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第2話

Author: 西野翠夏
「今夜、いつものメンバーで飲むんだけどさ。京介の門限、あと2時間くらい延ばしてやってくれない?」

「よくそんな気分になれるね。ずいぶん余裕じゃない」真夕はわざと驚いたふりをして、すぐに心配そうな顔を作った。

「そういえば、須藤家のあの隠し子、また大きな契約を取ったんだって。今、あちこちであなたたちを比べてるみたい。しかも、かなりひどいことを言われてるよ。聞かせてあげようか?」

真夕は豪に断る隙を与えず、軽く咳払いをした。そして表情を一変させ、冷たい目つきで、露骨な侮蔑を込めて言い放つ。

「須藤豪って、遊んでばかりで何の取り柄もない能なしだって。

それに比べて、あの隠し子は別格で、まるで月とすっぽんよ。どっちが嫡出なのか分からないってさ……

あら、怒った?そんな怖い顔しないでよ」

真夕はすぐに表情を変え、いかにも心配そうな眼差しを浮かべてみせる。

「人から聞いた話をそのまま伝えただけ。ちゃんと自覚しておいたほうがいいと思って。豪のためを思って言ってるんだからね」

豪が「隠し子」という言葉を嫌っていることは、誰もが知っている。

それは彼にとって、触れてはいけない話だ。

だからこそ、そこを突かれれば、たちまち頭に血が上る。

豪の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んだ。それでも相手が京介の妻である以上、無下にはできない。

彼は引きつった笑顔で言う。「だから今日、仲間を集めて相談しようと思ってるんだよ」

「みんなに相談したって、どうにもならないと思うよ。結局、自分で頑張らなきゃ」真夕は諭すように、もどかしそうな態度を見せる。

「そうしないと、そのうちあの隠し子に好き放題された挙句に、財産まで奪われるわよ。家から追い出されて、最後は路上生活なんてことになりかねないわ」

あまりにも言いたい放題だ。

豪の顔がさらに引きつり、ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえる。その目を見れば、今この瞬間、真夕を殺したいと思っているに違いない。

真夕は心の中で冷笑する。自分はただ事実を言っているだけだ。

暴れ出しそうな豪を見かねて、京介が低い声でたしなめる。「真夕」

「はいはい、耳の痛い話だっていうのは分かってる。でも、心配してるからこそ言ってるんだよ。京介の一番の親友なんだからね」

たちまち人懐っこい笑顔に変わる。まるで自分には何の悪意もないと言わんばかりだ。

「じゃあ、今夜は京介に付き合ってもらえば?門限もなし。どう?お礼はいらないよ」

豪は言葉を失った。

礼を言うものか。むしろ、真夕が自分を罵って、馬鹿にしているのではないかと、そんな気がする。

しかし、真夕の笑顔は真摯そのものだ。声も柔らかい。穏やかで、寛容で、思いやりのある女性に見える。

どこから見ても、わざとやっているようには見えない。

怒りをぶつけたくてもぶつける先がなく、ただひたすらに息苦しい。

それどころか、感謝まで口にしなければならない。

そう思うと余計に腹立たしい。

豪は不承不承口を開いた。「……どうも。真夕さんは、美人な上に『お優しい』ことで」

真夕は目を細めて笑い、すこぶる機嫌が良さそうに答える。「見る目があるわね」

心の中で舌打ちをしながら、豪は書類を手にして部屋を出ていった。

「本当に飲みに行ってもいいのか?」京介が手を伸ばして、真夕を抱き寄せようとする。端正で彫りの深い顔立ちはいつもと変わらない。彼女を見つめる目は愛情に満ち溢れている。

真夕は込み上げる嫌悪感を押し殺し、にっこりと微笑む。「ええ、だって豪は京介の一番の親友じゃない」

飲めばいい。浴びるほど飲めばいい。

いっそ飲んで死んでくれれば、面倒な離婚手続きなんてしなくても済む。未亡人として、京介の遺産を相続できる。

死ななかったとしても構わない。アルコールで体を壊して、子供を作れなくなればいい。自分は慧が篠原家を継ぐ日を待つだけだ。

抱きしめられそうになった瞬間、真夕は手元の書類を京介の顔に叩きつける。

そして何事もなかったかのように京介から離れ、デスクの前の椅子へ腰を下ろす。甘えるような口調で命令した。「早くサインして。午後から出張の予定が入ってて、急ぎなの」

もちろん、出張なんて嘘だ。

これ以上、篠原グループのために馬車馬のように働くつもりはない。

顔に書類を押し付けられても、京介は怒らなかった。真夕の力が思いのほか強く、危うく高い鼻を潰されそうになったが、それすらも気にしていない。

どうせまた、素直になれない妻が、夫に飲みに行ってほしくなくて八つ当たりしているのだと思っている。

京介は小さく笑い、書類を持って椅子に腰を下ろす。「分かった。奥様の言うことはちゃんと聞くよ。酒を控えて、早めに帰る。だから、そんなに怒らないで」

そう言いながら書類を開き、一枚ずつ、細かいところまで目を通していく。

時間がじりじりと過ぎていく。次のページをめくれば、そこには真夕の退職願がある。

真夕は腕時計に目をやり、わざと焦ったような声を出す。

「もういい加減にしてよ。私のことまで信用してないの?私が作った書類なんだから、今まで間違いなんてあった?何回も確認してるんだから。早くサインして。ほんとに時間がないの」

