INICIAR SESIÓN寮の部屋は、ひどく静かだった。
自分の呼吸がわずかに震えている音さえ聞こえるほどに。
航平は顔を枕に埋め、腕で目を押さえた。
まるで光さえ遮ってしまえば、世界そのものが一時的に存在しなくなるとでも言うように。スマートフォンはすでに電源を切っている。
それでも、あのコメントの数々は頭の中で何度も再生され続けていた。
「現実の人物を連想させている」
「過度な投影だ」「他人を消費している」文化展が終わってまだ一日しか経っていないのに、話題はむしろ燃え広がる一
風が止んだ。世界そのものが、音を失ったみたいだった。荒れ狂っていた黒い影たち。そのすべてが、空中で静止する。裂け目の奥。黄昏色の光が、ゆっくりと灯り始めた。そして次の瞬間。見慣れた人影が。静かに、その中から歩いてくる。航平の呼吸が止まる。「……澪?」神谷澪は裂け目の中心に立っていた。制服の上着を肩に引っかけたまま。黒髪は風に乱れている。記憶の中と同じ姿。――なのに、どこか違った。彼の身体は。ほとんど透けていた。今にも、光になって消えてしまいそうなくらいに。それでも彼は笑う。いつもの、あの気だるそうな調子で。「お前らさぁ」「うるさすぎ」空気が微かに揺れる。奥田はその場で固まっていた。瞳が小さく震えている。信じられないものを見るみたいに。「……なんで、まだここにいるんだ」神谷澪は小さく首を傾げた。「なに?」「俺が戻ってきたの、そんなに嫌だった?」「そういう意味じゃない!!」奥田の声が、初めて乱れる。神谷澪は低く笑った。「わかってるよ」裂け目の奥から、冷たい風が吹き抜ける。そこには、あの黄昏の匂いが残っていた。黒い影たちがざわめき始める。まるで彼を恐れているように。あるいは、必死に止めようとしているように。神谷澪は自分の手を見下ろした。指先が、少しずつ光へ変わっていく。「もう時間がないんだ」静かな声だった。航平の胸が強く締めつけられる。「……どういう意味だよ」神谷澪は数秒黙った。それから、ゆっくり顔を上げる。その瞳は。初めて見るくらい、静かだった。「“あれ”は、まだ死んでない」空気が凍る。裂け目の奥から。また、低い笑い声が響いた。「“手放せない気持ち”が残っている限り――」「お前たちが互いを求める限り――」「私は、何度でも生まれる」闇がゆっくり蠢く。無数の目が潜んでいるみたいに。彼らを見つめていた。けれど神谷澪は振り返らない。ただ、静かに言う。「完全には消せないんだよ」「だって、あれは最初から――」「人の感情から生まれたものだから」「嫉妬」「好きって気持ち」「独占欲」「失うのが怖いって感情」「そういうものがある限り――」「あれも消えない」航平の指先が強く震えた。「じゃあ、どうすればいいんだよ」神谷澪はふっと笑う。「閉じ込めれ
雨は、さらに激しさを増していた。風が屋上の端を唸るように吹き抜ける。奥田は、航平に襟元を強く掴まれたまま。一言も返せなかった。――今の航平の顔が。あまりにも痛々しかったから。ずっと鈍かった感情。ずっと押し殺してきた感情。気づくのが遅すぎた感情。その全部が、今この瞬間、完全に決壊していた。「……航平」奥田の声は掠れていた。だが航平は、すぐに遮る。「名前呼ぶな」俯いたまま。呼吸が激しく乱れている。「今のお前みたいな顔、一番嫌いなんだよ」奥田がわずかに目を見開く。航平は奥歯を強く噛み締めた。「死にそうなくらい苦しいくせに」「いつも、“平気です”みたいな顔しやがって」雨が顎を伝って落ちていく。それが雨なのか涙なのか、もうわからない。「お前、いつも思ってるだろ」「自分さえ残れば」「相手は幸せになれるって」「でもさ――」航平は赤くなった目を上げた。声が震えている。「残されたほうが」「一番苦しいんだよ」空気が静まり返る。