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第四話

Author: 久遠遼
last update publish date: 2026-06-03 11:14:27

面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。

「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」

「……費用?」

「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」

事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。

私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。

「……こんなに?」

私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。

「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」

「今日中に、ですか?」

「原則としては二十四時間以内ですが、高額なためできるだけ早くにお願いできたらと思います。難しい場合はご相談ください。ただ、今後の治療方針によっては、追加で費用が発生する可能性があります」

この人はただ、自分の仕事をこなしているだけで、事務的な説明だということは分かっている。

だけど、その淡々とした声が、突き放すような物言いに聞こえて胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。

母は、この病院を支えてきた人だった。

それなのに今は、支払い能力を確認される患者家族でしかない。

まるで、母の命に、値札をつけられているような気がした。

私は書類を握りしめたまま、かすれた声で尋ねる。

「……少し、待ってもらえませんか。お金は、必ず用意します」

「分かりました。できるだけ早めにお願いいたします」

事務員が去ったあと、私は壁にもたれながら、ふと施設の職員の言葉を思い出した。

『倒れられる少し前に、お電話を受けていたようで……そのあとから急に様子が変わられて……』

電話――母は倒れる直前、誰かと話していた。

昨日まで比較的落ち着いていたはずなのに、急に心不全を起こすなんて、本当に偶然なのだろうか?

