LOGINバタン――!社長室の重厚なマホガニーの扉が、勢いよく押し開かれた。巨大な吹き抜け窓の前で、暁が入口に背を向けたまま立っていた。片手はスラックスのポケットへ差し込み、もう片方の手でスマートフォンを耳に当てている。窓の外から降り注ぐ朝の陽光が、その広い背中を照らしていた。だが、彼の周囲を覆う凍てつくような重圧を和らげるには、あまりにも無力だった。「……洗え。名雲市に存在するものなら、地の底まで掘り返してでも、この資金の出所を突き止めろ。海外口座だろうが裏口座だろうが関係ない。言い訳は不要だ。結果だけ持ってこい」扉の開く音に、暁の言葉がぴたりと止まる。彼は通話を切り、ゆっくりと振り返った。普段ならどこか余裕を滲ませ、人をからかうような色を帯びているその顔は、今は張り詰めた冷徹さに覆われていた。だが、入口で肩を激しく上下させている心愛の姿を視界に捉えた瞬間、その氷は音もなく溶け落ちる。代わりに浮かび上がったのは、やるせなさと、胸を締め付けるような痛ましい愛しさだった。彼は心愛を見つめた。走ってきたせいで乱れた髪。浅く乱れた呼吸。そして、恐怖と怒りで今にも張り裂けそうな瞳。言葉など必要なかった。彼には、彼女がなぜここへ来たのか、すべて分かっていた。「……知ったか」それは問いではなく、確信を含んだ呟きだった。心愛は入口に立ったまま、ドアノブを握る手に力を込めていた。関節が白く浮き上がるほどに。「誰が……やったの?」声は掠れていた。胸の奥から、無理やり絞り出したような声だった。「お兄ちゃん……あれ、本当なの?葵が、本当に外へ出てきたの?」暁はすぐには答えなかった。彼はスマートフォンをデスクへ置き、大股で心愛の前まで歩み寄る。そして、冷え切って小刻みに震えているその手を、ドアノブから無理やり引き剥がし、自分の掌で包み込んだ。「本当だ」彼は、いつものように「心配するな」といった空虚な慰めで誤魔化そうとはしなかった。むしろ、最も残酷な事実を真正面から告げることを選んだ。「今朝六時、正式に手続きが完了した。理由は重度の急性感染症。医療刑務所への移送、あるいは自宅療養の条件に該当したらしい。診断書も、専門医の署名も、刑務所側の承認も――全部揃っている。法的には完全に合
そんな馬鹿なこと、あるはずがなかった。法律を少しでも齧ったことのある者なら、誰だって知っている。重罪で起訴され、さらには無期懲役判決まで下された犯罪者が保釈されるなど、本来なら荒唐無稽な絵空事に過ぎない。よほど強力な後ろ盾があるか、あるいは事件そのものを覆す決定的な新証拠でも出てこない限り、絶対に不可能なはずだった。宇佐美家はすでに没落している。秀夫は死に、紘は今なお塀の中で口を閉ざしたままだ。貴臣に至っては、今の葵を蛇蝎のごとく嫌っており、自らの手で刑務所へ叩き込みたいとすら思っている。この名雲市で――いや、県全体を見渡したところで、すでに悪名に塗れ、全身泥まみれとなったあの女のために、ここまで天を動かすような力を使う人間など、一体誰が残っているというのか。「そんなの……あり得ない……」心愛の指先は小刻みに震えていた。マウスに触れている感覚さえ、もう分からない。彼女はスクロールホイールを回し、そのままコメント欄へ視線を落とした。ネットユーザーの記憶には賞味期限がある。だが、怒りにはない。かつて俊輔が冤罪で投獄され、心愛がネット中の人間の前で膝をつき、謝罪を強要されたあの日。あの映像も、あの涙も、すでにインターネットに刻み付けられた消えない烙印となっていた。その元凶が、よりにもよって堂々と外へ出てきたのだ。世論は一瞬で沸騰していた。【私の目がおかしいの?こんな奴が保釈されるとか、法律って子供のごっこ遊びなの?】【いや絶対、裏に誰かいるだろ。宇佐美家ですら潰れたのに、明石葵の後ろにいるの誰だよ。怖すぎるんだけど】【深水心愛が不憫すぎる。弟は長い間冤罪で牢屋に入れられて、やっと無罪になったと思ったら、加害者がもう出てくるとか。私なら包丁持って突撃してる】【徹底的に調べろよ!誰が裏で動いてるんだ!こんなのもう無法地帯じゃん!】並ぶコメントの一つ一つが、鋭利な刃物のように、ようやく塞がりかけていた心愛の傷口を再び容赦なく抉っていく。鮮血が滲み出すようだった。彼女は写真に写る、あのナンバープレートのない黒い高級ミニバンを、死んだような目で見つめた。漆黒の窓ガラスは、底知れぬ深淵のようだった。その奥に、自分には見えない、触れることすらできない巨大な怪物の手が潜んでいるように思
