ANMELDEN利弘の顔に貼り付いていた仮面が、とうとう耐えきれずにひび割れた。
「あの日、お前が綾音のために俺へ突っかかってこなかったら、俺も本気で信じていたかもしれないな」
修は冷笑する。
「けど、あいつはお前が何をしてくれたのか全部知った上で、平然とお前を裏切るようなことを言ったんだよ」
その笑みは、今度ばかりは自嘲にも見えた。
利弘は何も言わなかった。
顔は影に沈み、その表情を読み取ることはできない。
長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「そんなにベラベラ喋って、結局何がしたいんだよ……澪の代わりに俺へ説教でもしに来たのか?なら、四の五の言わずにさっさとやれよ。どうせこんなザマなんだ。肋骨がもう一本折れたところで、どうってことねえよ
澪は特に何も言わず、試着室に入ってドレスに身を包み、カーテンを開けて外に出た。修はソファに座ってスマホを操作していた。顔を上げると、澪の姿にきっちり三秒間視線を留め、やがてその口元がゆっくりとつり上がった。「これなら悪くねえ」修は立ち上がり、澪の背後に回って肩紐を直すように手を伸ばした。彼の指先がうなじの肌をかすめた瞬間、澪の体がビクッとこわばり、思わず身を引こうとする。「動くな」修の声はひどく低く、まるで言うことを聞かない猫をあやしているかのようだった。彼は店員からネックレスを受け取り、澪の首に回して留め金を留める。純金のチェーンに、ごく小さなサファイアのペンダントトップ。鎖骨の下で、それが怪しげな光を揺らめかせた。「ピアスも替える」修は店員に振り返って命じた。「あのプラチナのやつを出せ」澪は鏡の中の二人を見つめた。修は彼女の背後に立ち、その瞳には満ち足りた色が浮かんでいる。顎は彼女の首筋に触れんばかりに近く、両腕は彼女の体の横に回され、まるで背後から抱きすくめるような姿勢だった。だが、わずかに半寸の距離を保っている。その空気はひどく艶めかしく、甘美な色を帯びていた。部屋の隅では、店員たちがこちらを見つめながらひそひそとささやき合っており、その目元には隠しきれない羨望の色が浮かんでいた。「あとどれくらいかかるの?」全身にまとわりつくような居心地の悪さに耐えきれず、澪はたまらず口を開いた。「焦るなよ」 
水曜日の午後二時半。この時間帯の居酒屋は客足もまばらで、稼働しているテーブルは三つだけだった。澪は濃紺のエプロンを身に着け、右手にほうき、左手にちりとりを持って、うつむきながら床を掃いていた。隅のテーブルの脇を通りかかった時、視界の端にピカピカに磨かれた革靴が映った。彼女はほんの一瞬だけ動きを止めたが、次の瞬間には、なんのためらいもなくその足元へほうきを叩きつけた。「痛っ!急に何すんだよ!?」頭上から、聞き慣れた声が降ってくる。修がそこに座り、足をさすりながら毒づいていた。彼の目の前には、すでに三回もおかわりした烏龍茶のグラスが置かれている。今日はダークグレーのタートルネックのセーターを着ており、上着は隣の椅子の背もたれに掛けられていた。その姿はまるで、店に運び込まれてから二度と動かなくなった彫像のようだった。彼は午前十一時からずっとここに座っている。その時は昼食を食べに来たと言っていた。だが、今はもう午後二時半。ランチタイムも終わろうかというのに、一向に帰る気配がなく、腰を上げようとすらしない。澪は胸の奥に湧き上がる苛立ちをぐっと押し殺し、顔を上げて作り笑いの営業スマイルを浮かべた。「お客様、恐れ入りますが、お足を少しよけていただけますでしょうか」「なんだ、このボロ店。接客態度がなってねえな」修は不承不承といった様子で、足を一センチほど浮かせた。澪もそれ以上は何も言わず、彼の靴底をかすめるようにほうきを滑らせ、目にも見えないほどのホコリを数粒、ちりとりへと掃き入れた。体を起こし、きびすを返して立ち去ろうとした彼女の背中に、修が声をかける。「おい、茶が冷め
円香はそれを聞くと、手元の力をさらに優しく緩めた。「ええ、もちろん分かっておりますとも。ただ、急に若い娘さんをお連れになられたものですから、外の者たちが知れば、あれこれと噂を立てるでしょう。旦那様の御名に傷がつきませんよう、私が気を配らせていただきます。それに……」円香は意味ありげに言葉を切った。「それに、何だ」昴が顔を向ける。「早苗様のお顔立ち……じっくり拝見しますと、旦那様とどこか似ていらっしゃいますのね。特にあのすっと通った鼻筋や顎のラインなんて、旦那様と瓜二つですわ」昴の眼差しがすっと沈み込み、「ガンッ」と鈍い音を立てて猪口をちゃぶ台に置いた。円香の手がピタリと止まる。自分の探りが一線を越えたことを悟ったのだ。「申し訳ございません、私の出過ぎた真似でした」「お前が立ち入るべきではないことには、首を突っ込むな」「旦那様のお喜びを、我がことのように嬉しく思っただけですわ。長年、お寂しい思いをされてこられましたのに、ようやくお気に召す子が見つかったのですもの……」円香は再び昴の膝の横に顔をうずめ、声のトーンをひどく甘く、弱々しく落とした。「旦那様……覚えていらっしゃいますか?あの頃、私も一度……旦那様のお子を身ごもったことがございましたね。もしあの子が生きていれば、今頃はちょうど早苗様くらいの年頃になっていたはずですわ」昴の手にあった猪口が空中で止まり、酒の表面に細かな波紋
