LOGIN今の紬が纏う冷徹なまでの威厳は、数ヶ月前の彼女からは想像もつかないものだった。かつての彼女は、誰に言いくるめられても甘んじて受け入れ、理不尽な仕打ちにさえ沈黙を貫く、控えめを通り越して脆い存在だった。その面影は、今や影も形もない。「帳簿の精査を行うわ」紬は氷のように冷淡な口調で言い放った。「悪いけれど、秘書であるあなたにも同行してもらうわ。木村さんの指示でもない限り、下の人間が独断で私をここまで通すはずがないものね」その言葉を耳にした瞬間、健一の額から嫌な汗が噴き出した。「奥様、滅相もございません。私にそのような権限など……」もしこの事実を認めてしまえば、後々取り返しのつかない火種になりかねない。彼が長年、成哉の秘書としてその地位を盤石にしてこれたのは、ひとえにその慎重さゆえであった。――どうやら、奥様が上がってくるまでに階下で一悶着あったらしいな。後で機を見て謝罪しなければ……紬は底の知れない眼差しを健一に向けると、一瞥をくれただけで踵を返し、財務部へと歩き出した。健一も即座に後を追おうとしたが、そこへ会議室からアシスタントが血相を変えて駆け出してきた。「木村さん、こちらにまだ未署名の書類がございます!」健一は遠ざかる紬の背中を視界の端に捉えながらも、やむなく足を止めた。手際よく契約書の内容を精査し、淀みなくサインを書き込んでいく。「健一さん、あの方は以前、財務部のマドンナと噂されていた方ですよね?なぜ今になって我が社に?」アシスタントが物珍しそうに、去りゆく紬の背中を盗み見る。ここ数年、紬と成哉が極秘に婚姻関係にあった事実を知るのは、成哉の側近の中でも健一ただ一人であった。「あの方は社長夫人だ。これからは、言葉一つひとつに細心の注意を払え」健一は署名済みの書類を突き返しながら、さらに釘を刺すように付け加えた。「特に今は、絶対にあの方の逆鱗に触れるな。もし会社に来られた際は、望まれるものは何であれ差し出すんだ」アシスタントは驚愕に目を見開き、慌てて自分の口を両手で塞いだ。――さっき、失礼なことは言っていなかったよな!?署名を終えた健一は、急ぎ足で財務部へと向かった。入り口に辿り着いた瞬間、鼓膜を震わせるような鋭い怒鳴り声が飛び込んできた。「よくも俺を殴ったな!たかが社長
受付嬢が悲鳴にも似た声を上げた。「紬さんは社長夫人だったの!?」その声はロビーに大きく響き、まだエレベーターに乗り込んでいなかった数人の社員の耳にもはっきり届いた。その場は数秒のあいだ、死んだような静寂に包まれる。財務部の社員たちも愚かではない。その一言で、先ほど自分たちが紬に向けた態度を思い出し、顔からさっと血の気が引いていった。ただ一人、啓介だけが険しい表情を崩さず、吐き捨てるように言い放つ。「何を騒いでるんだ、大げさな。社長があの女を本気で気にかけていたことなんてあったか?本当に大切に思っているなら、あんなふうに財務部で正体を隠させて、平社員として長い間放っておくはずがないだろう」苦しい言い訳で取り繕ったものの、周囲の社員たちは口では同調しながらも、胸の奥では言いようのない不安と、この高慢な係長への軽蔑を抱き始めていた。彼が先頭に立って煽らなければ、自分たちもあそこまで紬を敵視することはなかったはずだ。たとえ社長との関係が冷え切っていたとしても、二人は法的には夫婦だ。枕元で一言囁かれれば、自分たちのような立場の人間など、虫けらのように踏み潰されるのは目に見えている。「いいから行くぞ。上に上がって様子を見てやる。何かあっても俺が責任を取る」啓介は平然と言い放った。彼の知る紬なら、あれほど嫌がらせを受けても結局何もしてこなかった。そして自分は今や副部長昇進を目前に控えている。この程度のことに、わざわざ健一の手を煩わせる必要などない――そう判断し、ロビーでの一件を報告することもしなかった。その頃、紬は亮を連れ、迷いなく財務部へと向かっていた。途中、亮が感嘆の声を漏らす。「さっきのあの堂々とした姿、俺が知ってる妹のイメージとまるで別人じゃないか!」紬はその言葉に、ふっと微笑んだ。「……こういうの、あまり良くないかしら?」かつての自分は、どこへ行っても耐えてばかりだった。だが、その先に得たものは何一つない。今は成哉との離婚手続きの最中とはいえ、この滑稽な「天野夫人」という肩書きが、せめて今だけでも役に立っているのなら、それでいい。紬は成哉から預かっていた、半ば錆びついた管理職専用のカードキーを取り出し、専用エレベーターへと乗り込んだ。「いや、最高だよ。そのままでいろ!」亮は拍手で
