LOGIN店では毎日、決まった時間帯にライブ配信を行っている。中には、紬と写真を撮るためだけに、わざわざ足を運ぶ客までいるほどだった。「シオンちゃん、店の防犯カメラは業者さんにお願いして設置してもらった?」次の客を見送ったあと、紬は店員のシオンに声をかけた。シオンはハッとしたように額を軽く叩く。「あっちゃー!予約はしたんですけど……日付を一日間違えて、明日になってました!」紬は思わず苦笑した。「今日は仕方ないわね。次は気をつけてね」シオンは申し訳なさそうに何度も頷いた。午後、紬は一時的に会社へ戻った。美咲が本日をもって正式に産休に入り、夫の直輝へ代理権を譲るためである。会議の席で、美咲は皆に向けて落ち着いた声で告げた。「今後は社長である島崎直輝が実務を引き継ぎます。何かあれば彼に、彼でも対応できないことがあれば、直接私に連絡してください」「美咲の言う通りだよ」そう応じた男は、ベリーショートの髪にレザージャケットを羽織り、コンサバティブな美咲とは対照的に、いかにも現代的な雰囲気をまとっていた。だが、美咲へ向ける眼差しはひときわ柔らかく、深い愛情を宿している。直輝は美咲より三歳年下で、二人が交際を始めたと聞いた当時、紬も大いに驚いたものだった。だが年月を経ても、不穏な噂ひとつ耳に入ってこない。紬は心から、美咲が良き伴侶を得たことを喜んでいた。二人の睦まじいやり取りに、社員たちの間にも自然と笑みが広がる。リーダー交代という節目でありながら、そこに漂うのは悲壮感でも不安でもなく、穏やかな信頼の空気だった。直輝はこれまで会社に顔を出す機会こそ少なかったが、古参社員たちとは旧知の仲である。そしてこの日、紬にはもう一つ、新たな任務が与えられた。「あるお客様から、紬のデザインでウェディングドレスを制作してほしいというご指名が入ったの。一度きりの挙式用で、型紙の一般販売はしない独占契約――そういう条件よ」美咲は紬を呼び止め、その話を切り出した。紬は意外そうに目を瞬かせる。ウェディングドレスは彼女の専門分野ではない。これまでの人生で手がけたのは、自分と成哉の結婚式のための一着のみだ。「そのお客様、弥生さんたちのチームは検討されなかったの?」ノヴァにはウェディングドレス専門の部門があ
「ありがとう、紬」美咲は満面の笑みを浮かべた。他のメンバーも次々と祝福の言葉を贈る。美咲が静養に入り、会社を夫の直輝に託すことについても、誰一人として異論はなかった。直輝もまた、ノヴァの株主の一人なのだ。紬も彼とは何度か面識があるが、深い付き合いがあるわけではない。ただ記憶の中では、弁が立ち、立ち居振る舞いも洗練された、細やかな気配りのできる男という印象だった。少なくとも、美咲の元恋人である剛のような自信過剰な男とは、月とすっぽんほどの差がある。「今後の実務は夫が代行するけれど、重要な案件については私も並行してフォローするから、安心してね」初めて授かった命に、美咲は喜びと同時に、わずかな緊張も抱いていた。だからこそ、直輝が「帰国してノヴァを手伝いながら、君を支える。安心して出産に備えてほしい」と申し出てくれたとき、彼女は胸が震えるほど感動したのだ。美咲もまた、しばらくは葛藤していた。だが、今のノヴァは各部署が軌道に乗り始めている。提携先や資金繰りも、昨年末のような危機的状況ではない。何より、紬が戻ってきてくれた。彼女になら安心して任せられる。――「烏羽」の初日の営業は大成功を収めた。ネット上では、実店舗を訪れた客による自発的な推薦投稿が相次ぎ、話題は一気に広がっていく。紬は夜八時の閉店まで店に残った。自分がデザインしたものが形となり、それを手にした客が嬉しそうに身に着けていく。その光景を目の当たりにして、胸の奥に深い充足が満ちていく。創作の原動力は情熱だ。だが、その情熱を支えるのは、誰かに認められた瞬間に訪れる幸福なのだ。紬は久しぶりに、心の底から湧き上がるような幸せを感じていた。新しく補充された商品棚を背に、紬は自撮りをし、そのままインスタグラムに投稿する。一通りの業務を終え、店を出ようとしたとき。ふと、美咲への贈り物を思いついた。懐妊の知らせがあまりに突然で、何も用意できていなかったのだ。紬はわざわざベビー用品店に立ち寄り、新生児向けの小物をいくつか選んで購入した。だが、その様子を誰かに撮られているとは、夢にも思わなかった。――少し離れた場所で、剛が意地の悪い笑みを浮かべながら、その写真を渚に送りつけた。【見てみろよ、これ誰だと思う?】【?】【どう
