「うん、それでいいよ。でもね、アレク様に勝てないってまだ決まったわけじゃない。いつだって挑んでいいし、勝ったり負けたりするのもいいと思う。諦めなければ、何度でも挑戦できるのだから」
「ふふっ、エリーさんには敵わないなあ。僕も諦めるつもりはありませんよ。そのうちアレクに勝って、その勝利をあなたに捧げます」
ゼノンは笑顔でサンドイッチを口に入れた。
「ん、このサンドイッチもおいしい! エリーさんは料理の天才ですね」
「そんな、まさか。そんなもので良ければまた作るよ。聖騎士の立場じゃあまり息抜きもできないかもだけど、たまにはのんびり楽しくやろう?」
「ええ、もちろん。また機会があったら誘ってください」
彼は微笑んで少し体を寄せた。
「……いえ、次は僕が誘いますね」
近い距離で囁くような声で言われて、私の心臓は飛び跳ねた。
耳が幸せになる声が! こんなに近くで!「う、うん、お手柔らかに頼みます」
しどろもどろで答えた私に、ゼノンは楽しそうな笑い声を上げた。
背後で袋の中のニジイロカエルがケロケロと鳴いて、私も笑ってしまった。 楽しかったカエル採集ピクニックは終わって、あとは帰るだけになった。 森を出て街道まで戻ってくる頃には、西の空が赤く染まり始めている。 暮れなずむ空の複雑な色合いはとても美しくて、思わず目を奪われた。「夕方が終われば夜、闇の時間、か……」
ゼノンの呟きに、横を歩いている彼を見る。
「闇とは何なのでしょうね。夜、眠り、死、冥府。こんな力がどうして人間に、僕に備わっているのでしょうか」
「そうだねえ……」
彼の問いに対する答えは、私も持っていない。
けれども夜も闇もこの世界に確かに存在して、必要なものだということだけは分かる。「生き物は本能で死を恐れるから、闇にいいイメージがないのは仕方ない
ニジイロカエルを手に入れた私は、さっそく麻酔薬の制作に取り掛かった。 鎮静作用のあるコルカの葉とラーグの種をすり潰して、ニジイロカエルの粘液を加える。 テストは実験動物のネズミを使う。ちょっと気の毒だが、魔法と薬草学の発展のためである。 しばらくの試行錯誤を経て、ネズミを眠らせるのに成功した。 さらに待っていると、ネズミはきちんと意識を取り戻して動き出した。 繰り返し麻酔を与えても、時間が経てばちゃんと意識を取り戻す。 今のところはおかしな副作用もないようだ。 まあ強い薬なので、使わないに越したことはない。 怪我の治療用なら局所麻酔を使いたいところだが、あいにくこの世界の技術では精度の高い注射針が作れない。 使用は重傷者に限って、大掛かりな手術(といってもそんなに高度な処置はできない。骨折の対応とか縫合くらい)をする際に使ってもらおう。 なお、三匹のニジイロカエルは魔術棟の裏の池で飼われている。 一応は魔物だが大人しいもので、水辺から離れることもない。繁殖しないよう気を付けておけば大丈夫だろうと、魔物の飼育係が言っていた。 カエルを手近な素材として利用する魔術士が増えて、新しい魔法薬がいくつか誕生したりしていた。喜ばしいことである。 すっかりおなじみになったゼノンの魔力訓練の日がやって来る。 その日の私は同僚の手伝いを頼まれて、朝からバタバタとしていた。 それでうっかり訓練の時間に遅れてしまったのだ。「大変! 私としたことが、ゼノンを待たせるなんて!」 焦りながら魔術棟の回廊を走る。 二階の回廊に差し掛かった時、訓練場の様子が見えた。 何やらアレクとゼノンが向き合って立っている。「あの二人が戦うところが見られるなんて!」「あたし、アレク様を応援する」「わたしはゼノン様!」 回廊の上から身を乗り出すようにして、女性魔術士たちがきゃあきゃあと声を上げている。 よ
