เข้าสู่ระบบ澪は物置で着の身着のまま身体を丸め、一晩を明かした。
夜が白み始めると同時に起き上がり、誰にも見つからないうちに屋敷の造りを把握しておこうと、音を立てないようそっとドアを開けて外へ出る。
廊下は水を打ったように静まり返っていた。厨房の前を通りかかったその時、棘のある声が静寂を切り裂いた。
「……いいこと、よく覚えておきなさい。神崎家のお嬢様はただ一人、綾音お嬢様だけよ」
澪は足を止め、壁に身を寄せて息を潜めた。
半開きのドアの隙間から覗くと、メイド長の
円香はこの家で二十年以上勤めており、実質的には屋敷を取り仕切る女主人のような存在だ。前世で離れに住んでいた頃、澪はこのメイド長から散々な『特別扱い』を受けてきた。
「旦那様がどれほどのお方か分かっているの? 神崎グループの総帥よ! あんなスラムから這い上がってきたような野蛮な小娘に、その尊い血筋を汚されてたまるものですか」
円香は調理台の上から一枚のメモをつまみ上げ、若いメイドたちの前でひらひらと振った。
「旦那様と奥様、それに綾音お嬢様の朝食は、和牛サンドにフレンチオムレツ、それから搾りたてのアボカドジュース。
あの小娘には、お粥と漬物でも適当に出しておきなさい。
もし文句を言ってきたら、『厨房が忙しくて用意が間に合いませんでした』って言えばいいわ。あとは勝手にさせておけばいいの」
「でも……」
若いメイドの一人が、おずおずと口を開いた。
「あの方も、奥様がお腹を痛めて産んだ、本当のお嬢様なんですよね……?」
澪の視線が、その少女で止まる。
十七、八歳ほどだろうか。丸みのある顔立ちに、大きなアーモンド形の瞳が印象的で、俯きがちな他のメイドたちの中でもひときわ目を引いていた。前世では、この少女を見かけた記憶はない。
「本当のお嬢様ですって?」
円香はとんでもない冗談でも聞いたかのように、声を荒らげた。
「あんな子が本当の娘なわけないでしょう。十六年間、旦那様は存在すらご存じなかったのよ。それが今さら突然現れるなんて、遺産目当ての詐欺師かもしれないじゃない」
円香は目を細め、その場にいる全員を見回した。
「いいこと。この家で誰につくのが一番賢いのか、よく考えて行動しなさい。あなたたちが小さい頃からお仕えしてきたのは綾音お嬢様よ。澪なんていうあの貧乏娘は――ただの部外者なの」
若いメイドは深く俯き、それ以上何も言わなかった。
澪は最後まで黙って聞き届けると、その場を離れた。
円香は部外者である自分を見下し、使用人たちを煽って集団で孤立させようとしている。
相手がここまで丁寧に落とし穴を掘ってくれたのだ。ならば、その好意を無駄にするわけにはいかない。
澪は部屋へ戻ると、小銭とスマートフォンだけを持ち、裏口から屋敷を抜け出した。
虹浜区の早朝は、まだ人通りもまばらだった。
澪は海岸線に沿ってゆっくりと走りながら、水平線が少しずつ朝焼けの黄金色に染まっていく様子を眺める。
ランニングを終えると、コンビニでおにぎりとホットココアを買い、海辺のベンチに腰掛けて静かに朝食を済ませた。
七時半。
時間を見計らって裏口から戻ると、ちょうどあの丸顔のメイドが慌てた様子で物置から出てくるところだった。
「み、澪お嬢様!?」
メイドは顔を真っ青にしていた。どうやら澪を呼びに来るよう命じられたらしい。
今朝の厨房で、唯一円香に異を唱えていたのはこの少女だった。そのことを思い出し、澪の表情が少しだけ和らぐ。
「何かご用ですか?」
「だ、旦那様が……お嬢様にダイニングで朝食を召し上がるよう、お呼びです」
澪はじっと彼女を見つめた。
「あなたのお名前は……?」
少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに答えた。
「す、
澪は目元を柔らかく緩め、花がほころぶような笑みを浮かべた。
「ありがとう、鈴。すぐに行きますね」
***
ダイニングでは、昴、深雪、綾音の三人がすでに朝食を始めていた。
澪が姿を見せると、三人の視線が一斉に彼女へ向けられる。
「今が何時だか分かっているのか。
この家では七時に朝食を取る。お前一人だけが七時四十五分にのこのこ現れて、家族全員を待たせるとはどういうつもりだ」
真っ先に口を開いたのは昴だった。
澪は、すでにほとんど食べ終えられている食卓へ目を向け、落ち着いた声で答えた。
「申し訳ありません、お父様。朝早く目が覚めましたので、外へランニングに出ておりました」
昴はそこで初めて、彼女の髪が少し汗で湿り、頬が健康的に紅潮していることに気づいた。全身から活力があふれており、確かに運動を終えたばかりの様子だった。
「それなら早く朝食をいただきなさい。
でも残念ね、私たちはもう食べ終わってしまったの。残っているのは、このお粥とお漬物くらいしかないのよ」
深雪が間髪入れずに口を挟んだ。
「お気遣いありがとうございます、お母様。私は外で済ませてまいりましたので」
澪は礼儀正しく微笑み、自分の席に置かれた、底が透けて見えそうなほど薄い粥へ視線を落とした。
「厨房の皆さんは、朝早くから私たちのために豪華なお食事を用意してくださって、一番ご苦労されているはずです」
そう言うと、澪は粥の椀を円香の前へ静かに差し出した。
「円香さんも朝早くから働きづめで、ご自分のお食事はまだですよね?
