。

美緒はその流れを知っている。

どの時間に玄関が開き、誰が本家へ顔を出し、どの車が先に出るのか。二代目姐である姑の佳穂がどこに花を活けるのか。雨の朝には砂利の色が少し濃くなり、晴れた朝には廊下の端に光が長く落ちることも知っている。

離れは夫婦の場所だった。

けれど、その扉一枚向こうには、いつも黒瀬本家の朝があった。美緒はそこへ出ていき、会釈を返し、声をかけられれば返事をし、必要なら本家の台所や客間へ向かった。ここは、ただ住んでいた場所ではなかった。

自分の朝の一部だった。

本家の玄関脇には、季節の花が活けられていた。

淡い色の花が、控えめに高さを揃えられている。派手ではない。けれど、訪れる人の視線が自然にそこへ落ちる位置にあり、乱れも偏りもない。花器の向き、水の量、枝の傾き。すべてに、佳穂らしい隙のなさがあった。

美緒は、その花を見ただけで胸が詰まった。

黒瀬の家では、花もただ飾るものではなかった。玄関の空気を整え、人を迎える姿勢を示すものだった。乱れを見せない。騒がしく飾らない。そこにいる者の心が揺れていても、家の顔は整えておく。

佳穂は、そういう人だった。

渡り廊下の向こうで、若い衆の一人が美緒に気づいた。

目が合いかける。男はすぐに頭を下げた。礼はいつも通りだった。けれど、声がなかった。

いつもなら、短くても挨拶があった。朝の定型句のようなものでも、美緒はそれを受け取り、会釈を返していた。今朝、男は何も言わない。責めるような目ではなかった。避けるようでもない。ただ、何を言ってもいけないのだと分かっている顔だった。

別の者も、美緒に気づいて足を止めた。すぐに視線を伏せる。誰も近づいてこない。誰も追い立てない。誰も、美緒を拒まない。

それでも、誰も引き止めない。

美緒は、その沈黙で分かってしまった。

この家の中では、もう知れ渡っている。

美緒が離れを出ること。迅との夫婦が終わったこと。黒瀬の内側にいた女が、外へ出されること。

それはもう、二人だけの話ではなくなっていた。

迅は渡り廊下の手前に立っていた。封筒を手にしている。美緒と本家の朝との間にいるのに、何も言わない。若い衆の沈黙を止めることも、空気を変えることもしない。

その沈黙が、美緒にはもう一つの答えのように聞こえた。

これは覆らない。

迅一人の気まぐれではなく、黒瀬の現実になってしまったのだと。

本家側の廊下に、佳穂が立っていた。

偶然そこにいたようにも見える。けれど美緒には、自分が出てくることを分かっていたようにも思えた。

佳穂は五十代後半の女性だった。派手な装いはしない。けれど上質な布地の着物をすっきりと着こなし、背筋はいつもまっすぐだった。顔立ちは穏やかで、声を荒げることもほとんどない。それでも黒瀬の女たちの前に立つと、誰も軽くは扱えない静かな重みがあった。

佳穂は、美緒を見た。

まっすぐに。

迅とは違い、目を逸らさなかった。

そのことが、かえって美緒の胸に痛かった。見てくれる人がいる。自分の顔を、今朝の自分を、ちゃんと見てくれる人がいる。けれど、その人も引き止めることはできない。

佳穂は一歩も急がず、美緒との距離を保ったまま口を開いた。

「美緒さん」

いつもの呼び方だった。

佳穂は、美緒をそう呼んできた。嫁として軽く見ていたからではない。黒瀬の若奥さんという役目の前に、美緒個人を見てくれる呼び方だった。美緒は、その呼び方に何度も救われたことがある。

けれど今朝は、同じ声が違って聞こえた。

昨日までの美緒さんは、黒瀬の内側にいる嫁へ向けられたものだった。今朝の美緒さんは、黒瀬を出ていく女へ向けられたものだった。

呼び名は変わらない。

変わらないのに、そこにある距離だけが変わっている。

「はい」

美緒は返事をした。

声は乱れなかった。乱れなかったことに、少しだけ安心して、同時に苦しくなる。

佳穂の視線が、美緒の足元から肩口へ静かに移った。乱れがないか確かめるような、けれど値踏みではない視線だった。美緒はその視線に、背筋を伸ばす。

「荷物は、あとで人に運ばせます」

佳穂の声は落ち着いていた。

美緒は首を横に振った。

「いえ、自分でできます。そんなに多くありませんから」

荷物が多いか少ないかなど、本当は問題ではなかった。誰かに運ばせればいいと分かっている。黒瀬の家なら、そのくらい当然のように人が動く。

けれど、自分の持ち物を他人の手で離れから出されるところを想像すると、耐えられなかった。最後くらい、自分で選び、自分で持ちたい。何を残し、何を持っていくのかを、誰かに委ねたくなかった。

