LOGIN――おかしい。何の前触れもなく、急に出国してしまうなんて。それに、彼らの名義で動かしている会社の資産は、綾瀬家の中でも極秘事項だ。決して誰にも悟られるわけにはいかない。「今回行くときは、由佳のわがままをしっかり抑えさせてくれ。とにかく下手に出て、親父さんの二言三言であしらわれないようにするんだ。この機を逃して情報を探れなかったら、俺たちの金のなる木が本当に枯れちまう!」明は苦渋に満ちた表情で、言い聞かせるように言った。表向きの大学教授という肩書きは、人脈を広げるには都合がいいが、肝心の金はほとんど生まない。やはり実入りが大きいのは商売の方だ。あの会社は、彼が長い年月をかけて周到に計算を巡らせ、ようやく天野家から引き出した資金によって成り立っているのだ。雪子の瞳に、狡猾な光が宿る。「分かってるわよ。うちの由佳は賢い子だもの。問題なのは、あなたのあの分からず屋のお父さんよ。紬ばかりに目をかけて!由佳だって同じ孫娘じゃない。しかも嫡孫娘なのよ!」そう言って、雪子は心底不満そうに唇を尖らせた。明はこめかみを押さえ、頭痛をこらえるようにして答える。「分かっている、分かっている。親父も年を取って、いよいよ耄碌してきたんだろう。会社さえうまく回れば、由佳の欲しいものは何だって買い与えてやるさ」「よく言うわね。私たちには娘はこの子一人だけだけど、あなたには上に立派な長男がいらっしゃるじゃない」雪子は艶然と笑みを浮かべながら、皮肉を滲ませた。「あの放蕩息子の話は出すな。あいつはもうおしまいだ。最近はゲーム会社だの何だのと言って、そっちばかりに精を出していやがる!あんなのを生むくらいなら、丸太ん棒でも生んでおいた方がまだマシだった!」亮の話になると、明の怒りはたちまち噴き上がる。本来なら、亮にこの会社を継がせるつもりだった。だが、あのでき損ないはゲーム会社にのめり込み、父である自分が食事に誘っても、顔すら見せようとしない。やがて明の一家は、揃って病院へと到着した。紬の怪我をした腕を目にした途端、雪子はわざとらしいほどの心配ぶりを見せ始める。「あら!紬、その腕はどうしたの?誰にやられたのよ!」眉をひそめたその表情は、一見すると本物の心配のようにも見えた。紬はベッドに横たわったまま、この芝居がかった
紬は眉間に深い皺を刻んだ。最も巨額だったのは、二人の子供が生まれた時のものだ。帳簿によれば、明に対して二十億近い金が振り込まれている。表向き、明は大学教授という肩書きを掲げていた。だがその裏では、天野グループから資金提供を受け、小規模な会社を設立していたのだ。しかも、その会社は毎年二億にも及ぶ収益を上げている。紬の全身に、怒りが震えとなって駆け巡った。明の一家には、すでに十分すぎるほどの資産と蓄えがあるというのに、それでもなお毎年、正造の前で哀れな姿をさらし、涙ながらに縋りついていたのだ。正造は口こそ悪いが、根は優しい。彼らが本当に路頭に迷う姿を、見過ごせるような人間ではなかった。表向きは筆を置いたと言いながら、その裏では、この吸血鬼のような一家に手を貸し続けていたのだ。まさか彼らが裏で営んでいた商売が、すでに中流以上の生活を悠々と成り立たせていたとは。おそらく正造の描いた画を、どこか取引先へ情けで横流ししていたに違いない。「あの野郎、ぶち殺してやる!」亮もまた金の流れを目の当たりにし、こめかみに青筋を浮かべて激昂した。紬は、今にも身内に手をかけかねない勢いの兄を、片手で制した。「お兄ちゃん、あんなクズのために自分が刑務所に入るなんて、馬鹿げてるわよ」明が資金を注入した際、名義こそ紬や正造のものを使っていたが、実際に紐付けられていたカードは明自身のものだった。まさに策に溺れるとは、このことだ。自分名義の企業であれば、閉鎖も売却も思いのままのはずだ。紬はその場で即座に、綾瀬家が支配していたそのペーパーカンパニーを売りに出すよう指示を下した。しかも、ほとんど二束三文と言えるほどの安値で。さらに、天野グループから明へと流れていた他の資金についても、一つ一つ凍結と回収の手続きを進めさせた。やがて、それらに紐付くカードはすべて使用停止となるだろう。紬は企業の責任者としての権限を行使し、あらゆる投資リターンを直接ロックした。明がその異変に気づいたのは、その日の夜、旧友と酒を酌み交わしていた最中だった。「なあ明さん、お前が紹介してくれたあの会社、どうもおかしいぞ。今日行ってみたら、もう資産の投げ売りを始めてた。何か裏があるんじゃないか?」その言葉に、明はたちまち動揺し、落ち着きを失