奥田の瞳が小さく揺れた。その言葉。昔、神谷澪も言っていた。――【忘れられるのって、やっぱ悔しいんだよな】そして今。航平は雨の中で。ようやく、その痛みを自分の手で受け取った。奥田の胸が激しく痛む。思わず手を伸ばした。航平に触れたくて。けれど、その指先が届く寸前。身体が、透け始めた。航平の顔色が変わる。「……奥田!?」奥田自身も、一瞬硬直する。次の瞬間。足元の地面に、黒い亀裂が広がった。まるで“向こう側”が再び口を開いたように。風の中から。あの怪物の残滓のような囁きが聞こえる。「戻っておいで――」「こここそ、お前たちの居場所だ――」航平は振り返った。屋上の中央。そこに、巨大な黒い裂け目が現れていた。内部では、果てのない黄昏が渦巻いている。まるで“あちら側”への入口。そして奥田の身体は。少しずつ、その裂け目へ引き寄せられていた。奥田の顔が青ざめる。「……逃げろ!!」彼は勢いよく航平を突き飛ばした。「触るな!!」だが航平は、狂ったみたいに再び彼を掴む。「黙れ!!」裂け目が急速に広がっていく。屋上全体が激しく揺れた。遠くでは校舎の窓ガラスが次々と砕け散る。雨音。風。不気味な囁き。全部が混ざり合う。そして、あの声がさらに鮮明にな
白い光が、すべてを呑み込んだ。世界が耳を裂くような崩壊音を上げる。無数のガラスが、一斉に砕け散るように。航平の視界は完全にぼやけた。耳に残るのは、轟音。そして風の音。強い風。まるで何年も前――あの黄昏の屋上みたいに。意識が白に沈み込んでいく、その直前。ふいに、かすかな声が聞こえた。「……今度は」「もう、あいつを見失うなよ」航平の瞳が大きく揺れる。「澪――!!」次の瞬間。世界は完全に崩れ落ちた。――浮遊感。――落下。――闇。…………再び目を開けた時。視界に映ったのは、真っ白な天井だった。鼻を刺す消毒液の匂い。窓の外では、雨音がかすかに聞こえる。航平の呼吸が止まる。数秒後。彼は勢いよく身体を起こした。「奥田――」「おい!!」すぐ横から誰かが慌てて押さえつける。「バカかお前!? 起きたばっかで動くな!」航平は呆然と振り向いた。そこにいたのは。クラスメイト。教師。見慣れた病室。見慣れた現実。まるで、今までの出来事が全部悪夢だったみたいに。――だが次の瞬間。航平の顔色が一気に変わる。「……奥田は?」空気が、一瞬静まり返った。クラスメイトたちが顔を見合わせる。「奥田?」「誰、それ」航平の頭が真っ白になる。教師が眉をひそめた。「神谷の件でショックを受けすぎたんだろ」「お前、二日も意識不明だったんだぞ」「変なこと言うな」航平の呼吸が止まった。――みんな、神谷澪のことは覚えている。なのに。奥田だけを覚えていない。いや。そんなはずない。あり得ない。航平は乱暴に点滴を引き抜いた。そのまま病室を飛び出す。「おい! 航平!!」後ろが一気に騒がしくなる。だが、そんなことどうでもよかった。頭の中にあるのは、一つだけ。――奥田が消えた。……雨はまだ降っていた。校舎の中は静まり返っている。全身ずぶ濡れのまま、航平は廊下を駆け抜けた。息が痛いほど乱れる。いない。どこにも。教室。グラウンド。剣道部。全部、空っぽだった。まるで“奥田”という存在そのものが。最初から存在していなかったみたいに。胸の奥が、どんどん冷えていく。そして最後に。航平は、屋上の扉の前で足を止めた。指先が震える。ここは。すべてが始まった場所。そして神谷澪が消える前。
