Masuk
その日、外に出ると、珍しく遼平の姿がなかった。代わりに、別の知り合いに会った。「美優?」目の前の彼女は、骨と皮ばかりにやせ細っていた。以前のような、いばった態度は見る影もない。記憶を取り戻した遼平は彼女を捨て、周囲にも彼女と関わらないよう、公然と圧力をかけたのだ。美優は別の男を見つければいいと思っていたが、誰も怖がって彼女に近づこうとしなかった。そのうえ浪費癖も抜けず、あっという間に困窮した。そんなとき、妊娠していることがわかった。これを利用すれば、もう1度、遼平に取り入ることができる。すぐにそう気づいた。遼平が毎日ここで待っていると知って、会いに来たのだが、先に私と鉢合わせたのだった。彼女は感情を抑えきれず、恐ろしい形相になった。「美由希さん、いつまでいい気になっていられると思ってるの?」お腹をなでると、その顔がたちまち柔らかくなる。「知らないでしょう。私、妊娠したの。遼平さんは、もうすぐ私と結婚してくれるわ!身代わりは所詮、身代わり。あなたみたいな女が、お姫様になんてなれるわけないのよ!恥ずかしげもなく、遼平さんにまとわりついて」私は、遼平から届いた何百件ものメッセージを開いた。「よく見て。まとわりついてるのは、どっち?」彼女は服をぎゅっと握りしめ、怒りをあらわにした。「どんな汚い手を使ったんだか!」恨みのこもった目で、私をにらみ続ける。私が口を開こうとすると、突然、彼女の表情が変わった。「遼平さーん~」目の前で、彼女はがらりと態度を変えた。遼平は焦った顔で、足を速めた。美優は得意げに私をちらりと見ると、2歩進んで両腕を広げた。けれど、遼平はその脇をまっすぐ通り過ぎた。不安そうな顔で私の前に立ち、周りをぐるりと回って様子を確かめる。「ユキ、大丈夫か?」何もないとわかって安心すると、慌てて言い訳を始めた。「ごめん。あいつがここに来るなんて知らなかった。俺……」美優は気まずそうに立ち尽くしていた。私をきつくにらみ、遼平の手をつかんで話を遮った。「遼平さん、嬉しい知らせがあるの!」遼平は眉をひそめ、手を引き抜いて冷たく言った。「誰がここへ来いと言った?今すぐ帰れ!」美優の笑みが完全に凍りついた。少しもったいぶるつもりだったが、もう取り繕ってはいられない。
それから遼平は、毎日病院に来るようになった。毎日違う花を持ち、バッグやネックレス、腕時計など、あれこれ贈り物をしてくる。もちろん、どれも行き先はゴミ箱だ。それでも、こんなに長く続くとは思わなかった。付き合い始めた頃よりも熱心で、辛抱強い。「ユキ。今日は、お前の大好きなジャスミンを持ってきた」「遼平」名前を呼ぶと、彼は思わず顔をほころばせた。「私たちは、もう終わったの。こんなことをしても意味はないよ」彼の目に涙がにじんだ。「ユキ、まだ怒ってるんだよな。もう、俺が悪かったってわかってる。約束する。これからは絶対に悲しませない」私はバッグから、たった1枚だけの2人の写真を取り出した。彼の目に、たちまち希望が宿った。「ユキ、これからは絶対に大切にする。ちゃんと愛するから。体が回復したら、挙げられなかった結婚式を挙げよう。な?」「嫌よ」私は静かに彼を見つめ、手の中の写真を少しずつ破っていった。彼は目を見開き、震える手で止めようとした。「だめだ!やめてくれ……」私は何の感情も込めず、口元だけで笑った。「今になって思い出したの?失って初めて大切さがわかるなんて。遼平、本当に最低ね」彼の顔が青ざめた。「私が心からあなたを愛していたとき、あなたは美優のことを考えてた。今は私が身を引いて、2人の邪魔をしないって決めたの。喜べばいいじゃない」彼は目を真っ赤にして、何度も首を振った。「ち、違うんだ、美由希。本当に反省してる。もう1度だけチャンスをくれないか?最初からやり直そう。7年も一緒にいたんだぞ。どうして、そんなに簡単に捨てられるんだ……」「あなたが教えてくれたんでしょう?」彼は唇を震わせながら、そっと花を花瓶に挿した。「お前は、あんなに俺を愛してくれてたじゃないか。雨の中、食事を届けてくれた。起業も支えてくれた。角膜まで、ためらわずにくれたんだ。これで終わりだなんて、信じられない!」遮られるのが怖いのか、早口で言葉を続けた。「ユキ、もう1度、俺を好きにさせてみせる!」私はその言葉を気にも留めず、ほどなく退院して家に戻った。もともと絵を描くのが好きだった。けれど、遼平の起業を手伝ううちに、少しずつ描かなくなっていた。最近また描き始め、たまたまネットに載せてみたら、思いがけ
