تسجيل الدخول翌朝、新しいオフィスへ予定より30分早く着いた。窓の外では街が目を覚まし始め、川面に淡い金色の光が浮かんでいる。総務の担当者は、どこか楽しげな声でネームプレートを差し出した。「水城さん、こちらでよろしいでしょうか?」銀色のプレートを受け取った。そこには、はっきりと文字が刻まれている。【水城結菜アジア太平洋地域事業準備室長】自分の手で、ドア脇のホルダーにはめ込んだ。カチッと音がした。しっかりとはまっている。午前9時、発足式が始まった。本社の役員がオンラインで挨拶し、取引先の代表は最前列に座っている。チームのメンバーも次々と席に着いた。ステージに立ち、原稿を開いた。手のひらの傷痕はかなり薄くなり、マイクを握ってもほとんど見えない。それでも、そこにあることは分かっている。挨拶を終えると、会場が拍手に包まれた。真っ先に立ち上がって拍手を送ったのは瑞穂だった。そばへ来ると、ホットラテを差し出した。「シロップ少なめ、エスプレッソを1ショット追加。お祝いです」笑って受け取った。「ありがとうございます」カップの温もりが、指先へ伝わった。昼頃、法務担当から最後の報告メールが届いた。【久我航介様はすでに帰国しました。白石沙耶様による名誉毀損および権限の不正利用に関する資料は、国内の弁護士へ提出済みです。水城結菜様の個人情報保護に関する対応も完了しました】添付ファイルには、写真が1枚入っていた。空港の出発ロビーに、痩せた航介の後ろ姿が映っている。片手に小さな紙袋を提げていた。袋の口から、見覚えのあるベルベットの箱がのぞいている。一目だけ見て、メールを閉じた。国内の友人たちから、航介の話がぽつぽつ届いた。久我グループは中核となるプロジェクトを失い、資金繰りが完全に行き詰まった。取締役会は航介を経営陣から外した。航介は損失を埋めるため、自分名義の資産の大半を売ったという。かつては何もかもうまくいっていた航介も、今では債権者との話し合いに何度も呼び出されているらしい。航介は今も、どこへ行くにも指輪を持ち歩いているらしい。売却したあの家の前で、午後いっぱい立ち尽くしていたこともあるという。新しい所有者が管理会社へ連絡し、航介はようやく立ち去ったらしい。話を聞いても、
航介は、あの言葉の意味を取り違えたままだ。それから数日、会社の前には現れなかった。それでも毎日、白いバラの花束を送ってきた。カードに差出人の名前はなく、一言だけ書かれていた。【俺は待ってる】受付が初めて花束を持ってきたとき、一目見て、総務に返送するよう頼んだ。二回目は、総務が手順どおり受け取りを断り、記録を残した。三回目には、花屋から届け先を変更するか確認の電話がかかってきた。その番号を法務担当へ伝えた。午後には、法務担当から警告書が送られた。それを最後に、花束は届かなくなった。その日、沙耶にもとうとう、これまでのつけが回ってきた。国内の提携先は、沙耶が権限を不正に使った証拠を、関係者のグループチャットへ流した。監視カメラ映像の持ち出しや、虚偽の情報を広めた記録も含まれていた。航介との関係を匂わせていた、過去のインスタ投稿も掘り返された。航介の名前を出し、仕事で特別扱いしてほしいと頼んでいたメッセージまで晒された。数百万円のドレスを着た写真と、購入明細を並べて投稿する者までいた。コメント欄にはもう、【この余裕、さすが本命って感じ】と持ち上げる声はなかった。残ったのは、嘲りと嫌悪に満ちたコメントだけだった。沙耶は私に電話をかけようとした。三つの番号からかけてきたが、どれも自動で着信拒否になった。最後には、会社の代表アドレスへ長いメールを送ってきた。件名は、短い一文だった。【結菜、あなたの勝ちよ】メールは開かず、そのまま法務担当へ転送し、保存を任せた。午後、瑞穂が新しい任命書を私の机に置いた。「本社がアジア太平洋地域事業準備室を新設することになりました。室長の第一候補は水城さんです。こちらに常駐し、任期は3年以上になります」書類を開いた。任命されれば、自分のチームを持ち、予算も決裁できる。次の四半期からは、契約にも私の署名が必要になる。あとは、私が署名するだけだ。瑞穂が尋ねた。「お返事は、いつ頃いただけますか?」ペンを手に取った。「今、決めます」ペン先が紙に触れると、手のひらの傷痕がわずかにつっぱった。それでも、手は止めなかった。署名を終えると、ほどなくシステムに通知が表示された。【水城結菜様。アジア太平洋地域事業準備室長としての権限が付与
