LOGIN戦の後には、二種類の静寂がある。一つは、全てが終わり、命が土へと還っていく、墓場のような静けさ。そしてもう一つは、次なる嵐の前の、息を潜めたような静けさだ。
辺境の地を包んでいるのは、間違いなく後者だった。 中央軍を打ち破ったという報せは、辺境の隅々にまで行き渡り、民衆を熱狂的な祝祭の渦へと巻き込んでいた。虐げられてきた者たちが、初めて掴んだ圧倒的な勝利。それは彼らの胸に、何物にも代えがたい誇りの炎を灯した。町の酒場は、夜通しライナスとセレスティナの名を讃える歌声に満ちている。 だが、その熱狂の中心地であるはずの辺境伯の城、その作戦司令室は、対照的に水を打ったように静まり返っていた。「閣下。捕虜の解放、完了いたしました。彼らは王都への帰路についております」
鉄狼団の副長ギデオンからの報告に、司令室に詰めていた幹部たちが、ごくりと喉を鳴らした。誰もが、主君の次の一手を固唾を飲んで見守っている。 一万の軍勢を、ほぼ無傷で打ち破った。この勢いのまま、王都へ進軍すれば、腐敗した中央貴族を一掃し、奸臣ヴァインベルクの首を獲ることも夢ではない。誰もがそう考え、その血を高ぶらせていた。 玉座に深く腰掛けたライナスは、腕を組んだまま、静かに目を閉じていた。戦の指揮を執っていた数日前と、何も変わらない。そのあまりの冷静さが、かえって周囲の緊張を高めていた。「閣下!」 ついに、一人の血気盛んな隊長がしびれを切らしたように声を上げた。「今こそ好機です! このまま王都へ! ヴァインベルクめに、我らの牙がどれほど鋭いか、思い知らせてやりましょう!」「そうだ! 我らに続けと、志を同じくする者も現れましょう!」 その言葉を皮切りに、他の幹部たちからも、次々と進軍を促す声が上がる。彼らの瞳には、勝利の熱と、次なる戦への渇望が燃え盛っていた。 ライナスは、ゆっくりと目を開いた。その金色の瞳に、感情の色はない。ただ、深淵を覗くような静けさだけがあった。「王都へは、行かぬ」 その、地を這うような低い声は、室内の熱狂を一瞬で凍りつかせた。「な…ぜ、でございますか」 ギデオンが、絞戦の後には、二種類の静寂がある。一つは、全てが終わり、命が土へと還っていく、墓場のような静けさ。そしてもう一つは、次なる嵐の前の、息を潜めたような静けさだ。 辺境の地を包んでいるのは、間違いなく後者だった。 中央軍を打ち破ったという報せは、辺境の隅々にまで行き渡り、民衆を熱狂的な祝祭の渦へと巻き込んでいた。虐げられてきた者たちが、初めて掴んだ圧倒的な勝利。それは彼らの胸に、何物にも代えがたい誇りの炎を灯した。町の酒場は、夜通しライナスとセレスティナの名を讃える歌声に満ちている。 だが、その熱狂の中心地であるはずの辺境伯の城、その作戦司令室は、対照的に水を打ったように静まり返っていた。「閣下。捕虜の解放、完了いたしました。彼らは王都への帰路についております」 鉄狼団の副長ギデオンからの報告に、司令室に詰めていた幹部たちが、ごくりと喉を鳴らした。誰もが、主君の次の一手を固唾を飲んで見守っている。 一万の軍勢を、ほぼ無傷で打ち破った。この勢いのまま、王都へ進軍すれば、腐敗した中央貴族を一掃し、奸臣ヴァインベルクの首を獲ることも夢ではない。誰もがそう考え、その血を高ぶらせていた。 玉座に深く腰掛けたライナスは、腕を組んだまま、静かに目を閉じていた。戦の指揮を執っていた数日前と、何も変わらない。そのあまりの冷静さが、かえって周囲の緊張を高めていた。「閣下!」 ついに、一人の血気盛んな隊長がしびれを切らしたように声を上げた。「今こそ好機です! このまま王都へ! ヴァインベルクめに、我らの牙がどれほど鋭いか、思い知らせてやりましょう!」「そうだ! 我らに続けと、志を同じくする者も現れましょう!」 その言葉を皮切りに、他の幹部たちからも、次々と進軍を促す声が上がる。彼らの瞳には、勝利の熱と、次なる戦への渇望が燃え盛っていた。 ライナスは、ゆっくりと目を開いた。その金色の瞳に、感情の色はない。ただ、深淵を覗くような静けさだけがあった。「王都へは、行かぬ」 その、地を這うような低い声は、室内の熱狂を一瞬で凍りつかせた。「な…ぜ、でございますか」 ギデオンが、絞