このお粥とお漬物、ほんの気持ちです。どうぞ召し上がってください」
円香の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んだ。
――この子、今朝の厨房での話を聞いていた。
そう悟ったが、何一つ言い返せなかった。澪の言葉には非の打ちどころがなく、ここで断れば、自分こそ恩知らずと思われてしまう。
他のメイドたちも思わず顔を見合わせる。
澪の言葉が円香への痛烈な当てつけであることは、誰の目にも明らかだった。
とりわけ一番後ろに立っていた鈴は、込み上げる笑いを必死にこらえているようだった。
深雪はいち早く場の空気の変化を察し、小さく咳払いをして円香へ命じた。
「もういいわ。澪が外で食べてきたのなら、それは下げなさい。
円香、次からは澪にも私たちと同じ朝食を用意してちょうだい」
「……かしこまりました、奥様」
円香は忌々しげに澪を睨むと、他のメイドたちへ目配せし、食卓を片づけさせた。
綾音は一連のやり取りを終始黙って見ていたが、その顔に貼りついた笑みは微塵も崩れなかった。
朝食は、そんな張り詰めた空気のまま終わりを迎えた。
澪は部屋へ戻り、ベッドの端に腰を下ろした。
前世からずっと引っかかっていたことがある。
自分が取り違えられた子どもだというなら、綾音にも本当の両親がいるはずだ。
それなのに、両親は綾音の実親を必死に探そうともせず、彼女を本当の家族に会わせようともしなかった。
前世で昴が語った説明は、あまりにも穴だらけだった。
澪が生まれて間もなく何者かに連れ去られ、責任を問われることを恐れた担当看護師が、ちょうど双子を出産したばかりだった自分の姉の子どもを代わりに差し出し、その場を取り繕った――という話だった。
当時の澪は、その話を何の疑いもなく信じてしまった。
だが今回は、もう誰の言葉も簡単には信じない。
彼女はスマートフォンを取り出し、検索欄にキーワードを打ち込んだ。
『神崎 赤ん坊 行方不明 看護師 事故』
画面いっぱいに検索結果が並ぶ。
一つひとつ目を通していくうちに、一つの記事が目に留まった。
『虹見市で夫婦が交通事故死 居眠り運転か』
亡くなったのは、
事故が起きた日は、まさに病院からDNA鑑定の連絡があったその日だった。
記事にはこう書かれていた。
佐藤夫妻は小さな貿易会社を経営していたが、経営状況は決して良くなかった。それにもかかわらず、事故の直前に約一千万円もの借金を一括返済していたという。
事故現場は夫妻が毎日通る道で、当日も天候は快晴、路面状況にも問題はなかった。
それにもかかわらず、車は不自然な形でガードレールへ激突し、現場にはブレーキ痕すら残っていなかった。
さらに当時、美咲の妹も同乗していたという。
澪はスマートフォンの画面を閉じ、静かに窓の外を見つめた。
外には眩しい陽光が降り注いでいる。
それなのに、足元から這い上がるような冷たい悪寒が全身を包み込んでいった。
――これは事故なんかじゃない。
誰かが、周到に仕組んだ罠だ。
振り向くと、宴会場の勝手口に近いデッキで、全身を着飾った貴婦人がドレスの裾をつまみ上げながら、青筋を立てて激怒していた。彼女の深い紫色のベルベットドレスの裾には大きな染みが広がり、滴り落ちるシャンパンが絨毯を濡らしている。その足元には粉々に砕けたグラスが転がり、破片が絨毯とデッキに散らばっていた。そして、彼女の向かいにいる『張本人』――清掃員の制服を着た女性がうつむく中、執事のような男が彼女の鼻先を指差して怒鳴りつけていた。「どういう仕事の仕方をしているんだ!このドレスはオートクチュールだぞ。お前を売り払ったって弁償できやしない!」清掃員の女性の声は低く、少し掠れていた。「申し訳ございません……すぐに拭き取りますので……」貴婦人の声はヒステリックで甲高かった。「拭き取る?何を使って拭き取るっていうの!責任者を呼びなさい!このクルーズ船には、どこの下劣な輩が紛れ込んでいるのよ!」清掃員の女性が身をかがめ、ドレスの裾に触れて確認しようとしたが、貴婦人に忌々しげに強く払いのけられた。女性はバランスを崩して尻餅をつき、尖ったガラスの破片で指先を切り裂いてしまう。そこから、すぐにぷっくりと血の玉が滲み出した。彼女は小さく息を呑んだが、痛いと声を上げることはなかった。澪は歩み寄り、貴婦人が再び口を開くよりも早く、清掃員の女性の前にそっと立ちはだかった。「お怪我がなくて何よりです。ドレスはクリーニングに出せば済むことでしょう」貴婦人は目を細め、澪が着ているドレスと身につけているネックレスを上から下まで値踏みするように見つめた。その声から、棘がわずかに和らいだ
