Masuk和彦の周囲を流れていた空気が一気に凍りつき、目の前に座っている秦が顔を強張らせる。そこまでを認識したときには、世界が一変した。
寸前まで隣に座っていた鷹津がいつの間にか立ち上がり、体が震えるような怒声を発する。テーブルの上の食器を掴んだかと思うと、ホールの中央に向かって投げつける。同時に秦がテーブルを乗り越えながら、スーツのジャケットから何かを取り出す。ちらりと見えた銀色の冷たく輝く刃が、和彦の網膜にしっかりと焼きついた。「佐伯っ、伏せてろっ」 鷹津に怒鳴られて、ぐいっと頭を押さえつけられる。和彦はソファの上に倒れ込んだが、そのまま体が硬直し、動けなくなった。 その間、鼓膜に突き刺さるようなガラスの割れる音と、重々しい衝撃音が響き、そこに男たちの罵声や、威嚇する声が入り乱れる。ずいぶん長い間続いていたような気がするが、もしかすると一分ほどのことだったかもしれない。とにかく和彦は、身動きどころか瞬きもできず、ただ、壁を凝視していた。「――生きてるか」 再び頭上から鷹津の声がする。ハッと我に返った和彦は、大きく粗野で暴力的な空気をまとっている南郷だが、ときには人を煙に巻くような、皮肉めいていたり、迂遠な物言いには知性が感じられるということを。 和彦がつい聞き入ってしまうのは、そのせいだ。〈言葉〉をよく知っている男なのだ。 南郷が読書家だというのは、世間話程度に賢吾から聞かされてはいるし、総和会の中でも口の端に上ることがあった。書厨と言われるような、ただ本を読むだけでなんの知識も得ない人間ではないのだと、南郷の話を聞いていれば察することができる。 いかにも筋者らしい見た目は他人を威圧する武器になるだろうが、南郷は身の内に、狂暴性とは別の、切れ味鋭い武器を持っているのかもしれない。「……会長と、何を企んでいるんですか」 坂道の勾配は大したことはないが、水たまりを避け、泥に足を取られまいと踏ん張るうちに、息が上がる。それでも和彦は問いかけずにはいられなかった。「ひどい言いようだ。この世界、何も企んでいない奴なんていないだろう。長嶺組長だって例外じゃない」「答える気はないということですか……」「まだ、な。別の質問なら、答えられるかもしれない」 ここでようやく道が開け、見覚えのある景色が目の前に広がる。千尋と訪れたとき同様、湖に氷が張っており、岸にはうっすらと雪が残っている。人が歩いた痕跡はなく、さすがにこの寒さでは、水辺で散歩をしようなどという酔狂な人間は、和彦たち以外にいなかったようだ。 湖を渡ってくる風は突き刺さるように冷たく、和彦は首を竦める。すると、肩に南郷の腕が回された。反射的に体を硬くし、睨みつける。「触らないでください」「誰も見てやしない。恥ずかしがらなくてもいいだろ、先生」 とぼける南郷は腕を離すどころか力を入れたため、やや強引に歩かされる。 突然のことに動揺していた和彦だが、寸前まで自分たちが何を話していたか思い出した。「――……ぼくの役目は、なんですか」「従順なオンナであること。俺たちの求めに逆らわず、協力してくれればいい」「長嶺組長――賢吾さんへの嫌が
再び歩き出したとき、南郷はいくらか歩調を緩め、こちらのペースに合わせ始める。この男の見た目に似合わぬ気遣いがもともと苦手だったが、今はさらに拍車がかかっていた。和彦自身のことなどどうでもよく、守光と賢吾のために、〈オンナ〉を丁寧に扱ってやっていると、そんな南郷の心の声が聞こえてきそうなのだ。 自意識過剰だと、あるいは被害妄想だと嗤われるかもしれないが――。 ふと南郷が振り返り、何もかも見透かしたような一瞥を寄越してくる。和彦は身構えた。「何か……?」「いや……。あんたは、この先にある場所に行ったことがあるか?」 南郷が指さしたのは、車も通れないほどの細い道だった。一瞬、和彦が表情を緩めると、それで南郷は察した。「あるようだな。この先は、いい散歩コースになってる。暖かい時期は釣りや水遊びが楽しめるんだが、さすがに今はな」 知っていると、心の中で頷く。和彦にとっては、微笑ましい思い出を作った場所でもあるのだ。千尋とは雪に塗れてはしゃいだし、三田村や中嶋とはのんびりと釣りを楽しんだ。 そんな場所に南郷と行きたくないなと思ったが、あまりに子供じみた感傷かと、表に出さないよう努める。