空気が、一瞬で凍りついた。奥田の身体が硬直する。呼吸さえ止まったように。唇に触れた熱は、あまりにも熱く、現実だった。震えるほど不器用で。制御なんてできていないキス。航平は奥田の襟元を掴んでいた。痛いほど強く。優しいキスなんかじゃない。ずっと押し殺してきた感情が、限界を超えて爆発したような――そんな口づけだった。周囲から襲いかかっていた黒い影たち。それさえ、この瞬間だけ止まる。怪物ですら、沈黙した。奥田の瞳が微かに震える。頭が真っ白だった。だってこれは。何度も夢に見た。けれど、一度だって本当に叶うとは思えなかったことだから。しかし次の瞬間。航平は勢いよく唇を離した。呼吸は乱れきっている。目元は赤い。「……ちゃんと聞け」初めて聞くほど、掠れた声だった。「俺は、お前を可哀想だと思ったわけじゃない」「失うのが怖かったからでもない」「ただ――」航平の胸が激しく上下する。まるで、自分自身に無理やり本音を認めさせるように。「お前のいない未来なんて、想像できないんだよ」空気が、大きく震えた。奥田は完全に言葉を失う。そして怪物の周囲の闇が。突然、激しく荒れ狂い始めた。怒り。あるいは、焦り。「……あり得ない」怪物は初めて、歪んだ絶叫を上げた。「人間の感情に、“独占欲”が伴わないはずがない!!」「お前たちは失うことを恐れている!!」「永遠にここへ残りたいはずだ!!」航平は鋭く振り返る。真っ直ぐ怪物を睨みつけた。「……ああ、怖いよ」「いつか奥田がいなくなるのも」「二度と会えなくなるのも」「でも、それがなんだ」彼は一歩ずつ前へ進む。奥田を庇うように、その前へ立った。「誰かを好きになるってことは――」「失うのが怖いのなんて、当たり前だろ」「だけど、それは――」航平は歯を食いしばる。「相手を閉じ込める理由にはならない」轟音のように空気が震えた。黒い影たちが狂ったように歪み始める。まるで理解できないと言うように。そして神谷澪は。その光景を見つめたまま、呆然としていた。目が。初めて、本当に変わる。――彼はずっと、“誰かを繋ぎ止めたい”と思っていた。けれど航平と奥田は違う。失うことを怖れていても。それでも相手には、“本当の世界”へ帰ってほしいと思っている。神谷澪は、ふっと
「もし最後に一人しか残れないとしたら――」「お前は、誰を選ぶ?」その言葉が響いた瞬間。世界のすべてが、何かに“停止”を押されたようだった。空気が止まる。狂ったようにうねっていた闇さえ、異様なほど静止した。無数の視線。すべてが航平へ向けられる。びっしりと。まるで覗き込む穴のように。航平の呼吸が浅くなる。――この光景。一年前と、あまりにも似ていた。屋上。夕暮れ。強い風。欄干のそばで、神谷澪が笑いながら言った。【もし一人しか選べないなら?】そして今。あの問いが。再び彼の前に突きつけられていた。違うのは。今の航平には、その問いの本当の残酷さがわかってしまっていることだった。――この問いに、“正解”なんて存在しない。誰を選んでも。選ばれなかったほうは、置き去りになる。闇の中の“それ”が、ゆっくり笑った。「どうした?」「まだ答えられないのか?」「もうわかってるんだろ?」「お前が、本当は誰を一番大切に思っているのか」空気が一気に冷え込む。黒い影たちが、じわじわと近づいてくる。まるで、答えを待っているように。その時、奥田が低く呟いた。「……答えるな」航平の身体が震える。だが奥田は彼を見ない。ただ怪物を睨みつけていた。掠れた声で。「こいつは、お前に“選ばせたい”だけだ」「一度でも認めたら――」「選ばれなかったほうを、完全に喰う」神谷澪がハッと顔を上げた。何かに気づいたように。「……そういうことか」彼は闇を睨み据える。「お前は最初から、“誰かを残したい”わけじゃなかった」「俺たちに、“互いを捨てさせたい”んだな」怪物の口元が、ゆっくり裂ける。笑っている。「だって――」「その瞬間こそ」「人間の感情が、最も強くなるからだ」「罪悪感」「後悔」「嫉妬」「愛」「全部が混ざり合った時の感情は――」「実に、美味い」轟音。医務室が、突然崩壊した。壁が紙のように裂ける。その向こうに広がっていたのは、学校ではない。果てのない黄昏。血のように赤い空。水たまりだらけの地面。まるで、死んだ世界。そして遠くには。無数の人影が立っていた。全員、うつむいたまま。ここに囚われ続けている“何か”。航平の背筋が凍る。神谷澪の顔色も白い。「あれは……」怪物が静かに笑う。「み
