LOGIN「……携帯電話を落とした。鷹津という刑事の前で。多分――」
「奴なら、嬉々として拾っただろうな」 自分のミスを責められた気がして、和彦は唇を噛む。すると、握られた手を引っ張られ、賢吾に抱き寄せられた。「そんな顔するな。先生は何も悪くない。三田村に、秦という男に連絡を取らせて、詳しい状況は把握した」 賢吾の言葉に、和彦は身を強張らせる。秦にされたことを意識して頭から追い払おうとするが、千尋との濃厚な行為の余韻も加わり、煩悶したくなるような疼きを呼び起こしてしまう。 和彦のこの反応は、秦が望んでいるものだろう。罪悪感と恐怖から、すべてを賢吾に話すことなど不可能だった。「あの場は、逃げ出して正解だ。下手に騒動になったら、それこそ公務執行妨害だなんだと難癖つけられて、警察に引っ張られる口実を与えるだけだ」 話しながら賢吾の指にうなじをくすぐられ、髪の付け根を刺激される。和彦が小さく身震いすると、賢吾の唇が耳に押し当てられた。「……鷹津に近づ「落ち着いている。――兄さんのことを考えたくなくて、あんたに八つ当たりしているんだ」「八つ当たりどころか、先生には俺を責める真っ当な権利があると思うが」 本当にそうしようと思えば、いくら時間があっても足りない。心の中で応じた和彦は、賢吾を睨みつける。そんな和彦の視線を受け、平然とした顔で賢吾が問いかけてきた。「――家族が恋しくなったか?」 一瞬うろたえた和彦だが、すぐに首を横に振る。「それは……、ない。ぼくにとっての家族は、一緒にいて心安らげる存在じゃなかった。一人暮らしを始めたときは、ほっとしたぐらいだ」「先生がそう感じていることと、過剰なぐらい痛みを苦手にしていることは、関係あるのか? 誰だって痛い思いはしたくないだろうが、先生の場合は様子が違う」 確信を得ているような賢吾の口調だった。これまでの和彦の言動から、感じるものがあったのだろう。 これは佐伯家に対するささやかな報復だと思いながら、和彦は口を開いた。「……物心ついた頃から、ぼくは痛みを与えられていた」「虐待か?」 わずかに眉をひそめた和彦は曖昧に頭を振る。「そういうものとは違う……とぼく自身は思っていた。兄さんも、弟を虐待しているなんて意識はなかっただろうな。そうする権利が自分にはあると、信じていたんだ。多分、今も」「その口ぶりだと、先生を痛めつけていたのは、兄貴だけなのか」「親には手を上げられたことはない。そんなことをするほど、ぼくに興味がなかったんだ」 腕組みをした賢吾が、じっと和彦の顔を見つめてくる。和彦は静かに見つめ返していた。賢吾を見つめながら、その内に潜んでいる大蛇の姿を捉えようとしていたのかもしれない。反対に賢吾のほうは、和彦の内に何かを感じたようだった。「――……前にも似たようなことを言ったはずだが、先生は身の内に、冷たい体温の生き物を飼っているようだ。誰も捕まえられない、触れさせることすらしない、大蛇よりも硬い鱗で体を守りながら、とんでもなく臆病で神経質な、そんな生き物だ」
** 憔悴しきった自分の姿を取り繕う余裕すら、和彦にはなかった。そんな和彦を、座卓についた賢吾がじっと見つめてくる。「――……千尋からの電話で聞いてはいたが、ひどい顔色だ、先生。できることなら、さっさと休ませてやりたいが、その前に、何があったのかを知っておかねーとな」 わかっていると、和彦は浅く頷く。話し始めようと一度は唇を開いたが、震えを帯びた吐息が洩れ、声が出なかった。 賢吾は急かすことなく、ただ見つめてくる。過度の優しさも気遣いもうかがわせることのない、だからこそこちらに精神的負担を与えてこない、不思議な眼差しだ。マンションから本宅に向かう車中、動揺して震える和彦の肩を抱きながら、千尋も同じような眼差しを向けてくれたのだ。 和彦はぎこちなく深呼吸をしてから、やっと言葉を発した。「あんたが、里見さんとの連絡用に持たせてくれている携帯に、兄さんから電話がかかってきた。里見さんの携帯を盗み見して、そこにあった怪しい番号にかけたら、ぼくが出たんだそうだ」「と、言われたか?」 揶揄するような賢吾の口調が気になり、ちらりと視線を上げる。賢吾は、口元に柔らかな微苦笑を浮かべていた。「……どういう意味だ」「震え上がるほど苦手にしている兄貴から言われたことを、すんなり信じるなんて、先生は人がいい」 数十秒近くかけて、賢吾の言葉を頭の中で反芻する。そして和彦は、あっ、と声を洩らした。目を見開き、賢吾を凝視する。