京介は顔を上げ、愛おしそうに笑った。「真夕が一番優秀だってことは分かってる。もうすぐ終わるから、予定には遅れさせないよ」

口ではそう言いながらも、ページをめくる手を止めない。その瞬間、真夕の胸を悲しみが締めつけた。京介は、自分を信じてなどいない。

どうすればいい。

疑われるのが怖いから、退職願にサインさせることさえ、こっそり進めるしかなかった。

突然、スマホが鳴り響いた。

京介の仕事用のスマホだ。画面に表示された名前は【Miss M】。

真夕には、その名前に見覚えがあった。以前から何度か、真夜中にこの番号から着信があったからだ。

M国支社で急なトラブルが起きたから、京介本人に対応してほしい。そう言って、京介は夜中でも出張に出かけることがあった。

あの頃の真夕は、京介が不倫をするなんて一度も考えなかった。太陽が西から昇ることも信じないのと同じくらい、あり得ないと思っていた。

だから真夕はずっと、「Miss M」をM国支社の責任者の名前だと思い込んでいた。

今になって、真夕はようやく、その名前の本当の意味に気づいた。

Miss M。

茉優に会いたい!

真相は、あまりにも突然に突きつけられた。

真夕は雷に打たれたように固まり、椅子に座ったまま平静を保てなくなりそうだ。

爪が手のひらに食い込み、呼吸をするたびに心臓が軋むように痛んだ。それでも、何でもないふりをして尋ねる。「……出ないの?」

「待たせておけばいい。真夕より大切なものなんてないんだから」

そう言いながら、京介は細く長い指でペンを取り、署名欄のあるページを開いて、ためらうことなく自分の名前を書き込んだ。

どうやら京介にとって、真夕を騙すことなど呼吸をするのと同じくらい簡単だ。甘い言葉も、いくらでも口にできる。

着信画面を見た途端、書類を確認する気などすっかり失せていた。一刻も早くサインを終わらせて真夕を追い払い、初恋の人とゆっくり話したいだけなのだ。

真夕は込み上げる吐き気を必死に抑え、書類を手に取る。退職願に京介の署名が入っていると確認すると、振り返りもせずに社長室を出た。

真夕はそのまま人事部長のもとへ向かう。

「そんなに急にですか?来週の火曜って……今日はもう金曜ですよ」

真夕は穏やかに答える。「社長から、内密に進めるよう言われています。開発部が混乱すると困るからって。お手数をおかけして申し訳ありませんが、来週の火曜日に引き継ぎに来ます」

人事部長は指で丸を作った。「分かりました。それくらいの職業倫理は持ち合わせていますよ」

退職の手続きを済ませ、あとは、これからどこへ行くかを考えるだけだ。

真夕は自分のオフィスへ戻り、気持ちを落ち着かせてから、大学時代の先輩である九条修(くじょう おさむ)に電話をかけた。

電話に出るなり、修はからかうように言う。「珍しいな。どうした?急に電話してきて?」

猫を被った声で甘える。「先輩、私、会社辞めた。先輩のところで働かせてもらえないか?お願い!」

「お前が?会社を辞めた?」

修は真夕が篠原グループを辞めるなど、あり得ないと思っていた。卒業のとき、先生は真夕を引き留めるために、「篠原グループに行くなら、もう教え子だとは思わない」とまで言ったほどだった。