「健一さん……」啓介の声は、かすかに震えていた。「どうしてこんな仕打ちができるんだ?認めないぞ!たとえ目立った功績はなくとも、長年この会社に尽くしてきた苦労があるはずだ!あの女の気まぐれな一言で、俺を切り捨てるなんて……健一さん、これは全部あんたのために――!」「黙れ!天野グループは実力主義だ。君はここ数年、会社に対して卓越した貢献など何一つしていない。それどころか、今日のような重大な過失まで犯した。賠償を求められないだけでも、奥様の慈悲だと思え!ここで縁故を振りかざすな!」健一は警告を込めた鋭い眼差しで、啓介を射抜いた。何を言うべきで、何を言うべきではないのか――そんなことは、これほどの年月が経った今さら、教えるまでもないはずだった。「健一さん!あんまりだ、独断専行じゃないか!奥様がまだ何もおっしゃっていないのに、どうしてあんたが勝手に決めるんだ!」啓介は奥歯をきつく噛み締める。この従兄は、もはや当てにならない。今の自分に残された唯一の活路は、紬だけだった。心血を注ぎ、天野グループという「金のなる木」ようやくしがみついた。しかも財務部という一等地にいながら、こんなにもあっさりと追い出されてたまるものか。啓介は露骨な弱腰で、紬に縋るような眼差しを向けた。「奥様、どうか広いお心で、私のような小者の無礼をお許しください。私の不注意が原因です。気が済むまで何度でもお叩きいただいて構いません。どうか、会社から追い出さないでください……それだけはお許しください。何でもいたしますから!」紬は、その様子をどこか面白そうに眺めていた。「いいわよ。じゃあ、あなたの言う通りにしてあげる」啓介の顔が、ぱっと明るくなる。「本当ですか!?また会社に残れるんですね!?」紬は小さく首を傾げ、彼の背後に立つ健一へと視線を向けた。「健一さん、さっきあなたが言った通りに進めてちょうだい」パチン、と。啓介の最後の希望が、乾いた音を立てて弾け飛んだ。――どうして、こんなことに……健一は胸の内で「この愚か者が」と吐き捨てた。「手に負えない相手」に喧嘩を売るような真似をしたことにも気づかないとは。四ヶ月前の紬であれば、まだ彼を庇う余地もあっただろう。だが今は違う。社長が奥様に強い関心を寄せている、まさに
紬が言葉を紡ぎ終えると、その場には落とした針の音さえ聞こえるほどの、濃密な静寂が降りた。ここへ足を運んだ際、すでに財務部長が直々に迎えに立っていた。道すがら、紬はかつて親交の深かった数名の同僚たちと視線を交わした。彼らは以前、ネット上で成哉と望美を巡る誹謗中傷が巻き起こった際、強い正義感を持って彼女を庇ってくれた人々だ。しかし、平穏だった現場の空気は、啓介が戻ってきた瞬間に一変した。紬が求めた資料は長期間にわたる膨大なものだったため、財務部の半数近くがその対応に動員されることとなった。資料の捜索が進む傍らで、啓介は剥き出しの不機嫌さを隠そうともしなかった。その居丈高な振る舞いを見かねた亮が詰め寄るが、啓介は自らの役職を盾に高圧的な態度で撥ねつけた。あろうことか、部員たちが心血を注いで整理した資料を、「手が滑った」と嘯きながら、無慈悲にシュレッダーの刃へと送り込んだのである。「理屈から言えば、社長の指示がない限り、内部資料を外部の者に開示することなどできません。たとえ社長夫人であろうと、特権など存在しないはずだ」啓介はさも筋が通っているかのように、至極堂々と主張した。さらには、最後に紬を挑発するようにこう言い放った。「いっそのこと、今すぐ再入職の手続きでもされてはいかがです?