電話の向こうから、低い笑い声が聞こえた。電波越しにもかかわらず、その声はいつもより近く、耳元をくすぐるように感じられた。「当たったら、何かご褒美あるの?」「三階デッキから吹いてくる潮風をプレゼントするわ」鷹斗の声が少し弾んだ。「潮風?海の上にいるのか?」澪は振り返り、手すりに背をもたせながら、宴会場の方へ視線を向けた。「正確に言うと、クルーズ船の上よ。九条家の晩餐会。私も着いてから船の上だって知ったの」電話の向こうで、二秒ほど沈黙が落ちた。「修が連れて行ったのか?」澪は、小さな声でそう付け加えた。「ええ。自分から望んだわけじゃないわ。彼に無理やり連れてこられたの」口にしてから、彼女自身もハッとした。どうしてこんな蛇足のような言い訳をしたのか、自分でも分からない。まるで電話の向こうにいる相手に、自分と修の関係を誤解されたくないと恐れているかのようだった。電話の向こうで、彼がまた笑った。その声には、ほんの少しからかうような響きが混じっていた。「それで、一人でデッキに出て潮風に吹かれてるってわけ?どうやら、君のエスコート役はあまり頼りにならないみたいだな」澪は手すりにうつ伏せになり、鬱々とした声をこぼした。「頼りないなんてもんじゃないわ。私、こういう場は好きじゃないの。誰も彼もが仮面を被っているみたいで。顔では笑っていても、裏では値踏みと打算ばかりなんだもの」相手は再び沈黙した。澪が電波が途切れたのではないかと疑うほど、静かだった。
「ネックレス?」澪は視線を落とした。「このネックレスがどうかしたの?」綾音は手を伸ばし、サファイアのペンダントトップの下で指先をひらひらと揺らした。「純金のチェーンにサファイアを合わせるなんて?さすがにそのセンスは俗っぽすぎるわ。成金くらいしか、そんな選び方はしないんだもの。澪、あなた、こういうことには疎いのね?誰かに頼んで、別のものに着替えさせてあげましょうか――」「必要ない」修の声が割り込んだ。氷のように冷たい響きだった。綾音は呆気に取られ、彼を振り返った。「こいつの身なりは、全部俺が選んだ」修は綾音を睨みつけ、一語一語、歯の隙間から絞り出すように吐き捨てた。「俺に文句があるなら、直接言え。こんな所で嫌味たらしく遠回しに腐すんじゃねえよ」宴会場の談笑がすっと静まり、いくつもの視線がこっそりとこちらへ向けられた。綾音の顔が引きつった。修が自ら澪の服や装飾品を選んだなど、一体どうして想像できただろうか!?もし最初から知っていれば、死んでも澪の身なりにケチなどつけなかったはずだ。だが、一度口から出た言葉は覆水盆に返らない。綾音は口をぱくぱくと動かし、最後はどうにか、干からびたような笑みを絞り出すしかなかった。「私、澪にちょっとした冗談を言っただけじゃない。修ったら、そんなに本気にしてどうするの。あなたのセンスがいいのは当然ですもの。私が言いたかったのは……」
