Mag-log in***
「あっ、もう、そんなトコ……」 「君が、ここを放っておくからいけないんだろう?」 室内に、乾いた音が響き渡る。それを心地いいと思いつつ、目の前にある関さんの顔をドキドキしながら眺めた。 「だからって、そんなぁ……えっ、ここも!?」 「どこもかしこも隙だらけだ。取ってくださいと言ってるようなものだぞ」 「だって関さん、めっちゃ強いんだもん。手を広げて、囲もうと思ったんだって」 なぜ故だか車の中で、関さんと趣味の話をした。彼は職務質問をするみたいに、いろいろ俺から聞き出すべく、話を展開させていき――生年月日から家族構成や友人関係、そして趣味の話にまでたどり着いた。 「超下手っぴなんですけど、囲碁をやってるんです。じいちゃんがくれた年代物の、かやで出来た足つきの囲碁盤が、すっごくいい音がするんですよ」 「関西に住んでたとき、関西棋院に在籍していた。学生の頃の話だがな……」 「関さんってば、プロを目指してたんですか? あそこに入るのは、至難の業だって聞いてます」 同じ趣味をしていたことを嬉しく思いながら、話に花を咲かせた。 「一時はな……。いろいろあって、数年で辞めてしまったよ。君の家にある碁盤、ちょっとだけ見せてもらえないだろうか?」 「ぜひ!」 ――ってなワケで、関さんをまんまと家に招き入れることに成功したんだけど、一局打とうって話になり現在に至る。ド素人相手にプロを目指した人が、容赦ない手でどんどん俺を窮地に追い込んでいく。 (関さんってば、こんなふうに恋愛も攻めていけば、きっとあの彼だって手に入ったと思うんだけどなぁ) 「伊東くん、余計なことを考えているだろう? スカスカだぞ」 「だって関さんってば、強過ぎるんだもん」 「俺が手を抜いているところがあるのも、わからないのか?」 「わかっているさ。そんなお情け、俺はいらない。自分で切りこむのみ!」 パチン! 俺の一手にメガネをクイッと上げて、真剣な眼差しで盤上を覗きこむ関さんの姿に、自然と胸が熱くなる――やっぱり、カッコイイなぁ。この人の身体の熱は、どれくらいのものなんだろう? どんな抱き方をするんだろうか? 触れられたい……触れて、みたい……。 「そんなにじっと見つめるな。穴が開く」 チラリと俺の顔を見てから、すぐ盤上に戻る視線。心なしか少し頬が赤い。 「いいじゃん。見るのは俺の特権なんだから。穴が開いたら、塞いであげますよ」 「穴が開く前に、終わらせるさ」 パチン! 切りこむ俺の手を華麗にかわして、攻撃につなげられる。俺が投了したら、ホントにそれで終わりだから、なんとかして必死に食いつなげた。 パチン! 「伊東くん……俺が棋院を辞めた理由……君は聞かないのか?」 「知りたいけど、関さんがイヤそうだったから、あえて聞かない方向でいた」 パチン! 「聞けよ。俺のこと、なんでも知りたいんだろう?」 「いいの? 俺、ストーカーなんだけど?」 「君になら……いいと思った。俺に似ているから」 パチン! 話が終わるまで、絶対に耐えてやる。 「教えてください。関さんのことを……」 「高校生のとき、師匠だったプロ棋士を好きになってしまったんだ。始めは、ただ憧れだった」 パチン! 「先生に近づきたくて、必死に練習してどんどん強くなって、誰にも負けないくらい強くなったある日――」 パチン! 震えそうになる手で、一生懸命に次の手を打った。 「俺のことが好きなのかい? と先生が聞いてきたんだ。迷わず、はい。と返事をした。一度くらいこうして相手をしてやるぞって、その後に言ってきた」 「それって――」 「ああ。君がさっき言った言葉と同じだ」 パチン! 関さんは碁石に手を置いたまま、動きを止めて深いため息をつく。つらそうな顔が、どうにも堪らない。 「おれは喜んで先生を抱いた。だけど本当に、それで終わってしまって……終わらされてしまったんだ」 「まるで関さんを、弄んだみたいに見えます。その人……俺、許せない……」 「俺が辞めたあと、仲の良かった友人が教えてくれた。先生がメンタル面の弱い俺を、わざわざ鍛えてやったのにって言ってたって。