最後の面会は、社内の法務部にある面談室で行うことになった。窓から明るい光が差し込み、磨かれたテーブルには二つの書類が置かれている。一つは、航介が持ってきた品物の一覧。もう一つは、今後の連絡や接触について確認する書類。航介は約束の時間より30分早く着いていた。ドアを開けると、航介はすぐに立ち上がった。テーブルには、いくつかの箱が並んでいる。結婚式の招待状の見本、前撮り写真の元データが入ったハードディスク、結婚式当日の流れをまとめた冊子、それにあの指輪。捨てたはずの冊子まで、航介はどこからか見つけてきていた。椅子に腰を下ろしたが、どれにも触れなかった。法務担当が、決められた手順に沿って確認を始めた。「久我様、水城さんの個人的な連絡先や住所の記録は、すべて削除済みでしょうか。今後は行動予定を調べたり、第三者を通じて情報を得たりしないことも、お約束いただけますか?」航介はうなずいた。「間違いありません」声は低かった。法務担当が続けて尋ねた。「結婚式用の共有アカウント、招待状の共有リンク、スタジオでの写真展示の許可は、すべて取り消しましたか?」「取り消しました」航介は証明書類の束を差し出した。「インスタにも説明を載せました。あの写真を投稿したのは間違いだったと、もう全員が知っています」スクリーンショットが添えられたページを開いた。航介は、ウェルカムボードに使う写真を間違えたことを認めていた。私のカードで沙耶のドレスを買い、結婚指輪をはめさせたことも。試食会で私にけがを負わせたことまで、はっきり書かれている。誤解だったという言い訳も、沙耶の体調を理由にする言葉も、そこにはなかった。法務担当から書類を受け取り、署名した。航介は、私が署名する手元をじっと見ている。傷痕は薄くなったものの、まだ手のひらを横切るように残っている。航介が不意に、かすれた声で尋ねた。「まだ、痛むのか?」顔を上げなかった。「もう痛くありません」航介の目が、たちまち赤くなった。手続きが終わると、法務担当は立ち上がった。「外でお待ちしています。10分後に戻ります」ドアが静かに閉まった。航介はようやく息をつけたように、ベルベットの箱を私の前へ押し出した。「結菜、受け取らないのは分か
航介と会うことには、すぐには同意しなかった。翌朝、まず法務担当に、航介から届いた書類をすべて確認してもらった。株式譲渡は正式に行われている。補償金も、すでに指定の口座へ振り込まれていた。公開謝罪文は、国内の友人たちが入っているいくつかのグループチャットと、社内の一斉メールにも送られている。瑞穂がスクリーンショットを表示したスマホを差し出し、淡々と説明した。「久我グループの取締役会は、かなり荒れているそうです。あの案件は、次の資金調達の柱でした。手放した以上、資金繰りも厳しくなります」数枚のスクリーンショットに目を通した。あれだけ沙耶を花嫁のようだとはやし立てていた友人たちも、今は、誰も何も言わない。【結菜、ごめんなさい】と送ってきた人もいた。以前のコメントを削除した人もいる。スマホを脇へ置いた。「補償金は返してください。結婚式の費用は、すでに精算しています。家を売ったのも、私が決めたことです」瑞穂が私を見た。「それで、会う件はどうしますか?」少し黙った。「今日の午後、会社の応接室へ来てもらってください。15分だけです」午後3時、航介は時間どおりに現れた。ガラス張りの応接室の外を、社員たちが行き来している。前に会ったときよりも、さらにやつれている。目の下には濃い隈ができていて、スーツの袖口には乾いた血がわずかについている。ベルベットの箱を強く握りしめている。指輪も、まだ持っている。「結菜」航介は立ち上がった。声はかすれている。向かい側の椅子に腰を下ろした。「久我さん、15分です」その呼び方に、航介の肩がわずかに揺れた。けれど、何も言わなかった。航介は書類の入った封筒を差し出した。「これは、今の俺にできるせめてもの埋め合わせだ。結婚式も、家も、けがも、俺が傷つけた結菜の誇りも」受け取らなかった。「補償金は返しました」航介は動きを止めた。「どうして?」「私が傷ついたことと、久我さんが何を失うかは、別の話です」航介の喉仏が上下し、目の縁がまた赤くなった。「それなら、どうすればいい?」印刷しておいた書類をテーブルに置いた。「条件が三つあります」航介が書類へ目を落とした。一つ目は、私との結婚に関する情報をすべて取り下げること。
