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個展の最終日の夕方。私はひとり、ギャラリーの展示室の中央に佇んでいた。ショーケースの中で、「はじめてのであい」がスポットライトの光を吸い込んで、静かに煌めいている。その横の展示プレートには、私がこう綴った。【7歳のときに出会った、ある人へ。その人はとても長い間、私の心という部屋に住んでいました。やがて彼は、そこから出ていきました。今、その空になった部屋には、私自身が住んでいます】ゆっくりと踵を返して外へ出ると、外はもうすっかり暗くなっていて、通りにはぽつぽつと街灯が灯り始めていた。駐車場に向かいながら、出口付近に、彼の車が停まっているのが見えた。大河が、車のドアに寄りかかるようにして立っていた。ずいぶん前からそこで待っていたのだろう、身を包むグレーのコートは、やはりあの日のままだった。私は逃げず、まっすぐ彼の元へと歩み寄った。「……実里」「久しぶり」「展示、見せてもらったよ。すごく良かった。中央のあのネックレスの前に、気づいたら見入ってしまっていた」「ありがとう」ふたりの間に、静かな沈黙が降りた。先にその静寂を破ったのは、大河のほうだった。「……この一年、元気にしてた?」「まあまあ、それなりに。そっちは?」「なんとか、やってるよ」一瞬で、嘘だとわかった。彼は、以前よりさらに痩せこけていた。頬骨が痛々しく浮き上がり、かつて私を真っ直ぐに捉えていた瞳には、もう何の光も宿っていない。けれど――中に着た白いシャツには、シワひとつなく綺麗にアイロンがかけられていた。襟はぴたりと伸びて、袖口のカフスも完璧に揃っている。私がこれまでの人生でずっと彼に覚えていてほしかったことを、大河はようやく覚えたのだ。私という存在を失ってから。「じゃあ、私はもう行くね」「……ああ」大河がきびすを返し、力ない足取りで車へと数歩歩き出す。私はその後ろ姿をじっと見つめていた。擦り切れたコートの裾が、冬の夜風に揺れる。「……大河」彼が、弾かれたように振り返った。私はゆっくりと歩み寄り、大河の目の前で足を止めた。「最後に。一度だけ」大河は戸惑い、それから右手を差し出した。差し出されたその指先は、小刻みに震えていた。私の指先が、大河の掌にそっと触れる。静かに、目を閉じた。触れた
1年後、個展を開いた。タイトルは「7歳」子どもの純粋な目線から着想を得た作品群だった。担当のキュレーターは、私の展示を見て「ひどくやさしくて、なのにどこか力強い」と言ってくれた。雑誌の取材で、メインビジュアルである「手を繋ぐイメージ」に込めた意味を聞かれた。「特別な意味はありません。誰かと手を繋げるならそれは素敵なことだけれど、手を繋ぎ続けられないのなら、ひとりで歩いていけばいい。ただそれだけです」そのインタビュー記事が掲載されてから、菜奈が教えてくれた。大河はわざわざその雑誌を買って、自宅のベッドサイドに置いているらしい。以前、私が寝ていた側のテーブルに。寝室のクローゼットの半分は、今も空のままだという。服は全部右側のスペースにぎゅうぎゅうに押し込んで、私のいた左側には、頑なに何も置こうとしない。彼のアシスタントが漏らしたところによれば、オフィスでひとりパソコンのモニターをぼんやり眺めていることが多く、その画面にはいつだって、私たちの前撮り写真が映し出されているという。「……どうしてそんなに詳しいのよ」と、私は菜奈に呆れて聞いた。「友紀が言ってたの。いつもの仲間たちがみんなで心配してるって。この一年で、すっかり生気を失っているって」「それは、彼の問題よ」十一月、ひとりプラタナスの木を見に行った。プラタナスの並木道には黄金色の落ち葉が敷き詰められたように厚く積もっていて、一歩踏みしめるたびに、足元でさらさらと乾いた音が鳴った。ゆっくり歩いていると、数十メートル先の木の下に、ふと誰かが佇んでいるのが見えた。グレーのチェスターコート。5年前に、私が彼の誕生日に買ってあげた一着だった。袖口の生地がほつれて、細い糸が何本も飛び出している。それでも彼は、新しいコートに替えていない。向こうも、私に気づいた。一瞬その場に縫い止められたように固まり、それから、すがるようにこちらへ二歩踏み出して、誰かの名前を呼ぼうと口元を震わせた。私はきびすを返し、反対の方向へとまっすぐ歩き出した。ずいぶん遠くなってから一度だけ振り返ると、大河はまだあのプラタナスの木の下に立ち尽くしていた。ぽつんとひとりで、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、こちらをじっと見つめていた。私はまっすぐ前を向き、そのまま歩き続け
