LOGIN聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。
頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。 「お願い……少しだけでも来て……!」 『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。 『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』 「……え?」 『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』 「でも……」 『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマスイブだ。 その光景がひどく非現実的なものに見えて仕方がなかった。 きっと玲司は今頃、“家族ごっこ”の続きで忙しくしているのだろう。 それからしばらく、流れゆく景色を呆然と見つめていると紫苑医科大学病院へ到着した。 その頃には、外はすっかり暗くなっていた。 受付で名前を告げると、職員の表情がわずかに強張った。 「朝霧美鈴さんのご家族ですね。救急外来へご案内します」 案内された先は、白いカーテンで区切られた救急処置室の前だった。 中からは、看護師たちの慌ただしい足音と、機械の電子音が漏れてくる。 「あの……母は?」 「現在、処置中です。医師から説明がありますので、こちらでお待ちください」 用意された椅子に座っている間、身体のどこにも力が入らない。 足が床についているはずなのに、宙に浮いたままふわふわしているような感覚に陥る。 何分待ったのか分からない頃、白衣を着た医師が私の前に立つ。 「朝霧美鈴さんのご家族の方ですね」 「はい……娘です。母は、どうなんですか?」 医師は一瞬だけ、言葉を選ぶように目を伏せた。 「施設で急性心不全を起こされた可能性が高いです。搬送時には血圧がかなり低下しており、酸素の取り込みも悪い状態でした。胸のレントゲンでも、肺に水が溜まっている所見があります」 「肺に……水?」 「心臓のポンプ機能が落ちると、全身に血液をうまく送れなくなります。その結果、肺に水分が滲み出て、呼吸が苦しくなることがあります。肺水腫を伴う心不全です」 説明されている意味は分かる。 母はもともと慢性的な心不全と、いくつかの内臓疾患を抱えていた。 だけど、数日前まで母の状態は安定していたはずだ。 それなのに、どうして? 状況をうまく飲み込めず、頭が追いつかない。 「今は酸素投与と利尿剤、それから血圧を保つ薬で状態を支えています。ただ、心臓への負担が強く、不整脈も出ています。しばらく集中治療室での管理が必要です」 「集中治療室……助かるんですか?」 自分の声が、ひどく掠れていた。 医師はすぐには答えなかった。 「今すぐ命に関わる状態は、ひとまず脱しています。ただ、予断を許さない状況です。もともとの心機能もかなり落ちていますし、腎機能も悪くなっています。今後、人工呼吸器や透析に近い管理が必要になる可能性もあります」 人工呼吸器。 透析。 現実味のない言葉ばかりが並んでいく。 「……面会はできますか?」 「短時間でしたら可能です。ただ、ICUですので時間は限られます」 医師に案内され、私は集中治療室の前まで歩いた。 自動扉の向こうに、母がいた。 細い腕には、点滴の管が何本も繋がれている。 鼻と口には酸素マスク。 胸元には心電図のコード。 指先には、酸素の値を測る機械。 ピッ、ピッ、と規則的な音だけが、母がまだ生きていることを教えてくれていた。 「お母さん……」 呼びかけても、母は目を開けない。 かつてこので院長を務めていた人とは思えないほど、母は小さく見えた。 朝霧美鈴(あさぎりみすず)。三年前まで、この病院を支えていた人。 患者第一で、現場からも慕われていた母は、ある日突然、院長の座を退いた。 理由は、誰も教えてくれなかった。 それから、まるで何かに追い詰められるように、母の体調は少しずつ崩れていった。 なのに今、その母は、この病院でひとりの重症患者として横たわっている。 私は唇を噛みしめた。 悔しくて、悲しくて、ただただ、どうしようもなく惨めだった。そう告げた瞬間、電話口の向こうが静まり返った。 ほんの数秒。けれど私には、その沈黙が何分にも感じられた。『……千景?』 その声を聞いたのは、何年ぶりだろう。『今さら、何の用だ』 続く言葉に、カッと頭に血が上りそうなる。 懐かしさなんてなかった。