翌日の午前10時、久我グループにホテルから正式な調査結果を知らせるメールが届いた。私は関わっていないが、瑞穂から関係者向けの概要を見せてもらった。監視カメラ映像の持ち出しを申請したのは、沙耶。使われたのは、久我グループの臨時提携先用アカウント。映像のバックアップが失われた時刻は、試食会当日の午後9時13分。メディアへの情報提供に使われたのは、沙耶の個人用メールアドレス。どれにも、システムのタイムスタンプが残っている。言い逃れできる余地はない。瑞穂が資料を机に置いた。「久我さんから、連絡が来るかもしれません」言い終えた途端、受付から内線が入った。「水城さん、久我様が1階にいらっしゃいます。お会いしたいとのことです」予定を確認した。午前10時30分から、仕入先との打ち合わせがある。「時間がないと伝えてください」受付からすぐに返事があった。「お待ちになるそうです」それ以上は答えなかった。昼休みになると、瑞穂が何とも言えない顔で1階から戻ってきた。「久我さんは、ずっとロビーにいます。白石さんも来ました」コーヒーを手に取り、続きを聞いた。「久我さんはホテルの法務担当者の前で、白石さんを問いただしました。どうして久我グループの提携先用アカウントで、映像を持ち出したのかと。最初は結婚式のプライバシーを守るためだと言い、次には水城さんに頼まれたと言い出しました」小さく笑った。いかにも沙耶らしい。沙耶は何か問題を起こすたび、私に頼まれたと言って逃げてきた。瑞穂がタブレットを差し出した。ロビーの監視カメラ映像には、背筋を伸ばして立つ航介が映っている。顔は青白い。沙耶は泣きながら、両手で航介の袖をつかんでいる。だが今度は、航介が沙耶をそばへ寄せつけなかった。「結菜に頼まれて、監視カメラの映像を持ち出したのか?」タブレット越しに聞こえる声は、ひどくかすれている。「それなら、なぜ結菜は映像のコピーを残した?どうして一人で病院へ行って、傷を縫ってもらった?どうして結婚式を取りやめ、家を売り、その夜のうちに海外へ発った?」沙耶は答えられなかった。航介は突然、真琴から書類の入った封筒を受け取った。中身をロビーのテーブルにぶちまけた。ドレスと追加カードの利用明細。前撮り
会議は深夜まで続いた。会議室を出る頃には、レセプションはすでに終わっていた。瑞穂と一緒に1階へ下りた。「先ほどホテルからメールがありました。白石さんが今夜の記録映像をすべて削除するよう求めましたが、法務担当が止めました」驚きはなかった。沙耶はいつも、誰より先に自分に都合のいい話を広める。以前もインスタに、私が半分しか写らないよう切り取ったウェディングフォトを載せた。航介との関係を匂わせる一文を添えただけで、それを見た友人たちは二人の仲をはやし立てた。今回も、同じやり方で真実を隠そうとしている。だが、プロジェクトのレセプションには、決められた手順も記録もある。法務担当も関わり、監視カメラの映像は権限がなければ扱えない。何をするにも、必ず担当者の署名が残る。瑞穂がタブレットを差し出した。「もう一つあります。ホテルの宴会部が確認しました。当時、試食会の映像を持ち出した人物は、久我グループの臨時提携先に付与された権限を使っていました。申請者欄には、白石さんの署名がありました」画面には、監視カメラ映像の持ち出し記録が表示されている。申請理由は、表向きだけはもっともらしい。【結婚式を挙げるお客様の個人情報の流出を防ぐため】その下には、沙耶の電子署名がある。ところが、備考欄には【久我様ご婚礼サポート担当】と記されている。その文字を見ても、腹は立たなかった。ただ、ばかばかしかった。私の結婚式では、ウェディングフォトから新居、料理まで、沙耶は何にでも入り込んできた。監視カメラの映像にまで、「手伝い」を口実に手を伸ばしていた。瑞穂が尋ねた。「こちらの資料を、久我さんにもお送りしますか?」首を横に振った。「このまま法務担当に任せてください」翌朝、会社が手配した新しいマンションへ移った。川沿いの高層階にあり、キッチンの壁一面が、大きな窓になっている。総務の担当者から、鍵とカードキーを受け取った。「水城さん、こちらが新しいお部屋です。暗証番号はご自身で設定できます。設定した番号が、ほかの方に共有されることはありません」これまでとは何の関係もない数字を入力した。電子錠から、軽やかな確認音が鳴った。誰かの誕生日でも、誰かの習慣に合わせた数字でもない。もう、思い出にまで気を遣う必要はなか