一方、会社へ入った心愛と暁は、互いに一言も交わさぬまま、そのままエレベーターへ乗り込んだ。先に降りた心愛は、意識して背筋を伸ばし、あえて軽やかな足取りで廊下を進んでいく。まるで、あのマイバッハの車内に満ちていた息苦しい曖昧さと気まずさを、一刻も早く振り切ろうとしているかのようだった。背後でエレベーターの扉が閉まりきった瞬間、彼女はようやく足を止め、深く息を吐き出した。加賀見グループ・デザイン部のオフィスは、普段ならこの時間、朝会の準備で慌ただしく騒がしいはずだった。だが今朝は、異様なほど静かだった。誰もいないわけではない。嵐の到来を前に、無理やり押さえつけられたような、不気味な静寂が空間を覆っていたのだ。心愛が足を踏み入れた瞬間、社員たちの視線が一斉に跳ね上がった。そして彼女と目が合った刹那、まるで感電したかのように、全員が慌てて目を逸らして俯く。空気の中には、探るような視線と、どこか同情めいた湿った冷たさが重く漂っていた。心愛の胸を、不吉な予感が走る。それは冷たい蛇のように、ゆっくりと背骨を這い上がってきた。そのまま真っ直ぐ自分のオフィスへ向かった。その途中、碧のデスクの前を通りかかったところで、ふと足を止める。いつもなら「今サボってます」と顔に書いてあるような小柄なアシスタントが、今日は充血した目でパソコン画面を睨みつけていた。顔は怒りで真っ赤に染まり、奥歯を噛み締め、マウスを握る指先の関節は白く浮き出ている。今にもそのプラスチックの塊を握り潰してしまいそうな勢いだった。「高橋さん?」心愛は彼女の背後へ回り、デスクのパーテーションを軽く叩いた。「どうしたの?朝からそんな怖い顔して。もしかして、また桐生グループから仕様変更の連絡でも来た?」「深水さん!」碧は飛び上がるように驚き、椅子から弾かれたように立ち上がった。勢いよく振り向いた拍子に、机の上のサボテンの置物が倒れる。心愛の姿を見た瞬間、それまで瞳に燃えていた怒りは、一転して狼狽と隠し立てへと変わった。彼女は慌ててディスプレイを閉じようとし、さらには自分の身体で画面を隠そうとする。「な、なんでもありません!その、ちょっと芸能人のスキャンダル記事見てて、腹立っちゃって!ほら、あの……誰でしたっけ、不倫現場を撮られたってニュ
「社長……ひとまず、一度会社へ戻りませんか」助手席に座る隆が、恐る恐る口を開いた。車内には濃い煙草の匂いが立ち込め、空気そのものが押し潰されたように重い。隆はもう、その息苦しさに耐えきれそうになかった。社長は朝から予定されていた公務をすべて放り出し、あろうことか加賀見本社ビルの前で張り込みを続けている。もしこの姿をパパラッチにでも撮られれば、ただでさえ不安定な桐生グループの株価は、さらに暴落しかねない。「黙れ」貴臣の声は、まるで紙やすりで擦ったように嗄れていた。その視線は加賀見本社ビルの正面入口へと貼り付いたまま、微塵も動かない。まるで、自らへの判決が下される瞬間を待っているかのようだった。その時だった。象徴的なブラックとシルバーのツートンカラーを纏ったマイバッハが、静かに車寄せへ滑り込んできた。そして、ビル正面の中央へぴたりと停車する。貴臣の瞳孔が、不意に収縮した。ドアが開く。先に降りてきたのは暁だった。彼は自然な足取りで車の前を回り込み、助手席側へ向かう。貴臣はその男を見つめていた。かつて、自分が最大のライバルだと認めていた男。ビジネスの世界では冷酷無比な手段を取り、男女の駆け引きにおいても、一歩たりとも引こうとしない男だ。暁は助手席のドアを開けた。だが、すぐにはその場を離れなかった。片手を車内ルーフの縁へ添え、降りてくる相手が頭をぶつけないよう、ごく自然に庇ったのだ。続いて、心愛が車から姿を現した。今日の彼女は、アイボリーのパンツスーツを纏っていた。仕立ての良いその装いは、引き締まった立ち姿をいっそう美しく際立たせている。髪は後ろで簡素にまとめられ、白く細い首筋がすっきりと覗いていた。顔色も良い。まだ多少痩せてはいるものの、その全身からは、かつて桐生家にいた頃には決して見られなかった、瑞々しい生命力が溢れていた。その自信。その余裕。そして、大切に愛されて育まれている者だけが纏う光。それらすべてが、貴臣の胸を鋭く刺し貫いた。彼は見た。暁が彼女へ顔を寄せ、何かを低く囁く姿を。その直後、まるで当然のような手慣れた動作で、心愛のビジネスバッグを受け取る姿を。二人は並んで回転ドアへ向かって歩いていく。身体が触れ合うことはない。だが、その間に流れる空
心愛は、あらかじめ用意していた台詞を暗唱するかのように、早口で言葉を吐き出した。「私は、ようやくこの家を手に入れたのよ。物心ついた頃から、どこにいても自分だけが余計な部外者みたいだった。深水家でもそうだったし、桐生家ではなおさらだったわ。でも今は、お父さんもお母さんも、こんなに大切にしてくれている。あなたも……あなたも、私にこんなによくしてくれてる」心愛の声は次第に小さくなり、その奥には隠しきれないかすかな震えが滲み始めていた。「お兄ちゃん、私はこの全部を壊したくないの。ほんの一時の衝動なんかで、この家をぎくしゃくさせたり、バラバラにしたりしたくない。今の私は、ただ必死に働いて、俊輔をちゃんと一人前に育てて、加賀見グループのデザイン部を軌道に乗せたいだけなの。それ以外のことなんて、本当に考える余裕がないし……考えること自体が怖いのよ」それが、彼女の切り札だった。――お願いだから、これ以上私を追い詰めないで。あなたを「お兄ちゃん」として見ること。それだけが、今の私に許された唯一の、安全な距離なの。もしその線を越えようとするなら、私は逃げる。この家を失うことになったら、今の私は耐えられないから。暁は、緊張でわずかに赤く染まった彼女の瞳を見つめた。その奥には、小動物のように張り詰めた警戒と怯えが、ありありと浮かんでいる。まるで誰かに心臓を容赦なく鷲掴みにされたように、胸の奥が甘く、鈍く疼いた。「私がいる限り、この家が壊れることなどない」そう告げてやりたかった。「私ならあなたに、もっと揺るぎない、二人だけの家を与えられる」そう言って抱きしめてやりたかった。だが、それはできなかった。今の心愛は、罠からようやく逃げ出したばかりの狐のようなものだ。わずかな風の音や草の揺れですら、神経を過敏に刺激してしまう。ここで無理に距離を詰めれば、彼女は完全に殻へ閉じこもり、最悪の場合、自分の前から永遠に姿を消してしまうだろう。信号が青へと変わった。後続車が、待ちきれないと言わんばかりにクラクションを鳴らす。暁は静かに視線を前へ戻し、再び車を発進させた。「……分かった」その声は驚くほど穏やかで、感情の起伏はほとんど読み取れなかった。けれど、不思議と人を安心させる静けさだけは確かにあった。「昨
「お母さん、ううん、大丈夫よ!」心愛はグラスをひったくるように掴むと、ジュースを勢いよく喉へ流し込んだ。「タクシーだって便利だし。それに、お兄ちゃんは社長でしょう?私はデザイン部に行くんだから、いくら道すがらとはいえ、一緒に出勤なんて目立ちすぎて……」「何が目立つというの」静香は眉をひそめ、有無を言わせぬ口調で遮った。「加賀見のお嬢様が、加賀見の長男の車で出勤するなんて至極当然のことよ。誰が余計な口を叩くというの。不満があるなら、私のところへ来させなさい」そう言うと、静香は意味ありげな視線を暁へ向けた。「それに、お兄ちゃんが妹の面倒を見るなんて当たり前でしょう?そうよね、暁?」暁は手元のナイフとフォークを静かに置き、一見穏やかでありながら、その実、強い警告と牽制を含んだ静香の視線を受け止めた。彼は聡い男だ。わずか一秒で、母親の眼差しに込められた真意を読み取ってみせる。――私は全部分かったうえで、あえて止めはしない。でも、あなたに節度があるなら、あの子を怯えさせて逃げ出させるような真似だけは絶対にしないで。何より、妹に恥をかかせるような事態は許さないわ。暁の口元が、ごくわずかに弧を描いた。「母さんの言う通りです」彼は立ち上がり、椅子の背に掛けてあったスーツジャケットを手に取ると、なおも必死に抵抗しようとしている心愛を見下ろした。「行くぞ、加賀見グループのデザイナー様。遅刻したら、今月の皆勤手当は全額カットだからな」……マイバッハの車内は、恐ろしいほど静かだった。外界の喧騒は、分厚い防弾ガラスによって完全に遮断されている。車内に残されているのは、エアコンの送風音と、二人の浅い呼吸だけだった。心愛は助手席の奥へ身を縮め、できる限りドア側へ身体を寄せていた。いっそ自分が一枚の紙になって、そのまま窓ガラスに貼り付いて消えてしまえたら――そんなことまで考えてしまう。彼女はひたすら窓の外を眺め続けていた。たとえ目に映るのが、冬枯れたプラタナス並木だけだったとしても、まるでそこに見たこともない花でも咲いているかのように、必死に視線を逸らし続ける。暁は片手でハンドルを握り、もう片方の手をシフトレバーへ気怠げに置いていた。その視線の端は、しかし、自分から距離を取ろうと必死に縮こまっている小さ