LOGIN静かな早朝、離宮の食堂にはまだ柔らかな陽光が差し込み、白大理石の床に金色の模様を描いていた。
皇帝と皇后の朝食卓は、銀器や青磁の皿が規則正しく並び、その清らかさはまるで儀式の一部のようだった。 しかし、その日の空気には、どこか微かなざらつきが混じっていた。給仕たちはいつもどおり無言で動いていたが、一人だけ、ほんの一瞬、手元を隠すように皿へ身を寄せた。
薄明かりの中、指先からさらりとこぼれたものは、砂。 風に舞うように細かく、光を受けてわずかにきらりと反射しながら、蒸気の立つミネストローネへと沈んでいった。皇后になったレイラが席に着いたとき、遠くで侍従が朝の鐘を鳴らしていた。
カインは湯気の立つカップを手に取り、まだ寝覚めきらぬ瞳で食卓を眺めた。 レイラはじっとミネストローネを見つめ、口を開く。「陛下、私とスープを取り替えてくれませんか?」
小鳥の鳴くような可愛らしい声を出すレイラに、カインは思わずスープを取り替えるよう指示を出した。 控えていたメイドが震える手で二人のスープを取り替える。カインは思わずレイラの言う通りにしてしまったが、彼女の意図は分からなかった。
(アルトメの習わしか何かか?)そっと掬ったミネストローネを口に含むと舌が、僅かな違和感を拾った。
かす、と小石のような感触。カインは眉をわずかに寄せ、スプーンの裏に付いた粒を光にかざす。
一見するとカインが好んでいる黒胡椒のように見えるが味はない。 (これは砂だ!)光が当たると、その砂はまるで嘲笑うように輝いてみえた。
カインは怒りを抑えるように、静かに皿へ視線を落とす。張り詰めた沈黙は、砂粒以上に細かく、そして重かった。
その空気を穏やかにするようにレイラが可愛らしい声で囁く。「ふふっ、美味しいですわ。わざわざ黒胡椒もお取り寄せになってるのね。料理長にお礼を言いたいわ」
「はい、ただいま、お呼び致します」 扉の近くで控えていた侍従の男が部屋を去る。 レイラはカインに微笑みを送るとミネストローネを掬いまた口に含んだ。(レイラのスープにだけ砂が混入されていたという事か)
白いコック帽を高く戴いた料理長が食堂に入ってくる。
帽子のつばがわずかに揺れ、その下の額には、長年の経験を物語る穏やかな皺が刻まれているた。「このミネストローネ、とても美味しかったわ。どうしたら、こんなに美味しいスープが作れるのかしら」
料理長はレイラの柔らかな微笑みに頬を染めると口を開いた。「季節の野菜を丁寧に刻んで、オリーブオイルで香りが出るまで炒めました。そこへトマトの酸味と、野菜の甘みがほどよく溶け合うブロードを加えるんです。具材が踊るくらいの火加減で、ゆっくり煮込むのが大切なんですよ」
「とても手間が掛かってるのね。黒胡椒が野菜の一段階上の野菜の甘みを引き出してると感じたわ」「皇后陛下のおっしゃる通りです。この黒胡椒は陛下がお好きということで、モレイド王国から取り寄せています」
「ふふっ、私も好き。もう下がって良いわ。これからも今まで通り宜しくお願いしますね」レイラが料理長を下げたのを見て、カインは彼女が犯人探しをしているのに気がついた。
彼女の飲み終わったスープを下げるメイドにレイラが静かに話し掛ける。「手が震えているの自分で気がついてる? 顔も真っ青よ。こんな具合の悪い子を担当につけるなんて侍女長を呼ばなきゃね」
レイラの言葉に反応し、扉で控えてた侍従の男が食堂を出る。カインがじっとレイラを見つめていると、彼女が見据えるように微笑んだ。
(まるで、犯人探しをしているから、黙って見てろとでも言いたげだな)美しいだけの女ではないと気がついていたが、レイラは次期女王が内定していた元王女というだけあり非常にプライドが高い。
嫌がらせを黙って受けるようなひ弱な女ではない。 (この場で自ら断罪するつもりか)侍女長が侍従に連れられ食堂に入ってくる。
不服そうな顔をした彼女を見るなり、レイラが冷たい表情に変わった。窓の外では、朝日が一層強く差し込み、金の光がテーブルクロスに揺れていた。
