「あれ、もしかして凜さん何も聞いてない?律のこと、知らない?」
「な、何の事でございましょうか?」
彼の吐息が耳にあたり、くすぐったいのと、その会話の意味が気になって背筋に電気が走る。
「なんか凜さんとは今後も縁がある気がするな。名刺を入れておくから、何か知りたいことがあったら僕に連絡して。」
動揺している私に、隼人はニコリと微笑んで意味ありげな言葉を口にした。そして、入口で渡された紙袋に自分の名刺をひらりと落としていく。
「隼人さん、こんにちは。お久しぶりです」
席を立っていたはずの律が、いつの間にか戻ってきて隼人に挨拶をしている。しかし、その声はいつもよりも硬く、普段のような威圧的な感じもない。
「あ、律。結婚したんだね。おめでとう」
「……ありがとうございます」
「それじゃ、僕は行くよ。また今度」
たったそれだけ話をしただけで、隼人はその場を去って行った。
「何か変なことはしていないだろうな?」
「大和田社長、お世話になっています」「ああ、蓮見くん。久しぶりだね。君の活躍を聞いているよ。もう専務になったんだって?それから結婚したそうじゃないか。公私ともに絶好調だね」「おかげさまで。社長のご指導のおかげです」威勢のいい体格の大和田は、律に笑顔で話しかけた。律も外向きの明るい笑顔で応じた後、私を紹介した。「美人な奥さんだね、これは蓮見くんがやる気になるのも分かる。これからもよろしく頼むよ」その声に律は深々とお辞儀をして、大和田を見送った。そして、他の重役にも同様に挨拶を一通り終えると、「もうあとはいい。好きにしろ」と先ほどとは別人かと耳を疑うような冷たく小さな声で私に言ってきた。「分かったわ」誰も知り合いのいない立食パーティーの場で、ひとり孤独にワインを飲みながら辺りを見渡していた。会場にいる人々は皆、自分に自信があり輝いている。成功者独特のオーラを醸し出しているこの場は、契約妻である自分には不釣り合いに思えて肩身が狭かった。(こんな時に隣にいてくれたら、不釣り合いな世界でも自分を認めてくれる人がいるって思えるのにな……。)「あれ……」
レセプションパーティーは、芸能人が挙式で使用することでも有名なホテルの高層階で行われた。運転手がマンションまで迎えに来て、私は後部座席で律の隣に座った。「最初は重役への挨拶のため隣にいてもらうが終わったら好きにしろ。帰りたかったら勝手に帰ればいい」「分かったわ……」それだけ言うと、律は窓に頭をもたれさせて、すぐにウトウトと眠ってしまった。彼のシャープな顎からスッと伸びた首筋、そして鎖骨のラインが綺麗で、つい見惚れてしまう。だが、同時にこんな間近な距離で彼を見ている女性が他にもいるかと思うと、胸の奥がチクチクと痛んだ。「さっきから何を見ているんだ」目を瞑ったまま、律が溜め息交じりに呟いてきた。「ね、寝ていたんじゃないの?」「視線を感じて眠りたくてもこれじゃ眠れない。俺は疲れているんだ」「悪かったわね、もう邪魔しないわよ」顔を窓に向け、ぼんやりと外の景色を見ていた。トンネルを通過するたびに、ガラスに映る物寂しそうな自分の顔と、眉をひそめた律の寝顔が重なって見え、私はその姿に、ますます物思いにふけった。疲れているのは単に仕事のせいだろうか。それとも、あのYシャツのシミの相手との関係が原因だろうか。
「わぁ、その本、知ってる!続きが今度、発売されるみたいで気になっているんだ!」夢の中で、中学の制服を着た当時の私が、誰かに向かって話しかけていた。(あれ、この会話、話した覚えがある―――。たしか中学の時……)あと少しで思い出せる、そう思った時、視界が急に明るくなり私は目が覚めて、ゆっくりと瞼を開けた。「なんで、こんな夢を見たんだろう?」中学の時の思い出なんて他にもいっぱいある。初めて彼氏ができたのも中学一年生の時だし、一緒に帰り道を歩いたり、夏祭りで花火を見たりした。それなのに、なぜこのシーンが夢に出てきたのだろうか。布団の中でぼんやりと考えていたが、夢の中で見た『その本』が、昨日、律の部屋にあったものだと分かり、途端に気分が悪くなった。「そうだ、私、あの本二巻までは読んだんだ。三巻も楽しみにしていたのに、発売が遅れることになって、熱が冷めて読まなくなったんだった。あーでも、夢で律を連想させるって、なんか……すごく、嫌な感じ。」私は急に目が冴えて、豪快に布団をめくってから洗面所に向かい、顔に冷たい水を何度もかけた。蛇口から流れ出る水の音に紛れて、Yシャツ姿の律と、律の胸に顔を寄せて微笑む女性の姿が浮かんでくる。「