胸の奥に、小さな棘のような違和感が生まれた。

けれど今は、それを確かめている余裕なんてなかった。

今は何より、お金が必要だった。

病院を出た私は、その足で病院近くの宝石店へ向かった。

ここは、玲司がよく利用していた店だ。

店の前で立ち止まり、私はバッグの中から小さな箱を取り出す。

そっと蓋を開けると、中にはダイヤのネックレスが収まっていた。

結婚一周年の日に、玲司が贈ってくれたものだ。

あの日、玲司は珍しく少しだけ落ち着かない様子で、私の前にこの箱を差し出した。

『……開けてみろ』

いつも通りそっけない声だった。

けれど、箱を開けた瞬間、彼の視線がわずかに揺れたのを覚えている。

ネックレスを見つめる私の背後に回り、玲司は不器用な手つきでそれを首にかけてくれた。

冷たい金具が肌に触れたあと、彼の指先がほんの少しだけ私の首筋をかすめる。

それだけで、胸が苦しくなるほど嬉しかった。

『綺麗だ。似合ってる』

低く、短い言葉。

それでもあの時の玲司は、確かに優しく笑っていた。

日頃から、玲司はあまり感情を表に出さない人だった。

それなのにあの日だけは、ほんの少し頬を赤らめて、照れたように私を見つめてくれた。

夜空を押し込めたような、深く綺麗な瞳。

その揺れの中に、私は確かな温もりを感じていた。

この人に愛されている。この先も、ずっと一緒にいられる。

そんな愚かなほど幸福な未来を、私は本気で信じていた。

だけど、ある日を境に、その温もりは失われてしまった。

彼が香澄と過ごす時間が増えてから、私はこのネックレスを身に着けることができなくなった。

鏡に映るダイヤを見るたびに、幸せだった頃の自分がこちらを見ている気がして、苦しくなったから。

それでも、手放すことはできずに肌身離さず持ち歩いていた。

私の近くにいない玲司の代わりとして。

私は唇を噛みしめ、そっと箱を閉じる。

「ごめんね……」

誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。

玲司に対してなのか。あの日の思い出に対してなのか。

それとも、まだこんなものに縋っている自分自身に対してなのか。

ただ、その言葉だけが、無意識に唇からこぼれ落ちた。

これを手放せば、玲司と過ごした幸せだった時間まで失ってしまう気がした。

それでも、今の私にはもう、綺麗な思い出を抱えている余裕さえなかった。

ひどく重たく感じる店のドアを開けて、私は中へ入る。

玲司が、私のためにネックレス選んでくれた場所に私は今、それを売るために来ている。

だからこそ、少しでも高く買い取ってもらえるかもしれない。

事情を説明し、査定を待っていると——。

「あら?」

聞き覚えのある声がした。

振り返った瞬間、全身が凍りつく。

「千景さんじゃない」

そこに立っていたのは、香澄だった。

ふわふわしたシェルネージュの白いコート。男に守られることを知っている女の笑顔。

そして彼女の隣には、見覚えのある紙袋。

玲司がよく使うジュエリーブランド――メゾン・リュミエール、この店のものだった。

香澄は私の前へ歩み寄ると、店員の持つネックレスを見て目を丸くした。

「それ……綺麗じゃない」

そして次の瞬間、無邪気な声で言った。

「それ、私が買うわ」

シェルネージュのワンピースに身を包んだ香澄は、当然のような顔で店員へバッグを預けた。

「こちら、本日入ったばかりの商品でございます」

店員は先ほどまでとは打って変わって、へりくだった笑みを浮かべている。

そして次の瞬間。

「奥様、こちらのネックレスなどいかがでしょう?」

その呼び方に、私の思考が止まった。

――奥様?

香澄は独身のはずなのに、一体誰の妻だというのだろう。

いや、分かっている。

私の中では、もう答えが出ているけどそれを認めたくないだけだ。

胸の奥が、じわりと冷えていく。

店員が、私ではなく香澄を玲司の妻だと思い込むほどに、玲司と香澄は二人でこの店に頻繁に来ている。

私は無意識にネックレスを握りしめた。

玲司から結婚記念日に贈られたネックレス。

この場で、私がまだ玲司の妻なのだと証明してくれるものは、もうこれしかない気がした。

これを手放してしまえば、本当に何もかも香澄に奪われてしまう気がして、指先に力が入る。

「……やっぱり、売るのはやめます」

母の治療費が必要なことは、分かっている。

理性では分かっているのに、感情が追いつかなかった。

妻としての、ほんのわずかな自尊心。

それすら失ってしまえば、私はもう立っていられない気がした。

だけど、そう告げた瞬間、香澄の表情がわずかに歪んだ。

「え? でも困ってるんでしょ?」

「それでも、これは――」

「そんなに困っているなら、意地を張らなくてもいいのに」

香澄は困ったように眉を下げながら、私の手元へ指を伸ばした。

「大丈夫。私がちゃんと買ってあげるから」

優しく触れたように見えたその指先が、ネックレスの鎖に絡む。

「やめて……!」

反射的に身を引いた瞬間――

ぶつんっ。

細い鎖が、乾いた音を立てて切れた。

「あ……」

スローモーションのように、宝石が宙を舞う。

そして次の瞬間、床へ叩きつけられ、ぱきん――と嫌な音が響く。

砕けた破片が、床の上に散らばった。

それを見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

「……っ」

しゃがみ込み、震える手で破片を拾おうとしたその時だった。

「何してるんだ?」

低い男の声が私の頭上に降ってきた。

顔を上げると、店の入り口に玲司が立っていた。

ガラス張りの向こうには、隣の高級レストランから出てきたらしい香澄の知人たちの姿も見える。

きっと、玲司はそこに香澄と一緒にいたのだ。

私が母の治療費のために、思い出の品まで売ろうとしていた、そのすぐ近くで。

玲司は立ったまま、私を見下ろしていた。

ネックレスをプレゼントしてくれた日と同じ夜空のような瞳なのに、今の玲司の目には、私を映す熱がない。

かつては私だけを見つめてくれていると思えたその視線が、今はただ、邪魔なものを見下ろすように冷たく注がれる。

親しみもない。

温もりもない。

私を気遣う色など、どこにもない。

そこにいるのが妻である私だということすら、忘れてしまったかのようだった。

まるで、道端の蟻でも見るようなその瞳に見つめられ、私は思い知らされる。

あの日、私が感じた温もりは、もうどこにもないのだと。

「玲司……」

名前を呼んでも、返事はなかった。

代わりに玲司は床へ視線を落とす。

そして、砕けた宝石の破片を無造作に踏みつけた。

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