Masuk――区役所へ向かう道中、ブレーキに違和感は微塵もなかった。だが、用を済ませて戻ったときには、それはすでに壊れていた。私と成哉が離婚届を出すことを知り、あらかじめ役所の前で待ち伏せできる者など、一体誰がいるというのか。あの車を出すと決めたのは私の急な思いつきであり、成哉がハンドルを握ったのも、その場の成り行きに過ぎない。だとすれば、最初から何者かが細工を施していたと考えるのが妥当だろう。犯人の狙いは、紛れもなく私だったのだ。それに、あのトラック――まるでタイミングを計り知っていたかのように突っ込んできた、あの不気味な感覚が脳裏から離れない。紬は言いようのない不安に襲われ、掠れた声で尋ねた。「……私の車は、今どうなっているの?」亮は記憶の断片を繋ぎ合わせるように、重々しく口を開いた。「警察にレッカー移動されたよ。トラックの運転手は一度はその場から逃走したんだ。だが、幸いにも目撃者が通報してくれたおかげで、すぐに身柄を確保された。今は警察で取り調べを受けているところだ」その報告を耳にした瞬間、紬は眩暈を覚えた。両親を亡くしたあの日の光景が、残酷なほど鮮明に重なる。紬は縋るように、無意識のうちに祖父の顔を仰ぎ見た。正造の顔にも、言葉では言い尽くせない苦渋の色が滲んでいた。おじいちゃんも、きっと私と同じ不吉な予感を抱いている。「おじいちゃん、心配しないで。私はここにいるわ、無事なんだから」紬は努めて穏やかな声で、彼を慰めた。これ以上、老いた祖父にあの忌まわしい過去の記憶を穿り返させたくはなかった。「……ああ、お前が生きていてくれれば、それだけで十分だ」正造の顔に深く刻まれた皺が、心なしかさらに影を落としたように見えた。彼は言い聞かせるように、静かな、しかし断固とした口調で言った。「紬ちゃん、おじいちゃんと約束しておくれ。この件はすべて警察に任せるんだ。いいな」祖父の悲哀を湛えた瞳を前にして、紬は拒絶の言葉を飲み込むしかなかった。葛藤の末、紬はやはり成哉の安否をこの目で確かめずにはいられなかった。成哉の病室は、すでに八階の集中治療室へと移されていた。医師の説明によれば、彼の負った傷は紬のそれよりも遥かに深刻なものだった。とりわけ頭部への凄まじい衝撃が、今もなお意識が戻らぬ主因とな
紬の瞳に、珍しく困惑の色が滲んだ。最後に残っている記憶は、成哉と共に離婚届を提出した帰路のこと。ブレーキが利かなくなり……そうだ、故障だ。制御を失った車は植え込みを突き破り、中型トラックと激突した。凄まじい衝撃の余韻か、割れるような頭痛が紬を襲う。あの瞬間の戦慄は、今もなお鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。「紬、気分はどうだ?」傍らに現れた正造のやつれた顔を目にした瞬間、紬の目頭が熱く火照った。「おじいちゃん……私は大丈夫よ」「大丈夫なわけがあるか!丸三日間も意識不明だったんだぞ」亮が脇から焦れったそうに口を挟んだ。「どこか痛むところはないか?先生がもうすぐ来るからな」亮が報せを受けたとき、現場の惨状はすでにニュースで流れていた。車体全体が歪むほどの凄まじい衝突。その映像を目の当たりにしたとき、亮が覚えた絶望は、かつて紬が海に落ちたと聞いたときを遥かに凌駕していた。無理もない。亮の叔父と叔母――つまり紬の両親もまた、交通事故によって帰らぬ人となったのだから。亮はこの凄惨な事実を伏せておこうとしたが、結局隠し通すことはできなかった。だが幸いにも、紬は死の淵から這い上がってくれた。紬は亮が淹れてくれた白湯を受け取り、静かに口を開いた。「おじいちゃん、お兄ちゃん。私は本当に大丈夫だから、そんなに心配しないで」だが、二人の表情には拭い切れない不安が張り付いている。血の気の失せた蒼白な顔で言われても、説得力などあろうはずがなかった。まもなく医師が駆けつけ、全身の再検査が行われた。左前腕の骨折により固定を要するものの、幸いなことに、他は飛散したガラス片による擦り傷程度で済んでいた。「紬さんは不幸中の幸いでした。衝突の刹那、同乗していた男性が身を挺してあなたを庇った。彼がクッション代わりになったのです」医師は聴診器を外し、淡々と説明を続けた。紬は呆然と立ち尽くすような衝撃を覚えた。あの日、ハンドルを握っていたのは成哉だ。トラックが迫り来る絶体絶命の瞬間、彼が自分の方へ覆い被さってきた光景が、断片的な記憶として蘇る。――ああ、そういうことだったのか。紬の表情に複雑な感情が混じる。「……あの方は、どうなったのですか?」「あの方は今日、集中治療室を脱しましたが、依然として昏睡状態が続いてい