「ずっとここにいればいい。」「そうすれば、お前たちは二度と失わなくて済む。」その声が落ちた瞬間。保健室は、完全な静寂に包まれた。闇はすでに足元まで這い寄っている。生き物みたいに。ゆっくりと蠢きながら。空気は凍りつきそうなほど冷たい。そして扉の向こうでは。“あれ”が、今も執拗にドアを叩き続けていた。ドォン――!!ドォン――!!金属製の扉枠が歪み始める。壁が悲鳴みたいな軋みを上げた。航平は、その扉を睨み続ける。胸が重く痛んだ。なぜなら――ほんの一瞬。彼は、本当に揺らいでしまったからだ。もし、永遠にここへ残れば。誰も失わなくて済むんじゃないか。もう二度と死を見なくていい。置いていかれなくていい。奥田が、あんな壊れそうな顔をすることもなくなる。その考えが浮かんだ瞬間。足元の闇が、ぴくりと波打った。まるで歓喜したみたいに。神谷澪の顔色が変わる。「考えるな!!」初めて、本気の焦りがその声に滲んだ。「“あれ”に聞かれる!!」航平はハッと我に返る。だが次の瞬間。闇が爆発するみたいに膨れ上がった。轟音と共に、保健室全体が激しく揺れる。そして。ドアの中央が、不自然に盛り上がった。――手。いや。黒い泥で作られた、人間の形。細長く歪んだ五本の指が、扉枠へ食い込むように張りついている。その向こう側から。“あれ”が、笑った。「なるほど。」「お前も、残りたいんだね。」空気が、一気に冷え切る。奥田が勢いよく航平を後ろへ引き寄せた。「見るな!!」けれど遅かった。その黒い“手”が、ぐちゃりと裂ける。無数の目。目。目。目。全部が同時に開いた。そして、一斉に航平を見つめる。航平の呼吸が止まる。頭の中へ、大量の映像が流れ込んできた。――奥田が消える。――誰もいない教室。――病室。――葬式。――最後に一人だけ残された未来。「やめろ――!!」航平は反射的に後ずさった。冷や汗が一瞬で背中を濡らす。すると“あれ”は、ようやく裂け目を見つけたように。ますます優しい声になる。「怖いんだろう?」「奥田までいなくなるのが。」「最後に、一人になるのが。」「だったら。」「なんで現実へ戻ろうとするの?」「現実の人間なんて。」「どうせ、いつか失い合うのに。」静寂が重い。神谷澪は唇を
西川はゆっくり体を起こし、ベッドサイドのテーブルへ手を伸ばした。スマートフォンを手に取る。画面が点灯した。時刻はすでに零時を回っている。チャットアプリの一覧が、整然と並んでいた。
校舎の裏手にある空き地は、いつもと変わらず静かだった。グラウンドの端から風がゆっくりと吹き抜け、草の先をかすめてかすかな音を立てる。空は澄みきっていて、余計な喧騒もない。わざわざここまで来て邪魔をするような人もいない場所だ。洗い流されたように澄んだ空気の中で、呼吸さえもいつもよりはっきりと感じられる。二人は並んで階段に腰を下ろしていた。夕陽が斜めに差し込み、二人の影を長
「じゃあ……」航平は少しだけ声を落とす。「今のこれは、どんな感じ?」奥田は一瞬だけ考えた。ほんの短い沈黙。そのあとで、静かに答え
ページの角がなだめられると、紙は再び机の表面にぴたりと寄り添った。航平の指先はまだその一角に触れたままだった。すぐには手を離さない。まるで、その感触を確かめるように、ほんのわずかな時間そこに留まっている。彼の視線は、ずっと挿絵に向けられていた。騎士の横顔。風を受けて揺れるマント。