しかし、無視されたことが逆に相手の火をつけたのか、啓介はしつこく食い下がってきた。「紬さん、今や時の人、売れっ子デザイナー様だもんね。俺たちみたいな元同僚なんて、お相手にするのも馬鹿馬鹿しいってわけか」彼はわざと周囲に聞こえるような大声を張り上げ、紬を矢面に立たせた。健一の従弟という立場にある彼は、当然、紬の正体を知っている。かつては紬に取り入ろうと、卑屈な笑みを浮かべて媚びを売ったこともあった。しかし、紬が彼を視界に入れることさえなかった。――全く、可愛げのない女だ。あいつが社長夫人という冠を被っていなければ、へりくだる必要など微塵もなかったというのに。啓介は鼻で笑った。長年この会社に籍を置きながらも、彼女はその地位を鼻にかけることもなく、社内での存在感は無に等しかった。出世の梯子を上りたい啓介にとって、当時の彼女は何の旨味もない存在に過ぎなかったのだ。やがて成哉と望美のスキャンダラスな噂が絶えなくなり、口の重い従兄までもが望美に味方する姿勢を見せるようになると、啓介は確信を深めた。もはや、この女に敬意を払う価値などどこにもないと。それからは陰に陽に周囲を扇動し、彼女を執拗にのけ者にしてきた。今さらこの女を庇い立てする男が現れるとは計算外だったが、最近になって成哉と離婚寸前だという噂を耳にすれば、もう恐れるものなど何一つない。啓介は、無機質なギプスに固定された紬の腕を嘲るような目で見やった。どこの安物か知れぬ服を纏ったその姿は、実に見窄らしく、惨めだ。「紬さん、いつまでもここに居座らないでいただけますか?もうじきお客様がお見えになるんです。社長が望美さんのためにわざわざ招いた、大手番組の制作チームですよ。入り口にあなたのような格好の人がいたら、天野グループのブランドイメージに傷がつきますからね」啓介の言葉には、毒々しいまでの悪意が宿っていた。それが巡り巡って自分の従兄の顔に泥を塗っていることなど、彼は露ほども気づいていない。紬は心の中で冷たく嘲笑した。――本当に、どいつもこいつも同じ穴の狢ね。こんな連中に一欠片の期待も抱かなかった己の判断は、正しかった。紬は静かに立ち上がると、亮を伴ってラウンジを後にしようとした。受付嬢と啓介は、紬がエレベーターホールへと向かおうとしていること
受付嬢は困ったような顔を作ってみせたが、追い払おうとする態度は頑なだった。それを見た亮の心には、激しい怒りが燃え上がった。「社長夫人が自社に入るのに、アポ取りが必要だって言うのか!」成哉と紬の結婚が長年隠し通されてきたことは知っていたが、自社の社員ですら紬の正体を知らないとは。亮は、紬がこれまでどれほどの屈辱に耐えてきたのか、想像するだけで胸が締め付けられる思いだった。受付嬢は呆然とした顔で、「この人が?社長夫人?」と心の中で毒づいた。職業倫理からあからさまな嘲笑は堪えたものの、冷ややかな態度で言い放った。「これ以上居座るなら、警備員を呼びますよ」紬はさらに詰め寄ろうとする亮を制し、静かに首を振った。亮は拳を握りしめ、かつてないほどの屈辱に震えていた。間もなくして、紬は健一に電話を繋いだ。「奥様、何かご用でしょうか」電話越しの男は、以前と変わらぬ事務的な口調だった。もっとも、成哉と結婚して数年が経つというのに、彼はこれまでずっと紬のことを「紬さん」と呼んでいたはずだった。紬は微かに眉をひそめて言った。「今、会社のロビーにいるの。受付に通すよう伝えて」紬の突然の訪問は、健一にとっても予想外だった。――つい先日、社長と共に交通事故に遭ったばかりではないか。現場の状況からすれば、社長は彼女を庇って頭部に重傷を負い、今も昏睡状態にある。健一は驚きを隠せなかった。