戦が終わった後の静寂は、時として戦の喧騒そのものよりも、人の心を重く締め付ける。 辺境の湿地帯の外れに設けられた、広大な野営地。そこには、武器を奪われ、捕虜となった数千の中央軍兵士たちが、ただ無気力に座り込んでいた。彼らの瞳から、かつての王都軍としての誇りは消え失せ、あるのは敗北という動かぬ事実と、これからの自分たちの運命に対する、漠然とした不安だけだった。 これからどうなるのか。 奴隷として、辺境の復興作業に死ぬまで酷使されるのか。あるいは、見せしめとして、一人ずつ処刑されていくのか。噂に聞く「辺境の狼」の冷酷さを思えば、どのような過酷な運命を強いられても、不思議はなかった。兵士たちは、ただ黙って、その時が来るのを待つことしかできなかった。 その野営地を見下ろす丘の上、ライナスの天幕では、捕虜の処遇を巡って、静かだが熱を帯びた軍議が開かれていた。「閣下、これだけの数の捕虜、前代未聞にございます」 鉄狼団の副長であるギデオンが、興奮と戸惑いの入り混じった声で進言した。「彼らを労働力として使えば、辺境の復興は、飛躍的に進みましょう。あるいは、貴族出身の将校たちからは、相応の身代金を取ることもできます。我らの軍資金も、潤うはずです」 ギデオンの言葉は、戦後の処理として、極めて常識的で、合理的なものだった。他の幹部たちも、それに同意するように、深く頷いている。捕虜とは、勝者がその権利を自由に行使できる、戦利品の一つなのだ。 だが、ライナスは、腕を組んだまま、静かに首を横に振った。「どちらも、採らん」 その、あまりに静かな、しかし有無を言わさぬ一言に、天幕の中の空気が、一瞬で張り詰めた。「…と、おっしゃいますと?」 ギデオンは、主君の真意を測りかね、戸惑いの声を上げた。「奴隷にも、身代金の担保にもしない。ただ…」 ライナスは、そこで一度、言葉を切った。そして、天幕にいる誰もが予想だにしなかった言葉を、静かに告げた。「…解放する」「かい、ほう…ですと!?」 ギデオンは、思わず素っ頓狂な声を上げた。
王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 中央広場を行き交う貴婦人たちのドレスは陽光にきらめき、その手には異国から取り寄せられたばかりの扇子が握られている。彼女たちの話題は、今宵開かれる夜会や、新進気鋭の詩人が詠んだ恋の詩について。遥か遠い辺境で、王国の軍隊が泥と血にまみれた死闘を繰り広げていることなど、その優雅な日常には存在しない、取るに足らないゴシップの一つでしかなかった。 辺境伯ライナスという成り上がりの蛮族が、国王陛下に逆らうという愚行に及んだ。だが、我らが誇るベルガー元帥率いる討伐軍が、今頃はその首を刎ね、王都に凱旋してくるだろう。誰もがそう信じ、疑うことすらなかった。宰相であるヴァインベルク公爵が、そう断言していたのだから。 その、根拠のない楽観論が、木っ端微塵に砕け散ったのは、ある晴れた日の午後だった。 王都の城門に、一騎の騎馬が、まるで地獄から逃げ出してきたかのような姿で駆け込んできた。騎乗していたのは、王都を出立した討伐軍の斥候だった。男の鎧は砕け、その顔は恐怖と疲労で歪み、もはや正気の色を失っている。