あるのは、冷たい壁に触れたような感覚だけだった。 母を私を捨て、勤めるべき責任も果たさなかった男が何年も聞かなかった娘の声を聞いて最初にかける言葉がそれなのか? 私は電話口に聞こえないようにふーと息を吐き、頭にのぼりかけた血を必死に沈める。「……お願いがあります」『お願い?』「母が……倒れました。集中治療が必要で、高額な治療費が必要なんです」 母を捨てた男に、母を助けてほしいと頼む。それがどれほど屈辱的なのか、分かっている。 それでも、他に縋る相手がいなかった。「一度だけでいいんです。会ってください」 父――朝霧宗一郎は、しばらく何も言わなかった。 電話越しに聞こえる微かな呼吸音が聞こえるたびに、私の心臓が痛いくらい脈打つ。 やがて、短く息を吐く音がした。『……今どこにいる』「病院を出たところです」『会社に来い』 それだけ言って、通話は切れた。 私はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 謝罪も、心配もない。 母が倒れたと聞いても、娘が泣きそうな声で頼んでも、この人の声は少しも揺れなかった。「……朝霧ファーマトレード本社まで、お願いします」 掠れた声で行き先を告げると、運転手は短く返事をして車を走らせた。 朝霧ファーマトレード――父が会長を務める、製薬商社。 母の実家の資金援助と人脈を使って大きくなった会社だ。 かつて母は、父の夢を信じ、自分の家柄も、資産も、人脈も、惜しみなく父に差し出した。 夫婦だから支え合うことは当たり前なのだと母は言っていた。 けれど父は、成功を掴んだあと、母ではない女を選んだ。 母と私を捨て、そしてすべてをなかったことのようにして、今も社会的な成功者として生きている。 タクシーがガラス張りの外壁に空が映り込んでいる高層ビルの前に停まった。 立派なエントランスに磨き上げられた床。行き交う社員たちの洗練された服装。 そのすべてが、私には別世界のものに見えた。 ここは、母の人生を踏み台にして築かれた場所だと思うと、
「朝霧……なぜ?」 奏人先輩からの言葉は、私が玲司にどれだけ縋っても、返ってこなかった言葉だった。 ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。 その手を取れば、きっと救われる。 母も、私も。 少なくとも今よりは、ずっと楽になれる。 それでも私は、それを拒んだ。 申し訳なさから、奏人先輩か目を逸らす。「私は……久我玲司の妻なので……」 ぽつりと、口からこぼれ落ちた言葉。 そうだ、どれだけ虚しい肩書きでも。外の世界で存在を消されていたとしても。 玲司の妻だというその事実だけは、まだ手放せなかった。 奏人先輩の優しさに縋り、その手を取ってしまったら、その事実が本当になくなってしまうのではないか。 そんな馬鹿げたことを、私は本気で思ってしまった。 奏人先輩の顔を見ることができず、私は顔を伏せ、そして自嘲気味に笑った。 くだらない。本当に、くだらない理由だ。 分かっている自分がどれほど非合理的なことをしているのか。どれほど支離滅裂なことを言っているのかも。 優しさに甘えて。縋りかけて。それでも最後の一線だけは踏み込ませない。 他人の善意を都合よく利用する、愚かな女だと思う。 それでも、譲れないものがあった。 理屈ではどうにもならない。感情が、それを拒んでしまうからだからどうしようもなかった。 何も言わなくなった私から、奏人先輩はゆっくりと離れ、倒れた椅子を起こし静かに座り直す。 短く息を吐いたあと、彼はゆっくりと口を開いた。「いろんなことが一度に起きたのに、追い討ちをかけるようなことを話してしまったな。すまない」 違う、悪いのは私だ。奏人先輩は、何も悪くない。「少し落ち着いてから考えてみるんだ。今がどういう状況なのか。今は混乱して、冷静に物事を考えられていないだけだと思う」 どこまでも私を気遣い、寄り添おうとしてくれる優しい言葉にまた縋りたくなる。 けれど同時に、強く思ってしまった。 やっぱり、これ以上この人に重荷を背負わせてはいけない。 私のために、負担になるようなことをさせてはいけない。 壁の時計を見ると、時刻は十二時になろうとしていた。「……何か、食べるものを買ってこようと思います」「それなら、俺が買ってくる」「いえ……少し、頭を冷やしたいので」「そうか……」 奏人先輩は迷うように私を見つめたあと、小