この時期に病院で静養もせず、なぜ会社へ。そもそも紬はこれまで会社の事務には一切関心を示さなかったはずだ。健一は数秒沈黙し、会議室の方へ目をやった。そこでは、成哉が以前、望美のために特別にスポンサーとなった企業の打ち合わせが行われている。彼は思案した末、口調を和らげて言った。「奥様、今はグループに関わる重要な会議の最中でして。少々お待ちいただけますか、すぐにお迎えに上がります」電話が切れると、紬の眉間の皺はさらに深まった。受付に一言告げるだけのことが、なぜこれほど遠回りなことになるのか。「今日、会社でどなたか重要な取引先をお迎えしているの?」受付嬢はバカを見るような目で紬を見た。会社の機密を、なぜ部外者に教えなければならないのか。一体誰に向かって、そんな芝居がかった電話をかけているつもりなのだろう。先日のライブ配信騒動のせいで、会社
紬は素早く歩み寄り、正造を支えて再び椅子に座らせた。先ほどまでの鋭い眼差しは影を潜め、穏やかな表情へと戻っている。「おじいちゃん、責めるわけないじゃない。正直に教えて。これらの書類、伯父さんがおじいちゃんに黙ってサインしたんじゃないの?」先ほど注意深く観察した際、いくつかの書類に祖父専用の印鑑が押されていることに気づいていた。絵美はそれに気づいていない様子だったが、祖父が自らそんなことをするはずがない。考えられるのは、頻繁に出入りしていた明の仕業――それしかなかった。正造はがっくりと背を丸め、羞恥に沈んだ声で吐き出すように言った。「明のろくでなしめ……改心したと信じ込んでおったわ。雪子という女と一緒におるうちに、すっかり腹黒くなりおって……天野家が無理を押しつけてくるのなら、わしはこの命に代えてでも、その穴を埋めてみせる!」今日、絵美がこれらを持ち出してきたということは、天野家の上層部の差し金に違いない。両家の縁が切れれば、間違いなくこの負債は紬に押しつけられる。そう思うと、正造の胸中には、今すぐ戻って杖で明を叩きのめしてやりたい衝動が渦巻いた。紬はそっと正造の背を撫で、荒ぶる気を鎮めるように宥めた。「おじいちゃん、焦らないで。誰の仕業か分かれば、対処のしようはあるわ。成哉との離婚手続きも、まだ完全に終わったわけじゃないし……おじいちゃんの顔を立てて、少し手伝ってほしいことがあるの」「おじいちゃん相手に、何を他人行儀なことを言う!」正造はやや不機嫌そうに眉をひそめた。紬はふっと微笑み、その隣に腰を下ろして、静かに事情を語り始めた。午後、紬は亮に頼み、一時退院の手続きを進めてもらった。「紬ちゃん、まだ怪我も治ってないのに、どうしてそんなに急ぐんだ?俺がここで見張ってる。あのクソババアがまた来たら、今度こそただじゃおかない!」亮は薬を取りに行っていたため戻りが遅れ、絵美が病室に乗り込んできたことを知って激怒していた。一言文句を言ってやると息巻いたが、紬に制止された。亮は、紬が嫌がらせに耐えきれず病室にいられなくなったのだと思い込み、なおさら怒りを募らせていた。紬の胸に、じんわりと温かいものが広がる。「違うの。また戻ってくるわ。ちょっと外出して、天野グループの本社に行ってくるだけよ」「俺も行く」
「自分が誰に向かって口をきいているのか分かっているの?自分の立場も弁えない無礼者が!」絵美は、紬が差し出したティッシュを「パシッ」と叩き落とした。そんなものは必要ない。海原のような田舎から出てきた女が、卑しく礼儀知らずであることなど、最初から分かっていた。成哉がこの女を家に連れてきたあの日から、いつかこういう日が来るのではないかと、薄々感じていたのだ。案の定、その予感は的中した。征樹というあの惚けナスは、信じられないほど能天気な男だ。まさか、こんな女の機嫌を取れなどと言い出すとは。紬は首をかしげ、どこか不思議そうに口を開いた。「……自分が姑だとでもおっしゃりたいの?絵美さん、あなたも随分と物忘れが激しいのね。私と成哉が結婚したあの日から、あなたは一度も私を嫁として認めたことなんてなかったじゃない」紬が成哉と交際していた頃、絵美は新浜の旧家の間で、息子の縁談を探していた。