それでも真夕は目が曇っていた。国立研究所から声をかけられていたにもかかわらず、まだAI事業へ参入したばかりの篠原グループを選んだ。

京介と二人で、何もないところから事業を立ち上げてきた。

今では篠原グループは、スマートホーム、スマート家電、AI医療など、いくつもの分野で国内トップクラスの企業になっている。

その功績のすべてとは言わないまでも、8割は真夕の力によるものだと言っても過言ではない。

修は舌打ちをした。「またからかってるのか?先輩をからかうのはよくないぞ」

「先輩、誤解よ」真夕は珍しく素直に答えた。「今どこ?直接会って話したいんだけど」

それでも修は半信半疑だった。

この後輩は、初対面のときこそ、いかにも素直で可愛らしかった。白いTシャツにジーンズ、黒髪のロングヘア。笑うと目尻が柔らかく下がり、性格もよさそうに見えた。

しかし親しくなると、その「素直」や「性格の良さ」がすべて演技だと気づく。外面がいいだけの、腹黒い女だ。黙って人の裏をかき、しれっと悪だくみをする。

ただし、京介だけが例外だった。彼のこととなると、この後輩は途端に純粋で一途な馬鹿になってしまう。

修は冗談だと決めつけて答えた。「いいぞ。今、青城市にいるけど、来れるか?」

……

青城市。和の趣を凝らした閑静な茶室には、ふわりとお茶の香りが漂っている。

修は向かいに座る真夕を見て、まだ信じられないといった様子だ。「本当に来たのか」

「本当に辞めたよ」真夕はスマホを取り出し、退職願の写真を見せる。

そこに書かれた京介のサインを確認し、修は眉をひそめた。「まさか、あいつがうちの企業秘密を狙って、お前を産業スパイとして送り込んだんじゃないだろうな?」

真夕にも分かっていた。理由を話さなければ、修が信じるはずがない。何しろ京介のためなら、約束された輝かしいキャリアすらあっさりと捨てた女なのだから。

「先輩、私、離婚する。笑わないで聞いてね。京介は、最初から私を好きじゃなかった。ずっと私を騙してた。彼が好きなのは、別の人だ」

話し始めると自然と笑みがこぼれ、笑っているうちに、気づけば涙が溢れていた。

修はこんな真夕を見るのは初めてだ。涙が堰を切ったように、赤くなった目尻から次々とこぼれ落ちていく。笑顔は今にも崩れそうだ。

恋愛経験のない修は、たちまち慌てた。

京介を罵りながら、真夕を慰める。「泣くなって。うちの会社に来ればいい。今日は好きなものを腹いっぱい食わせてやる。欲しいものがあるなら何でも買ってやるから!」

ドタバタしながらもどうにか落ち着かせた後、修はふと思い出したように尋ねた。

「そういえば、どうして先生のところに行かないんだ?先生はずっとお前を高く評価してたし、誇りに思ってた。お前が会いに行ったら、絶対喜ぶぞ」

真夕は気まずそうにうつむく。

「先生に合わせる顔なんてないよ。あの時、勝手な真似をして先生を怒らせて、病気にまでさせてしまった。お中元やお歳暮を贈っても、毎年そのまま送り返されてきた。

それに、去年新しい教え子を取ったと聞いて、まだ20歳の、若き天才だって。先輩は、その人に会ったことある?」

修はもちろん会ったことがあるが、目の前で肩を落としている真夕を見て、適当に答えた。

「まあ、そんなでもないって。若いし、頭の回転は速いけど、お前とは比べものにならないよ」

慰めてくれていることくらい、真夕にも分かっている。それでも気持ちは沈んだままだ。

「新しい教え子ができたなら、きっと私のことなんて、もう教え子だとは思ってないよ」

「そんなことばっか考えるな。脳みその無駄遣いだ」修は真夕の肩を軽く叩いた。

「これからは俺についてこい。とにかくやるしかないんだ。

成果さえ出せば、俺がお前を連れて先生に謝りに行ってやる。先生は口が悪いだけで、根は優しいから、きっと許してくれるさ。

ただし、条件は一つ。絶対に成果を出せ。分かったな?」

そのあと、二人はショッピングモールへ直行した。真夕は憂さ晴らしのように次々と買い物をした。ただし、使っているのは京介のカードだった。

修が自分のカードを出そうとすると、真夕はそれを押し戻す。

「まだ離婚してないんだから、あのクズのカードを使わなきゃ損じゃない。さあ、行こう。先輩の誕生日プレゼントを買ってあげる」

「俺の誕生日、もう過ぎたけど……」

「じゃあ、来年の分、再来年の分。これから何十年先までの分も買ってあげる」

その頃、京介は高級会員制ラウンジで、豪と飲み会に参加している。

スマホの通知音が絶え間なく鳴り続けている。

片手にグラスを持ったまま、もう片方の手でスマホを取り上げる。

京介と乾杯しようとした豪の目に、画面を埋め尽くすほどのクレジットカードの利用通知が飛び込んでくる。しかも、どれもかなりの高額だ。

豪は思わず声を上げた。「うわ!夏目って、あんなに買い物する女だったっけ?お前のカード、容赦なく切りまくってんじゃん」

京介は何も聞こえなかったかのように、スマホの画面を消した。そして、そのまま酒を一気に飲み干す。

豪は呆れたように聞く。「止めなくていいのか?」

「俺のために買ってるんだ」

真夕は出張のたびに、京介や子供、家族への土産を必ず買って帰る。ただ、京介のカードで買い物をするのは、今回が初めてだ。

……

真夕は青城市にもう少し滞在するつもりだったが、慧から電話がかかってきた。

「ママ、会いたいよ。明日は休みだから、早く帰ってきてくれる?」

慧は離乳するとすぐに篠原家の本家へ引き取られ、普段は篠原家の当主である曾祖父・篠原栄一(しのはら えいいち)から厳しく教育を受けている。

月曜から土曜まで、慧の予定は真夕や京介よりも忙しく、学ぶことが山のようにある。唯一ゆっくりできる日曜日だけが、家族で過ごせる時間だ。

息子の顔を思い浮かべると、真夕の口元に自然と笑みが浮かんだ。二つ返事で承諾した。

航空券を変更し、帝都に帰ることにした。

飛行機が着陸し、大勢の人でごった返す到着ロビーに出たところで、真夕は突然足を止めた。

少し離れた場所で、京介が一人の美しい女性を強く抱きしめている。里中茉優だ。

彼女が、帰ってきたのだ。

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