LOGIN株主総会当日。広い会議室は、人であふれかえっていた。ミツキホールディングスのプロジェクトを片付け、10分前に到着した凪。二宮グループにおける凪の役職はあくまで副社長。そのため席も、長机の一番端だった。一方、渉は来賓として招かれていたため、大地の隣に座っていた。長いテーブル越しに凪を見つけた渉が、思わず口を開く。「二宮家のご令嬢なのに、一番端の席なんですか?」「まったく、下の者は気が利かなくて困りますね」大地は渉が凪を気に掛けている様子に満足そうな笑みを浮かべた。「中島社長がおっしゃってるんだ。早く凪をこちらへ呼んで、中島社長の隣に座らせなさい」秘書が慌てて凪を呼びに行く。凪としては、目立たないところに座って話だけ聞き、終わったらさっさと帰るつもりだった。それなのに渉の隣へ座らされ、ますます表情が冷たくなる。しかし、渉はそんなことにも気づかず言った。「もう嫌な思いはさせないって約束しただろ?」凪は黙り込んだ。あなたの隣に座ることが嫌なんだけど。凪はそう思ったが、あえて何も言わなかった。下手に口を開けば、この自意識過剰な男に「まだ自分を意識している」と勘違いされかねない。やがて株主総会が始まった。前半の報告事項は定例通り進んだが、後半になるにつれ、徐々に私的な話題が増えていく。二宮グループの株主は親族が多く、普段から発言も遠慮がない。葵と親しい叔父の一人が、突然口を開いた。「凪ちゃんはうちの副社長だったよな?なのに、最近は本社にもほとんど顔を出さず、本社の備品までミツキホールディングスへ持っていってるそうじゃないか。少し本業を疎かにしすぎでは?」その一言で、会議室が静まり返った。凪はその叔父をちらりと見て、ふっと鼻で笑う。「叔父さんが二宮グループの案件で数千万円もの損失を出した時は、誰も何も言わなかったのに、私が机と椅子を少しミツキホールディングスへ回しただけで、罪人扱いですか?」言葉に詰まった叔父は、反射的に助けを求めるように葵へ視線を送った。葵が即座に反応する。「商売なんだから、利益が出る時も損する時もあるでしょ?叔父さんが言ってるのは、お姉さんが役職に就いてるのに、その仕事をしてないってこと。そこには触れずに話を逸らすなんて、図星だからじゃないの?副社長の席に座っておきなが
葵は破れた服を押さえながら、こっそり逃げようとする。しかし、凪がその腕を掴んだ。「お父さんにちゃんと説明してもらうから」大地は、取引先が殴られたという知らせを受けたばかりだった。そこへ凪が報告に戻ってきたと聞き、怒鳴りつける。「俺が苦労して取りつけた取引先を、よくもこんな目に遭わせてくれたな!この案件が潰れたら……葵!?その格好はどうしたんだ!?」振り返った大地は、ぼろぼろになった葵の姿を見て言葉を失った。凪は背後のドアを閉め、そのまま葵を突き放す。「お父さん、今回のことはあなたの自慢の娘に聞いて。どうしてこんな格好で、取引先との会食場に入ってきたのか、ね。岩本社長に絡まれた瞬間、いきなり平手打ちしたし、私が止めに入ったら、今度は岩本社長を殴って病院送り。全部、あなたの娘がやったことだから」「私……」胸を押さえながら顔を上げた葵は、大地の激怒した目を見て何も言い返せなかった。まさか、大輔のベッドへ潜り込もうとしたら春海に見つかって逃げ回った挙げ句、姉の商談に飛び込み、そこでこんな騒ぎを起こしたなんて、そんなこと口が裂けても言えない。散々考えた末、葵は自分の腕をつねり、声を上げて泣き始めた。「お父さん!私、本当はお姉さんの商談を手伝おうと思っただけなの!