「俺は悪党だから、まずはこう考えるんだ。先生の兄貴と、先生の初めての男が手を組んだんじゃないかってな。先生が信用した頃を見計らって――」「里見さんはそんなことはしないっ」 感情的に声を荒らげた和彦だが、次の瞬間には、自分が今誰と向き合い、話しているのかを思い出し、我に返る。 賢吾の口元にはすでにもう笑みはなかった。無表情となり、大蛇を潜ませた目でまっすぐこちらを見据えてくる。戦慄した和彦は、自分の失言を噛み締める。しかし賢吾は怒りや不快さを表には出さなかった。「いまだに信頼しているんだな、里見を。やっぱり
『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』 英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。「あっ、先生、ここにいたんだ」 ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。『誰かいるのか?』 ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。「……兄さんには関係ない」『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』 このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』「その気はない。悪いけど……」『お前が意
ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』「里見さんはっ――」『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』 相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。 自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』「――……兄さんが出馬するという話なら」『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』 佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしてい
** 和彦はTシャツを着込むと、濡れた髪を掻き上げてから大きく息を吐き出す。そして、ドアを開けたままのバスルームにちらりと視線を向けた。 バスタブの縁にあごをのせた千尋が、目が合った途端に笑いかけてくる。締まりのない顔だが、これが長嶺の男だと思うと、可愛いと感じられるから不思議だ。いや、単に和彦が、千尋に対して甘いだけかもしれない。「先生、もっとゆっくり湯に浸かればいいのに」「……お前がまとわりついてくるから、湯あたりしそうになるんだ」「俺が介抱するけど?」「そんなこと言って、何されるかわかったものじゃないから、遠慮する」 連休の間、どれだけ千尋に我慢を強いていたのか、和彦は今日、身をもって知った気がする。とにかく普段以上に、千尋のスキンシップが激しい。ベッドに移動して、さんざん快感を貪り合ったあとも、しばらく離してもらえなかったうえに、風呂まで一緒に入ることになったぐらいだ。 この様子だと、今夜は泊まっていくつもりだろう。長嶺の男たちの〈オンナ〉である和彦には、そのことで文句を言うつもりはないが、多少心配にもなってくるのだ。自分は、長嶺組の跡目を甘やかしすぎているのではないか、と。「夕飯は外に食べに行くんだろ? まだ時間はあるから、お前はのんびり湯に浸かっていていいぞ。その間ぼくは――」 寝室の片付けをする、という言葉を寸前のところで呑み込む。首を傾げた千尋を一瞥して、逃げるように脱衣所を出た。 和彦は、情交の痕跡が生々しく残る寝室に入ると、シーツを剥ぎ取るだけではなく、汚れた床も手早く掃除する。千尋が場所を選ばず行為に及んだせいで、と責めるつもりはない。結局のところ、受け入れてしまった和彦も同罪なのだ。 寝室の空気を入れ替えるため、窓を開ける。入り込んできた風が、風呂上がりなのと、それ以外の理由で火照った体には気持ちいい。 すっかり見慣れたマンションから見渡せる街中の景色を眺めていると、ほんの数日前まで、自然に囲まれた別荘でのんびり過ごしていたことが、ずいぶん懐かしく感じられる。