Mag-log in聞こえよがしにぼやくと、肩に賢吾の手がかかってドキリとする。そのまま抱き寄せられるのではないかと身構えたが、軽くポンポンと叩かれただけで、すぐに手は離れた。さすがに、周囲に人がいる状況で、賢吾もそこまで大胆ではなかったようだ。
自分だけが動揺させられたようで悔しくて、恨みがましい視線を向ける。一方の賢吾も、意味ありげな流し目を寄越してきた。「――そんな顔をするぐらい、俺のことが聞きたいなら、失敗した結婚の話をしてやろうか? 聞いて気持ちのいいものじゃないぞ。俺の人生において数少ない修羅場の一つだ」「絶対、ウソだ」「何がウソだ」「あんたみたいな男が、モテないはずがないだろう。それこそ、修羅場なんていくらでもあるはずだ。……いちいち覚えられていられないぐらい」「……先生が言うと重みがあるな」 賢吾のとぼけた口ぶりに、なんと返そうかと考えているうちに、再び肩に手がかかり、ぐいっと引き寄せられた。半ば強引に方向転換させられて立ち止まったのは、グッズ「雲行きが怪しいというのは、不文律というものを解しないしない人間……組織もですね。そういう連中の気配をちらほら感じるようになったということです」 少々回りくどい言い方だなと和彦が眉をひそめると、中嶋はくすりと笑った。ここでまた、背に落ち着かないものを感じる。「ある田舎者が、意気揚々と乗り込んでこようとしているみたいです。いくつかの物件を名義を変えて押さえてから、名のある組同士が牽制し合って空白地帯となっているところを一気に押さえて、一旗揚げようとか、のぼせたことを考えているんじゃないか――、あっ、これ、南郷さんの言葉です。実現できなくても、存在感を示すことはできる。悪名だとしても」 ふいにベランダの隔て板の向こうから、子供二人の甲高い声が上がる。それを窘める柔らかな女性の声も加わったところで、中嶋がぽつりと呟いた。「おや、幼稚園から戻ってきたのかな」 聞くつもりはないのだが、拙い口調で今日は何をして遊んだか懸命に話すため、どうしても耳を傾けてしまう。千尋の子である稜人も、あんなふうに話すのだろうかとつい考える。同時に、隣人がごく普通の家族ということで、中嶋はどんな顔をしてこの部屋に滞在しているのかと急に心配になる。「……君の素性、怪しまれたりしてないか?」「婚約者とそのうち一緒に住む予定だと言ってます。隊の人間も出入りしますが、それについては、仕事を独立する準備のためだとか、もっともらしいことを言ってます」 面倒なことになったら別の部屋に引っ越すだけだと、軽い調子で中嶋が言う。 和彦は、じっと地上を見下ろしながら問うた。「で、乗り込んでこようとしている田舎者というのは誰なんだ」「――伊勢崎組です」 さほど驚きはなかった。伊勢崎組がこちらで新しい商売を始めたがっていることは聞いており、中嶋の話を聞きながら察してはいた。ただ、だからこそ気になることがある。「この街で動いていることと、そこにキリエ和泉ビルがあることは、偶然なのか?」「んなわけないですよね」 カラカラと笑う中嶋をじろりと睨んでから、和彦はため息をつく。「賃貸
ベランダに面した部屋に通されたが、本来は二部屋なのを、仕切りドアを外して一部屋として使っているようだ。片隅にベッドが置いてあり、大きなテーブルとイスが何脚か。テーブルの上にはノートパソコンなどの機材一式が接続された状態で並んでいる。壁際には無造作にホワイトボードが立てかけられており、そこには地図の他に、細かい字が印刷された書類や、建物などの写真が貼り付けられていた。「なんなんだ、この部屋……」 さきほど外で見かけた微笑ましい光景とは一変して、何かうすら寒いものを感じて和彦は眉をひそめる。「――前線基地っぽくないですか?」 物騒な単語に息を詰める。和彦はじわじわと警戒を強め、改めて中嶋を見つめる。ハンサムなのは相変わらずだが、しばらく会わない間に少しだけ近寄りがたさを増した気がする。今はもう、中嶋が元ホストだと言ってもほとんどの人間は信じないだろう。「前線基地って、どういうことだ?」「この街がどういうところなのか、先生は知ってますよね。なんといっても、でかいビルを所有することになるんですから」 千尋から聞かされたとおりに話すと、中嶋はニヤリとして口元に指を当てた。「もしかすると千尋さんは、あえて情報のアップデートをさせてもらってないのかもしれませんね。先生の側にいる方ですから」「……大きい組同士が話し合って、荒れてた状況が収まったというのは、うそなのか?」「うそじゃないです。もっとも俺は、南郷さんたちに教えてもらうまで、この街がかつてどういう状況だったかすら知らなかったので、偉そうに語れる立場でもないんですけど」 中嶋に誘われて、二人でベランダに出る。穏やかな風に髪を撫でられながら地上に視線を向けると、行き交う人たちの姿が見える。「この街――桐栄区について、俺たちの業界では不文律があるらしいです。昔の、人死にが出るほどのゴタゴタで得た教訓らしいですけど、組事務所は置かない、というものです。それに組を後ろ盾にした商行為も厳しい目を向けられると。せいぜいが、自分の愛人に店を持たせる形にするとか、そういう抜け道を使ってなんとか。総和会といえど、この不文律は守
** 小野寺の丁寧な運転で、車が街中を走る。和彦は瞬きも忘れ、外の景色を凝視していた。つい最近見た光景だと既視感に襲われたのは一瞬で、なんのことはない。ほんの一週間ほど前に同じ道路を通ったのだ。九鬼が運転する車で。 駅前を走り抜けるとき、ちょうどキリエ和泉ビルも目に入る。今日はこのビルに用はないが、なんの目的もなくこの場所に来るはずもなく、和彦は用心深く周囲に視線を向け続ける。 前回は離れた距離から見かけたショッピングモールの側を通り抜けて少し行くと、マンションが建ち並ぶ景色が広がる。ベランダでは洗濯物が風で揺れ、遊具の揃った公園では、遊んでいる母子の姿が何組か。のんびりとして平和な午後の光景だ。 車は、数あるマンションの一棟の前に停まった。規模からしていわゆるファミリー層向けのマンションのようだ。 小野寺が軽くあごをしゃくると、加藤が黙って車を降りる。和彦も、買ったばかりの服が入った袋を抱えて車を降りた。小野寺にそうするよう言われたのだ。 加藤にとっては初めて訪れた場所ではないらしく、迷いのない足取りでエントランスに向かい、和彦も小走りであとをついていく。無防備についていっていいものかと考えなくもないが、一応組のほうには、中嶋と合流することは伝えてある。万が一にも和彦を拉致する目的だとしても、この場所ではないだろうと妙な確信があった。 ちょうどエレベーターの扉が開き、ベビーカーを引いた女性が降りてくる。強面の加藤に一瞬ぎょっとしていたが、和彦には笑顔で会釈してくれたので、ソツなく挨拶を返しておいた。 六階でエレベーターを降りると、誰もいない共用通路を黙々と歩く。この高さだと、来るときに見た公園がよく見下ろせる。公園の隣には小さいながらグラウンドもあり、危なっかしい足取りでサッカーボールを追いかける小さな子供たちがいる。可愛らしい姿に目を細めていると、いつの間にか立ち止まっていたらしい加藤とぶつかった。「――南郷さんが言ってました」 謝まると、そう加藤が切り出す。「へっ?」「佐伯先生の前を歩くときは気をつけろと。よそ見してぶつかってくることがあるから」「……そ
「あー……。相性が悪すぎるから、か。いざというときに殴り合いでも始められたら困るもんな」「いえ、俺はそんなに粗暴じゃないので。こいつじゃあるまいし」 小野寺に悪し様に言われても、加藤は言い返さない。「まあ、粗暴でも性悪でも、ぼくの前で取っ組み合いをしないなら、別にいいんだ。今のところ君たちはきちんと仕事してくれているわけだし」「性悪って、もしかしてそれ――」 短く噴き出したのは加藤だった。小野寺がカッとしたように詰め寄ろうとしたが、寸前で和彦は腕を引っ張る。「よし、欲しいものは選んだからレジに行くぞ」 小野寺を引きずってレジカウンターに向かうと、むっつり顔で加藤もついてくる。 欲しいものを買ったあとは帰るだけだが、それも味気ない。広い施設内を歩きながら辺りを見回した和彦の目に、ひときわにぎわっている店が飛び込んでくる。何かと思えばアイスクリーム店だ。「今日は特に天気がいいからなー」 ぽつりと洩らすと、怪訝そうに小野寺が振り返る。加藤は、和彦の斜め後ろをついて歩いている。「何か?」「ちょっと休憩をしよう」 二人の返事も聞かず、和彦はアイスクリーム店に突入する。 気温も高めということもあって、客が多いのもう頷ける。少し列に並ぶことになったが、無事にアイスクリームを買うと、休憩スペースに移動して腰を落ち着ける。基本的に無表情の加藤はともかく、小野寺はなんとも不本意そうな顔をしている。「――佐伯先生、俺たちをからかって楽しんでます?」 チョコレートミント味のアイスクリームを一口食べた小野寺が問いかけてくる。ちなみに加藤はコーヒー味だ。「ぼくはそんなに性悪じゃない。つき合ってもらったささやかなお礼のつもりだ。ぼくも食べたかったし」「俺も性悪じゃないです。……男三人並んでアイスを食うって……」「ぼくが一人で食べて、君らが側でじっと眺めているほうが、周りから注目を浴びると思うぞ」 不承不承といった様子で小野寺はもう一口食べる。和彦は抹茶味のアイスクリームを