「報告! ご報告申し上げます!」 男は、衛兵の前で馬から転げ落ちると、かすれた声で叫んだ。「討伐軍が…ベルガー元帥閣下の軍が、辺境の地にて、壊滅いたしました…!」 その一言が、城門の空気を凍りつかせた。 壊滅? あの、王国最強と謳われた軍勢が? 衛兵たちは、最初、男が何を言っているのか理解できなかった。あるいは、辺境での戦の恐怖に、気が触れてしまったのだと。 だが、その報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。火の粉が風に煽られるように、噂は尾ひれをつけ、人々の口から口へと伝わっていく。「聞いたか? 辺境の討伐軍が、全滅したらしいぞ」「馬鹿な! あのベルガー元帥が、負けるはずがない!」「いや、本当らしい。辺境の狼は、人の皮を被った悪魔だったそうだ…」 王都は、初めて、事態の異常さに気づき始めた。のどかな午後の陽光が、にわかに不吉な色を帯びていく。 その凶報は、当然、王城の中枢にも叩きつけられた。 宰相執務室
夜明けの光は、勝者と敗者を等しく照らし出していた。 辺境の湿地帯に広がっていたのは、戦と呼ぶにはあまりにも一方的な、蹂躙の跡だった。泥濘には、持ち主を失った無数の武具が墓標のように突き刺さり、朝霧がそれらを優しく包み込んでいる。 武器を捨て、地に膝をついた数千の兵士たち。彼らはもはや王国の軍人ではなく、ただ飢えと寒さと恐怖に打ちのめされた、哀れな難民の群れでしかなかった。その虚ろな瞳には、昨夜までの悪夢の残滓が色濃く焼き付いている。 彼らを取り囲むように、しかし整然と立つ辺境軍の兵士たちの間には、勝利の歓声はもうなかった。主君ライナスの厳命の下、彼らは勝者としての驕りを見せることなく、ただ静かに、そして規律正しく、投降の受け入れ作業を進めていた。 負傷者には薬が与えられ、飢えた者には温かい粥が配られる。その光景は、戦場のそれというよりは、むしろ大規模な救護活動のようでもあった。投降した兵士たちは、最初は戸惑い、毒を警戒するように粥を口にしていたが、その温かさが凍えた体に染み渡るにつれ、堰を切ったように涙を流し始める者も少なくなかった。 彼らは、敵であるはずの辺境軍から、人間としての尊厳を取り戻させてもらっているのだ。その事実が、武力による敗北以上に、彼らの心を深く打ちのめしていた。 そんな戦場の喧騒から少し離れた小高い丘の上で、ライナスは静かにその光景を見下ろしていた。彼の隣には、腹心であるギデオンが控えている。「閣下。捕虜の武装解除、ほぼ完了いたしました。将校クラスは、現在、一箇所に集めております」「そうか」 ライナスは短く応じた。彼の金色の瞳は、眼下の光景ではなく、そのさらに向こう、王都のある方角を見据えているようだった。 この勝利は、終わりではない。始まりだ。 腐敗した中央貴族社会に、そしてその頂点に君臨するヴァインベルク公爵に、本当の戦いを挑むための、始まりの狼煙に過ぎない。「ベルガー元帥は、どうしている」「はっ。抵抗することなく、捕縛に応じております。現在は、丘の麓の天幕にて、閣下のお越しをお待ちです」「そうか」 ライナスは、再び短く応じると、丘をゆっくりと下り始めた