菜奈の元同僚が、その場に居合わせたらしい。大河は望美を社長室に呼び入れた。ドアを開け放ち、フロアの全社員が息を潜めて見守る中、告げた。「本間望美さん、今日付で解雇だ。退職手続きは今日中に終わらせてください」望美は固まった。見る見るうちに両目に涙を浮かべ、なぜかと問い詰めた。「お前自身が、いちばんよくわかっているはずだ」望美は泣き始めた。その声はみるみる大きくなり、水を打ったように静まり返ったオフィス全体に響き渡った。あの海辺の写真はなんだったの、あの木の下での約束はなんだったの、あのレストランの席はなんだったのと、彼女は涙ながらに問い続けた。ご両親に紹介してくれるって、そう言ったじゃないですか、とも。大河は、すがりつく彼女の言葉を冷徹に遮った。「二度と俺の前に現れないでくれ」菜奈はそこまで一気に話し終えて、私を見た。「……本当に解雇したんだって。友紀が言うには、オフィス全体が完全に凍りついたらしいわよ」「だから何」「……何も感じないの?」「彼が自分の会社の社員を解雇することが、私といったい何の関係があるというの」翌日、大河がアトリエに来た。一枚の書類を、私の机の上に置いた。退職合意書だった。望美の直筆サインと、会社の公印がしっかりと押されていた。大河は私の前に立ち、どこか褒めてほしそうな、すがるような瞳でこちらを見つめていた。まるで、いいことをして母親に報告しにきた子どものように。「実里……彼女を辞めさせた。もう二度と、俺たちの前には現れない」私は手にしていたペンを置き、静かに顔を上げた。「……それで?」大河は、喉まで用意していたはずの言葉を、すべて詰まらせた。「……喜んでくれると、思ってた」「大河。問題の本質は、最初から彼女じゃなかったのよ」「俺が全部悪かったのはわかってる!これからは変わる。どうすればいいか言ってくれ!スマホもいつでも見せる、SNSのパスワードだって全部教えるから……!」「私が、いつからあなたの心に自分の顔を見つけられなくなったか、わかる?……あなたが私に初めて嘘をついた日じゃないわ。彼女がコーヒーに入れる砂糖の量は完璧に覚えているのに、私がコーヒー自体を飲まないことを忘れた日よ。私たちの『木の下の約束』を彼女とも同じように交わして、帰って
大河はついに離婚届にサインした。ただし、引き換えに一つ条件を出してきた。私の口座に1億円を振り込む、21年分の償いだからと。もちろん、受け取らなかった。そしてもう一つ、要求があった。「正式な離婚の届け出を、3カ月だけ待ってほしい。その間、もう一度だけお前を本気で口説かせてくれ」というものだった。代理人づてにその話を聞いたとき、菜奈の声はなんとも言えない複雑な響きを帯びていた。「これまであんたをちゃんとした形で追いかけたことが、一度もなかったって。7歳から28歳まで、ずっとあなたが追いかけてきた。今度は自分が死に物狂いで追う番だって」「好きにすれば」翌日、花が届いた。赤いバラ、巨大な花束。アトリエの入り口を塞ぐほどの量で、カードにはこう書いてあった。【1日目】受付に頼んで、受け取りを拒否してそのまま返送してもらった。次の日にまた届いた。受付が困り顔で言うには、何度突き返しても、その日のうちにまた送り直されてくるのだという。「お隣のお花屋さんにあげて」その次の日、受付が伝言を持ってきた。「お隣のお花屋さんの店主から、『上田さんにくれぐれもよろしくお伝えください』とのことです。最近、お店の前が華やかになってお客さんが増えているそうですよ」花の次は、別のものが届くようになった。バッグはそのまま返送した。ネックレスは、箱に【結婚三周年のお詫びに】と書いてあった。リボンすら解かず、そのまま送り返した。【せめて開けてみてくれないか】とメッセージが来た。返信しなかった。郵送作戦も通じないと悟ると、やがて大河は直接アトリエへ足を運ぶようになった。ある日、クライアントと打ち合わせ中に、アシスタントが会議室に入ってきた。「上田という方が受付でお待ちです」「そのまま待たせておいて」クライアントとの打ち合わせは午後2時から5時まで続いた。大河は3時間、受付のソファに座って待っていた。見かねたアシスタントが三度お茶を出したが、彼は一口も口をつけなかった。ただ、ロビーのテーブルに置いてある私の過去のデザインポートフォリオを、最初のページから最後まで、それこそ穴が開くほど一枚一枚めくっていたという。クライアントを見送って、会議室エリアに戻ると、ソファから大河が立ち上がった。その手には、まだ私のポート