「――俺はもう、何者にもなれない男だ」 数歩先を歩く南郷が唐突に切り出す。それが自分にかけられた言葉だとわかり、和彦は軽く目を見開いた。「えっ……?」「薄汚い野良犬が、ここまで成り上がれたんだ。望外の出世というやつだ。それもこれも、オヤジさん……長嶺の男たちのおかげだ」「ぼくは……、あなた個人に興味はありません」「だが、俺が、長嶺の男たちに与える影響には、興味があるだろ?」 南郷は前を向いたままで、どんな表情で言ったのか知ることはできない。ただ、和彦を挑発するために言っているわけではないと、不思議な確信はあった。「俺は、オヤジさんが築いてきたもの、築こうとしているものを守りたい。要はそれだけだ。結果としてそれが、あとに続く長嶺の男たちのためになる」「&
それでも、吐いてしまえば、驚くほど楽になった。体調が悪いというより、過度な緊張に胃が耐えられなかったのかもしれない。 和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。 おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」 ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」「まあ無理はしないでくれ」 改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。 見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。 ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。 和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。 情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。** 朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。 一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。 庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。
** 寝起きの気分は最悪だった。 和彦は布団の中で、体の節々が痛んでいることを確かめると、慎重に体を起こす。部屋の暖房が効きすぎており、額や首筋がじっとりと汗ばんでいた。 頭はぼうっとしており、すぐには思考が働かない。そもそも昨夜、自分はどうやって部屋のベッドに入ったのかすら、記憶は曖昧だ。 和彦は、カーテンの隙間から差し込む弱々しい陽射しを漫然と眺める。そうしているうちにやっと、自分の身に起こった出来事が蘇ってきた。 慌ててベッドから出ると、はっきりと筋肉痛を自覚する。もちろん、それだけではなく――。 和彦は唇を噛むと、落ち着きなく室内を歩き回る。そうしているうちに、ようやく思考が正常さを取り戻す。大きく息を吐き出したあと、ひとまずカーテンを開けた。 厚い雲の合間から、陽が差している。どこか神秘的ですらある光の帯がうっすらと伸びていたが、雲が流れたことによってあっという間に消えてしまう。そこで和彦も我に返った。 時計を見れば、午前九時を少し過ぎている。いつもより遅めの起床となったが、あまり眠った気はしない。 また横になりたい誘惑に駆られた和彦だが、ゆっくりしている場合ではないとすぐに思い直す。とにかくここを出たかった。こんなところに閉じ込められたままでは何もできないことは、昨夜痛感した。 ため息をついて再び窓の外を見ようとしたとき、突然、ドアをノックされる。和彦はビクリと体を震わせ、声も出せずにその場に立ち尽くす。 再びのノックはなく、いきなりドアが開いた。「――起きてたか、先生」 のっそりと部屋に入ってきた南郷が、和彦の姿を認めるなりニッと笑いかけてくる。その表情に馴れ馴れしさを感じたのは、ある種の被害妄想かもしれない。和彦は直視できず、反射的に顔を背ける。「下りてきて、朝メシを食ってくれ」 昨夜のことなど一切匂わせない南郷の言葉に、一瞬激高しかける。しかし、怯えが上回ってしまう。