「うん、それでいいよ。でもね、アレク様に勝てないってまだ決まったわけじゃない。いつだって挑んでいいし、勝ったり負けたりするのもいいと思う。諦めなければ、何度でも挑戦できるのだから」「ふふっ、エリーさんには敵わないなあ。僕も諦めるつもりはありませんよ。そのうちアレクに勝って、その勝利をあなたに捧げます」 ゼノンは笑顔でサンドイッチを口に入れた。「ん、このサンドイッチもおいしい! エリーさんは料理の天才ですね」「そんな、まさか。そんなもので良ければまた作るよ。聖騎士の立場じゃあまり息抜きもできないかもだけど、たまにはのんびり楽しくやろう?」「ええ、もちろん。また機会があったら誘ってください」 彼は微笑んで少し体を寄せた。「……いえ、次は僕が誘いますね」 近い距離で囁くような声で言われて、私の心臓は飛び跳ねた。 耳が幸せになる声が! こんなに近くで!「う、うん、お手柔らかに頼みます」 しどろもどろで答えた私に、ゼノンは楽しそうな笑い声を上げた。 背後で袋の中のニジイロカエルがケロケロと鳴いて、私も笑ってしまった。 楽しかったカエル採集ピクニックは終わって、あとは帰るだけになった。 森を出て街道まで戻ってくる頃には、西の空が赤く染まり始めている。 暮れなずむ空の複雑な色合いはとても美しくて、思わず目を奪われた。「夕方が終われば夜、闇の時間、か……」 ゼノンの呟きに、横を歩いている彼を見る。「闇とは何なのでしょうね。夜、眠り、死、冥府。こんな力がどうして人間に、僕に備わっているのでしょうか」「そうだねえ……」 彼の問いに対する答えは、私も持っていない。 けれども夜も闇もこの世界に確かに存在して、必要なものだということだけは分かる。「生き物は本能で死を恐れるから、闇にいいイメージがないのは仕方ない
しばらくしてやっとゼノンが落ち着いたので、お昼ごはんにすることにした。 私はこっそり二人前のサンドイッチを用意していたが、ゼノンはきちんと自分の分のランチボックスを持ってきていた。そりゃそうか。 私がお弁当箱のふたを開けると、ゼノンは横目で見た。「おいしそうなサンドイッチですね」「そう言ってもらえると嬉しいな。早起きして作ったから」「えっ。エリーさんの手作りなんですか……?」 彼は体ごとこちらに向き直った。それから何か言いかけて、結局口をつぐんでしまう。「食べましょ」「は、はい」 ゼノンのランチボックスの中身は、りんごが一個。それからバターを塗っただけのサンドイッチが二切れだった。「それだけなの?」「はい。今日は特別ハードな仕事ではないですし、いつもこんなものですよ」「食べ盛りなのに、足りなくない?」「ええ、まあ。十分ではないですが、お昼なので。寮の夕食はしっかり量が出ますから」「あのね、呆れないでほしいんだけど」 私はもう一つのお弁当箱を取り出した。「念のため、もう一人前サンドイッチを作っておいたの。その、ほら、ゼノンがお弁当を忘れちゃったら困ると思って……」 彼の性格を考えれば忘れるなどあり得ない。変に気を回しすぎた。「だから、ちょっともらってもらえると助かるんだけど……」「…………」 ゼノンは無言のままである。やってもいない忘れ物を前提にされて、気分を悪くしたのかもしれない。「ご、ごめん、今のなし。余っても大丈夫なの、うちの兄に食べさせるから」「いただきます」 ゼノンは身を乗り出した。「ああ、でも、エリーさんの手作りサンドイッチにふさわしいお礼を用意できません……。それなのに、欲しいなどと言っていいのでしょうか」
道中は魔物が出ることもなく、無事に湖に到着できた。 時間はまだお昼前。いいペースである。「ニジイロカエルを探しましょう」 湖の周囲を回り込むように歩いてみると、岩場になっている場所がある。 そこでたくさんのニジイロカエルが日向ぼっこをしていた。 私はカエルは別に苦手じゃないが、大量のカエルがぞろぞろといるとちょっと気持ち悪い。 怯んだ私の様子を見て、ゼノンが一歩踏み出した。「何匹か捕まえて、袋に入れればいいんですよね」「は、はい。粘液の採集は魔術棟でしますから。袋はこれです」 粘液が漏れないよう特殊な加工をした袋と、毒を通さない手袋を差し出す。 ゼノンは手袋と袋を受け取って、カエルだらけの岩に近づいた。 彼が岩に向かって手をかざすと、小さい石つぶてがカエルに向かって飛んだ。 驚いたカエルが飛び跳ねる。と、着地地点でずるっと滑った。 よく見れば岩場の一部が凍っている。あれは魔法の氷だ。 足を滑らせたカエルは岩から落ちてきて、ゼノンはそいつを袋に入れた。「すごい! そこまでピンポイントに氷の魔法を使いこなすなんて!」 私が声を上げると、彼は照れたように手を振る。「エリーさんの指導のたまものですよ。氷は攻撃だけじゃなく、いろんな使い道があって便利ですね」 ゼノンはあっという間にカエルを三匹捕まえて、袋に放り込んだ。「もっと捕まえましょうか?」「いえ、三匹で十分です。そろそろお昼ですね、休憩しましょう」 私たちはカエルの岩場を離れた。 ゼノンは手袋を別の袋にしまう。「手を洗いましょう。こちらに両手を出して」 私が言うと、ゼノンは素直に両手を差し出した。その手に向かって魔法で水を注ぐ。 携帯用の小さい石鹸を使ってきれいにした。「ふふ。エリーさんの魔法はやっぱり暖かい」「水を出しただけですよ。誰のでも変わりません」 そんなことを言いながら、湖の岸辺に腰を下ろした。