そんな鍛え方があるのかって、俺は――」 「それ以上言わないでください! もう充分にわかりました。つらそうなアナタを……これ以上見たくないです」 碁石に置かれたままの右手を、両手で包み込むようにそっと握りしめた。 (――冷たい関さんの手。俺があたためることは、許されるのだろうか?) 「それから俺は、人を信用できなくなった。想いを伝えることも、素直になることもできなくなってしまって。人をキズつけてばかりいた」 「関さん……」 「だから君は俺と一緒にいたら、キズつくことになる。碁盤を見れば一目瞭然だろう?」 投了間際まで追い詰められた俺。勝敗なんて、ぱっと見ればわかるくらいに、差は歴然としてた。容赦のないその手に、ずっと翻弄されっぱなしだった。 「キズついて、冷たくなった関さんの心……俺があたためちゃダメですか?」 握っている手に、ぎゅっと力を入れる。困惑したメガネの奥の瞳を、じっと見つめた。 「逃げるなら追いかけます。だって俺は、関さんのストーカーだから」 「随分押し売りする、ストーカーだな」 「本当は見てるだけにしようと思ってたのに……関さんが捜しだすもんだから、俺のヤル気スイッチに火がついたんです」 この囲碁の勝負のように、結果は見えている。でも俺の気持ちを今ここで伝えなきゃ、きっと……間違いなく後悔する。 「関さんの好きなあの彼と俺じゃあ、全然タイプが違うことくらいわかってるんです。彼の代わりにはなれないけど、付き合ってはもらえないでしょうか?」 俺が握っている関さんの手が、急にあたたかくなった。そして俺を引っ張る腕に驚いて立ち上がる。気がついたら、関さんの胸の中にいた。 「君はあたたかいな。夏場は迷惑だが、冬場には重宝しそうだ」 「関さん……?」 言ってる意味が、まったくわからない。 きょとんとして関さんの顔を見上げると、まっすぐ前を見たままなぜだか険しい顔をしていた。でもその頬は、いい感じに桜色をしている状態。 「囲碁の筋、悪くなかった。もっとしっかり練習すれば、きっと強くなれるだろう」 「はぁ……」 (どうして、囲碁の話になるのかな?) 「君の囲碁の打ち方、俺は好きだ。あと、あの脅迫文……」 「脅迫文じゃないです。れっきとした俺の気持ちなんですよ。なんかキズつくなぁ」 「だろ? 俺といると、どんどんキズつくんだ。だから」 「俺の囲碁の打ち方を見て、わかってるでしょ? どんな状況でも俺は諦めが悪いって。関さんにキズつけられるのなら本望だよ」 抱きつくように関さんの体に腕を回す。それだけでもすごくしあわせだった。 「あの脅迫文、内容は最悪だが筆跡に好感が持てた。字の綺麗なヤツに、悪いヤツはいないからな」 「結局、脅迫文にされてるし……内容最悪って、俺の想いはいったい……」 俺がしかめっ面をしてぶーたれると、頭上でクスリと笑う声がした。前を見ていた関さんが、俺の顔をおもしろそうに見つめている。 「キズつけられるのが、本望だと言ったじゃないか。喜べ」 そう言って、俺の頭を優しく撫でてくれる。意外とゴツい手のひらが頭を撫でるたび、鼓動がどんどん早くなっていく。 「綺麗な髪をしているな。無駄に長いのは、この丸みを帯びた頬を、隠すためなのか?」 頭を撫でていた手を頬に移したと思ったら、ムニュムニュと引っ張りだす。 さっきから意味不明……褒められてるのか、けなされてるのか分からなくなってきた。 つか、俺の付き合って下さいの返事は、スルーする気なのか? 何だか切なくなって、関さんの体に回した腕を解こうとした時―― 頬を引っ張っていた手が、顎に移して上を向かされた瞬間、関さんの顔がグッと近づいた。間近で見る関さんの瞳が、澄んでいて綺麗だと思ったら、唇に柔らかい感触が…… 心臓がぎゅうっと、鷲掴みにされた感じがした。 (何だよ、この不意打ちは――俺のことをどう思っているんだ?) 荒々しく合わせてくる唇とは裏腹に、割って侵入してきた舌は、優しく俺の舌に絡ませてきて。 「ん……っ……」 鼻から抜ける様な、甘い声が出てしまった。 その優しい仕草が逆にもどかしくて、関さんの舌を追いかける。