二度目の入社となれば、かつての平社員よりは幾分マシな役職も用意されるでしょうし、そうすれば資料を調べるのも大手を振って『合法的』に行えますからね」その声は決して大きくはなかったが、そこには最大限の侮蔑が込められていた。周囲の社員たちは、心臓が止まるような思いで息を殺していた。――こいつ、正気か!?啓介は、周囲の戦慄を余所に、使い物にならない同僚たちを心の中で毒づいていた。――分かっていないな。紬のようなお払い箱の女は、社長が本命の愛を貫くための障害でしかないんだ!従兄である健一が望美に便宜を図っているのなら、自分はその手助けをして、紬という邪魔者を除いてやればいい。そうすれば、後で健一がどれほど自分に感謝することか――啓介はそんな皮算用を立てて、密かにほくそ笑んでいたのだ。しかし、その目論見は見事に紬に打ち砕かれた。健一が現場に駆けつけたのは、まさにその時だった。一人の社員が呼び出され、事の経緯とお粗末な結末を
今の紬が纏う冷徹なまでの威厳は、数ヶ月前の彼女からは想像もつかないものだった。かつての彼女は、誰に言いくるめられても甘んじて受け入れ、理不尽な仕打ちにさえ沈黙を貫く、控えめを通り越して脆い存在だった。その面影は、今や影も形もない。「帳簿の精査を行うわ」紬は氷のように冷淡な口調で言い放った。「悪いけれど、秘書であるあなたにも同行してもらうわ。木村さんの指示でもない限り、下の人間が独断で私をここまで通すはずがないものね」その言葉を耳にした瞬間、健一の額から嫌な汗が噴き出した。「奥様、滅相もございません。私にそのような権限など……」もしこの事実を認めてしまえば、後々取り返しのつかない火種になりかねない。彼が長年、成哉の秘書としてその地位を盤石にしてこれたのは、ひとえにその慎重さゆえであった。――どうやら、奥様が上がってくるまでに階下で一悶着あったらしいな。後で機を見て謝罪しなければ……紬は底の知れない眼差しを健一に向けると、一瞥をくれただけで踵を返し、財務部へと歩き出した。健一も即座に後を追おうとしたが、そこへ会議室からアシスタントが血相を変えて駆け出してきた。「木村さん、こちらにまだ未署名の書類がございます!」健一は遠ざかる紬の背中を視界の端に捉えながらも、やむなく足を止めた。手際よく契約書の内容を精査し、淀みなくサインを書き込んでいく。「健一さん、あの方は以前、財務部のマドンナと噂されていた方ですよね?なぜ今になって我が社に?」アシスタントが物珍しそうに、去りゆく紬の背中を盗み見る。ここ数年、紬と成哉が極秘に婚姻関係にあった事実を知るのは、成哉の側近の中でも健一ただ一人であった。「あの方は社長夫人だ。これからは、言葉一つひとつに細心の注意を払え」健一は署名済みの書類を突き返しながら、さらに釘を刺すように付け加えた。「特に今は、絶対にあの方の逆鱗に触れるな。もし会社に来られた際は、望まれるものは何であれ差し出すんだ」アシスタントは驚愕に目を見開き、慌てて自分の口を両手で塞いだ。――さっき、失礼なことは言っていなかったよな!?署名を終えた健一は、急ぎ足で財務部へと向かった。入り口に辿り着いた瞬間、鼓膜を震わせるような鋭い怒鳴り声が飛び込んできた。「よくも俺を殴ったな!たかが社長
受付嬢が悲鳴にも似た声を上げた。「紬さんは社長夫人だったの!?」その声はロビーに大きく響き、まだエレベーターに乗り込んでいなかった数人の社員の耳にもはっきり届いた。その場は数秒のあいだ、死んだような静寂に包まれる。財務部の社員たちも愚かではない。その一言で、先ほど自分たちが紬に向けた態度を思い出し、顔からさっと血の気が引いていった。ただ一人、啓介だけが険しい表情を崩さず、吐き捨てるように言い放つ。「何を騒いでるんだ、大げさな。社長があの女を本気で気にかけていたことなんてあったか?本当に大切に思っているなら、あんなふうに財務部で正体を隠させて、平社員として長い間放っておくはずがないだろう」苦しい言い訳で取り繕ったものの、周囲の社員たちは口では同調しながらも、胸の奥では言いようのない不安と、この高慢な係長への軽蔑を抱き始めていた。