ログイン「ここが本当にヤクザの本拠地だったら、お二人をただで帰すわけがないだろ?」警備員は鼻で笑った。陽菜が、世間知らずの田舎者に見えたからだ。今時、ヤクザだなんて大げさなことを言う奴がいるとは。言い終えると、警備員はそのまま二人を外へ押し出そうとした。陽菜は反射的に体を縮こまらせた。すると、凪は毅然とした態度で一歩前に出ると、陽菜をかばった。「私は本社から派遣された君たちの新しい上司よ。話は聞いてないの?」「お前が?」警備員は吹き出した。「ミツキホールディングスの上層部といえば、みんな毎日仕立ての良い高価なスーツを着てるような人たちだよ!」凪は、怒りを我慢した。母が生前、一生懸命に作り上げたミツキホールディングスが、どうしてこんな風になってしまったのだろう?腹の底から怒りが湧き上がり、凪は目の前の警備員を突き飛ばした。そして受付に戻り、指先でカウンターをコンコンと叩いた。「だったら、その仕立ての良い高価なスーツを着たお偉いさんを、今すぐここへ呼んできなさい」「何様のつもりですか……」受付の女性は呆れたように言いかけ、文句を言おうとしたその時、凪は鼻で笑い、二宮グループの社員証を彼女の前に投げつけた。「私は、二宮グループの副社長であり、本社の社長の娘だわ。いい服を着ていようがいまいが、あなたたち、これからは私に雇われる身になるの。理解できるかしら」そう言い放つと、凪は優雅に背を向け、陽菜を連れて待合室へと歩いた。「10分以内に上の人間が来なければ、全員クビよ」「そんな!」受付の女性は顔色を変えて凪の社員証を確認し、慌てて上司に電話をかけた。警備員は腰が抜けそうになり、焦りながらも二人に温かいお茶を差し出し、謝り続けた。「自分がバカでした。どうか、お許しください!クビには……」「これ以上喋ったら、今すぐクビにするわよ」凪は顔も上げずに言い放った。警備員はすぐに口を閉じた。隣で陽菜は、すっかり凪に圧倒された。凪は口が達者なだけかと思っていたが、これほどの迫力があるとは。怒った顔が怖すぎる。それから間もなくして、ミツキホールディングスの責任者である丸山莉子(まるやま りこ)が、役員たちを引き連れて慌てて駆けつけてきた。少し小太りの莉子は、首にしっかりと毛皮のマフラーを巻
振り返ると、なんと渉はまだ凪の後ろ姿を目で追いかけていた。直美は激しい焦りと苛立ちに襲われ、目に涙をためて渉に歩み寄った。「全部、私の体が弱いせいだわ。凪さんのように、渉さんの代わりに外で働いて支えてあげることができなくて……それにしても、凪さんが黒崎さんと一緒にいた時は、あんなお金の使い方はしていなかったじゃない。黒崎さんだって、浮気相手にもらった服を着て外を歩くような人じゃないし。ねえ、渉さん。これって……凪さん、もしかして新しい恋人ができたんじゃない?」直美は「新しい」という部分を特に強調した。その言葉を聞くと、渉の脳裏に、先日見かけた車内の男の顔が浮かび、表情を曇らせた。自分のライバルは、空の他にもいるというのか?渉は冷たい表情のまま、すぐさま秘書に詳細を調査するよう命じた。彼の背後で、直美は満足げに口元を歪ませた。渉はいずれ、あの女の汚い本性を見抜くはず。そうなれば、たとえ後から空に見捨てられて渉のところへ戻ってこようとしても、きっともう無理だわ。渉の隣にいられる権利は、最初から自分だけのものなのだ。……凪はシャツを持って、車に戻った。すると突然、葵からの通知が立て続けに届き、スマホが小刻みに鳴り響いた。今度は何の用かしら?凪はうんざりとした気持ちで、スマホを開いた。まず目に入ってきたのは、一枚の写真だった。暗がりの中に立つ空と、美しい女性の姿だった。隅の方にいるが、寄り添って互いに向けた優しい笑顔が見て取れる。かなり親密そうだ。続けて、葵のメッセージも目に入った。【これね、空さんが海外で作った愛人よ】【子どもも作れないような男に逃げられるなんて、お姉さんも大変ね。空さんがほかの女との間に子どもも作れなくて、本当によかったじゃない。そうじゃなかったら、とっくに捨てられていたでしょうね】【しっかりしがみついておかないとね。お姉さんと一緒にいた、あのみすぼらしい二人の友達みたいにならないように、気をつけたほうがいいんじゃない?】トゲのあるメッセージが続いていた。昨日の夕方に嫌みを言われた腹いせに、なんとしてでも言い返したかっただけだろう。本当にくだらない。凪は迷うことなく、葵のアカウントをブロックした。自分と空は最初からお互いの利益のために結婚したのだか