もっと俺を、求めて欲しいと願ったから。 追いかけた矢先、体と一緒に解放された唇。やっぱりこの人は、どこまでも意地悪だ…… 俯きながら濡れた唇にそっと手をやり、キスされた事をつい、確認してしまう。 「囲碁が上手く打てたご褒美だ。喜べ」 そう言ってカバンを手にし、玄関に向かう関さん。こんなのって、ズルイよ。勝ち逃げなんて。 どうする事も出来なくて、ただ立ちつくす俺に背を向け、さっさと靴を履く。 付き合うかどうかの返事くらい、くれたっていいのに。 俺が下唇を噛んだら、振り返った関さんは笑いながら俺の手に無理矢理、何かを握らせた。 「ご褒美、その二だ。良かったな、俺の名前が分かって」 「はぁ……」 手渡されたのは、関さんの名刺。関 鷹久――たかひさっていうんだ。監察官って仕事してるんだ、何か難しそうな事をしてそうだな。 「俺のホークアイにかかったんだ。これから覚悟しろよ?」 「何がですか?」 「ストーカーし返してやる。逃げても無駄だからな」 また、意味不明な言葉を言ってるし…… 眉間にシワを寄せて、関さんをじっと見つめた。そんな俺の頭を、優しく撫でてくれる。 「君の事は嫌いじゃない。だからキスした」 「はぁ……じゃあ、好きなんですね?」 「言葉の裏の裏を読め。鈍いんだな」 「裏の裏って、表ですよ。さっきから言ってる事とやってる事が、かなり矛盾してます……」 「俺は素直じゃないと、宣告しただろう」 しただろう。の「う」で、俺のオデコをデコピンした関さん。 「囲碁盤に負けない、いい音がしたな」 「酷いですよ、もう!!」 「君が暇な時に、そこに連絡を寄こせ。仕事が忙しくなかったら、囲碁の相手してやるから」 「囲碁の相手……だけ?」 両手で関さんから貰った名刺を持ちながら、そっと顔色を窺う。 「どちらも君の努力次第で、何とかなるんじゃないか。じゃあな」 俺の返事を待たず、風のように去って行った。努力次第で恋って、どうにかなるモノなのか!? 俺は難しい顔をしたまま、また名刺を見る。これのお陰で、関さんとは繋がったままになった。 「嬉しい……見てるだけで、終わってしまうんじゃないかって思っていたから」 だけど素直じゃない関さんと付き合うのは、さっきの囲碁のように、翻弄されるのが目に見える。近づくと逃げていくし、追わないでいると優しくされる。 俺はこれから、どうすればいいんだろう?*** 愛しい翼の君に抱かれて、嬉しさのあまりに気を失ったらしい。目を開けたら、緑色のものが全面に映った。何だろうと思ってそれをよく見たら、鬱蒼と茂った竹林の中だった。耳を澄ますと予の名を呼ぶ声が、奥の方から聞こえてくる。 聞き覚えのある掠れた低い声は山上宮のもので、必死に予を捜している様子だった。 山上宮の問いかけに口を開きかけたとき、反対の方角から琴の音が聞こえてきた。透明感があり特徴のある爪音は紛れもなく、翼の君が奏でるものだった。 顎に手を当て一瞬考えてから、生命力が溢れ出る楽箏を奏でる翼の君の元へ迷うことなく歩を進め、その肩に手を置く。そして竹林の奥を二人揃って見つめると、山上宮が優しく見つめ返し、涼しげな一重瞼を切なげに細め、しっかりと頷いている姿がそこにあった。 その姿を見ただけで、なぜだか予の心がほっこりとした。 ――翼の君と一緒に、この先を歩んで行っていい―― なぜだか、そう認められた気分になったから。 「宮様、宮様っ! 大丈夫でございますか?」 翼の君の声で、はっと我に返った。無意識に伸ばした予の右手を、翼の君が強く握り締めている。その手をぎゅっと握り返し、そっと頬へ引き寄せた。 『今宵はずっと傍にいろ、離れるでないぞ翼の君』 翼の君の心配を他所に、いきなり我儘を言ってしまった。 『ご命令がなくても、お傍におります。その代わり、覚悟してくださいね宮様。吾はもう、我慢は致しませんから』 翼の君が柔らかに、予の耳元で囁いた。その甘い響きが心にじんと沁みてしまって、涙がじわりと頬を伝っていた。 「ああ、覚悟するとしよう。このはじまりの夜をけして忘れないくらい、予を思う存分に抱け翼の君」 山上宮の死を嘆き悲しみ、あまりのつらさに死を覚悟した。