「食欲はないです……」「まあそう言わず、一口、二口でいいから、口をつけてくれ」「いりませんっ。放っておいてくださいっ―
無謀なことをしているとわかってはいるが、あの場を逃げ出さずにはいられなかった。このままでは守光の野心に食らい尽くされてしまうと、本能的に悟ったからだ。 せめて、抵抗の意思だけでも示さなければ――。 そんな和彦の想いは、しかしすぐに揺らぐことになる。 午前中、南郷の運転する車で通った道は、今は真っ暗だった。遠くにぽつんと街灯の明かりが見えるが、だからこそ別荘周囲の暗さが際立つ。足元さえよく見えないのだ。 慎重に歩き出しはしたものの、まだ残っている雪に足を取られそうになる。こんな状態で人家がある場所まで行けるはずもないが、前に進むしか和彦にはなかった。 サンダル履きで剥き出しとなっている爪先はすでに感覚がなくなっている。息をするたびに冷気が肺に突き刺さり、もうすでに息苦しい。ふらついた拍子に、道の脇に転がり落ちそうになり、咄嗟に木にすがりつく。地面に落ちた毛布を拾い上げる気力もなくなっていた。 このままではすぐに凍死するのではないかと、ふとそんなことが脳裏を掠める。思考まで凍り付きそうになっており、それもいいではないかと和彦が投げ遣りになった瞬間、まるで戒めるように、賢吾の顔が思い浮かんだ。 賢吾だけではない。自分に情を注いでくれた男たちの顔が次々と。「ふっ……」 嗚咽を一つこぼし、和彦はその場に立ち尽くす。もう、前にも進めなくなっていた。 耳元で聞こえる風の音に交じって、背後から近づいてくる音があった。半ば確信して振り返ると、懐中電灯らしき明かりがちらちらと揺れながら、こちらに近づいていた。しかも複数。 明かりに目を射抜かれて顔を背けていると、足音が側までやってくる。「そんな格好でいると、風邪をひきますよ」 声をかけてきたのは吾川だった。その後ろに二人の男たちがついているが、南郷はいない。 男の一人からダウンジャケットを受け取った吾川が、和彦の肩にかけてくれる。「さあ、別荘に戻りましょう。すぐに、温かい飲み物を準備しますね。落ち着いたら、部屋で休みましょう。やっぱりリビングだと、ストーブをつけていても寒いですから。ああ、飲み物と一緒に、鎮痛剤も出しておきま
「ぼくに、長嶺の男たちの側にいてほしいと言いながら、どうして、南郷さんと……」「あんたが、その長嶺の男たちにとって、大事で可愛いかけがえのないオンナだからだ」 会話が堂々巡りに陥りそうになっているのを察し、和彦は強い苛立ちを表に出す。守光は肝心なことを誤魔化そうとしているのではないかとすら考え始めていた。「――賢吾の大事なものが欲しかったそうだ」 和彦は数秒息を詰めたあと、ゆっくりと目を見開く。ぽんっと投げて寄越された守光の言葉を、すぐには受け止めきれなかった。「自分とは何もかもが違う特別な男と、同じものを手にしてみたいと……、そう、南郷は言っていた。わしが、何か欲しいものはないかと聞いたときに」「それが、ぼくだと……?」「ああ。あんたをわしのオンナにした時点で、南郷の希望を叶えることはできたが、それではあまりに情緒がない。だから少し無茶もしたが、あんたを南郷という男に慣らしていった。あんたの持つ性質なら、情を抱いて南郷を受け入れてくれるかもしれないと期待をしていたが、南郷のほうがよくわかっていたよ。あんたはそうはならないだろうと。ただ、だからこそ、互いに溺れることはないだろうと言われて、なるほどと納得した」 穏やかな口調で、この人は一体何を言っているのだろうかと、和彦は瞬きも忘れて守光を凝視する。自覚はなかったが、足が小刻みに震えていた。もちろん、寒さからではない。 自分の隣に座っているのは人の皮を被った怪物だと実感していた。「できることならもっと時間をかけて様子を見たかったが、あんたが佐伯家に里帰りすることになって、予定が変わった。あんたには、何があっても年明けにはこちらに戻ってきてもらわねばならん」 和彦は自分の膝をぐっと押さえつけてから、頭に浮かんだ疑問を口にした。「あんなことをされて……、ぼくが戻ってくると考えているんですか?」「仮にあんたが戻らないとして、どんな事態が起こり得るか、想像を働かせてみるといい。佐伯俊哉という男が、わざわざわしと連絡を取り合っていたのは、相応の理由がある。わ