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第5話

Autor: 霜晨月
last update Fecha de publicación: 2026-06-25 20:29:40

澪は物置で着の身着のまま身体を丸め、一晩を明かした。

夜が白み始めると同時に起き上がり、誰にも見つからないうちに屋敷の造りを把握しておこうと、音を立てないようそっとドアを開けて外へ出る。

廊下は水を打ったように静まり返っていた。厨房の前を通りかかったその時、棘のある声が静寂を切り裂いた。

「……いいこと、よく覚えておきなさい。神崎家のお嬢様はただ一人、綾音お嬢様だけよ」

澪は足を止め、壁に身を寄せて息を潜めた。

半開きのドアの隙間から覗くと、メイド長の中井円香ながい まどかが腰に手を当て、若いメイドたちを前に説教しているところだった。

円香はこの家で二十年以上勤めており、実質的には屋敷を取り仕切る女主人のような存在だ。前世で離れに住んでいた頃、澪はこのメイド長から散々な『特別扱い』を受けてきた。

「旦那様がどれほどのお方か分かっているの? 神崎グループの総帥よ! あんなスラムから這い上がってきたような野蛮な小娘に、その尊い血筋を汚されてたまるものですか」

円香は調理台の上から一枚のメモをつまみ上げ、若いメイドたちの前でひらひらと振った。

「旦那様と奥様、それに綾音お嬢様の朝食は、和牛サンドにフレンチオムレツ、それから搾りたてのアボカドジュース。

あの小娘には、お粥と漬物でも適当に出しておきなさい。

もし文句を言ってきたら、『厨房が忙しくて用意が間に合いませんでした』って言えばいいわ。あとは勝手にさせておけばいいの」

「でも……」

若いメイドの一人が、おずおずと口を開いた。

「あの方も、奥様がお腹を痛めて産んだ、本当のお嬢様なんですよね……?」

澪の視線が、その少女で止まる。

十七、八歳ほどだろうか。丸みのある顔立ちに、大きなアーモンド形の瞳が印象的で、俯きがちな他のメイドたちの中でもひときわ目を引いていた。前世では、この少女を見かけた記憶はない。

「本当のお嬢様ですって?」

円香はとんでもない冗談でも聞いたかのように、声を荒らげた。

「あんな子が本当の娘なわけないでしょう。十六年間、旦那様は存在すらご存じなかったのよ。それが今さら突然現れるなんて、遺産目当ての詐欺師かもしれないじゃない」

円香は目を細め、その場にいる全員を見回した。

「いいこと。この家で誰につくのが一番賢いのか、よく考えて行動しなさい。あなたたちが小さい頃からお仕えしてきたのは綾音お嬢様よ。澪なんていうあの貧乏娘は――ただの部外者なの」