でも途中で変な男に絡まれて、怖くてお姉さんのところへ逃げ込んだんだけど、なのにお姉さんは私をあの社長に差し出して……社長も、私が接待の女だと思ったらしくて……」「その格好で、私の商談を手伝うつもりだったの?」凪は冷たくそう言い放ち、酒まみれの契約書を葵の前に投げた。「そこまで仕事ができるって言うなら、その格好のまま自分で契約を取ってくれば?私はもう手を引くから。功績を横取りしたりしないわ」それだけ言って、凪は踵を返した。本当に、時間の無駄だった。こんなところにいるくらいなら、ミツキホールディングスの祝賀パーティーへ行った方がよほど楽しい。大地は葵の姿を見て、だいたいの事情を察した。だが、商談そのものを諦めるわけにはいかないため、凪を呼び止める。「凪、この案件はひとまず君に任せる。葵については、俺がきつく叱っておくから」凪は足を止めた。そうして、床で自分のことを憎らしげに睨んでいる葵をちらりと見てから、眉をくいっと上げる。そして、くるりと
顔を真っ赤に腫らした高康は、葵の悲鳴にも構わず腕を掴み、そのままテーブルの上へ乱暴に叩きつけた。皿などが派手な音を立てて床へ落ち、酒や料理で葵の乱れた服はびしょ濡れになった。周囲の者たちは驚いたものの、巻き込まれまいと高康のために場所を空ける。高康は袖をまくりながら近づき、葵のうなじを掴んだ。「そんな格好で男を誘っておいて、今さら清純ぶる気か!この尻軽女が!自分からテーブルに上がったんだから、料理と同じだろ?俺がどうしようと勝手だよな?」「岩本社長、落ち着いてください……」それを見て凪は顔をしかめた。葵のことは好きではないが、女性を物のように扱わせるわけにはいかない。凪はすぐに高康に歩み寄り、何とか場を収めようとした。「あんたこそただの皿よ!」葵が泣きながら顔を上げた。全身は料理の汁と酒でべたべたになり、服は乱れ、どこを隠しても別の場所が露わになりそうな有様だ。しかも春海に引っ張られた頭皮まで、まだずきずきと痛んでいて、立て続けに受けた屈辱が一気に込み上げ、怒りへ変わった。そして振り返り、高康を止めている凪を見た途端、さらに頭に血が上る。凪はわざとこの男を使って、自分を辱めようとしたんだ!凪を見て、助かったと思った自分が馬鹿だった。全部、嘘だったんだ!葵は凪を指差し、声を張り上げる。「あんたには、こんな最低な男がお似合いよ!」凪は無言で高康を止めていた手を離した。本当に、恩を仇で返す女だ。ならば、もう情けをかける必要もない。凪が手を引いたのを見るなり、高康は怒りに任せて葵へ詰め寄り、首元を掴んだ。「誰が変態だって?そもそも、二宮家が俺に頼み込んで……」「触らないでよ!本当最低!」恐怖と怒りで我を忘れた葵は、そばにあった料理皿を掴むと、高康の頭へ思いきり叩きつけた。高康の身体が大きく揺れ、彼はそのまま床に倒れ込んでしまった。周囲の者たちが一斉に立ち上がる。凪も瞳を見開いた。まさか、本当に殴り倒すなんて。「泉、救急車を呼んで」人を殴った葵も、一瞬だけ怖くなったのか手を震わせていたが、慌ただしく対応する凪を見た途端、なぜか得意げに口元を吊り上げる。「お姉さんも、こんなケダモノにまで媚びなきゃいけないの?ミツキホールディングスって、そんなに経営が苦しいわけ?少しで