天が白み始め、夜の闇が薄れていく。 だが、辺境の湿地に広がる光景は、夜の闇よりもなお深い絶望に染まっていた。朝霧が立ち込める中、かつて王国の威信を誇った討伐軍の軍旗は、無様に泥の中へと突き刺さっている。 それを合図にしたかのように、兵士たちの心は、完全に折れた。「もうだめだ…終わりだ…」 誰かが、力なく呟いた。その声は、乾いた風にかき消されそうなほど弱々しかったが、絶望という名の伝染病となって、瞬く間に陣営全体へと広がっていった。 一人、また一人と、兵士たちがその場に膝をつき、錆びついた剣や槍を、ぬかるんだ地面へと手放していく。カラン、という虚しい金属音が、戦場のあちこちで響いた。それは、彼らが武人としての誇りを、そして生きる意志さえも放棄した音だった。 もはや、敵の姿は見えない。だが、そのことが、かえって兵士たちの恐怖を増幅させていた。霧の向こう、森の闇の中、あの黒い狼たちが、自分たちが完全に弱りきるのを、静かに待っている。その見えざる視線が、背中に突き刺さるようで、誰もが身動き一つ取れずにいた。 飢えと、寒さと、そして圧倒的な恐怖。 それらは、人の心を内側から蝕む、最も強力な毒だった。ライナスという男と、その背後にいるであろう影の軍師は、その毒を完璧に使いこなし、一万の軍勢を、刃を交えることなく、ただの骸の集まりへと変えてしまったのだ。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その地獄絵図の中心で、馬上から微動だにせずにいた。 彼の周囲を固めていたはずの親衛隊も、今やその数を半数以下に減らし、残った者たちも、ただ虚ろな目で遠くを見つめているだけだった。 終わった。 その事実が、老将の全身を、鉛のような重さで打ちのめしていた。 彼の長い武人としての人生で、これほどの完敗は、一度たりともなかった。敵の策略に、ここまで完璧にはめられたことは。 隘路への誘い込み、兵站の破壊、情報戦による内部崩壊、そして、この最後の決戦の地。その全てが、一つの巨大な、そしてあまりにも精緻な罠だった。自分は、その罠の上で、ただ無様に踊らされていただけなのだ。(ライナス&helli
湿地と森が作り出した巨大な罠の中で、討伐軍はもはや軍隊ではなかった。 四方八方から断続的に飛来する矢、ぬかるみに足を取られ身動きできない仲間、そして霧と木々の間から神出鬼没に現れては消える狼の群れ。そのすべてが、兵士たちの心を、じわじわと、しかし確実に蝕んでいた。「降伏する! 俺はもう戦わない!」「助けてくれ! 命だけは!」 恐怖に駆られた兵士たちが、次々と武器を泥の中に投げ捨て、その場に膝をつき始める。規律も、命令も、もはや何の意味も持たない。指揮官である将校たち自身が、自らの命を守ることで精一杯だった。 ベルガー元帥は、本陣でその光景を呆然と見つめていた。彼の周囲を固める親衛隊だけが、かろうじて円陣を組んで抵抗を続けているが、それも時間の問題だった。敵は、巧みにこちらの体力を奪い、じっくりと包囲の輪を狭めてくる。それは、獲物が完全に弱るのを待つ、狼の狩りそのものだった。(終わった…) 彼の心の中で、何かが完全に折れた。武人としての誇りも、王家への忠誠も、この圧倒的な現実の前では、もはや色褪せた感傷に過ぎなかった。 その光景を、霧に隠れた丘の上から、ライナスは静かに見下ろしていた。 敵の指揮系統は乱れ、兵士の戦意は尽きた。戦いの趨勢は、完全に決している。このまま包囲を続ければ、やがて敵は自滅するだろう。それもまた、一つの勝利の形だった。 だが。「…ギデオン」 ライナスは、傍らで控える腹心を呼んだ。「はっ」「仕上げだ。この戦を、我らの完全な勝利として、歴史に刻むためのな」 ライナスの声は、それまでの冷静な指揮官のものとは異なっていた。そこには、戦というものの本質を、その血と肉で味わい尽くしてきた、猛将の熱が宿っていた。「閣下、しかし、これ以上は…」「分かっている。無益な殺生は不要だ。だが、獅子の喉元に、狼の牙を突き立て、その心臓を完全に止めてやらねば、この戦は終わらん」 彼はゆっくりと立ち上がった。その屈強な体躯から放たれる凄まじい圧が、周囲の空気を震わせる。「ベルガーという老将に、敬意を