そんな予の身を案じて翼の君が奏でてくれた琴の音色は、これまで耳にしたものと比べて拙いものだったのに、なぜだかずっと聞いていたいと思える音だった。 その想いに突き動かされたら、翼の君から目が離せなくなった。ずっと傍にいたいと願ったのにもかかわらず、追うと逃げる翼の君の所作に、何度もやきもきさせられた。 だが今は切ない和歌を詠んだ胸の痛みが、翼の君の今様で見事に癒えた。気持ちが通い合うだけで、こんなにも世が明るくなるのだな。これから先も、翼の君と一緒に生きていく
*** 水野宮様は目を吊り上げて、顔だけじゃなく耳まで赤く染めたまま、吾の襟首を引っ張りながら廊下を突き進む。激怒しているご様子を表す大きな足音をたてて歩く姿に、すれ違う貴族たちは何事かと驚き、行き先々を開けていった。 そんな状況ゆえに、水野宮様に引っ張れながらもすれ違う人々に謝罪しながら、頭を下げて必死に足を動かす。 圧倒的な存在感を放つ水野宮様の行く先に、小柄で華奢な体をした可愛らしい貴族が、ぼんやりと歩いている。(このままだと、ぶつかるかもな――) 水野宮様に注意を促そうと思った矢先だった。「そこをお退きなさい、智巳っ!」 華奢な体を掻っ攫うように抱き寄せた、背の高い美丈夫な貴族。突然抱き締められたというのに、智巳と呼ばれた貴族は体に回された腕を、嬉しそうにぎゅっと握りしめる。 水野宮様はその者たちに視線もくれず、すく横を闘牛の勢いで闊歩した。「申し訳ない、郁生の君っ!」「これは翼の君、宮様と何かおありなのか?」 吾は水野宮様に引きずられながら、嬉しそうに答える。「これからなにか起こるかもしれません。郁生の君も智巳殿とお幸せにぃ」 意味不明な切り返しに呆気に取られて、声をかけられた二人は、水野宮様と翼の君を見送る。「宮様、危ないっ!」 引っ張られながらも水野宮様の行く先を見ていたので、注意を促すことができた。水野宮様の目の前には大きな柱があり、寸前のところで後ろから抱きつき、衝突を免れる。「お怪我は、ございませんか?」「だ、大丈夫だ……」「良かった。宮様をお守りできないのなら、吾がここにいる意味はありませんから」 安堵のため息を吐きながら笑うと、目に映る水野宮様のお顔が椿の花のように赤くなる。「お顔が大変赤くなっておりますが、熱があるのではないですか?」「熱などないっ、勝手に顔を覗き込むな。まったく」 熱を測ろうと出した吾の右手を掴み、また歩き出した水野宮様。寝所に着くなりその勢いのまま、褥に吾を放り出す。そして体の上に跨り、強引に組み敷いた。 「翼の君、なんだあの今様は? どうしてあれを詠おうと思ったのだ?」「初めてお逢いした時からずっと、宮様のことをお慕い申しておりました。その気持ちを込めて、今様を詠った次第でございます」 震えるような声で告げた吾の言葉に、水野宮様の瞳がゆらりと揺らめく。涙を流すのではな
水野宮様はその場に固まって動こうとせず、穴が開きそうな勢いで翼の君を見つめた。物言いたげな視線に居た堪れなくなったのか、泡食った翼の君は床に額を擦りつけて、慌ててその場に平伏す。「みっ宮様、大変申し訳ございませんでした。耳障りになるであろう吾の歌を、宮様にお聞かせするような、大それた真似をしてしまい……。青墓にいらっしゃった今様の歌い手のようには、やはり吾はうまく歌えずその」「皆の者に問う。翼の君が詠った今様に、不満があるものはおるか?」 平伏しながら詫びをいれる翼の君の言葉を遮った、怒気を含んだ水野宮様のお言葉に、その場にいる者は困った様子で、互いの顔を見合わせた。琴の奏者である私が翼の君を助けようと口を出したりしたら、それこそ水野宮様の機嫌を損なうことに繋がってしまう恐れがある。 嫌な空気が漂う静まり返った室内の中で、翼の君は床に平伏したまま、頭をあげることができなかった。両目をきつくつぶり、小刻みに体を震わせる様は、見ているだけで痛々しい。(宮様のご機嫌があまり麗しくないせいで、他の者は良い悪いを軽々しく口にできないのであろうな。さてこの場をおさめるには、どうしたやいいのやら――) 思案しかねて、目の前にある琴から視線をゆったりあげると、斜め前にいる女官と目が合った。彼女は私の部屋から琴を運んでくれた人物で、顔の前に扇を広げていたが、意味深な視線を私に飛ばしていたらしい。 そのことにやっと気がつき、瞬きを二度したら、女官は横目で平伏した翼の君に視線を移動させる。そのあとに不機嫌そうな水野宮様を見てから、ふたたび私に視線を投げかけた。(――もしやこの女官、宮様と翼の君の仲をご存知なのかもしれぬ)「予は帝のように、誰彼かまわず罰を与えたりせぬ。皆の者の率直な感想を聞きたいだけなのじゃ」「大変、差し出がましいことではございますが――」 緊張感を孕んだ震える女官の声は、とてもか細く小さなものだった。室内にいる者の視線が、彼女に向けて一斉に浴びせられる。 何事だと言わんばかりの多くの視線を受けた女官は、深く頭を垂れて水野宮様に平伏した。「そなたは表で、予の共についておった者だな」「はい。わたくしは今まで一度も、今様を聞いたことはございません。それゆえ宮様がお求めになりたい感想を述べるなど、大層失礼にあたるやもしれませぬが……」 最初に話
「大変お待たせいたしました。和琴のご用意が整いました」 女官数人の手により、丁寧な所作で運ばれてきた見慣れた自分の琴を前に、私は何食わぬ顔で静かに正座した。 水野宮様の御前であるため、失礼があってはならないのは当たり前のこと。しかも今回は翼の君と水野宮様の恋仲を取り持つために、失敗は絶対に許されない――。 このような目に見えぬ難しい縛りがあるため、いつも以上に緊張する。そのせいで、手の中にしっとり汗をかく始末。それと同時に、体の芯が小刻みに震えはじめるのを感じた。 心と体を支配しようとする嫌な緊張感をやり過ごすべく、息を吐きながら背筋をすっと伸ばして、下腹と太ももでしっかりと上半身を支えて、見るからに綺麗な姿勢を保った。 あえて虚勢を張ったと言ってもいい。私が極度に緊張したままこの場で琴を奏でたら、音を大きく外すだけじゃなく、澄んだ音も濁り果て、このはかりごとは間違いなく失敗してしまう。それだけは、どうしても避けねばならない。 どうしても乱れそうになる心を、息を大きく吸って無理やり整えながら、両手を自然に弦の上に移動し、右のてのひらを柔らかく内側に曲げながら、左のてのひらは指先を綺麗に揃えたのちに絃の上に置き、肺に溜まっている空気を口からすべて吐き出した。 青墓で見聞きした今様歌手の壮大で美しい歌声を、頭の中できちんと思い出し、指先を使ってゆったりと琴を奏でる。 並々ならぬ集中力のおかげか、体を支配しようとしていた緊張感は今はまったくなく、おふたりの仲をなんとしてでもとりもちたいという強い気持ちが、私の指先に込められた。 ――この想いがどうか、宮様に届きますように―― 水野宮様をはじめ、その場に居る者は息をのんで、演奏に聴き入っている様子を肌で感じることができた。 やがて短い演奏を終えるなり、真っ先に翼の君に視線を注ぐ。大好きな今様の演奏を夢見心地でいる翼の君は、うっとりした面持ちのまま、琴の音色に聞き入っているようだった。「こんな感じであったな、翼殿」 部屋の静寂を破った私の声に、翼の君は双眼を大きく見開き、驚きを隠しきれない表情をありありと浮かべる。「一度聴いただけで、こうして琴を奏でることができるなんて、鷹久殿はやはりすごいですね。青墓にて今様歌手が詠っているところが、まざまざと脳裏に浮かびました!」「それはなによ