凪は呆れた。なんて自己中心的な人なの?自分がいつ、彼のために服を選んでいるなんて言ったの?「そこに鏡があるでしょう?自分の姿をちゃんと確かめて、立場をわきまえたら?私は恋人のためにシャツを選んでるの。部外者のあなたには関係ないでしょ?」凪は冷たく渉を一瞥した。そしてふと、素敵なシャツが目に留まった。空のしっかりした肩幅と引き締まった体に、よく似合いそうだ。凪はそのまま渉の肩を押しのけて、目当てのシャツに向かって歩き出した。ぶつかられた渉はよろけ、輝いていた表情は一瞬で暗くなった。凪の手がシャツに触れようとしたその時、直美が横からスッとそれを取り上げた。「凪さん、私と趣味が似てますね。この服、渉さんにぴったりだと思ったの」凪は手を止めた。さっきまでいいデザインだと思っていたのに。それが渉に似合うと言われた瞬間、急に嫌悪感を覚えた。「渉に似合うようなものじゃ、私の恋人にふさわしくないわ。欲しければお好きにどうぞ」凪はくるりと背を向けた。直美は悔しそうに歯を食いしばったが、店内で騒ぐわけにもいかず、腹を立てていると、凪がまた別のシャツに手を伸ばしているのが見えた。直美はすぐ先回りして、またシャツを横からひったくった。「これも渉さんに似合いそう!渉さん、これ着てみてよ。似合ってたら私、買ってあげるわ」そう言うと、直美は自慢げにシャツを渉に差し出した。凪の口から、クスッと小さな笑みが漏れた。そしてまた他のシャツの方へと歩き出した。直美はその笑い声を耳にし、馬鹿にされたのだと思い、怒りを募らせた。だが、凪が狙ったものを奪えたと思うと、満足感を覚えた。「渉さん、着てみてよ!」直美は嬉しそうにシャツをきれいに広げて、渉を試着室へ促そうとした。だが、値札に目を落としたその瞬間、直美は固まってしまった。目を疑うほどの金額だった。たかがシャツ一枚に、こんな値段がつくの?だから凪はさっき自分を見て、馬鹿にするように笑ったのね……自分の予算では、とても支払える額ではなかった。顔を真っ赤にした直美は、慌ててシャツを戻して愛想笑いを浮かべた。「このシャツ、あまり渉さんには似合わないみたい。他のでもっといいものを探してあげるわ」「すみません。彼女が先ほど手にしたシ
体が温まると、凪は猫を床へそっと下ろした。空が自分の荷物を片づけているのを見て、凪は尋ねた。「出張、お疲れ様です。順調でした?」「ああ、特に問題はなかったよ」でも少し疲れた。早くここに帰りたくて仕方がなかった。空は凪をじっと見つめた。そして彼の視線は、リビングに広げられた食器や陶磁器へ移った。その中には、確かに峰行が画像で送ってきた陶磁器があった。自分への贈り物だ。空はその陶磁器を拾い上げようとした。しかしちょうどその時、猫が器に入った水をぺろぺろと舐め始めた。空の瞳は、一瞬で冷たくなった。峰行のやつ、適当なことばかり言いやがって。空がその場を立ち去ろうとすると、彼の様子に気づいた凪が思わず問いかけた。「猫用に作りましたが、どうですか?」「悪くない」けれど、本当は気に入らないのだ。空の雰囲気は一変し、凍てつくような威圧感を放ち始めた。しかし、凪はそれに気づかず、玄関から2つのカップを手に取って空に手渡した。「これは空さんのために作ったのです。この前あげた柿の置物だけじゃ適当すぎると思って、仕事の合間に、新しいカップを作ってみました。この青の模様は空さんの部屋のインテリアにぴったりだと思います」受け取った2つのカップは、少しひんやりとしていた。だが、空の機嫌は良くなり、さっきまで気に食わなかった猫の姿すら可愛らしく見えてきて、こう返事した。「綺麗だ」凪はほっと胸をなでおろした。空に喜んでもらえてよかった。凪は空の荷物を手に取り、一緒に片づけようとした。「気に入ってくれてよかったです。それと、荷物整理も手伝います。早く済ませてゆっくりと休みましょう。猫を探してくれた、お礼ですから」空は拒まなかった。片付けを終えたあと、空はベッドに入ってすぐに、深く穏やかな眠りに就いた。まるで、出張中に凪と会えず、張り詰めていた日々の寝不足を補うかのようだった。……翌日、ショッピングモールにて。凪は紳士服店に入った。昨日、空が猫を探す時に、着ていたシルクのシャツがボロボロになってしまったのだ。凪はそのお詫びとして、新しくシャツを買ってあげようと考えた。店に入ると、店員が愛想よく近寄ってきた。「いらっしゃいませ、恋人へのプレゼントをお探しでしょうか?」