そのくせ、ともに過ごした三田村のぬくもりや感触などは、今でも鮮やかに思い返せる
背後から抱き締められ、うなじに唇を押し当てられる。すでに体が熱くなっていた和彦は、たったそれだけの刺激でも、吐息を洩らしてしまう。「千尋、そろそろベッドに――」「まだダメ」「ダメって、お前……」 千尋の腕が移動し、今度は腰を抱かれる。尻に押し付けられたのは、生々しい欲望だった。無駄だと思いつつ身を捩った和彦だが、やや強引に腰を掴まれて、尻を突き出したような姿勢を取らされると、もう抵抗はできない。「……俺やっぱり、性癖に問題あるかなー。いかにも上品な先生に、こういう格好させると、それだけで感じる」 そんなことを言いながら、千尋が内奥の入り口に熱の塊を押し当ててくる。指でわずかに解されただけの内奥が、凶暴な欲望でこじ開けられるのだ。背後から押し寄せてくる苦しさに和彦は呻き声を洩らし、必死にガラスに両手を突く。 腰を掴む千尋の手の力に容赦はないが、腰の動きそのものは慎重だ。和彦は、こういう形での交わりに少しばかり腹立たしさを感じはするものの、千尋の気遣いがわかるだけに、怒鳴ることもできない。大きな犬っころにじゃれつかれ、のしかかられているようにも感じられ、苦しさに喘ぎながらも、つい唇に笑みを刻む。「バカ千尋……」 小さな声で呟くと、和彦の腰を抱え込むようにして、千尋が繋がりを深くする。肩の辺りに、熱く荒い息遣いを感じた。「何か言った、先生?」 地獄耳、と今度は心の中で呟いてから、和彦は首を横に振る。すると、千尋の片手が両足の間に入り込み、欲望を掴まれた。「もう少し我慢してね。気持ちよくしてあげるから」 千尋に緩く腰を突き上げられるたびに、欲望を扱かれる。最初はただ、内奥を犯される苦しさに声を上げていた和彦だが、次第にそれ以外の感覚が湧き起こり、上げる声が艶を帯び始める。「うっ、あぁっ、はっ……」 頬を押し当てたガラスが、喘ぐたびに白く曇る。和彦の変化にとっくに気づいていたのだろう。千尋が大きく腰を動かし、内奥深くに欲望を突き込まれる。その瞬間、和彦の全身を強烈な疼きが駆け抜けた
「この時間、電車は走ってない。タクシーだと、マンションまでの運賃もバカにならないだろ」「あんたに関係ない」「乗れ。送ってやる」「けっこうだ」 ふん、と鷹津は鼻先で笑い、掴んでいた和彦の腕を放す。後ずさるようにして離れようとした和彦の目の前で、鷹津は思わせぶりに携帯電話を取り出した。「長嶺のオンナを、危ない夜道に一人放り出して帰ったら申し訳ないからな。組に連絡して、誰かを迎えに来させてやる。それまでは、俺が一緒にいてやる。あー、ここの住所は――……」 鷹津の芝居がかった独り言を聞いて、和彦は
考えるべきことが多すぎる。すっかり映画はどうでもよくなり、顔を伏せた和彦が暗い足元に視線を落としていると、耳元でハスキーな声が囁いた。「先生、気分が悪いなら、外に出るか?」 顔を上げた和彦を、三田村がまっすぐ見つめてくる。思わず頷いていた。 促されるままロビーに出ると、まずイスに座らされる。ロビーにほとんど人の姿がないこともあり、さりげなく三田村に髪を梳かれた。「飲み物を買ってくるから、ちょっと待っててくれ」 こんな日でも、地味な色のスーツを着込んでいる三田村の後ろ姿が、角を曲がって見えなくなる。 それを待ってから
**** 受付用のカウンターデスクやキャビネットが運び込まれただけで、クリニックの待合室らしくなってきたなと、腕組みしながら和彦は思う。そんな和彦の傍らを、診察室に置くデスクを抱えた業者が通り過ぎていく。 医療機器の搬入はまだ先だが、ひとまず家具や備品だけは、運び込んでもらうことにした。できることなら、早いうちに人が過ごせる環境を整え、ここで書類仕事などをしたいと考えているのだ。そうすれば、いざ開業してから使い勝手が悪いと不満を洩らすこともないはずだ。 来週は、クリニックに置く家電製品を買いに行く予定
「ヤクザの言うことは、頭から疑うことにしている。そのぼくが、あんたを一目見て感じたんだ。嫌な奴だと。実際、ヤクザより嫌な奴だ……」「口には気をつけろよ。このまま警察署に連行してやってもいいんだぞ」「……なんの罪で?」 ここで鷹津はニヤリと笑った。「お茶をご馳走してやるためだ」 ちょうど信号待ちで車が停まる。迷わず和彦はバックルに手をかけようとしたが、鷹津に手首を掴まれて止められた。和彦は一瞬怯えてしまい、目を見開いたまま粗野な男の顔を見つめる。鷹津は煙草を指に挟み、こちらに