しかし、それ以上、根掘り葉掘り問い詰められることはなかった。紬は戸惑いを覚えつつも、胸の奥から安堵のため息を漏らした。午前中の宣伝活動が功を奏し、テープカットの儀式が始まる頃には、オンラインのライブ視聴者も現地の見物客も大きく膨れ上がっていた。美咲と紬は手を取り合い、舞台袖からゆっくりと登壇する。「烏羽」の株主代表たちも一堂に会し、店の看板はまだ鮮やかな赤布に覆われたままだった。紬はコンセプトの総責任者として、最後にマイクを手に取る。「本店を愛してくださり、誠にありがとうございます。皆様のご期待を裏切ることのないよう、品質に徹底的にこだわり、精進を重ねてまいります」会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。その頃,ライブ配信の画面に映る紬の晴れやかな表情を、由佳は食い入るように見つめていた。奥歯を、血が滲むほど強く噛み締めながら。――私の家庭をめちゃくちゃにしておいて、よくもそんな舞台に立てるわね。みんなにちやほやされて……!画面の向こうで歓声を上げる視聴者のバカ共も、この女の本性を知らないんだ。紬のせいで、雪子のお腹の子は助からなかった。そう思うほどに、苛立ちは募っていく。雪子が目を覚ましたあと、明はかつてないほど激昂した。二人は初めて激しい口論を交わし、離婚寸前にまで至った。最終的には雪子が折れ、低姿勢に出ることでなんとか和解したものの、明の疑心暗鬼は収まらなかった。挙げ句の果てには、会社が差し押さえられたのも雪子と由佳が裏で何か仕組んだせいではないか、と疑い始めたのだ。だが、由佳は株式譲渡の書類に目を通し、代表者の名が「紬」であることを知って、ようやくすべてを悟った。――最初から最後まで、あの女の仕業だったんだ。自分の推測は間違っていなかった。あの日、病室で理玖と顔を合わせたとき、あれほどの目に遭わされたのもすべてあいつのせいだ。もしあの時、逃げ遅れていたら、本当に警察に連行されていたかもしれない。神谷商事の弁護士団は、伊達ではない。由佳の瞳に、陰湿な光が宿る。ライブ画面の中で、紬は中央に立っているわけではない。それでも、正午の光を一身に浴びているかのように輝き、その佇まいは神々しいほどの存在感を放っていた。金のハサミを手に、慎重に赤いリボンを断ち切る。由佳は、紬がテー
紬はうつむき、こみ上げる笑いをこらえるようにクスクスと忍び笑いをもらした。「さて、冷やかしはこのくらいにして。もうすぐテープカットの儀式が始まるわよ。あまり動き回らずに、着替えを済ませて待機していてちょうだいね」美咲は釘を刺すように、それでいて柔らかな笑みを浮かべて告げた。紬は指で「OK」のサインを作り、茶目っ気たっぷりに応えた。自分のデザインした製品が端然と並ぶ店で、テープカットという晴れ舞台に臨むのは、彼女にとってこれが初めての経験だった。紬は店の手伝い用の軽装を脱ぎ捨て、淡いピンク色のロングドレスへと着替えた。決して人目を引きすぎるような派手さはないが、美咲が纏う鮮やかな赤のドレスと同様、祝宴の席に相応しい気品と華やかさを湛えている。「烏羽」の店外には、開店を祝う花輪が所狭しと並んでいた。周囲には黒山の人だかりができ、まるでお祭りのような熱気に包まれている。紬が着替えを終える頃、弥生やカナたち一行も会社から息を切らせて駆けつけた。「紬先輩、マジで凄すぎますって!本社のEC部門なんて、午前中は注文が殺到しすぎてパンク寸前だったんですよ!」カナは開口一番、紬に駆け寄って勢いよく抱きついた。だが、怪我を負っている左手を気遣い、その動きには細心の注意が払われている。紬が入院していた頃、カナたちは美咲とともに一度見舞いに訪れていたのだ。弥生が後ろからカナの襟首を軽く引いて窘める。