――結婚。 その言葉が、胸に刺さったままの見えない刃を、さらに深く捻るようだった。 私が、先に結婚したのに。 私が、玲司の妻なのに。 どうして、私ではなく香澄が。 どうして、外の世界では、私だけがいないことになっているの。 全身に鳥肌が立った。 視界の端が暗く滲み、目の前にいるはずの奏人先輩の顔が、少しずつ遠ざかっていく。 私は掛け布団の下でシーツを強く握りしめた。 爪が布に食い込む。 そうしていなければ、自分の体がどこかへ崩れ落ちてしまいそうだった。「……あ」 ぽたり、と。 何かが落ちた。 白い掛け布団の上に、赤い点が滲む。 鼻血だった。 次の瞬間、ぽた、ぽた、と赤い雫が続けて落ちていく。「朝霧!」 奏人先輩が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。 慌てて私のそばに寄り、手近にあったティッシュを取る。「大丈夫か!? 看護師を呼ぶ」「いえ……大丈夫、です」「大丈夫なわけないだろう」 奏人先輩の声が、わずかに荒くなる。 けれど、その怒りが私に向けられたものではないことは分かった。 彼はティッシュを私に渡しながら、もう片方の手でナースコールへ伸ばしかけた。 私は咄嗟に、その袖を掴む。「本当に……大丈夫です。少し、驚いただけなので」「驚いただけで鼻血が出るか」「……原因は、なんとなく分かってますから」 そう答えた瞬間、奏人先輩の顔色が変わった。 しまった、と思ったけれど、もう遅かった。「……どういう意味だよ」「……」「朝霧」 奏人先輩の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。 その表情を見た瞬間、ひどい自己嫌悪に襲われる。 関係のない奏人先輩の優しさに甘えて言わなければ背負わずに済んだ重みを、彼に背負わせようとしている。 踏み込まなければ気づかずに済んだことに触れさせて、彼を苦しめている。 そう自覚した途端、自分がひどく醜い存在に思えた。 私は顔を伏せた。 鼻を押さえながら、荒くなった呼吸を必死に整えようとするけれど、うまくいかなかった。 胸が苦しい。喉の奥が震える。泣きたいのか、笑いたいのか、それすら分からなかった。 そんな私の背中に、奏人先輩の温かい手がそっと添えられた。 無理に問い詰めるわけでもなく、慰めの言葉を並べるわけでもなく。 ただ、そこにいてくれる手。 その温もりが、
「え……?」 奏人先輩の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。「いったい、どういうことですか?」 玲司と結婚しているのかなんて、そんなの当然だ。 彼から結婚を申し込まれて、婚姻届にも二人でサインした。 名字だって変わって、私はもう朝霧千景ではなく、久我千景なのだ。 それなのに、どうして奏人先輩はそんなことを聞くのだろう。 呆然と見つめる私から、奏人先輩は言いづらそうに視線を落とした。「……久我玲司については、仕事の関係で何度か名前を聞いたことがある」「仕事の、関係で……?」「ああ。直接深く関わったわけじゃない。だけど、久我家の人間となれば、良くも悪くも名前は耳に入ってくるんだ」 奏人先輩はそこで一度言葉を切った。 次に続く言葉を選んでいるようだったけれど、その沈黙が怖かった。 私は掛け布団の下で、そっとシーツを握りしめる。「……俺が聞いた範囲では、久我玲司に妻がいるなんて話は、一度も出てこなかったよ」「……え?」 声が、掠れた。「そんな……はず、ありません」 私はあの家で、彼の妻として暮らしてきた。 毎朝、食事を用意して。 帰らない彼を待って。 香澄のところへ向かう背中を見送りながら、それでも自分は妻なのだと、そう言い聞かせてきた。 たとえ愛されなくても。 たとえ必要とされなくても。 私は玲司の妻なのだと、その事実だけに縋ってきた。「何かの、間違いでは……」「嬉しそうに結婚の報告をしてきた君の顔を思い出して、俺もそう思いたかった」 奏人先輩の声は低かった。 それは怒っているようにも、苦しんでいるようにも聞こえた。「だけど、少なくとも周囲では、久我玲司は独身という扱いになっているらしい」 独身。 その二文字が、鋭利な刃物のように胸へ沈んだ。 息の仕方が、分からなくなる。 私の知っている現実が、足元から音もなく崩れていくようだった。「それだけじゃない」「……まだ、何かあるんですか」 それは声というより、喉の奥からこぼれ落ちた呻きに近かった。 本当は、もう何も聞きたくなかった。 これ以上知ったところで、私の心が耐えられるとは思えない。 それでも、聞かずにはいられなかった。 知らないままでいるには、もう遅すぎた。 奏人先輩は私の顔色を見て、ためらうように口を閉ざした。「朝霧、無理に聞かな