彼が先頭に立って煽らなければ、自分たちもあそこまで紬を敵視することはなかったはずだ。たとえ社長との関係が冷え切っていたとしても、二人は法的には夫婦だ。枕元で一言囁かれれば、自分たちのような立場の人間など、虫けらのように踏み潰されるのは目に見えている。「いいから行くぞ。上に上がって様子を見てやる。何かあっても俺が責任を取る」啓介は平然と言い放った。彼の知る紬なら、あれほど嫌がらせを受けても結局何もしてこなかった。そして自分は今や副部長昇進を目前に控えている。この程度のことに、わざわざ健一の手を煩わせる必要などない――そう判断し、ロビーでの一件を報告することもしなかった。その頃、紬は亮を連れ、迷いなく財務部へと向かっていた。途中、亮が感嘆の声を漏らす。「さっきのあの堂々とした姿、俺が知ってる妹のイメージとまるで別人じゃないか!」紬はその言葉に、ふっと微笑んだ。「……こういうの、あまり良くないかしら?」かつての自分は、どこへ行っても耐えてばかりだった。だが、その先に得たものは何一つない。今は成哉との離婚手続きの最中とはいえ、この滑稽な「天野夫人」という肩書きが、せめて今だけでも役に立っているのなら、それでいい。紬は成哉から預かっていた、半ば錆びついた管理職専用のカードキーを取り出し、専用エレベーターへと乗り込んだ。「いや、最高だよ。そのままでいろ!」亮は拍手で
――成哉の奴、わざとこんなものを残して、私を不快にさせるつもりなのだろうか。それなら大成功だ。心の底から吐き気がする。紬は一度深く息を吸い込み、その婚前契約書を金庫から取り出した。引き出しを開けてライターを探し当てると、その場で跡形もなく焼き尽くす。すべてを終え、何事もなかったかのように書斎を元の状態に戻した。一歩廊下へ踏み出した瞬間、バスローブを羽織った望美と鉢合わせた。紬の姿を認めるや否や、望美は驚愕の声を上げる。「……あなた、どうしてここにいるの!?」「私がここにいちゃいけない理由でもあるの?」紬は腕を組み、ドアにもたれかかった。その拍子に、望美の鎖骨
周囲の「信じられない」という視線が、紬と成哉の間を絶え間なく行き交っていた。人だかりの後方では、美紀がわざと成哉に話しかけ、親密な素振りを演じようと機会をうかがっていた。だが、成哉が突然放った一言に、彼女の嫉妬の矛先は一瞬で紬へと向けられる。――こんなにも完璧な男が、どうしてあの紬なんかを知っているの……?あの女の、どこがいいっていうのよ。成哉の視線は、群衆の中に立つ小柄な影に注がれていた。レストランで別れて以来、彼女の姿を見るのは久しぶりだった。「紬、なぜ俺の電話を切った?」成哉の声は、どこか乾いた響きを帯びている。「あら、ごめんなさい。てっきり迷惑電話かと思った
理玖の親切心に、紬はどう接すればいいのか分からず、戸惑っていた。……あんなに酷い彼の腕の傷には、あの薬を使わなかったのかしら。車内で、理玖のもとには紬からの返信がなかなか届かなかった。ふとスマホを見ると、祖父からのメッセージ攻撃が止まらない。不敬な暴言の数々を読み飛ばしつつ要約すると、紬が薬を受け取るタイミングで祖父と鉢合わせし、すでに効能や使い方の説明を受けたらしい。ということは、今頃は家の中で、自分のメッセージも読んでいるはずだ。理玖は眉をひそめた。……まだ返事しないのか。「社長、海上の航路についてですが、西園寺家と天野家が中條家の一族に接触し、提携を横取り
芽依はかっとなり、ドレスの裾を両手で掴んで、ぷりぷりと怒鳴った。「あんた、私に指図する気?あんた何様のつもりよ!どきなさい!言うことを聞かないなら、パパに言ってクビにしてもらうんだから!」健一は眉間をぴくりと動かし、言いにくそうに口を開いた。「……申し訳ありません、お嬢様。これは社長のご指示です。望美さんは間もなく撮影に入られますので、お嬢様のお世話をする時間はございません」「家にいたって、誰も私のお世話なんてしないでしょ!だったら望美さんのところに引っ越して、お手伝いさんを何人も雇えばいいじゃない!」芽依は頬を真っ赤に染め、外へ飛び出そうとした。しかし、健一は事務的な