「相変わらずそそっかしいわね。せっかく治りかけている紬さんの腕を、また壊すつもり?」「大丈夫よ」紬は間もなく外れる予定のギプスをなぞり、微笑んだ。「オンラインの新規顧客も大幅に増えたって聞いたわ。みんな、本当にお疲れ様」突如として沸き起こった爆発的な注文に、運営チームだけでは手が足りず、カナや弥生も午前中は助っ人として駆り出されていた。メンテナンス作業に追われ、ようやくテープカットの直前に滑り込んできたのだ。「疲れなんて吹っ飛んじゃいましたよ!いえいえ、むしろこういう『お疲れ』なら年中無休で大歓迎です!」カナが茶目っ気たっぷりに言うと、弥生がすかさず揶揄した。「あらあら。五倍の休日出勤手当が出なかったとしても、同じことが言えるかしら?」「その言い方は品がないですよ、皐月さん!お金の話は友情に響くんですから!」カナ
紬がひとりの客へのコーディネート提案を終えた、ちょうどその時だった。漆黒のロングドレスを手に、一人の女性が歩み寄ってきた。「ただいま確認いたします。少々お待ちくださいませ」紬は恭しくドレスを受け取った。そのドレスは本日入荷したばかりの新作で、限定二十着という希少さゆえ、Mサイズはすでに完売の札が出ていた。紬はありのままの状況を伝えた。客は少しだけ落胆の色を見せ、「あら、このドレス、すごく気に入っていたのだけれど」と惜しそうに呟いた。「お気に召していただき、光栄に存じます。ですが、お客様でしたらSサイズも美しくお召しになれるかと存じます。このドレスはウエストを絞ったデザインで、通気性に富んだ素材を使いつつも、驚くほど伸縮性と包容力に優れておりますの。お客様のしなやかなスタイルであれば、このサイズこそがその魅力を最大限に引き出してくれるはずです。今風の言葉を借りれば、清純さと艶やかさを兼ね備えた『ピュア・センシュアル』な着こなしになりますわ」一呼吸置き、紬は柔らかな微笑みを添えて続けた。「一度、袖を通してみてはいかがでしょうか。もし、よりゆったりとしたシルエットがお好みであれば、ご連絡先をいただけますでしょうか。再入荷次第、すぐにご自宅までお届けにあがります」紬が熱心にドレスの美点を語り、真摯に代替案を差し出す間、客の顔から笑みが消えることはなかった。「わかりましたわ。では、まずはSサイズを試してみようかしら」紬が接客に興じている間に、いつの間にか周囲には多くの客が引き寄せられていた。そして、店長が回しているライブ配信のレンズもまた、吸い寄せられるように紬を捉えていた。【わあ、この店員さん、なんて優しいの!こんなトーンで口説かれたら、同性の私でも惚れちゃう。服を十着くらいまとめ買いしちゃいそう!】【即ポチったw丁寧に梱包して送ってね!】【えっ!?みんな決断早すぎ!ノヴァのオンラインショップはどこ?まだ見つからないんだけど!】【探しても無駄だよ……もうXXXSサイズまで全滅してる】この配信が起爆剤となり、ノヴァの開店記念ライブの同時視聴者数は瞬く間に十万人を突破。急上昇ランキングにもその名を刻んだ。テープカットの儀を待たずして、美咲が弾んだ足取りで朗報を運んできた。「紬!『烏羽』の売上が、もう
紬は一瞬、呆気に取られて立ち尽くした。見間違いかとも疑ったが、指先がリンクに触れようとしたその刹那、画面には非情にも「送信が取り消されました」との表示が浮かび、リンク先は「無効」へと変わってしまった。【システムの不具合だ。誤送信してしまった】【防犯カメラが必要なら、業者を手配する際に君の家にも併せて設置させる。わざわざ自分で買う必要はない】【まだ起きているか?あのリンクにはウイルスの懸念がある。決して開かないように】二秒ほど、紬の思考は白く染まった。理玖から矢継ぎ早に届いた三通のメッセージをなぞるうち、彼女の口角がふわりと持ち上がる。胸の奥で、小さな悪戯心が首をもたげた。【開いていませんよ。でも、神谷さん。もしかして、好きな人でもできたんですか?】【?】【いや、あのリンクは見ていない。検索した際にシステムが勝手にポップアップさせたものだ。誤解しないでくれ】紬はベッドから身を起こし、自分に一杯の白湯を注いだ。