成哉は、言葉を失った。中央大学は紬の第一志望ではなかった。しかし、その場所が彼女の人生においてどれほどの重みを持っていたか、成哉は痛いほど理解していた。紬は、彼に再びのチャンスを与えぬよう、二人が巡り合う可能性そのものを根絶やしにしようとしているのだ。成哉の胸の奥から、耐えがたいほどの切なさが込み上げた。「……紬、お前は……どこまでも残酷な女だな」「残酷?……もしあなたに出会っていなければ、私は今頃、自分が目指した業界で深く根を張り、華々しく芽吹いていたはずよ。毎日あなたと子供たちの顔色を伺い、食事の支度に追われ、文句ひとつ言わずに尽くす『都合のいい家政婦』に甘んじることもなかったわ」紬の唇に浮かんだ微笑が、少しずつ冷淡なものへと変わっていく。二人の間に横たわる深い溝は、望美という存在のせいだけではなかった。それは、二人の本質的な性格の乖離によるものでもあった。根本的に、二人は相容れなかったのだ。成哉はただの一度も、紬に全幅の信頼を置くことはなかった。彼はあまりに矜持が高く、自尊心が強すぎた。もしあの時、成哉が一度でも紬が嫁いできた真意を問いかけてさえいれば、結婚の経緯にこれほど長く、暗いわだかまりを抱え続けることもなかっただろう。帰らぬ夫を待ち続ける日々は、紬に「自分は未亡人ではないか」という錯覚を抱かせるほどに、あまりにも長く、孤独すぎた。成哉は、苦渋の滲む複雑な表情を浮かべた。長い沈黙の果てに、ようやく絞り出すようにして言葉を紡いだ。「……すまない」だが、今の紬の心には、その言葉さえ何の波紋も広げなかった。時を逸した情熱ほど、虚しく無価値なものはない。謝罪もまた、それと同じだった。紬が最も彼を必要としていたその時、成哉の姿はどこにもなかったのだ。たとえ望美がいなかったとしても、いずれまた別の誰かが現れ、二人の抱える問題は遅かれ早かれ破綻を迎えていただろう。問題の本質は、どちらが犠牲を払い、どちらが相手のために己を変える意志があるか、という点にあったのだから。そして今、紬の心は枯れ果て、疲れ切っていた。成哉の瞳に、傷ついた色がかすかに過る。窓の外では、いつの間にか雨がしとしとと降り始めていた。紬は不審げに眉をひそめ、濡れ始めた路面を確認した。「……スピードを落
その言葉を聞いた紬は、まるでハエでも飲み込んだかのような不快な表情を浮かべた。「成哉、もう言ったはずよ。この滑稽な結婚生活を続けるなんて、ありえないわ。最初から間違いだったのよ」紬はバッグから離婚協議書を取り出した。「これを見て。問題がなければサインして」成哉の虚ろだった視線が、「離婚協議書」という五文字を捉えた瞬間、鋭く焦点を結んだ。一瞬、それをずたずたに引き裂きたい衝動に駆られる。昨夜、彼が雇ったハッカーチームは、紬のオンラインストレージに対して何度も攻撃を仕掛けたが、結局一度も成功しなかった。あの連中がこれほど無能だとは思いもしなかった。同時に、紬の端末の防御能力には戦慄を覚えた。背後に凄腕の助っ人がいて、この事態をあらかじめ見越していたに違いない。だが成哉が知らないのは、オンラインストレージに保存された動画はすべてコピーであり、たとえそれをすべて削除できたとしても、USBに保存された映像データが紬の手元に残っているという事実だった。今は、紬に合わせて協議書に署名し、「時間を稼ぐ」しかない。海外出張の予定でも入れて、それを口実に離婚手続きの完了を引き延ばせばいい。しばらくは別居という形を取り、訴訟離婚に至る前に、紬の心を取り戻せないはずがない――彼はそう信じていた。成哉は内容を細かく確認することもなく、そのまま自分の名を記した。