佳穂は、すぐには答えなかった。

袖口を押さえる指が、一瞬だけ止まる。白い指先にほんの少し力が入ったように見えた。けれど佳穂は、その手をすぐに緩めた。表情は崩さない。

「……そうですか」

短い言葉だった。

その間に、言えなかったものがいくつもあった気がした。

無理をしなくていい。

置いていきなさい。

戻ってきなさい。

どれも、佳穂は言わなかった。

言えば、黒瀬の姐として保っている線が崩れる。迅が決めたことを、その場で覆すことになる。美緒にもそれが分かってしまうから、余計に苦しい。

美緒は、佳穂の前で深く息を吸った。

「お世話になりました」

それは、今言うには早すぎる言葉だったのかもしれない。まだ荷物もまとめていない。まだ門も出ていない。それでも、美緒の口から出た。

佳穂は答えなかった。

すぐにこちらこそとも言わなかった。頷きもしない。ただ、美緒を見ていた。その目には責める色がなかった。慰めるような甘さもなかった。まっすぐで、静かで、逃げ場のない優しさがあった。

美緒は、その目を受け止めるのがつらかった。

嫌われていない。

拒まれていない。

だからこそ、引き止められない現実が痛い。

佳穂は少しだけ視線を落とした。玄関脇の花に目をやったように見えた。だが、乱れを直すことはしなかった。花は最初から整っている。整っているものを直す理由はない。

やがて佳穂は、静かに言った。

「身体だけは、大事にしなさい」

それだけだった。

美緒の喉が詰まった。

その言葉は、黒瀬の姐として言えるぎりぎりの情だったのかもしれない。引き止めるでもなく、慰めるでもなく、責めるでもない。ただ、出ていく美緒の身体を案じる言葉。

美緒はうつむきそうになった。

けれど、うつむかなかった。

「はい」

短く答える。

声は少しだけ細くなった。佳穂はそれに気づいたはずだった。けれど何も言わない。言わないまま、美緒が自分で立つことを許しているようだった。

美緒は佳穂に向かって、深く頭を下げた。

背筋を折りすぎない。首だけで済ませない。視線を落とし、両手を揃え、乱れなく礼をする。それは黒瀬で身につけた所作だった。佳穂の前で何度も正した所作だった。

その同じ所作で、美緒は黒瀬から一歩退こうとしている。

胸の奥が、ひどく痛んだ。

佳穂は小さく頷いた。

それ以上の言葉はなかった。

迅は、少し離れたところに立っていた。封筒を持つ手が一度だけ動いたように見えた。けれど、彼は何も言わなかった。佳穂の言葉にも、美緒の礼にも、入ってこない。

何も覆さない。

美緒はそのことを、もう責める言葉にできなかった。

本家の朝は変わらず続いている。庭は掃かれ、玄関は整えられ、男たちは声を潜めながらも用件を進めている。昨日までと同じ場所に、昨日までと同じ音がある。

変わったのは、美緒だけだった。

佳穂は今も美緒さんと呼んでくれた。若い衆は頭を下げてくれた。誰も美緒を追い出すような目では見なかった。

それでも、美緒はもうこの朝の中へ自然に入っていけない。

そう分かった。

美緒はもう一度、佳穂に浅く頭を下げた。それから、離れの奥へ戻るために身体を向けた。

背後では、竹箒が砂利を撫でる音が続いていた。低い男たちの声も、車の気配も、季節の花のある玄関も、そのままそこにある。

けれど、その音は少し遠くなっていた。

美緒は扉の内側へ戻りながら、自分が夫だけではなく、この朝の居場所まで失い始めていることを、ようやく身体で理解した。

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評論 (1)
goodnovel comment avatar
朋
なんかくどいなぁ…麺が伸び切ったラーメン食べてる気分…
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