春海のために予約した部屋だったらしい。葵は言葉に詰まり言い訳すらできない。すると春海は目を真っ赤にして飛びかかり、葵の髪を思いきり掴んだ。「前回の婚約披露宴をぶち壊してくれた件、まだはっきりさせてなかったわよね?なのに、今度は大輔が予約したホテルを調べて、自分をプレゼントみたいにベッドへ横たえて待ってたってわけ?どこまで恥知らずなの?大輔が誰のものなのか、今日こそ徹底的に思い知らせてやるから!早くそこから退いて!私のベッドが汚れるでしょ!」春海は容赦なかった。頭皮ごと引き剥がされそうなほど髪を引っ張られ、背中を覆っていた薄い布地まで無残に裂けた。葵は悲鳴を上げる。このまま捕まっていたら、本当に何をされるか分からない!逃げなきゃ……恐怖に駆られた葵は、ありったけの力で春海の手を振りほどき、ぼろぼろの姿で部屋から飛び出した。「待ちなさい!」しかし、春海は勢い余って薔薇の花びらが散るベッドへ倒れ込み、さらに激昂した。すぐに廊下へ飛び出し、控えていたボディーガードたちへ怒鳴る。「何ぼさっとしてるの!早く追いかけて!」「捕まえたら、ただじゃおかないから!」春海の怒声が廊下中に響き渡った。肝を冷やした葵は、エレベーターを使う余裕すらなく、そのまま非常階段へ駆け込んだ。一方、ボディーガードたちは手分けして上下から追い詰めてくる。逃げ場を探して走り回った葵は、とうとう行き止まりの廊下へ入り込んでしまった。奥にあるのは、3つの部屋だけ。どこに入ればいい?迷っている間にも、ボディーガードたちの声が近づいてくる。もう駄目だと、思ったその時、ちょうど凪が歩いてくるのが見えた。助かった!凪はちょうど化粧室から戻ってきたところだった。服を整えながら、慣れた足取りで部屋へ向かっていると、突然、腕を強く抱え込まれる。「お姉さんの部屋、ここでしょ?早く入ろう!」追い詰められた葵は必死だった。凪の都合などお構いなしに、そのまま腕を引っ張って個室へ飛び込む。凪は何が何だか分からないまま、中へ連れ込まれてしまった。部屋の中では、取引先とその部下たちがすでにかなり酔っていた。凪が戻ってくると、一斉に視線が集まる。「凪さん、やっと戻ってきましたね。ん?その方は……」顧客の岩本高康(いわもと たかやす)の目が、葵
大地は怒りに任せて電話を切った。しかし、凪は気にも留めなかった。以前のミツキホールディングスの資金繰りでは、プロジェクトが本格的に動き出すまで持ちこたえるのは難しかっただろう。だが、明里からまとまった資金を回収した今、その心配はほとんどない。「じゃあ、私が最後まで持ちこたえられるか、見ていればいいわ」凪は微笑んで携帯を伏せ、仕事に戻った。もっとも、今夜の祝賀パーティーが終われば、二宮グループの取引先とも会わなければならない。しかも、大地直々の指名だ。本当に、あの人はいつだって水を差してくる。同じ頃。二宮グループの社長室。大地は憤怒し、携帯を床に叩きつけた。「凪がいつまで強がっていられるか、見ものだな!黒崎グループが仕事を回してくれたところで、まさか運転資金まで現金で注ぎ込んでくれるわけじゃあるまい。いずれ持ちこたえられなくなって、俺を頼ってくるさ」その言葉を聞いた葵の瞳が、ぎくりと揺れた。数日前までなら、父の脅しは本当に効いていたかもしれない。だが、自分と母は凪に12億円を渡したうえ、さらに数千万もの口止め料まで払っている……葵は恐怖に喉を鳴らした。もし父が、ミツキホールディングスが例の邸宅の売却代金で持ちこたえていることを知れば、母も自分ももう終わりだ。ならば今やるべきことは一つ。新しいプロジェクトを取って、大地の目をそちらへ向けるしかない。葵は急いで社長室を出ると、携帯を取り出し、連絡帳を開いた。大輔の名前をじっと見つめる。黒崎グループの仕事さえ取れれば、父もミツキホールディングスの資金なんて気にしなくなる。そうすれば、あのお金がどこから出たのかもばれないだろう……そう考え、葵は大輔へ何通もメッセージを送った。