あまりに迷いのない筆致に、かえって紬のほうが驚いたほどだ。「……内容は確認しなくていいの?」紬は戸惑いながら問いかけた。成哉はペンを置き、穏やかな眼差しを向ける。「紬、俺はお前を信じている。お前が俺にひどい仕打ちをするはずがない」その言葉に、紬は全身の毛が逆立つような寒気を覚えた。やはり、同情など寄せるべきではなかった。二人は滞りなく区役所の窓口での手続きを終えた。「戸籍に関わる手続きにつきましては、後日あらためてご案内いたしますので、ご了承ください」紬はどこか現実味のない、ふわふわとした感覚に包まれた。――自分は、本当に離婚したのだ。「ご協力ありがとうございます。今後は、子どもたちには月に一度会いに行きます。養育費も毎月、あなたの口座に振り込ませていただきます」成哉は苦い笑みを浮かべた。「紬、そんなによそよそしくしないでくれ」紬
「何はともあれ、また助けてくれてありがとう」紬は男の琥珀色の瞳をまっすぐ見つめた。今度は、その視線から逃げることはなかった。今回だけではない。これまでも、ずっと。理玖は指先で彼女の頬を軽く撫で、鼻先をつんと突いた。「……それだけ?」彼の求めている言葉は、一つも含まれていない。紬は呆然とした。まだ何か足りないのかな?そう思いながらも、今の自分の反応がどこか不適切だったのではないかという気がしてくる。「……後日、改めてきちんとお礼に伺います」理玖は、彼女の独特な思考回路に、呆れを通り越して笑いが込み上げた。――俺が求めているのは、そんなことか?かつて洞窟で「生きて出られたら、大人になったらお嫁さんにしてあげる」と言ったのは、いったい誰だったか。どこの誰だか知らないが、こうして見る限り、元気に生きているようだし、立派に大人にもなったようだぞ。理玖は、不可解そうな紬の表情から視線を外した。「……まあいい」どこか物憂げな口調で続ける。「明日、離婚おめでとう。予祝しておくよ」紬はぱっと明るく微笑んだ。「ありがとうございます」弁護士からは、すでに離婚協議書を受け取っている。明日、成哉とともに離婚届の受理窓口へ行けばいい。すべての手続きを終えれば、離婚は成立する。その日の夜、晩餐会が終わった後、紬のスマホに渚から電話がかかってきた。彼女は呼び出し音が切れるまで、そのまま放置した。あの男は望美と同類だ。十秒ほどで切れる電話など、こちらの居場所を探るために決まっている。紬は誰とも接触しないよう、まっすぐ家路についた。だがその夜、ネット上では別の騒動が大きく広がっていた。不動産王・石田俊一の不倫現場が、ライブ配信という形で拡散されたのだ。ベッドの上で頭を抱え、「ぎゃああ!ごめんなさい!もう二度としません!」と叫ぶ姿は、瞬く間にミーム画像として加工され、拡散していった。世論と野次馬が入り乱れ、まさにお祭り騒ぎである。公式側は必死に鎮静化を図ったが、ライブ映像とミームの拡散は止めようがなかった。俊一の「愛妻家」というイメージは完全に崩壊した。さらに、海外から急遽帰国した妻により、路上で叩きのめされるという醜態まで晒すことになる。俊一はそこで初めて、自分の不倫
成哉は、彼女のスマホに再生されている画面を見て、眉根を激しく寄せた。「望美、もういい加減にしろ。これ以上は俺たちの面目が丸潰れだ」望美はスマホを握りしめたまま、成哉の目の前へと突き出す。「よく見てよ!映っているのは間違いなく、紬が他の男と激しくキスしているところじゃない!成哉、どうしてそんなに現実逃避するの?愛があれば、今まで大事にしてきたプライドだって全部捨てられるっていうの!」「望美……」成哉は失望を滲ませた声で言い、スマホを彼女の方へ押し返した。「君がここまで幼稚だったとは、今まで気づかなかったよ」望美は息を呑んだ。そこで初めて動画の画面を確かめる。最初の五秒間こそホテルの映像だったが、その後は――子ども向けのアニメへと切り替わっていた。――誰?一体、誰がこんな真似をしたの!?望美は怒りで胸が詰まりそうになる。「成哉、信じて!この中の動画は本当に紬が他の男とキスしているところだったのよ!