凪は空の胸に顔をうずめた。冷たい夜風の匂いがした。それでも、触れた体はとても温かかった。誰かの腕に抱かれるのはいつぶりだろう。凪が空のぬくもりを感じていると、背中に回された腕に、ぐっと力がこもった。「どうした?」心配そうな空の声に、凪はハッと我に返った。いけない、猫を探さなきゃ!さっきはドアを閉め忘れていた。猫が最上階にいなければ、きっとエレベーターに紛れ込んで外へ行ってしまったはずだ。凪は気恥ずかしそうに空の胸から離れると、1階のボタンを押した。「さっきゴミを出しに行った時にドアを閉め忘れて、猫が下に逃げちゃったみたいなんです」「どんな猫だ?」と空が尋ねる。「小さな三毛猫で、右耳がオレンジ色で、だいたいこのくらいの大きさなんですけど」凪は腕を伸ばし、白い手首を見せながら、猫の大きさをジェスチャーで示した。空は、凪が薄着でいることに気づいた。夜は冷え込む。上着すら羽織らずに出てくるなんて。エレベーターが1階に着くと、空は外へ出て行こうとする凪を引き留めた。そして自分のコートを脱いで、凪の肩に掛けた。凪は空が薄いシャツ一枚になったのを見て、少し眉をひそめた。「夜はこんなに冷え込むのに、大丈夫ですか?」「俺は今帰ってきたばかりで、体が温まっているから大丈夫だ」そう言って袖をまくり上げた空は、周囲を見回しながら、植え込みの陰を一つひとつ丁寧に探し始めた。空の好意を拒む理由はなかった。ならば素直に受け取ろう。凪はサイズの大きいコートに包まれながら、同じようにかがみ込んで辺りを探し始めた。二人は周囲をくまなく探し回った。凪がマンションの管理室で防犯カメラの映像を見せてもらえないかと考え始めたその時、近くからか細い猫の鳴き声が聞こえてきた。凪は声がした方向へ顔を向ける。空は植え込みをかき分け、枝を払いのけながら姿を現した。その腕には、じたばたともがく小さな猫がしっかりと抱きかかえられていた。猫の体には泥や葉っぱが付いていて、必死に四肢をばたつかせていた。きっとさっきエレベーターやドアの音に驚いたのだろう。「この猫か?」空は凪の前に戻り、身にまとっていた上質なシャツは、枝に引っかかってボロボロになっていた。むき出しになった腕にも、所々に赤い傷がついている。凪
凪の言葉が終わると、葵の顔は悔しさで青ざめた。どう見ても、この二人の方が場違いな格好をしているのに。なぜ凪に言われると、まるで自分の方がこのレストランにふさわしくないみたいになるのだろう?葵は言い返そうとしたが、後ろにいた令嬢たちがクスクスと笑い始めた。葵は顔を真っ赤にして、向けられた冷ややかな視線に気づくと、馬鹿にされているのは自分のほうだとようやく知った。「なによ、お父さんに言いつけてやるから!」葵はそう言い捨てると、その場から逃げ去った。凪はため息をついた。「親を頼ることしかできないのかしら?お父さんもよく、あんな我が儘な子をそばに置いてイライラしないわね……って、お二人とも何でそんな目で見てるんですか?」振り返ると、杏奈と陽菜がキラキラした目で自分を見つめていて、凪は不思議そうに首を傾げた。陽菜が真っ先に口を開いた。「すごすぎます!さっきカードを取り出したときの仕草、すっごくかっこよかったです!私もたくさんお金を稼いで、嫌な人たちを見返してやりたいです!」「本当にそうよ!凪に庇われると、私のズボンについている泥さえ、なんだかオシャレに見えてきちゃうわ!」杏奈が今にも凪に抱きつきそうな勢いだ。凪は苦笑いしながら、彼女を優しく押し返した。「だとしても、泥は綺麗に落としたほうがいいわよ」「わかってるって。もう最高の友達!」杏奈はさらに甘えてきた。3人は和気あいあいと楽しい食事の時間を過ごした。お腹がいっぱいになったあと、凪は二人を家まで送り、スーパーに寄ってキャットフードとおやつを買った。帰宅すると、自作の器を棚から取り出し、子猫に水と餌をあげた。猫は嬉しそうに凪の体に擦り寄ってきた。上機嫌の凪は、ふたつのマグカップを玄関の棚に並べた。空は、ロールスロイスを貸してくれたのだ。柿の置物だけでは、感謝の気持ちを伝えられない。このふたつのマグカップは、窯出ししたなかでも一番きれいに仕上がった自信作だ。空が戻ってきたら、プレゼントとして渡そう。凪はそう考えながら部屋の中を片づけた。ゴミ出しから戻ってきたところで、琴音から着信が入った。「凪が作った曲、みんなから大絶賛だよ!」「本当!?」凪は玄関でドアを閉めるのも忘れ、琴音との会話に夢中になった。琴音は興奮気味
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ







