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last update Data de publicação: 2026-10-10 17:07:49

「弦也さん、お待たせしました」

 透子が歩み寄ると、弦也は振り返ってかすかに口元を緩めた。

「いや、俺も今出てきたところだ。少し、一緒に歩かないか」

「はい、喜んで」

 2人は並んで、石畳の小道をゆっくりと歩き始めた。

 頭上ではサルスベリの濃いピンク色の花が風に揺れている。

 足元の花壇では夏の名残のひまわりと、咲き始めたばかりの白い秋明菊が並んでいた。

 先月、透子が修復を終えた祖父の油彩画は、新しい木枠に張り直されて今は弦也の書斎の壁に飾られている。

 木漏れ日が地面に落ちるこの庭の風景は、あの絵の中の光景とまったく同じだった。

「会社の方で、ひとつ大きな問題が片付いたよ」

 歩きながら、弦也が穏やかな声で口を開いた。

「先代からの古い取引先を守るための新しい計画が、役員会で通ったんだ。これまで様子見をしていた古参の役員たちも、今回は俺の側についてくれた」

「本当ですか。よかったですね、弦也さん」

 透

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  • 身代わり花嫁の契約結婚   33

    「おばあちゃんですか? そうですね……仕事に関しては、とても厳しい人でしたよ」 透子は再び歩き出しながら、京都の古い工房での日々を思い浮かべた。「冬の京都は底冷えがするんです。隙間風の入るアトリエで、手がかじかんで筆がうまく動かせないでいると、よく叱られました。絵は生きているんだから、職人の都合で手を抜くな、って」「今の君を見ていると、その教えがよく分かるよ」 弦也はアトリエにこもって修復に打ち込んでいた彼女の姿を思い浮かべて、微笑んだ。 透子は少し顔を赤くしながら続ける。「でも、大きな修復の仕事が無事に終わった夜は、2人で近くの商店街まで歩いて、お祝いにお寿司や甘いものを買って帰るんです。こたつに入って、温かいお茶を飲みながら、直した絵がどんな風に飾られるか話すのが一番の楽しみでした。お金持ちの暮らしではなかったけれど、毎日がとても満たされていました」 自然の光を浴びながら、透子は飾り気のない笑顔を見せた。 今まで弦也が見てきた社交界の令嬢たちは、皆、計算された美しい笑顔を作っていた。 幼馴染であるまどかでさえ、自分の魅力をどう見せるかを常に意識しているところがあった。 しかし目の前の透子は、ただ純粋に祖母との思い出を愛おしむように笑っている。 屈託のない横顔があまりにもきれいで、弦也は思わず言葉を忘れて見惚れていた。「……弦也さん? どうかしましたか?」 透子が不思議そうに小首を傾げた。「いや、なんでもない。とてもいい思い出だなと思って」 弦也はわずかに咳払いをすると、庭の奥へと続く小道を指差した。「案内したい場所がある。こっちへ来てくれ」◇◇ 庭の奥、木立を抜けた先に、白い壁の小さな洋館が建っていた。 母屋からは少し離れた場所にある、平屋建ての離れだ。 建物の前には、執事の相良と作業服を着た初老の男性が立っていた。「旦那様、奥様。お待ちしておりました」

  • 身代わり花嫁の契約結婚   32

    「弦也さん、お待たせしました」 透子が歩み寄ると、弦也は振り返ってかすかに口元を緩めた。「いや、俺も今出てきたところだ。少し、一緒に歩かないか」「はい、喜んで」 2人は並んで、石畳の小道をゆっくりと歩き始めた。 頭上ではサルスベリの濃いピンク色の花が風に揺れている。 足元の花壇では夏の名残のひまわりと、咲き始めたばかりの白い秋明菊が並んでいた。 先月、透子が修復を終えた祖父の油彩画は、新しい木枠に張り直されて今は弦也の書斎の壁に飾られている。 木漏れ日が地面に落ちるこの庭の風景は、あの絵の中の光景とまったく同じだった。「会社の方で、ひとつ大きな問題が片付いたよ」 歩きながら、弦也が穏やかな声で口を開いた。「先代からの古い取引先を守るための新しい計画が、役員会で通ったんだ。これまで様子見をしていた古参の役員たちも、今回は俺の側についてくれた」「本当ですか。よかったですね、弦也さん」 透子が我がことのように顔をほころばせると、弦也は少し照れたように視線を庭の木々へ向けた。「君が、あの絵と手紙を見つけてくれたおかげだ」「私はただ、絵の汚れを落としただけです」「それだけじゃない。俺はずっと、この屋敷の庭を見るのが嫌いだったんだ」 弦也は足を止め、百日紅の枝を見上げた。「小さい頃は、祖父の後ろをついてこの庭を走り回るのが何より好きだった。祖父はどんなに仕事が忙しくても、週末には俺と一緒に土をいじり、花の名前を教えてくれた。本当に優しい人だった」 弦也の声には、遠い日を懐かしむような温もりがこもっていた。「だが俺が10歳を過ぎた頃から、祖父は急に厳しくなった。遊びの時間はすべて勉強と帝王学の講義に変わり、少しの失敗も許されなくなった。庭に出ることも禁じられたよ。俺は、祖父の期待に応えようと必死だった。そうするうちに、いつしか祖父の優しかった記憶を忘れ、自分は東堂の看板を背負うためだけの道具なんだと思い込むようになっていた」 透子は黙って、弦也の横顔を

  • 身代わり花嫁の契約結婚   31

     やがて。これまでどの派閥にも属さず沈黙を守っていた古参の大隈常務が、深く頷いて口を開いた。「……今の社長の言葉を聞いて、先代の大旦那様のお姿が重なりました。大旦那様もよく、苦しい時こそ現場へ足を運び、取引先の声に耳を傾けよとおっしゃっていた。職人の技術を尊重し、長期的な視点で利益を生むこの提携案に、私は全面的に賛成いたします」「私も大隈常務と同じ意見です。社長が自ら現場を回ってまとめ上げた案だ。これほど確かな話はない」 中立派の重鎮たちが、次々と弦也の案に賛同して手を挙げた。 形勢が一気に逆転する。義隆は顔を赤くして言葉を失った。「なっ……お前たち、今まで黙っていたくせに……」「多数決を採るまでもありませんね。この合理化案は白紙とし、社長の新規提携案を正式に承認します」 大隈常務の宣言によって、議題は締めくくられた。「そうしてくれ。……皆、ありがとう」 弦也は微笑む。その笑みに大隈常務らは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。 会議室から退出した重鎮らは、小声で話し合う。「東堂社長の言動、以前と変わったな」「前は能力だけはある若造で、未熟極まりなかったが。ずいぶんと成長したようだ」「冷泉院の娘と結婚しただろう。あれが契機では?」「利益重視の契約結婚じゃないのか、あれは」「それでもパートナーができれば、変わることもあるだろうさ」「ははっ。ずいぶんなロマンチストだな、君は。……だが当たりかもしれんな」 そのような声が交わされている。 実際、弦也の精神状態は安定していた。そのために精力的な活動が可能になっている。 その背景はもちろん、祖父の遺言と蘇った絵画を目の当たりにしたこと。「自分は愛されていた」という確信を取り戻した弦也は、周囲を敵と見なして孤立するのをやめた。 人と向き合う本来の強さを取り戻していたのだ。

  • 身代わり花嫁の契約結婚   30:初めての贈り物

     8月の終わりが近づき、吹き抜ける風にほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。 東堂グループ本社ビルの会議室では、月例の取締役会が開かれていた。 長テーブルの端に座る弦也の叔父・東堂義隆が、手元の資料を机に叩きつけるようにして声を張り上げた。「いいか、今はグループ全体の利益率を最優先で引き上げるべき時期だ。地方にある採算の合わない関連工房や、昔からの付き合いだけで続いている古い取引先は、今期中にすべて契約を打ち切る。この合理化案に異論はないな」 義隆は周囲の役員たちを威圧するように見回した。 切り捨ての対象として挙げられているのは、先代である弦也の祖父が長年大切にしてきた伝統工芸の工房や、地方の老舗建材メーカーなどだった。いずれも高い技術を持っているが、近年は大量生産品の波に押されて利益が落ち込んでいる。 義隆の派閥に属する役員たちが、次々に賛同の声を上げた。「東堂専務のおっしゃる通りです。過去のしがらみにとらわれていては、株主への説明がつきません」「古い取引先を整理して、コストの安い海外の業者に切り替えるのが妥当でしょう」 会議室の空気が義隆の提案で決まりかける。 これまでの弦也であれば、全体の数字のデータだけを突きつけて義隆と真っ向から対立しただろう。 結果として中立派の役員たちから「若い社長は強引すぎる」と敬遠されていた場面だった。 だが今の弦也は違った。 弦也は落ち着いた動作で立ち上がり、プロジェクターに新しい資料を映し出した。「採算性の改善が必要だという点には同意します。ですが、それらの取引先を切り捨てることには反対です」 義隆が眉をひそめる。「ふん、また先代の思い出話でも持ち出すつもりか。経営に感傷は不要だぞ、弦也」「感傷ではありません。私は先週、リストに挙げられた7つの工房と取引先をすべて直接訪問し、現場の職人や責任者の方々と話をしてきました」 弦也の言葉に会議室の中がわずかにざわめいた。 多忙を極める社長が、自ら地方の小さな工場まで足を運んだとは思っていなかった

  • 身代わり花嫁の契約結婚   29

    『弦也へ。 この手紙をお前が読む時、私はもうこの世にはいないだろう。 お前には、東堂の跡取りとして厳しい教育を強いてきた。 憎まれても仕方がないと思っている。それが東堂を背負う者の宿命だからだ。 だが、お前が重責に押し潰されそうになった時、この庭の光を思い出してほしい。 一緒に泥だらけになって遊んだ夏の日のことを。 私は東堂の跡取りとしてではなく、お前自身の健やかな笑顔を何より愛していた。 どうか、自分をすり減らすだけの人生は送らないでくれ。 お前の幸せを、心から願っている。』 ――お前の幸せを、心から願っている。 その一文を読んだ瞬間。 弦也が長年身にまとっていた冷たく分厚い鎧が、音を立てて崩れ去った。 自分は駒などではなかった。 祖父は、自分を道具として見ていたわけではなかった。 厳しい態度の裏でずっと彼のことを案じ、愛してくれていたのだ。「……ああ」 弦也の口から、くぐもったような声が漏れた。 彼は両手で顔を覆った。 ずっと押し殺していた感情が、行き場を失ってあふれ出す。「俺は、自分自身が東堂の駒としてしか価値がないと……そう思っていた」 弦也の肩が、小さく上下に揺れた。「だが……違ったのか」 嗚咽が室内に響く。 東堂の当主として、決して見せてはならない弱さ。 けれど涙をこぼすのと同時に、弦也の中で失われていた生きる気力と人間らしい感情が急速に満ちていくのを感じていた。 孤独な戦いの中で見失っていた、自分自身の存在価値。 それを祖父の言葉が救い上げてくれた。 しばらくして、弦也はゆっくりと顔を上げた。 充血した目で、透子を見る。 彼女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。「君が……祖父の心を、救い出してくれたのか」 弦也

  • 身代わり花嫁の契約結婚   28

     長年荒れ果てていたはずの庭。それがいつの間にか、夏の花々が咲き誇る美しい姿に変わっていた。 ひまわりが西日を受けて黄金色に輝き、サルスベリの鮮やかな花が風に揺れている。 その光景を見た瞬間、弦也の胸の奥で何かが小さく動いた。 理由のわからない郷愁が心の奥底にある。喉の奥が詰まるような切なさがこみ上げる。 この景色を知っている。どこかで、こんな風に咲く花を見た記憶がある。 けれど心を固く閉ざしすぎた弦也には、それがいつの誰と過ごした記憶なのか、具体的に思い出すことができなかった。 ただ、その景色がひどく温かいものだったという感覚だけが、空虚な心の中に取り残されていた。 コンコン、と控えめなノックの音がした。「……入れ」 弦也が窓辺から振り返ると、ドアが開いて透子が入ってきた。 両手で平らなボードのようなものを抱えている。「仕事中だ。用件は手短にしろ」 弦也は冷たい声を出した。 透子は足を止めて、弦也を正面から見つめた。「絵の修復が終わりました」 その言葉に、弦也はわずかに目を細めた。「終わった? 予定よりも早いが、こんなに短期間でか」「はい。汚れを落とし、元の色を取り戻すことができました。弦也さんに見ていただきたくて」 透子は抱えていたボードをデスクの上で裏返す。 弦也はゆっくりとデスクに近づいた。 あの黒ずんでひび割れていた廃品のようなキャンバス。 弦也の凍えた心を現すようで、本当は手元に置いておきたくなかった。 いっそ捨ててしまいたかったけれど、どうしてかそれもできなかった。 そこに現れた光景を見た瞬間。 弦也は、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。 眩しい夏の光の下、鮮やかなひまわりとサルスベリが風に揺れている。(この風景は) それは、つい先ほど窓から見下ろしていた庭の景色そのものだった。 そして同時に、弦也の脳内にひ

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