深夜。主寝室の明かりは、まだ消えていなかった。深雪はベッドの端に腰を下ろし、壁の時計に目をやった。すでに十二時を回っている。ドアはわずかに隙間が開いており、廊下はひっそりと静まり返っていた。視線を落とし、シーツに触れてみる。だが、その片側はすっかり冷え切っていた。ほんの少し前、彼女は昴と口論になったのだ。原因は、他でもない。早苗の素性について、深雪が少しばかり踏み込んで問いただしたからだった。命を救われた恩返しとして、昴が見ず知らずの若い娘を厚くもてなす。それ自体は筋の通った話であり、深雪とて異論はなかった。だが、養女として迎え入れるとなれば、話はまったく別だ。神崎家はれっきとした名門である。妻である自分に、夫の決断を覆すだけの力がないとしても、その養女の素性を問いただす権利くらいはあるはずだった。しかし、昴はそうは考えていなかったらしい。昴はすでにシャワーを浴び、パジャマに着替えてベッドに入ろうとしていた。そこへ深雪が耳元でくどくどと不満を並べ立てると、胸の奥から名状しがたい怒りが一気に込み上げてきたのだ。「なんだ、お前が他の男と作った不義の子は許されても、俺が養女を連れて帰るのは許されないとでも言うのか」そう吐き捨てるなり、昴は傷ついた深雪の顔を一瞥することもなく、彼女を一人残して怒り心頭のまま寝室を出て行った。今、部屋から少し離れた廊下で、昴は壁に寄りかかり、苛立ちに任せて俯きながらタバコに火をつけていた。ブラケットライトの温かなオレンジ色の光が彼を照らし、絨毯の上には憂鬱な影が斜めに落ちている。厨房から出てきた円香は、その光景を目にすると、途端に目を輝かせた。彼女は一度リビングへ戻ってショールを取ってくると、昴の肩にそっと羽織らせなが
ダイニングが、一瞬にして静まり返った。真っ先に反応したのは深雪だった。「昴、それはさすがに……」深雪は口を開き、事の重大さを指摘して、もう少し慎重に話し合うべきだと言いかけた。だが、昴はとうに早苗の方を向き、これまでに見たこともないほど優しい目で彼女に問いかけていた。「早苗くん、君はそれで構わないかい?」早苗は勢いよく顔を上げた。昴と深雪を交互に見比べ、その顔には深い戸惑いと恐れが浮かんでいる。「わ、私は……当たり前のことをしただけです。私のような者が、そんな……分不相応です……」「ふさわしいかどうかは、俺が決めることだ」昴の断固とした口調は、傍らにいる深雪の顔色がいかに蒼白であるかを、残酷なまでに際立たせていた。それはまるで、「お前の口を挟む余地はない」と突きつけているかのようだった。「早苗お姉様。お父様がそうおっしゃっているんですもの、お受けになってくださいな」綾音は早苗の腕に自らの腕を絡ませ、優しく微笑みかけた。「これから私たちは家族になるんですもの。ほら、一度『お父様』って呼んでみてくださいな」早苗は唇を噛み締め、しばらくためらった後、消え入るような声で呼んだ。「……お父様」その姿を見つめ、昴の口元の柔らかな弧が、さらに深くなる。彼は手を伸ばし、早苗の髪を優しく撫でた。
冬休みに入って二週目の金曜日、昴が地方への出張から戻ってきた。一人ではなく、早苗という名の少女を連れて。昴の話によれば、郊外で車が故障して立ち往生していたところ、通りかかった早苗がロードサービスを手配して助けてくれたのだという。昴はその礼として、彼女を直接この神崎家へ連れ帰ってきたらしい。澪が初めて早苗と顔を合わせたのは、その金曜日の夕食の席だった。早苗は綾音の隣に大人しく座っていた。年は十九歳といったところか。華奢な体つきで、長い髪を肩まで下ろし、目元は切れ長。絶世の美女というわけではないが、どこか整った顔立ちをしている。ただ、不思議なことに、澪は彼女を見るたび、言葉では言い表せないような奇妙な既視感を覚えた。だが、いずれにせよ、昴が早苗に向ける気遣いは明らかに尋常ではなかった。それはその場にいる誰の目にも明らかで、普段はふんぞり返っているメイド長の円香でさえ、自ら早苗のカップに紅茶を注ぎ、ひどく愛想のいい笑みを浮かべていた。「早苗様、どうぞ。こちらは旦那様が大切にされているダージリンでございます。お口に合うとよろしいのですが」早苗は慌てて身をかがめ、恐縮しきった様子で両手でティーカップを受け取っ