*** 帰り道は青墓に向かうときよりも、私たちの足取りは非常に軽かった。そんな足取りと同様に会話が途切れることなく、延々と熱く繰り広げられる。話の内容は直に見聞きした、今様歌手の素晴らしさが中心だった。 宿で互いの気持ちをぶつけたあとだからこそ、翼の君とは今まで以上に会話が弾んでしまう。他愛のない会話のやり取りをしても、笑顔がなくなることはなかった。 傍から見ても異様に盛り上がる私たちは、気持ちを弾ませながら、着々と足を進ませたこともあり、予定よりも早く帰ることができた。楽しげに話し込む私の目に、愛しい翼の君の帰りを非常に待ちわびた、水野宮様のお姿が留まる。 屋敷の門前に立ちつくし、見るからに憂わしげな表情のまま、そわそわと待ちわびているらしい。 夕日を背にして通りを歩く仲の良い私たちを見つけた途端に、水野宮様は不機嫌丸出しを表すべく、への字口をした。目の前で表情を変えられた水野宮様の態度をキッカケに隣を見ると、次の瞬間なぜだか翼の君がぶわっと赤面する。 想い合っているというのに、相反するふたりの様子の意味がわからず、私は心の中で首を傾げた。 翼の君は小走りで水野宮様の御前まで駆け寄り、丁寧に頭を深く下げてから、しどろもどろに口を開く。「みっ宮様、大変お待たせいたしました。まさかここまでお出迎えいただくとは、恐悦に存じ上げます。お蔭でなかなかよい土産話を、お持ちすることができましたっ!」 妙に落ち着きのない翼の君の様子があまりに可笑しくて、私は口元を押さえながら近づいたものの、たまらず声をあげて笑ってしまった。「鷹久殿、少々笑い過ぎでございます!」「ううっ! いや済まぬ。翼殿のあまりにも初々しい姿が、私の笑いを誘って、な……」 顔を背けてこっそり涙を拭い、気を取り直すべく咳払いをした。耳に舌打ちする音が聞こえたので顔を前に向けると、への字口の宮様が眉間に深い皺を寄せながら、不機嫌を凝縮したような声色で告げる。「ああ、ほんにふたりとも、仲が大層よろしいようじゃのぅ」 水野宮様は気に入らないご様子を顔前面に出し、じと目で私たちを見つめた。その視線に恐れおののいたらしい翼の君は、激しく首を横に振りながら釈明する。「ちっ、違うんです宮様! 吾と鷹久殿はけして、そのような関係ではないというか……」 意味なく両手を大きく動かしなが
「それだけ深く愛した山上宮様が亡くなられたあとの宮様の気落ちぶりは、相当だったものな」「はい。床に伏せられた日が、ひと月以上ございました。あまりのご様子に、そのうち誰も寄りつかなくなってしまわれて、宮様おひとりでお過ごしになることが増えられたのです」 せっかく山上宮様に守られたお命だというのに、あとを追うかのようなご様子だった。「それも、無理からぬことであろうな」「そこで考えたんです。吾が宮様にできることはないかと――」「ああ、なるほどな」 今まで引っかかっていた疑問が、翼の君のその言葉で解けて、胸がすっとした。「吾の手で宮様のために楽箏を奏でようと考えたのですが、幼少期に母から指南を受けて以来弾いておりませんでした。宮様にお聞かせする前に鷹久殿にご指南戴いたのは、このためだったのです」「そうであったか……。私が翼殿のお役にたつことができて、なによりであった」「お蔭様で昔の勘を取り戻し、宮様の御前で無事に披露することが叶いました。このお方のために、自分のできることがひとつ増えた。そう考えたら、涙ぐみそうになっちゃいましてね。鼻をすすった衝撃で、最後の一音を間違えてしまった次第でございます」 言いながら私に向かって、丁寧に頭を下げる翼の君。水野宮様を大切に想うその気持ちが伝わり、思わず口元が緩んでしまった。「翼殿が楽箏を奏でたことがきっかけで、宮様はお元気になられたというわけだったか。それはとても良きことではないか」「そうなんですが、宮様が布団から起き上がり、琴の指南をしろと申されて、吾にいきなり詰め寄ってきたのでございます」「それはなんだか、急な展開だな」(これはもしかして、もしかするな。あの宮様なのだから――)「まったくです。鷹久殿にご指南されている宮様を吾が教えるなど、とんでもないことでございますと、その場から慌てて逃げたんです。すると宮様は急に床から起きるなり、吾を追いかけてきて……」「長きにわたり、床に伏せられていたというのに、随分とお元気になられたのだな。さては翼殿の思いやる心が深く伝わり、宮様は好きになられたのかもしれぬ」「好きって、あの?」 私の告げた言葉が信じられないといった表情を、翼の君はありありと浮かべる。目の前で揺れる双眼が、震えるように揺れ動いた。信じたいけど信じられないという