まるで、清らかな朝と、静かに芽生えた不穏の影とが、同じ一枚の絵の中に閉じ込められているかのように。「皇帝陛下のお食事に異物が混入されていたの。それについて申し開きをしなさい」
レイラが言葉を発するなり扉の外で聞き耳を立てていた、護衛の騎士二人が侍女長を牽制しに食堂に入ってきた。「ふふっ、こんな分厚い扉の外でも陛下の身を守る為に警戒してるのね」
レイラはスッと立ち上がると、侍女長の前に立った。「クレア、待って! 私の代わりに貴女がクリフォード皇帝陛下の妻になったら?」「アルベラ様、クリフォード様は女好きで女なら誰でも良いと勘違いされてませんか? そんな方ではありませんよ」 クレアは心からクリフォードを信頼しているようにしか見えない口ぶりだ。 でも、ハーレムを持ち、既に側妃を三人も持っているような男は客観的に見てただの女好きにしか見えない。 アルベラの着替えがほぼ終わったころ、部屋の外で重々しい足音が止まった。 次の瞬間、侍従の低い声が響く。「陛下がお入りになります」 空気が一瞬にして張りつめた。 クレアはアルベラの背にそっと手を添え、耳元で囁く。「どうか、落ち着いて。怖がらなくて大丈夫です。私がいますから」 扉が静かに開き、クリフォードが姿を現した。 長身で、豪奢だが決して派手ではない黒の衣。 鋭い眼差しは、入室した瞬間からアルベラだけに向けられていた。「目覚めたばかりだというのに、ずいぶんと美しく仕上げてもらったようだな」 低く、言葉そのものが熱を帯びているような声。 アルベラは思わず身をすくませた。 クリフォードはゆっくり近づき、アルベラの一歩手前で立ち止まる。 以前のように威圧的ではなく、あくまで自然な存在感。 それが逆に逃げ場を奪っていた。「アルベラ。お前は誰より美しい。だからこそ、お前は私の隣にいるべきだ」 クリフォードは微笑した。その笑みは一見温かく見えるが、その目は獲物を観察する捕食者めいてもいる。「こんな誘拐のような真似をして、国家間の関係が悪くなったらどうするんですか?」 アルベラはクリフォードが『女好きの戦闘狂』と呼ばれているのを思い出した。(もしかして、わざと争いの種を生もうとしている?)「カイン・ヴェライユが俺の妻だと言い掛かりをつけて、君を取り返しにくるかもな。勿論、戦うさ。君は俺のものだ」 力強く容赦がないクリフォードの言葉。 アルベラはクリフォードが描いてい
温かい絹の匂いと、遠くで鳴る聞き慣れない楽器の音。 アルベラは重たいまぶたをゆっくりと開いた。 見知らぬ天蓋。豪奢な寝台。周囲には薄い紗のカーテンが揺れ、甘い香油の香りが漂っている。(胸がざわつく。ここは⋯⋯どこ?)「お目覚めになりましたか、アルベラ様」 アルベラは反射的に身を起こし、声の主を探す。そして固まった。 新聞で見た事があるリュシアン王国の王女だ。 若草色の髪に、垂れ目と泣きぼくろが印象的な方だった。 実際に会った事はないから間違っているかもしれないが、もしここがルートル帝国なら可能性が高い。 リュシアン王国はルートル帝国に三年前に滅ぼされている。「クレア・リュシアン王女殿下ですか?」「その名前で呼ばれるのは三年ぶりですわ。初めてお目に掛かりますね。アルベラ様」「どうしてあなたが、その服は?」 クレアは、簡素な侍女服に身を包み、恭しく頭を下げている。「本日より、アルベラ様付きの侍女として仕えるよう命じられております」 アルベラは信じられないといった思いで、クレアを見つめた。 クレアの祖国であるリュシアン王国ははルートル王国により一方的な武力行使で侵略された。 国民は王族も含めて皆、奴隷になったと聞いている。「ここはルートル帝国ね」「はい、ルートル帝国のハーレムでございます」 アルベラの問いに、クレアは微笑みながら答えた。 アルベラの胸に、不安と怒りと、説明しようのないざらついた感情が渦巻く。 気絶している間、クリフォードに瞬間移動の道具を使われここに移動してきたのだろう。(カインは大丈夫かしら?) クリフォードがあの恐ろしい風魔法で奇襲を仕掛けたとしても、五大魔法を使えるカインなら大丈夫だとアルベラは自分に言い聞かせた。(とにかくカインの元に戻らなきゃ) カインがアルベラの居場所に気がついても、遠く離れた彼がここに来るには半年以上かかる。
「なんだ? 泣くほど良いことでもしてたのか? アルベラ、お前がヴェライユの皇帝カインの妻になっていると聞いた時は流石の俺も驚いたぞ」 アルベラは息を呑んだ。ヴェライユ帝国にもルートル帝国の密偵がいるという事だ。 レイラがアルベラだと知っているのはカインを除けば水浴びを覗いた騎士だけ。(彼が密偵? いや、決めつけは良くないわ) 近くにいて真実を知っても、知らないふりをして自国に密告する。 だから、誰が密偵だったかなんて分からない。「アルベラ、久しぶりにお前の小鳥のような可愛らしい声を聞かせてくれよ」 急に自分を殺そうとした彼を思い出し、危険を知らせねばとアルベラは立ち上がる。 彼の恐ろしさを自分は身をもって知っている。(とにかく陛下に知らせなきゃ。彼ならきっと何とかしてくれる) 多くの騎士たちが寝入っている時に、あの恐ろしい魔法でも使われたらと思うと血の気が引く。 よろける彼女の手を引き、クリフォードは拘束するように抱き締めてきた。 アルベラの鼓動が小動物のように早くなる。「はぁ、凛とした姿も唆ったが今のお前も良いな。アルベラ、お前は思ってた以上の女だよ。双子の兄の首を切り逃げ切るなんてな」 アルベラは一瞬、何を言われたか理解できなかったが急に頭の中に映像が流れ込んで来た。 アルベラを逃す為に、泣きながらオリバーの首を切るリアンダーの姿。 あまりのショックに彼女はその場で気を失った。「アルベラ、お前のお陰でヴェライユ帝国から戦争を仕掛けてくれそうだ。本当に感謝するよ」 クリフォードは愛おしそうに気絶したアルベラを抱き上げると、彼女の長いまつ毛に軽くキスを落とした。「お前は戦争という最大の娯楽を与えてくれる傾国の美女だ。知ってるか何もかも持って生まれた男は皆退屈なんだ。そんな男にとって最大の娯楽が戦争だ。お前が引き起こすんだよアルベラ。どうか後世まで悪女として憎まれてくれ」 クリフォードは楽しくて笑いが止まらなくなる。 一瞬目の前が真っ赤なになり視界にカインが現れると、クリフォ
その後もしばらく、二人は他愛のない話をしていた。 山で見つけた食材のこと。 幼い頃の思い出。 カインが子どもの頃に一度だけ野生の兎を追いかけて、山道から外れて大騒ぎになったこと。 普段なら聞くことのできない話に、アルベラは何度も笑った。 カインもまた、そんな彼女を見ているうちに、いつの間にか頬を緩めていた。 テントの外では夜風が静かに吹いている。 焚き火の爆ぜる音を聞きながら、温かな料理を二人で分け合う。 皇帝と皇后、そんな身分さえ忘れてしまいそうな、穏やかな時間だった。 ――けれど。「陛下、そろそろ⋯⋯」 テントの外から、遠慮がちな兵士の声がした。 カインが顔を上げる。「何だ?」「その⋯⋯」 兵士は言葉を濁した。「皆、陛下と皇后殿下の間に、早く世継ぎが誕生することを願っておりますので……その、今夜は……」 アルベラの手が止まった。 先ほどまであれほど温かかった空気が、一瞬で冷えたように感じる。 カインも黙り込んだ。 テントの中に、気まずい沈黙が落ちる。 アルベラは俯いた。 夜伽をしていない。 それは二人の間では、ずっと触れないようにしてきたことだった。 けれど、周囲にとっては違う。 王と王妃なのだから、子を成すのが当然。 その当然を、二人はいまだ果たしていない。「余計なことを言うな」 低い声が響いた。 兵士が息を呑む気配がする。「申し訳ございません!」「俺たちが何をするかは、俺たちが決める。お前たちが口を挟むことではない」「はっ!」 兵士が慌てて離れていく足音が聞こえた。 しばらくして、カインは小さく息を吐いた。「悪かったな」
その後の移動は予定通りスムーズに進み、ヴェライユ陣営は二度目の野営の日を迎えていた。 山の夜は、火を焚いても肌寒い。 騎士たちが交代で見張りにつき、焚き火の周囲には簡素な鍋がひとつ据えられていた。 湯気の立つ鍋に、淡い香りがふわりと立ちのぼった。「まさか皇后陛下自ら、こんな山中で料理をされるとは」「旅の途中ですもの。できることをしたほうが、皆の疲れも和らぎますわ。このキノコは香りが強いから、こうして火にかけると甘い匂いが出てきますわ」 騎士たち恐縮気味に漏らすと、アルベラは静かに微笑んだ。 持ってきた食料はあったが、春とはいえ夜はまだ寒いので温かい汁物を出したいと思ったのだ。 そこで、彼女はアルトメが食糧難に瀕した時に身につけた知識で安全なキノコを採取した。 彼女が四歳の時に、大雨が続きアルトメ王国は食糧難に陥った。 アルベラは山にびっしり生えているキノコを食べれる物と食べられない物に選別する知識を国民に披露した。 一方、オリバーは誰も食べたことのない芋を持ってきて食べられるか試した。 アルトメの人々は芋を食べられるようになり、アルベラはオリバーの発想に感動した。 本来ならオリバーが次期国王になるべきだとアルベラ自身も思っていたが、異能の副作用でオリバーはひ弱で不完全な王子として姿を消す。 アルベラは毎時間のようにオリバーを思い出しては、自分が代わり消えるべきだったと感じ苦しんでいた。 彼女の手つきは迷いがなく、鍋をかき回す動作も流れるように滑らかだった。 何も食べられなくなったオリバーの為に、芋を柔らかく茹ですり潰しスープを作った思い出が蘇る。 カインのように万能でもないし、オリバーのように優秀でもない。 それでも、出来る事を確実にしてきたアルベラは、周囲から見ればとても万能で優秀な人間に映っていた。 風が静まり、焚き火の音だけが心地よく響く。 やがて、アルベラは味見をしてから頷き、椀によそった。「陛下、お待たせいたしました。山で手に入ったものだけですが、
「姫様。なぜ、ここに⋯⋯ここはヴェライユ帝国軍の陣営です」 リアンダーは戸惑いを隠せない掠れた声で言った。 その声を聞いた瞬間、アルベラの胸の奥が痛んだ。 アルメト王家に尽くしたリアンダー。 王家を滅ぼした男の妻になっていると聞いたら、どう思うか考えるだけで恐ろしい。「リアンダー、生きていてくれたのね。会えて嬉しい。私、今ね⋯⋯」 重い鎧の音を鳴らして、カインが駆け寄ってくる。 息も荒く、剣を構え、あらゆるものを斬り払ってでもアルベラを守ろうという気迫。 目を開けたら隣にアルベラがいなくて焦っているのだろう。 そして目にしたのはアルベラと彼女がかつて愛したという男。 カインはリアンダーと面識があり、彼のアルベラへの思いを知っていた。 でも、敢えて彼を無視するようにアルベラに駆け寄る「アルベラ、無事か? 隣に君がいないから、本当に心配した」「陛下、ご心配お掛けして申し訳ございません」 二人の仲睦まじい様子をリアンダーは信じられないと言うように見ていた。 その視線に気がついたアルベラは少し気まずそうに思いながらも、先に状況をカインに説明すべきだと判断する。「この方は祖国で私の護衛騎士をしていたリアンダー・ソリアル卿です」「知ってる。アルベラの昔の男だよな」 カインはまるで二人が夜の逢瀬をしているような場に出会し精一杯余裕ぶりたかった。「昔の男というか、確かに王女時代に私は彼と婚約をしておりました」「知ってる。美しい男だな。アルベラは結構面食いだな」 アルベラはカインは帝国内だけでなく各国の情報について詳しい事を思い出していた。 一方、カインは動揺を悟られないように精一杯虚勢を張っていた。 金髪に琥珀色の瞳をした見目麗しい騎士リアンダー。 まさか彼と再び会う事があるとはカインは思ってもみなかった。 彼がこんな山の中にいる可能性は二つある。 アルベラに極秘で会いにきたか、国の仇であるカインを暗殺しにきたとこ