修は両手をポケットに突っ込んだまま澪の背後に立ち、彼女の顔に浮かんだ驚愕の色をつぶさに捉えると、いたずらを成功させた子供のように、口元をわずかにつり上げた。「どうだ?驚いたか。サプライズだっただろう」澪は彼の視線に気づき、横目で睨みつけた。「どうして早く言ってくれなかったのよ」修は両手を広げ、悪びれもせず、憎たらしい笑みを浮かべる。「サプライズだと言っただろ。前もって教えたら、サプライズにならないだろうが」澪はそれ以上相手にせず、顔を背けてレッドカーペットの方へ歩き出した。修も腹を立てることなく、早足で追いかけて彼女に追いつく。レッドカーペットの両脇には、すでにカメラがずらりと並んでいた。二人がタラップに足を踏み入れた瞬間、シャッター音が雨あられと鳴り響き、フラッシュの光が辺り一面を白く染め上げる。修は澪を伴ってタラップを上り、船内へと乗り込んだ。海風は少し強く、澪のドレスの裾がふわりと舞い上がる。彼女が無意識に裾を押さえようとしたその時、ふいに肩先が温かくなった。一着の男物のトレンチコートが、いつの間にか彼女の肩に掛けられていたのだ。澪が振り返ると、修は口元に弧を描いた。「風が強い。風邪を引くなよ」修は手を伸ばし、彼女の肩を抱くような仕草を見せた。直接触れることはせず、コート越しに彼女を自分の側へ軽く引き寄せただけだった。遠目に見れば、二人は顔を寄せ合い、親密な愛の言葉でも囁き合っているかのように見える。レッドカーペットの両脇にいた人々が、ひそひそと囁き始めた。「修様
澪は特に何も言わず、試着室に入ってドレスに身を包み、カーテンを開けて外に出た。修はソファに座ってスマホを操作していた。顔を上げると、澪の姿にきっちり三秒間視線を留め、やがてその口元がゆっくりとつり上がった。「これなら悪くねえ」修は立ち上がり、澪の背後に回って肩紐を直すように手を伸ばした。彼の指先がうなじの肌をかすめた瞬間、澪の体がビクッとこわばり、思わず身を引こうとする。「動くな」修の声はひどく低く、まるで言うことを聞かない猫をあやしているかのようだった。彼は店員からネックレスを受け取り、澪の首に回して留め金を留める。純金のチェーンに、ごく小さなサファイアのペンダントトップ。鎖骨の下で、それが怪しげな光を揺らめかせた。「ピアスも替える」修は店員に振り返って命じた。「あのプラチナのやつを出せ」澪は鏡の中の二人を見つめた。修は彼女の背後に立ち、その瞳には満ち足りた色が浮かんでいる。顎は彼女の首筋に触れんばかりに近く、両腕は彼女の体の横に回され、まるで背後から抱きすくめるような姿勢だった。だが、わずかに半寸の距離を保っている。その空気はひどく艶めかしく、甘美な色を帯びていた。部屋の隅では、店員たちがこちらを見つめながらひそひそとささやき合っており、その目元には隠しきれない羨望の色が浮かんでいた。「あとどれくらいかかるの?」全身にまとわりつくような居心地の悪さに耐えきれず、澪はたまらず口を開いた。「焦るなよ」 
水曜日の午後二時半。この時間帯の居酒屋は客足もまばらで、稼働しているテーブルは三つだけだった。澪は濃紺のエプロンを身に着け、右手にほうき、左手にちりとりを持って、うつむきながら床を掃いていた。隅のテーブルの脇を通りかかった時、視界の端にピカピカに磨かれた革靴が映った。彼女はほんの一瞬だけ動きを止めたが、次の瞬間には、なんのためらいもなくその足元へほうきを叩きつけた。「痛っ!急に何すんだよ!?」頭上から、聞き慣れた声が降ってくる。修がそこに座り、足をさすりながら毒づいていた。彼の目の前には、すでに三回もおかわりした烏龍茶のグラスが置かれている。今日はダークグレーのタートルネックのセーターを着ており、上着は隣の椅子の背もたれに掛けられていた。その姿はまるで、店に運び込まれてから二度と動かなくなった彫像のようだった。彼は午前十一時からずっとここに座っている。その時は昼食を食べに来たと言っていた。だが、今はもう午後二時半。ランチタイムも終わろうかというのに、一向に帰る気配がなく、腰を上げようとすらしない。澪は胸の奥に湧き上がる苛立ちをぐっと押し殺し、顔を上げて作り笑いの営業スマイルを浮かべた。「お客様、恐れ入りますが、お足を少しよけていただけますでしょうか」「なんだ、このボロ店。接客態度がなってねえな」修は不承不承といった様子で、足を一センチほど浮かせた。澪もそれ以上は何も言わず、彼の靴底をかすめるようにほうきを滑らせ、目にも見えないほどのホコリを数粒、ちりとりへと掃き入れた。体を起こし、きびすを返して立ち去ろうとした彼女の背中に、修が声をかける。「おい、茶が冷め