若いメイドは深く俯き、それ以上何も言わなかった。

澪は最後まで黙って聞き届けると、その場を離れた。

円香は部外者である自分を見下し、使用人たちを煽って集団で孤立させようとしている。

相手がここまで丁寧に落とし穴を掘ってくれたのだ。ならば、その好意を無駄にするわけにはいかない。

澪は部屋へ戻ると、小銭とスマートフォンだけを持ち、裏口から屋敷を抜け出した。

虹浜区の早朝は、まだ人通りもまばらだった。

澪は海岸線に沿ってゆっくりと走りながら、水平線が少しずつ朝焼けの黄金色に染まっていく様子を眺める。

ランニングを終えると、コンビニでおにぎりとホットココアを買い、海辺のベンチに腰掛けて静かに朝食を済ませた。

七時半。

時間を見計らって裏口から戻ると、ちょうどあの丸顔のメイドが慌てた様子で物置から出てくるところだった。

「み、澪お嬢様!?」

メイドは顔を真っ青にしていた。どうやら澪を呼びに来るよう命じられたらしい。

今朝の厨房で、唯一円香に異を唱えていたのはこの少女だった。そのことを思い出し、澪の表情が少しだけ和らぐ。

「何かご用ですか?」

「だ、旦那様が……お嬢様にダイニングで朝食を召し上がるよう、お呼びです」

澪はじっと彼女を見つめた。

「あなたのお名前は……?」

少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに答えた。

「す、すずと申します」

澪は目元を柔らかく緩め、花がほころぶような笑みを浮かべた。

「ありがとう、鈴。すぐに行きますね」

***

ダイニングでは、昴、深雪、綾音の三人がすでに朝食を始めていた。

澪が姿を見せると、三人の視線が一斉に彼女へ向けられる。

「今が何時だか分かっているのか。

この家では七時に朝食を取る。お前一人だけが七時四十五分にのこのこ現れて、家族全員を待たせるとはどういうつもりだ」

真っ先に口を開いたのは昴だった。

澪は、すでにほとんど食べ終えられている食卓へ目を向け、落ち着いた声で答えた。

「申し訳ありません、お父様。朝早く目が覚めましたので、外へランニングに出ておりました」

昴はそこで初めて、彼女の髪が少し汗で湿り、頬が健康的に紅潮していることに気づいた。全身から活力があふれており、確かに運動を終えたばかりの様子だった。

「それなら早く朝食をいただきなさい。

でも残念ね、私たちはもう食べ終わってしまったの。残っているのは、このお粥とお漬物くらいしかないのよ」

深雪が間髪入れずに口を挟んだ。

「お気遣いありがとうございます、お母様。私は外で済ませてまいりましたので」

澪は礼儀正しく微笑み、自分の席に置かれた、底が透けて見えそうなほど薄い粥へ視線を落とした。

「厨房の皆さんは、朝早くから私たちのために豪華なお食事を用意してくださって、一番ご苦労されているはずです」

そう言うと、澪は粥の椀を円香の前へ静かに差し出した。

「円香さんも朝早くから働きづめで、ご自分のお食事はまだですよね?

このお粥とお漬物、ほんの気持ちです。どうぞ召し上がってください」

円香の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んだ。

――この子、今朝の厨房での話を聞いていた。

そう悟ったが、何一つ言い返せなかった。澪の言葉には非の打ちどころがなく、ここで断れば、自分こそ恩知らずと思われてしまう。

他のメイドたちも思わず顔を見合わせる。

澪の言葉が円香への痛烈な当てつけであることは、誰の目にも明らかだった。

とりわけ一番後ろに立っていた鈴は、込み上げる笑いを必死にこらえているようだった。

深雪はいち早く場の空気の変化を察し、小さく咳払いをして円香へ命じた。

「もういいわ。澪が外で食べてきたのなら、それは下げなさい。

円香、次からは澪にも私たちと同じ朝食を用意してちょうだい」

「……かしこまりました、奥様」

円香は忌々しげに澪を睨むと、他のメイドたちへ目配せし、食卓を片づけさせた。

綾音は一連のやり取りを終始黙って見ていたが、その顔に貼りついた笑みは微塵も崩れなかった。

朝食は、そんな張り詰めた空気のまま終わりを迎えた。

澪は部屋へ戻り、ベッドの端に腰を下ろした。

前世からずっと引っかかっていたことがある。

自分が取り違えられた子どもだというなら、綾音にも本当の両親がいるはずだ。

それなのに、両親は綾音の実親を必死に探そうともせず、彼女を本当の家族に会わせようともしなかった。

前世で昴が語った説明は、あまりにも穴だらけだった。

澪が生まれて間もなく何者かに連れ去られ、責任を問われることを恐れた担当看護師が、ちょうど双子を出産したばかりだった自分の姉の子どもを代わりに差し出し、その場を取り繕った――という話だった。

当時の澪は、その話を何の疑いもなく信じてしまった。

だが今回は、もう誰の言葉も簡単には信じない。

彼女はスマートフォンを取り出し、検索欄にキーワードを打ち込んだ。

『神崎 赤ん坊 行方不明 看護師 事故』

画面いっぱいに検索結果が並ぶ。

一つひとつ目を通していくうちに、一つの記事が目に留まった。

『虹見市で夫婦が交通事故死 居眠り運転か』

亡くなったのは、佐藤健一さとう けんいち佐藤美咲さとう みさき

事故が起きた日は、まさに病院からDNA鑑定の連絡があったその日だった。

記事にはこう書かれていた。

佐藤夫妻は小さな貿易会社を経営していたが、経営状況は決して良くなかった。それにもかかわらず、事故の直前に約一千万円もの借金を一括返済していたという。

事故現場は夫妻が毎日通る道で、当日も天候は快晴、路面状況にも問題はなかった。

それにもかかわらず、車は不自然な形でガードレールへ激突し、現場にはブレーキ痕すら残っていなかった。

さらに当時、美咲の妹も同乗していたという。

澪はスマートフォンの画面を閉じ、静かに窓の外を見つめた。

外には眩しい陽光が降り注いでいる。

それなのに、足元から這い上がるような冷たい悪寒が全身を包み込んでいった。

――これは事故なんかじゃない。

誰かが、周到に仕組んだ罠だ。

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