突然、病室のドアが開いた。入り口に立つ人を見るなり、莉奈は立ち上がり、警戒をあらわにした。「藤崎遼平」鋭くにらみつけ、冷たく言う。「今日の新郎さんじゃない。病院なんかに来てる暇があるの?」遼平は何も言わず、真っ赤になった目で私を見つめ、ほっと息をついた。「ミユ」「そう呼ばないで!」今はもう、その呼び名を聞くだけで吐き気がする。「気持ち悪いから、やめて!」彼を見た瞬間、記憶が戻ったのだとわかった。でも今の私には、戻ろうが戻るまいが、何も変わらない。遼平は慌てて謝った。「ミユ、ごめん。何もかも、全部俺が悪かった。怒らないでくれ。お腹に子どもがいるんだから」「子ども?」私は冷たく笑った。何かを察した彼は、目を見開いた。息をするのもためらうように、そっと声をかける。「ミユ、お前……」私は手術の書類を手に取り、彼の足元へ投げた。彼はかがんだが、手が震えて、何度やってもうまく拾えない。ようやく拾い上げた。書類を読んだ瞬間、雷に打たれたように固まった。我に返ると、興奮して問い詰めてきた。「どうしてだ!俺たちの子どもだぞ!どうして俺に言わなかった?俺はあの子の父親だ!なんで1人で勝手に決めたんだ!」「父親だなんて、よく言えるね」静かに言うと、彼は喉をつかまれたように、何も言えなくなった。自分が何をしてきたのか、思い出したらしい。「ミユ、ね。遼平、あなたがそう呼ぶたびに思い浮かべていたのは、私?それとも、相沢美優?」私の顔に浮かぶあざけりと失望を見て、彼はすっかりうろたえた。よろめきながらベッドのそばまで来て、私の手を取ろうとする。すぐに振り払うと、その顔はますます青ざめた。「ミユ、そう呼ばれるのが嫌なら、別の呼び方にするよ。だから、そんなふうにしないでくれ」私は深く息を吸い、気持ちを落ち着けた。「遼平。あのとき、美優は箔をつけるために、あなたを置いて海外へ行った。だから、あなたは私を彼女の代わりにしたんだよね。1年前、向こうでうまくいかなくなった美優が帰国して、2人は私に隠れて付き合い始めた。そうでしょう?」私は小さく笑った。「記憶を失っても覚えていた恋人は、彼女だったんだね」彼の唇が震え始め、体がこわばった。ベッドの縁をつかんだ手は、力を込めすぎて白
「莉奈?どうしてここに?」親友の高瀬莉奈(たかせ りな)の姿に少し驚いた。けれど、胸にはたちまち温かいものが広がった。莉奈は少し怒った顔で、隣に座った。「こんな大事なこと、どうして言ってくれなかったの?全部1人で抱え込むつもりだった?」口を開いたものの、何を言えばいいのかわからない。こらえていたつらさが、一気に込み上げてきた。莉奈が私を抱きしめた。「大丈夫。ずっとそばにいるから」……遼平はまだ式のスーツを着たまま、何度も私に電話をかけ、メッセージを送っていた。けれど、電話はつながらない。秘書に私の居場所を調べるよう急いで指示したものの、不安でたまらず、待ちきれなかった。駐車場へ駆け込み、猛スピードで車を走らせ、ほどなく私の家に着いた。ドアを何度もたたく。「ミユ、開けてくれ……ミユ。記憶が戻ったんだ、ミユ」いくら待っても、ドアは開かない。気持ちは沈んでいくばかりで、胸には言いようのない空しさが広がった。ふと、合鍵のことを思い出し、ほっとした。「ミユ、思い出したんだ。今までのことは、全部俺が悪かった」謝りながら、足早に寝室の入り口まで行った。私はいなかったが、机の上のエコー写真がすぐに目に入った。その場で立ち止まり、そっと写真を手に取った。書かれた文字を1字ずつ確かめる。その目には新鮮な驚きが浮かんでいた。喜びが全身に込み上げ、思わず口元がほころぶ。「俺、父親になるんだ!」スマホを取り出し、また私に電話をかけ、メッセージを送った。一刻も早く私を見つけたかった。スマホが震えた。式場を出てから、着信はひっきりなしだった。妊娠を知って気持ちが少し落ち着いた遼平は、電話に出た。「遼平さん、どこにいるの?どうして私を式場に置き去りにしたの?」美優は、電話がつながるなり泣いて訴えた。少し間を置くと、不満を隠し、心配そうに尋ねる。「もしかして、体の具合が悪いの?大丈夫よ。あなたの体が一番大事だもの。結婚式なら、また後でもできるから」口ではどこまでも理解のあるふりをして、置き去りにされたことも少しも恨んでいないかのようだった。けれど実際は、怒りのあまり、爪が手のひらに深く食い込んでいた。「俺が結婚するのは、『本当のミユ』なんだ!」遼平の冷たい声に、美優は嫌な予感を覚え、言葉を