彼女が最も気に入っていたのは、地元新浜のジュエリー王の娘だった。見合いの話も進んでいたというのに、成哉は紬を恋人として家に連れ帰り、家族に紹介したのだ。結局、後ろ盾も助けもない嫁を迎え入れることになった。崇が紬と株式を対等に扱うと言い出した時、成哉以上に激しく反発したのは絵美だった。当時の紬は、絵美の機嫌を取ろうと一心不乱で、この数年、理不尽に耐え続け、自分を殺して尽くしてきた。だが、最後に手にしたのは、こんな悪意だけだった。絵美の目には、紬など呼べばすぐに飛んできて使える、都合のいい家政婦程度にしか映っていなかったのだろう。ネットでたまに見かける「良いお姑さんに恵まれて」などという投稿など、紬には一度たりとも縁のない話だった。結婚式の日、絵美は終始そっけない態度を取り続け、披露宴の最中には体調不良を理由に席を立った。結局、引き出物やのし袋など、本来なら母方の親族が用意すべきものは、義父の征樹がすべて手配し、「気にするな」と紬をなだめてくれた。ええ、気にするはずもなかった。だが――相手の身分によって態度を変えるという、絵美が教えてくれたこの教訓だけは、紬は一生忘れないだろう。「……そんな昔のことを持ち出して!」案の定、絵美の顔色はさらに険しくなった。結婚式で紬の顔を潰し、その場では胸がすいたものの、後で崇か
「あ、そっか。坂本さん、次からはもう少し大きな声で話してくださいね。じゃないと、勘違いしちゃいますから」「耳が悪いなら、さっさと医者に診てもらいなさい!」「……お金ないんです」「……ッ!」美紀は言葉に詰まり、腹いせに分厚いデザイン画の束を彼女に叩きつけた。「これを年ごとに分類してファイルにまとめなさい。特徴の紹介文もつけて、退勤までに私のところへ持ってきて!」紬は眉をひそめた。デザイン画は印刷される前に、当然パソコン上でフォルダ分けされているはずだ。明らかに、インターン生をいびっている。だが、カナは今回は反論せず、その束を素直に受け取った。最近は就職難だ
紬の美しい瞳が、驚愕に大きく見開かれた。彼女が住んでいるこのマンションは、一フロアに二戸という、プライバシー重視の造りだ。そして、彼女の隣に住んでいるのは、神谷浩之というおじいさん、ただ一人。神谷浩之……神谷理玖……紬は弾かれたように理玖を見た。――まさか、そんな偶然……!?理玖は眉をわずかに上げ、深い灰色の瞳で見透かすように言った。「その、まさかだよ」彼は悠然とした足取りでエレベーターを降りていく。紬はその広い背中を見送りながら、浩之が以前から口癖のようにぼやいていた言葉を思い出していた。――出家でもしそうな勢いの、愛想のない二番目の孫。……理玖だった
翌朝、紬のもとに見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし、綾瀬紬さんでしょうか。突然のご連絡、失礼いたします。私は南沢レイのマネージャー、河原優一(かわら ゆういち)と申します。一度、警察署までお越しいただけないでしょうか」紬は、それが昨夜のクラブでの出来事に関する件だとすぐ察した。「わかりました。すぐに向かいます」通話を切り、スマホでトレンドを確認する。昨夜あれほど騒がれていたレイのニュースは、跡形もなく消え去っていた。紬はひとまず胸を撫で下ろした。身なりを整えて警察署へ向かうと、入口に優一が立っていた。「お手間を取らせてすみません。レイは今、とてもデリケー
紬は少し考え込んだ。「これは小さな仕事ではありませんから、少し考えさせてください」「わかりました」二人が警察署を出た瞬間、断末魔のような悲鳴を上げる男たちの姿が視界に飛び込んできた。「お巡りさん、通報だ!通報するんだ!」見れば、つい先ほど立ち去ったばかりのタロとジロだった。全身を滅多打ちにされたかのように腫れ上がり、まともな皮膚がほとんど見当たらない。目を背けたくなるほど無惨な姿だった。優一は一瞬驚いたものの、すぐにどこか晴れやかな声で言った。「悪人には天罰が下る、ということですね」紬は小さく微笑んだ。「正義の味方が現れたみたいですね。行きましょう」