どうしてこんなことになったのか、私にも本当に分からないの!」「もういい。紬は俺の妻だ。望美、もしこれまでの絆を少しでも大事に思っているなら、二度と紬を勝手な憶測で貶めるな」成哉は意味ありげな眼差しで望美を一瞥すると、彼女が言葉を返す間もなく、その場を立ち去った。望美は呆然と立ち尽くす。全身の力が、一気に抜け落ちていくようだった。――どうして、こんなことになったのか。あれほど完璧に手配したはずなのに、どこで狂いが生じたというのか。望美は凶悪な表情を浮かべ、例のチンピラたちへと電話をかけた。「あんたたち、どこにいるのよ!どうして部屋にいないの!紬はどこ!?」矢継ぎ早に問い詰める。「お嬢さん!この仕事、追加料金でももらわなきゃ割に合わねえよ。今、俺たちは全員病院だ!慰謝料として十倍は払ってもらうからな!さもなきゃ、あんたが裏で何を企んでたか全部ぶちまけてやる!」電話の向こうの男の声も、憎悪と怒りに満ちていた。望美は愕然とする。「何ですって!?」――同じ頃、紬は隣室のドアをわずかに開けていた。廊下の中央で取り乱している望美を、物陰から静かに見つめ、かすかに口角を上げる。あのルームカードを渡された時点で、今日渚が自分を呼び出した理由が単純なものではないことは察していた。紬は、望美の想像
最近、浩之が唯を連れて出かける姿を見かけないと思っていた。唯の両親は海外にいるはずだ。そうなると、彼女が身を寄せる先は、自然と理玖のもとしかないのだろう。唯は頬袋をぱんぱんに膨らませ、もごもごと口を動かしながら言った。「そーだよ!おじさん、ここ数日、私を会社に連れてって強制出勤させてるんだもん。超つまんない!あ、でも今日ね、女の社員の人が泣きながら『営業部にだけは送らないで』って、おじさんにすがってたよ。おじさん、一瞥もくれずに『病気なら精神病院へ行け』って言ってた。超ウケるよね!」紬は内心で舌を巻いた。――身代わりさんの線の引き方は、相変わらず徹底しているわね。会社で
芽依は望美の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら泣き続けた。望美の言葉の一つ一つが、彼女の心に深く刺さる。――やっぱり、望美さんだけが私のことを分かってくれるんだ。先生の言った毒母の話なんて嘘よ。パパまでママと同じくらい嫌いになっちゃいそう……ううっ……成哉は、娘の悲痛な様子を目にして、それ以上厳しく追及する気になれなかった。「……君は、あの子を甘やかしすぎだ」望美は唇を噛み、小さく笑みを漏らした。「ええ、私のせいね。でも成哉、芽依ちゃんの今の状態は心配だわ。しばらく私の家に連れて行ってもいいかしら?ちょうど今の撮影も終盤で、前ほど忙しくなくなるの。私がそばにいれば、あ
紬の思考は、あらぬ方向へと飛んでいた。脳内では、理玖の知られざる婚姻歴について、勝手な憶測が幾通りも渦を巻いている。理玖は灰色の瞳をわずかに細めると、すぐに彼女の疑念に気づいた。「……紬さん。まさか、俺が結婚しているとでも思っているのか?」「えっ?いえ、そんなことは……」紬の小さな顔に動揺が走る。彼女は恐る恐る言葉を選びながら尋ねた。「でも、理玖さんはこれほど非の打ち所のないイケメンですし、少なくとも一度や二度はご経験があるのかと……」「ないよ!きれいなお姉ちゃん!私は生まれてからずっと、おじさんが独身なのを見てきたもん!結婚なんて、絶対してないよ!」理玖の肩に担が
ドア一枚を隔てた向こう側で、子供を叱咤し教育する賑やかな声が、ぴたりと遮断された。紬はようやく息をつき、スマホを手に取る。いくつか仕事を片付けていると、新しい友だち追加申請が届いていることに気づいた。アイコンは、足の短いマンチカンの子猫。紬にはその写真に見覚えがあり、ツイッターを開いてレイのプロフィールを確認した。やはり、以前レイがアップしていた飼い猫だった。――きっと、デザイン顧問の件ね……申請を承認すると、間を置かずに可愛らしい挨拶のスタンプが送られてきた。【レイさんですか?】【さすが紬さん、よくわかりましたね】続けて、お腹を見せて転がる子猫の画像が送ら