再び目を開けると、白い天井が見えた。親切な通りすがりの人が、病院へ運んでくれたらしい。目の状態が悪化していると聞かされた。さらに、思いもよらない知らせがあった。「おめでとうございます。妊娠していますよ」妊娠1か月ほどだという。どうしたらいいのかわからず、その場にぼんやり立ち尽くした。スマホが震えた。画面を開くと、遼平の親友、岡田航(おかだ わたる)からメッセージが届いていた。【もうすぐ結婚式が始まるぞ。まだ来ないのか?】胸がどきりとした。カレンダーを開いてみると、7月8日。今日は、私たちが結婚式を挙げるはずだった日だ。遼平の記憶が戻ったのだろうか。ずいぶん迷った末に、お腹をそっとなで、タクシーで式場へ向かった。ウェディングドレスを着て、大勢の人に囲まれている美優を見た瞬間、ようやく目が覚めた。これは、遼平と美優の結婚式だったのだ。「美由希さん、来てくれたんですね。私のドレス、きれいでしょう?」彼女は満面の笑みを浮かべ、楽しそうにくるりと回った。私は背を向け、足早にその場を離れた。「美由希さん、遼平さんがどうしてあなたをミユって呼ぶのか、わかります?」背後から得意げな笑い声が聞こえ、ぞっとした。本当は、何もかもわかりきっていた。私もミユ、彼女もミユ。顔立ちもよく似ている。最初から最後まで、私はただの身代わりだった。どうして遼平は私を忘れたのに、美優とはあんなに親しげだったのか。1年前、彼女が帰国してから、2人は私に隠れて付き合っていたのだ。あの日、証拠を探していたとき、彼の服のポケットから美優のイヤリングが片方だけ出てきた。……式場はにぎわっていた。遼平は、ドレス姿で幸せそうに微笑む美優を見つめている。けれど、思っていたほど嬉しくない。なぜか、胸が苦しかった。司会者の声も、列席者の笑顔も、目の前の花嫁も。突然、自分だけが見えない壁の向こうに隔てられたように感じた。彼は頭が割れそうに痛む。見覚えのある場面が、次々と脳裏をよぎった。「ミ、ミユ!」はっと我に返り、目の前の美優を見る。激しい不安に襲われた。慌てて列席者を見渡したが、よく知るあの顔はどこにもない。「新郎様。この美しい花嫁を妻とすることを誓いますか?」式は終わりに近づき、口元にマイクが差し出
遼平は美優のために椅子を引いた。好みも覚えていて、ステーキまで自分の手で小さく切ってやる。何から何まで、いたれりつくせりだった。私が最後にあんなふうに気遣ってもらったのは、いつだっただろう。もう思い出せない。目をそらし、気づかれたくなくて、思わずうつむいた。けれど、願いはかなわなかった。美優に見つかってしまった。遼平がトイレに立つと、彼女が私の前にやってきた。得意げな笑みも、あざけりの色も隠そうとしない。「あら、美由希さんじゃないですか」彼女は笑った。「こんなところでピアノを弾くなんて、ずいぶん落ちぶれたんですね。その顔で、お客様を怖がらせたりしません?」無邪気そうな声に、悪意が詰まっていた。ようやく見つけた仕事だ。面倒を起こしたくなくて、相手にしなかった。でも、彼女は引き下がらない。段差を上がって隣に立つと、私の手を強くつかんだ。まだ治っていない傷に激痛が走り、反射的に振り払ってしまった。「ミユ!」いつの間にか戻ってきた遼平が、ちょうど私が手を振り払うところを見ていた。また同じ手だ。見え透いたやり方なのに、彼にはよく効くようだ。「遼平さん、全部私が悪いの。美由希さんに少し休んでもらおうと思っただけなのに……」彼女は彼の胸に顔をうずめ、肩を震わせた。ひどい仕打ちを受けたかのように。遼平は、隠しきれない敵意を私に向けた。「森川美由希。そんなにピアノが弾きたいのか?」彼は冷笑した。「証拠まで偽造する嘘つきが、ここで何を狙って弾いてるのか、言わなくてもわかるよな」私はその場に立ち尽くした。美優を抱き寄せ、肩を優しくたたいてなだめながら、彼は冷たく言った。「今すぐ全部のテーブルを回って謝ってこい。自分は薄汚い嘘つきだから、皆さんに演奏を聴かせる資格なんてないってな」私は目を見開き、信じられない思いで彼を見た。泣き声になりそうなのを必死にこらえる。「ただ仕事を見つけたかっただけなのに。どうして、そんなことまで命令されなきゃいけないの?」「藤崎社長」駆けつけた店長が、慌てて頭を下げた。「大変申し訳ございません。こちらの従業員が失礼いたしました。私からおわびいたしますので、どうかお許しいただけませんか」遼平は険しい顔のままだ。簡単に許すつもりなどないのが見て取れた。