「それで、護衛とは?」 私がニジイロカエルの説明をすると、ゼノンはうなずいた。「では、僕が護衛しましょう」「え! そんな、聖騎士様がするような仕事じゃないですよ。普通の兵士か、町の冒険者に頼もうと思っていました」 するとゼノンは一瞬、ほんの一瞬だけ不機嫌そうに目をそばめた。 いつも完璧な彼がそんな表情をしたのが信じられなくて、見間違えかと思う。 まばたきするともう、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。「仕事に貴賤はありませんから。それに僕は聖騎士といっても新人です。小さな仕事を積み上げて実績にしたいのです」「ええと……そう言ってくださるなら、お言葉に甘えます」 するとゼノンはまた一瞬だけ嬉しそうに笑った。すぐに引っ込めてしまうの惜しい、明るい笑みだった。 それから日程を話し合って、出発は五日後と決まった。 出発当日の朝、私は夜明け前に起き出してサンドイッチを作った。 前世であればお弁当はおにぎりと唐揚げが鉄板だが、あいにくこの世界にお米はない。 いつか種を探して栽培したいが、今言っても仕方がない。 で、ものすごく迷った末に、二人前作った。 たぶんゼノンは自前でお弁当を持ってくると思うが、もしものことがある。 余ったら夜に兄にでも食べてもらえばいいのだ。 準備を整えて玄関先まで出ると、人影がある。ゼノンだ。「お待たせしました、ゼノン様。迎えに来てもらってすみません」「いいんですよ。エリーさんの家は城門に近い。城や神殿で待ち合わせるより時間の節約になりますから」 私たちは城門を出て歩き始めた。 東の空はきれいな朝焼けに染まっている。 昼間は人でいっぱいの街道も、この時間ではさすがにまばらだ。 ゼノンは私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれている。体を鍛えている聖騎士だから、きっと飛ぶように早く進めるだろうに。「美しい朝焼けですね。まるで闇
ゼノンの訓練は続けているが、私の仕事は他にもある。 もともと私は地属性と水属性を活かして、薬草園の管理をしていた。 魔力を養分として与えることで、特殊な効果を持った薬草を栽培できるのだ。 当初は一代限りと思われた品種も、掛け合わせに工夫をこらせば新しい品種が生まれたりする。やりがいのある楽しい仕事だ。 おかげで薬草に詳しくなって、調薬なども得意になった。 薬草園は私のテリトリー。 今日も水やりをすれば、植物たちは嬉しそうにきらきらと輝いている。 今の季節は春の終わり。これから夏に向かって、植物たちは旺盛に成長する季節だ。 水は魔法で出して散布する。天然スプリンクラーである。 これをやると虹ができて、ちょっと嬉しい。 私は魔力量こそそれなりに高いが、攻撃魔法は適性が低い。 だから聖騎士であるゼノンの役に立つには、後方支援を頑張るしかない。 原作の漫画世界では、アレクとゼノンが十八歳の年に冥府の神が目覚めて全面戦争に突入する。 あとたった三年しかない。 この世界が原作通りになるかどうかは不明だが、楽観視はできなかった。「戦争で必要とされるのは、傷薬と消毒薬。痛み止め。それに……」 あまり考えたくないが、麻酔のたぐい。 この世界は治癒魔法があるので、少々の怪我なら治る。 けれど治癒魔法の使い手はそんなに多くないし、内臓に達するような重傷は治せない場合が多い。 だから傷薬や消毒薬はいくらあってもいいと思う。 そして文明度が中世くらいなので、医療技術は高くない。高度な手術などは不可能だ。 ではなぜ麻酔が必要かというと……助からない患者を楽にするため。 先の大戦で需要があったと歴史書に書いてあった。 だが麻酔のレシピは失われている。ならば作ってみようと思ったのだ。 使い道は、そんなに複雑じゃない手術とかでも活かせるはず。 今は麻酔なしの気合根性で処置するしかない。聖騎士のような特別に精神力が高い人なら