律の部屋を覗いたのは、ほんの少しの出来心だった。いや、正直に言えば、この前、私の部屋に入ってくるなり、他の男性を連れ込んだと疑われて部屋中を探し回られた挙句、勘違いだと分かっても謝罪もせずに帰ったことへの苛立ちがまだ残っていた。書斎や寝室は、ハウスキーパーに頼んでいるだけあってモデルルームのように綺麗だ。たくさんの書籍が陳列している本棚も、ほこり一つなくジャンル別に綺麗に整頓され、清潔感に溢れている。(うわー難しそうな本。どこの国の本よ)本棚には、経営やマーケティングのビジネス書や洋書まで様々なジャンルの本が並んでいる。「あ、これ懐かしい」難しそうな本の中に、一冊だけ子どもの頃に流行った海外の書籍が置かれていた。世界中で大ヒットしたその本は、何カ国語にも翻訳されシリーズで映画化され、私でも知っている。(なんだ、可愛いところもあるじゃない)私はクスリと小さく笑い、書斎を後にした。そのまま帰ろうと玄関へ向かっている時だった。洗面所の棚に無造作に置かれた白いYシャツが目に留まる。部屋中が綺麗に整頓されている中で、くしゃくしゃに丸められたシャツはとても目立ち、クリーニング前だということがすぐに分かった。
隼人とラウンジでお茶をした日の夕方、家に戻ると隣の部屋の玄関から律が出てきた。「あ、律さん。お帰りなさい。どうしたの、こんな時間に?」「着替えと、接待でもらった手土産が生ものだったから置きに来た。お前こそ、どこに行っていたんだ」「だから凛!どこでも良いでしょ」「そうだな、俺には関係ないことだ」興味がないかのようにすぐ突き放す言葉をかけてくる律に、私の心はまた冷えていく。しかし、自嘲するように笑う律の顔が、なぜか寂しげに見えて思わず声を掛けた。「そうよ。……気を付けて行ってきてね」律は一瞬、驚いた顔をしてから小さく微笑んだ。その表情がいつもとは違う柔らかなもので、その変化に心臓が小さく高鳴るのを感じた。「凛、魚は好きか?帆立やサーモンを貰った。冷凍庫にあるから食べるようなら持っていくといい」律が初めて私を「凛」と名前で呼んだ。たったそれだけのことなのに……初恋でもあるまいし、こんなことで反応するなんてどうかしている。だけど、確かに私の心は弾んでいた。「好きよ。律さんは食べれるの?」
「職場がきっかけでして。結婚前、私はT製薬会社で秘書をやっていたのですが、その時に律さんと知り合いました」この前の叔母のパーティーの時は途中で帰らされて言う機会がなかったが、律と話を合わせておいた答えを滑らかに口にした。まさか、出会いが合コンだなんて言えるわけがない。「そうなんだ。凛さんは前職は秘書だったんだね。美人秘書がいて、凛さんが担当していた役員の方は幸せだっただろうな」「いや、それほどでも……」久々に褒められる感じがくすぐったくも心地がいい。若干言い慣れている感じがしなくもないけれど、愛くるしい子犬のような隼人に言われると嫌な気はしなかった。「お待たせしました―――」ウエイターが紅茶と一緒にティーセットを持ってきた。三段のスタンドには、一口サイズのものが何種類も綺麗に盛り付けられている。「わ、可愛い。あの、写真を撮ってもいいですか?」「もちろん。盛り付けも素敵だよね。思う存分撮ってね」写真を撮っている間、隼人はコーヒーカップを右手で持って飲みながら、私を優しく見守っていた。ティースタンドの奥には、隼人の腕と時計がさりげなく映りこんでいる。「