消毒液の匂いがした。 ゆっくりと瞼を開けると、見慣れない白い天井が視界に入った。 病室――そう理解するまでに、そう時間はかからなかった。「……ここ、は」「目が覚めたか」 聞こえてきた声に、私はゆっくりと顔を横へ向ける。 ベッドのそばにいたのは、玲司ではなかった。「奏人……先輩……?」 そこにいたのは、大学時代の先輩である成瀬奏人(なるせかなと)だった。「ああ、久しぶりだな。結婚報告をもらって以来か」 昔から面倒見がよく、誰にでも穏やかに接する人だった。 けれど、今の奏人先輩はひどく険しい顔をしていた。 私の目が覚めたことに安心したのか、彼は小さく息を吐く。「よかった。急に倒れたから、本当に驚いた」「どうして……奏人先輩が……」 状況が飲み込めず、私はただ戸惑うことしかできなかった。「偶然、近くを通りかかったんだ。そしたら君が倒れるところが見えて、慌てて救急車を呼んだ」「そう、だったんですね……」 弱々しく答えながら、私はゆっくりと体を起こそうとする。 けれど、少し動いただけで眩暈がして、思わず眉をひそめた。「無理に起きるな」 奏人先輩が慌てて私の肩を支えてくれる。 その手は、温かかった。 優しくて、力強くて。 その温もりに、なぜか泣きそうになる。 今、一番そばにいてほしかった人は来てくれなかった。 なのに、偶然通りかかっただけの先輩が、こうして私のそばにいてくれる。 その事実が、情けないほど胸に痛かった。「……ご迷惑をおかけしました」「迷惑なんかじゃない。当然のことをしただけだ。見知った顔で、まして後輩ならなおさらだろう」 奏人先輩はきっぱりと言った。 大学時代から変わらないその真っ直ぐさが、眩しくて、心地よくて――けれど今の私には、少し苦しかった。 それきり、何を話していいのか分からず黙り込んでしまう。「それにしても、驚いた。朝霧――いや、今は久我か。久しぶりに見かけたのが、あんな場面だとはな」 眉間に皺を寄せながら頭をかく奏人先輩の仕草は、大学時代とほとんど変わっていなかった。 その変わらなさに、思わず苦笑がこぼれる。 私は、こんなにも変わってしまったというのに。「朝霧でいいですよ、奏人先輩」「そうか? なら、そのほうが助かる」 奏人先輩は小さく笑った。 けれど、その笑みはすぐに
シェルネージュのワンピースに身を包んだ香澄は、当然のような顔で店員へバッグを預けた。「こちら、本日入ったばかりの商品でございます」 店員は先ほどまでとは打って変わって、へりくだった笑みを浮かべている。 そして次の瞬間。「奥様、こちらのネックレスなどいかがでしょう?」 その呼び方に、私の思考が止まった。 ――奥様? 香澄は独身のはずなのに、一体誰の妻だというのだろう。 いや、分かっている。 私の中では、もう答えが出ているけどそれを認めたくないだけだ。 胸の奥が、じわりと冷えていく。 店員が、私ではなく香澄を玲司の妻だと思い込むほどに、玲司と香澄は二人でこの店に頻繁に来ている。 私は無意識にネックレスを握りしめた。 玲司から結婚記念日に贈られたネックレス。 この場で、私がまだ玲司の妻なのだと証明してくれるものは、もうこれしかない気がした。 これを手放してしまえば、本当に何もかも香澄に奪われてしまう気がして、指先に力が入る。「……やっぱり、売るのはやめます」 母の治療費が必要なことは、分かっている。 理性では分かっているのに、感情が追いつかなかった。 妻としての、ほんのわずかな自尊心。 それすら失ってしまえば、私はもう立っていられない気がした。 だけど、そう告げた瞬間、香澄の表情がわずかに歪んだ。「え? でも困ってるんでしょ?」「それでも、これは――」「そんなに困っているなら、意地を張らなくてもいいのに」 香澄は困ったように眉を下げながら、私の手元へ指を伸ばした。「大丈夫。私がちゃんと買ってあげるから」 優しく触れたように見えたその指先が、ネックレスの鎖に絡む。「やめて……!」 反射的に身を引いた瞬間―― ぶつんっ。 細い鎖が、乾いた音を立てて切れた。「あ……」 スローモーションのように、宝石が宙を舞う。 そして次の瞬間、床へ叩きつけられ、ぱきん――と嫌な音が響く。 砕けた破片が、床の上に散らばった。 それを見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。「……っ」 しゃがみ込み、震える手で破片を拾おうとしたその時だった。「何してるんだ?」 低い男の声が私の頭上に降ってきた。 顔を上げると、店の入り口に玲司が立っていた。 ガラス張りの向こうには、隣の高級レストランから出てきたらしい香澄の知人