** 勝手が違うなと、ジャケットを選びながら密かに和彦は苦笑を浮かべる。 もういつ暑くなっても不思議ではないため、それに合わせて薄手のジャケットと、ワイシャツも何枚か買おうと、今朝のうちになんとなく予定に組み込んでいた。しかし、これは予定になかったと、傍らに立つ小野寺に視線を向ける。距離が近い、というのがまず頭に浮かんだ感想だ。 長嶺組の護衛は慣れたもので、和彦が外を出歩くときは絶妙な距離を取り、窮屈な思いをしないよう配慮してくれる。だが、護衛任務はまだ試行錯誤中らしい加藤と小野寺は、なぜか和彦にぴったりと張り付いている。「……こんなに側にいなくても大丈夫だぞ。もう少し離れていても……。ほら、あそこにイスがあるから、座って待ってたらどうだ」 途端に小野寺から呆れたような眼差しを向けられる。一方の加藤は黙然としてただ周囲を見回している。「不審者が出たというのに、呑気ですね……」「騒ぎにはならなかったと組から連絡が来た。おかげで警察も来なかったとも。一体何者だったのかは書いてなかったが――あえて書かなかったのかな。まあ、なんにしても、すぐに戻らないといけない事態ではなかったみたいだ」 小野寺と加藤の役目はとにかく騒動の場から和彦を離すことだったため、今からでも護衛を戻そうかと問われたが、断った。わざわざ買い物の付き添いのためだけに、組員を移動させるのも申し訳ない。「そういえば、さっきの騒ぎ、もう南郷さんには報告したのか?」 さりげなく尋ねると、加藤と小野寺はちらりと視線を交わし合う。「もちろんです」「……自分の隊の人間が役に立ったと、喜んでいるだろうな」 そして、二人を護衛につけた自分の判断が間違っていなかったことも。 加藤はともかく、小野寺がまったく興味なさそうな顔で立っているのが気になり、和彦は手早くジャケットとワイシャツを選んでいく。嫌がらせのつもりはないが、選んだものは小野寺に持たせていく。「先生は、もっと気取った……お高
この場合、〈軽いトラブル〉とは、和彦を不安にさせないための方便だと考えたほうがいい。気にはなるが、引き返したところで足を引っ張るだけだ。よほど慌てていたのか、メッセージの指示は曖昧だ。どちらに向かって移動すればいいのかと戸惑いつつ、きょろきょろと辺りを見回してから、とりあえずファミリーレストランから離れることを優先する。 タクシーが通りかかるのを待つより、駅まで行ってから帰宅方法を決めるほうがいい。そう考えながら速足で歩いていると、ふいに傍らで短くクラクションが鳴らされた。危うく飛び上がりそうになる。 いつの間にか黒の軽ワゴン車に並走されていた。ハンドルを握っているのは加藤だ。ウインドーが下ろされ、短く告げられる。「――先生、乗ってください」 躊躇する間も惜しく、和彦は素早く後部座席に乗り込む。このとき、助手席の小野寺の存在に気づく。 すぐに加藤は車を出したが、なかなか運転が荒い。車中に漂う緊張感に怯みそうになりながら、和彦は口を開く。「何があったんだ?」「ちょっと面倒な人物が、あのファミレスに近づこうとしていたそうです」「面倒な人物って……」「俺たちも詳しくは聞いてないんです。たぶん先生にとって、面倒な人物ということじゃないかと。それで、長嶺組の組員さんたちが引き止めている間に、先生を連れて行ってくれと頼まれました」 誰のことだと、和彦は眉をひそめる。長嶺組の組員が、護衛任務をこの二人に引き継いでまで和彦との接触を避けた人物となると、すぐには思い当たらない。「……じゃあ、マンションか、長嶺の本宅に戻らないといけないということか……」 スタッフたちと別れたあとは買い物に行くつもりだったが、それどころではなくなった。落胆が声に出ていたのか、小野寺が振り返った。今日は耳朶でリングピアスが揺れている。「先生、このあと何か予定が?」「買い物に行く予定だった。だけど――」「行きましょう。つき合いますよ」 大丈夫なのかと怪訝な顔をする和彦に対して、小野寺が頷く。「――…&h