離婚協議書を、大河の会社宛てに書留で送った。追跡番号は手元に控えていたが、向こうからは何の連絡もなかった。菜奈から電話があった。当事者の私よりも、彼女のほうがずっと気が立っていた。「まだ署名してないの?」「してない」「催促したの?」「してない」「焦らないの?」窓の外の街路樹を見た。葉がほとんど落ちていた。「菜奈、協議書にははっきり書いてあるわ。離婚届にはもう署名も押印も済んでる。あとは役所に出すだけ。彼が引き延ばしたところで、どれだけ粘れるっていうの?」菜奈はしばらく黙ってから、声を落とした。「岡村友紀(おかむら ゆき)から聞いたんだけど、大河、今かなり憔悴してるって。無精髭を生やしたまま、会議中も上の空で、深夜になっても会社に残っていて、誰が声をかけても帰らないって」「それは彼の問題」「本当に、何も感じない?」スマホを握る指先に力が入った。爪が、手のひらに食い込んだ。「菜奈、私は流産したの。彼が海辺で別の女性の写真を撮っていたとき、私は一人で手術台に乗って、同意書にサインした。もう感じるわけないでしょ?」電話の向こう側が、ふっと静まり返った。しばらくして、菜奈は「ごめん」とだけ言った。「いいよ」電話を切って、窓の前にしばらく佇んでいた。足がしびれてきてから、ようやく机に戻り、デザイン画の制作を続けた。数日後、大河からメッセージが届いた。【なあ、一度会って、ちゃんと話したい】ほんの少し画面を見つめて、一言だけ返した。【いいよ】ビルの地下にあるカフェで待ち合わせた。わざと10分遅れて行った。ドアを開けると、冷たい隙間風が首元に忍び込んで、思わず肩をすくめた。大河は隅の席に座っていた。テーブルの上には、二つのカップ。ラテと、アメリカーノ。彼は、ひどく痩せていた。顎の輪郭が尖り、シャツの襟はしわくちゃで、ボタンが一つ掛け違えられていた。以前は出かける前に、必ず鏡の前で身だしなみを確認していた人だった。襟はきちんと伸ばして、袖口はそろえて。今は、自分の輪郭すらまともに保てていなかった。大河はラテを私のほうへそっと押し出した。「私、昔からコーヒーなんて飲まないわ」大河が一瞬、戸惑ったように目を泳がせた。「ラテが好きだと思って」「それは
大河が出張に出ている間に、自分の荷物をすべて運び出した。前もって新しい部屋を探し、荷物をまとめ、引越し業者を予約しておいた。わずか3時間。それだけで、6年分の記憶が詰まった部屋を空にした。クローゼットの中の服。ドレッサーの上に並んだボトルや小瓶。ベッドサイドのテーブルに置きっぱなしの読みかけの本、水の入ったグラス、ヘアピン。引き出しの奥の、婚姻届受理証明書。キッチンにある、私が選んだエプロン。私のお茶碗。私の箸。ベランダで育てていた、ジャスミンの鉢植え。手伝いに来てくれた菜奈は、リビングの真ん中に立って、ぐるりと部屋を見回した。「これ、全部置いていくの?」「うん」「ソファは?半年以上かけて選んだじゃない」私は、そのソファを見つめた。「大きすぎて、新しい部屋には入らないから」菜奈はそれ以上何も言わなかった。最後にクローゼットを開けた。大河の側は整然としていて、私の側には空のハンガーだけが残されており、かすかに揺れていた。すでに私の署名が入った離婚届をローテーブルの上に置いた。その上に、赤い組み紐のミサンガを重ねた。大河が7歳のころにくれたもので、小さな鈴はもうすっかり錆びていた。隣にメモを添えた。【重荷になりすぎて、もうつけられない】玄関の下駄箱の上に、鍵を置いた。ドアを閉める前に、もう一度振り返った。一緒に選んだソファ。私が縫ったカーテン。昨日飾ったばかりの花がテーブルの上にあった。何も持っていかなかった。マンションの下では、菜奈が車で待っていた。乗り込むと、菜奈が静かにエンジンをかけた。「泣いた?」「ううん」菜奈はちらりと私を見て、それ以上は何も言わなかった。新しい部屋は北向きで、こぢんまりとした部屋だった。窓を開けると、下の路地を走り回る子どもたちの声が聞こえてきた。スーツケースを床に下ろして、がらんとしたフローリングの上に立った。細い窓から、冬の陽射しが差し込んでいた。スーツケースの一番上に、古い日記帳が入っていた。7歳から書き始めたものだ。最初のページにはこう書いてあった。【今日、隣に引っ越してきた男の子と仲良くなった。上田大河くん。転んで泣いていたから、手を引いて起こしてあげた。目を閉じたら、スカートを履いた私が見えた】日記を