戻ってくると、理玖からさらなる追撃のメッセージが届いていた。【本当に見ていない】紬は思わず吹き出した。――あら、そんなに躍起になって否定しなくてもいいのに……【ええ、わかりました。防犯カメラの件、お手数をおかけします。おいくらですか?後ほど送金しますね】向こうからは、少しの間を置いて返信が来た。【不要だ。1BUY1キャンペーンの対象だったからな】紬の瞳が微かに揺れ、飲んでいた白湯に思わずむせそうになった。――そんなに都合よく、キャンペーンなんてあるものかしら?【君……体調が悪いのか?もし体が冷えるようなら、早めに風邪薬を飲むんだ】紬は手にしたコップと、今しがたシートから押し出したばかりの風邪薬を見つめ、わずかに背筋がゾクりとした。あらかじめ家にカメラが設置されていないことを確認していなければ、理玖が自分にカメラでも付けて監視しているのではないかと疑いたくなるほどの的中ぶりだ。紬は理玖におやすみを告げ、得も言われぬ困惑を抱えたまま眠りについた。向かいの部屋では、理玖が紬からの最後の一文を確認していた。しんと静まり返った夜、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂の中、彼はドアの傍らに身を置いていた。向かいの部屋から不審な物音がしないことを確認し、夜が深く沈み込んだ頃
紬の瞳に宿る冷たさは、まるで鋭く研ぎ澄まされた刃のように、その場にいる一人ひとりを射抜いた。「お義母さん、年長者としての敬意を表して、最後に一度だけ『お義母さん』と呼びます。本当に私のことがそんなにお嫌いなら、息子さんに早く離婚を承諾させてください!」絵美は紬の眼差しに気圧され、一瞬だけ言葉を失った。この小娘……数日会わないだけで、なぜこんなにも偉そうになったのか。「あそう、あなたの大事な孫と息子さんに聞いてみればいいんじゃありません?どうしてこんなにも長く熱が続いているのに、一向に下がらないのかって」紬は腕を組み、人々の前に堂々と立った。華奢な顎をわずかに上げる。その
成哉からのメッセージには、一枚の写真が添付されていた。悠真はベッドに横たわり、顔は異様なほど赤く火照り、眉間には深いしわが刻まれて、見るからに苦しげだった。紬の心臓がどくんと跳ねる。彼女はその写真を、長いあいだじっと見つめ続けた。そして結局、胸の奥に広がる心配と痛みを必死に押し殺し、指先で写真を長押しして削除した。成哉へ返信を送ると、紬はすぐにチャット画面を閉じた。病院。三日ぶりに紬から届いたメッセージを開き、成哉は非常に腹立った。紬は丸三日も姿を消しておきながら、ようやく返したメッセージは、まるで他人事のような一文だったのだ。【私は医者じゃないわ。悠真くん
望美は顔面蒼白になった。隣にいた芽依と悠真の顔色も、まるで血の気が引いたように冴えなかった。「もういい!」成哉は氷のように冷たい表情で、鋭い視線を紬に向けた。「紬、謝罪するだけでそんなに難しいのか?子供を唆してまで自分のために出しゃばらせるつもりか?」紬は一歩も引かず、その視線を真正面から受け止めた。「それで、私の過ちは何?子供を溺愛しすぎたこと?それとも、夫が愛人を家に連れ込み、私のパジャマを着せた時、すぐに駆けつけて止めなかったこと?」成哉は失望を宿した眼差しで紬を見つめた。「どうしてそんなに刺々しくなったんだ?」紬はふっと自嘲の気配を漂わせて微笑んだ。
あの年、フィリップはすでに六十代半ばに差しかかっており、ひとりでこの国を旅していた。だが不運にも思いがけないトラブルに見舞われ、所持金をすべて失ってしまったのだ。正造の孫である紬は、そのとき彼の正体を知る由もなかった。薄汚れた身なりの老人に新しい服を買い与え、温かい食事を振る舞い、その後で大使館へ連絡を入れたのである。別れ際、フィリップは紬に連絡先を教えてほしいと願い出た。やがて彼が無事に帰国して間もなく、この『ブドウ園』が紬のもとへ届けられたのだった。崇への誕生日の贈り物は、例年、成哉が単独で取り仕切ってきた。このビデオも、もとは宴席を盛り上げるためのささやかな添え物に過