だが大輔は、以前の失敗をまだ根に持っているらしく、一向に返事を寄こさない。しびれを切らした葵は、大輔が今夜ホテルで商談をすることを突き止めた――今夜直接会いに行こう。家へ戻り、衣装部屋で服を選んでいた葵の目が、セクシーな赤いキャミソールドレスで止まった。唇に笑みが浮かぶ。「今夜こそ、絶対に話をつける」たとえ、もう一度身体を差し出すことになっても…………夜。ホテルへやって来た葵は、スタッフを買収し、大輔の部屋のカードキーを手に入れた。メッセージに返
渉は、その場に呆然と立ち尽くした。一方、沈んでいた凪の瞳は、一瞬で明るくなる。けれど、すぐに唇を引き結び、込み上げる喜びを必死に押し隠し、そして責任者が、正式な契約書を目の前へ差し出すまでじっと待った。「おめでとうございます。これから、末長いお付き合いをお願いいたします」「こちらこそ」凪は席を立ち、短く握手を交わすと、すぐさま契約書にペンを走らせた。この助成プロジェクトがあれば、ミツキホールディングスはきっともう一度大きく飛躍できる。凪の胸は期待で満ちあふれていた。一方で、渉はすっかり意気消沈した様子で、その場に立ち尽くしている。今日のところは、ただ契約を結んだにすぎない。プロジェクトの詳細については、後日両社で調整する必要があるのだ。30分後。契約書を手にした凪はビルを後にした。陽菜に吉報を伝え、車を取りに駐車場へ向かう。車の鍵を開け、ふと顔を上げると、すぐ横に渉が立っていた。凪は自然と歩みを緩める。「自分の車は?運転手もいないの?まさか、私に送れって?」「凪――」渉はかつての甘い声で凪を呼んだ。少年のようなあどけなさで甘えてくる姿は、当時の恋人を惑わせたあの甘美な雰囲気を漂わせている。「黒崎グループのプロジェクト獲得、おめでとう」昔のように話しかけてくる時は、大抵ろくな話ではない。凪は渉を無視して通り過ぎ、運転席のドアを大きく開けた。「ありがとう。じゃあ、私は行くから」「待って!」凪があまりにも淡々と立ち去ることに驚き、渉は慌てて車のドアを押さえた。溜息混じりに話し始める。「君が株を手放したとはいえ、恒業グループには君の名前がずっと残っている。今日、このプロジェクトを取れたら、君と一緒にやろうって考えてたんだ。でも結果は逆だった。だから、俺たちと提携しないか?そうすれば、これからも何度も顔を合わせられるし……」何のために?凪は笑みを浮かべている渉の顔を冷ややかに見つめた。しかし、もう胸はほんの少しも揺れない。確かに、もし渉が案件を取っていたら、本当に自分へ仕事を分けようとした可能性はある。だが、もし本当にそうなったからといって、自分がそれを受け取るつもりはない。そして今、渉が逆に自分へ協力を求め、仕事を分けてもらおうとしている。当然、それに応じるつもり
今回は文章はなく、写真だけだった。それは、眠っている渉の写真だった。男は後ろから直美を抱きしめ、腕の中にすっぽりと収めて、深く眠っていた。直美は恥じらうような笑顔を浮かべている。唇は腫れあがり、開いたネグリジェの襟元からは、キスマークがいくつも見えていた。昨夜、何があったかは言うまでもない。凪と渉は五年付き合って、一番深い関係には一度もならなかった。付き合い始めの頃、気持ちが抑えきれない渉は、凪を強く抱きしめてこう言った。「凪ちゃん、早く大人になって……」その後、渉はもうそんな風に凪を抱きしめることはなく、ただ、結婚してからにしようと、なだめるだけだった。凪はず
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと