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0007-新学期の初日

Penulis: chocho
last update Tanggal publikasi: 2026-01-28 10:42:49

階段を降りると、ふわりと温かな香りが鼻先をくすぐった。

焼きたてのパンの匂いだ。

溶けかけたバターのコク、ほんのり甘いスクランブルエッグの香りが混ざり合っている。

懐かしい。

それでいて、どこか見知らぬ匂い。

――まるで、記憶の底に眠っていながら、一度も手にしたことのない

「家族」という名の輪郭に触れたような、そんな匂いだった。

「航平、起きたの?」

キッチンの奥から、柔らかな女性の声が響く。

ゆったりとした口調に、さりげない気遣いがにじむその声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

彼女が誰なのかは分からない。

それでも、その言葉が――確かに自分に向けられたものだということだけは、本能で理解できた。

階段を下りきると、そこには陽だまりのような温もりに満ちたダイニングが広がっていた。

大きな窓から朝の光がこぼれ落ち、テーブルの上にはすでに朝食が整えられている。

こんがりと焼かれたトーストが二枚。

トマトとレタスが彩りを添えたサラダ。

ふんわりと仕上がったスクランブルエッグには、細かく刻まれたパセリが散らされていた。

湯気を立てるコーヒーカップの隣には、ミルクの入ったガラスのコップ。

ソファでは新聞を手にした中年の男性が、顔を上げると穏やかな笑みを浮かべた。

なぜだろう。

彼の内側に、自然とひとつの言葉が浮かぶ。

――父親。

「お、航平。おはよう」

「……おはようございます」

声に出した瞬間、航平自身が一番驚いていた。

あまりにも自然に、その言葉が零れ落ちたのだ。

男性――父は新聞を置き、少し目を細めた。

目尻にはうっすらと笑い皺が刻まれている。

カップを持つ手は落ち着いていて、言いようのない頼もしさを感じさせた。

「今日は新学期の初日だろ? 楽しみか?」

一瞬、言葉に詰まる。

その問いかけが、喉元をやさしく締めつけた。

「うん……たぶん」

どこか曖昧な返事だったが、父は気にした様子もなく、軽く頷いた。

「そうか」

そう言って、再び新聞に視線を戻す。

母は焼きたてのパンを手にテーブルへやってきた。

エプロンをつけたその後ろ姿には、不思議なほどの安心感が宿っていた。

それは記憶というより、「家庭」という概念に対する、淡い憧憬に近いものかもしれない。

航平は席に着く。

テーブルの上の光景が、ゆっくりと胸の内を浸していく。

黄金色に焼き上がり、表面で静かに溶けていくバター。

ドレッシングの光をまとったサラダ。

見るからに柔らかそうなスクランブルエッグ。

グラスの水滴が、照明を受けて小さくきらめいている。

そのとき、ふと気づいた。

――こんなふうに、穏やかな朝食をとるのは、いつ以来だろう。

前世の朝は、いつも慌ただしかった。

コンビニのパンを口に押し込み、歩きながら目的地へ向かう。

時間も余裕もなく、

朝の光に包まれて食事をするような、そんな贅沢なひとときとは無縁だった。

「いっぱい食べなさいね。今日から二年生なんだから」

「いただきます」

航平が手を合わせると、両親も同時に小さく声をそろえた。

朝食を口に運びながら、胸の奥では、信じられないような感情が静かに波打っていた。

目の前にあるこの「日常」が、自分の存在を確かに証明している。

トーストを一口かじる。

サクッという軽やかな音が響き、バターの香りが一気に立ちのぼった。

「……おいしい」

思わず、無意識にこぼれた本音だった。

それを聞いた母は、ぱっと表情を明るくする。

「よかった。マーガリンじゃなくて、本物のバターよ」

その何気ないやり取りの中で、航平は再び目の奥が熱くなるのを感じた。

――ああ、そうか。

こんな朝は、前世では一度も持ち得なかった。

名前を呼ばれ、笑顔で迎えられ、自分の居場所が確かにここにある。

まさか、それが現実になる日が来るなんて。

「……なんだよ」

心の中で、そっと息を吐く。

「こんなに穏やかな朝を、俺は今まで一度も知らなかったんだな」

その瞬間、堪えていたものが静かに溢れ出した。

頬を伝う涙に、悲しみはない。

今はただ、この朝の光を、記憶の奥深くに刻みつけておきたい。

自分は、この世界で生きている。

そして、確かに愛されている。

それだけで、もう十分だった。

新しい人生は――

思っていたよりも、ずっと温かい。

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