LOGINどれほどの時間、眠っていたのだろうか。
セレスティナの意識は、温かい羽毛の海からゆっくりと浮上するように、穏やかに覚醒した。最後に記憶にあるのは、自分を抱きかかえる力強い腕の感触と、どくん、どくん、と響く、規則正しい心臓の音。そして、絶望の淵で見た、あの金色の瞳だった。重い瞼を押し上げると、見知らぬ天井が視界に広がった。黒く太い梁が渡された、質実剛健な造りの天井。鼻をかすめるのは、清潔なリネンの香りと、暖炉で薪が燃える微かな匂い。彼女が横たわっているのは、驚くほど柔らかな寝台の上だった。
何ヶ月ぶりかに感じる、まともな寝具の感触に戸惑いながら、ゆっくりと身を起こす。体中が軋むように痛んだが、あの路地裏で受けた傷や打撲には、すでに手当てが施されているようだった。そして、自分が着ているものも、汚れた囚人服ではなく、簡素だが肌触りの良い木綿の寝間着に変わっている。(ここは…)
部屋の中を見回し、セレスティナは息を呑んだ。
そこは、城の一室らしかった。壁は磨かれた石で覆われ、床には厚手の絨毯が敷かれている。彼女が眠っていた寝台の他に、簡素なテーブルと椅子が二脚、そして衣類を収めるための木製の箪笥が置かれているだけだったが、そのどれもが上質で、手入れが行き届いていた。窓の外はまだ薄暗く、夜が明けたばかりのようだった。 昨夜の出来事が、悪夢ではなかったことを理解する。あの絶望的な状況から、自分は救い出されたのだ。あの男、辺境伯ライナスによって。その名を思い浮かべた瞬間、部屋の扉が音もなく開いた。
心臓が、鷲掴みにされたかのように跳ねる。扉の向こうに立っていたのは、やはり彼だった。 ライナスは、昨夜の黒い軍服ではなく、ラフなシャツ姿だった。だが、その簡素な服装が、かえって彼の鍛え上げられた肉体の厚みと、内に秘めた獣のような獰猛さを際立たせている。彼はセレスティナが目を覚ましているのを確認すると、何も言わずに部屋へ入ってきた。その金色の瞳は、感情の色を一切映さず、ただ静かに彼女を見据えている。セレスティナは、咄嗟に毛布を胸元まで引き上げ、身を固くした。恐怖。それは確かにある。だが、それだけではない感情が、彼女の心を複雑にかき乱していた。この男は、自分をあの地獄から救い出してくれた恩人でもあるのだ。
気まずい沈黙が、部屋に重くのしかかる。暖炉の炎がぱちりと音を立てるのだけが、唯一の音だった。 やがて、ライナスは部屋の隅の椅子に腰を下ろすと、低い声で言った。「気分は、どうだ」
問いかけ。それは、彼女がこの辺境に来てから、初めて向けられた、体調を気遣う言葉だった。その事実に、セレスティナの心は微かに揺れる。
「……おかげさまで」 かろうじて、かすれた声を絞り出す。何か月もまともに言葉を発していなかった声帯は、うまく震えてくれなかった。 ライナスは、彼女の返事を聞くと、わずかに頷いた。彼の視線が、彼女の腫れた頬に向けられる。その視線に、セレスティナはびくりと肩を震わせた。 彼は、この傷を見て、何を思うのだろうか。 だが、彼の口から発せられたのは、予想外の言葉だった。「あの者たちは、ヴァインベルクの手先だ」
セレスティナは、はっと顔を上げた。
ライナスは、彼女の反応には構わず、淡々と続ける。 「俺が中央の役人どもを粛清した後、運良く逃げ延びた残党だろう。奴らは、俺が辺境伯になった当初から、この町に潜り込んでいた。ヴァインベルクが、俺を監視するために放った犬だ」 その言葉は、セレスティナに二つの事実を突きつけた。一つは、ライナスが宰相ヴァインベルクと明確に敵対しているということ。そしてもう一つは、彼が昨夜の襲撃者たちの正体を、正確に把握しているということだった。 「奴らは、お前がアルトマイヤーの娘だと知っていたわけではないだろう。だが、お前が俺の『庇護下』にあると見て、嫌がらせのために手を出した。俺に対する、当てつけのつもりでな」 ライナスの声は静かだったが、その奥には、氷のような冷たい怒りが感じられた。それは、彼女個人に向けられた同情ではなく、自らの縄張りを荒らしたハイエナに対する、支配者の怒りだった。「なぜ…私が、アルトマイヤーの…」
セレスティナは、思わず問いかけていた。彼は、なぜ自分の正体を知っているのか。 ライナスは、その金色の瞳で、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。 「お前のその瞳の色だ。王都では、ちと有名だったらしいな。すみれ色の瞳を持つ、アルトマイヤーの白百合、と」 その言葉に、セレスティナは唇を噛んだ。かつては誇りであったその特徴が、今では忌まわしい過去を呼び覚ます、呪いの刻印のように思えた。 「それに、お前の薬草の知識。あれは、ただの素人が持つ知識ではない。アルトマイヤー公爵は、薬草学に造詣が深いことで知られていた。その娘であるお前が、知識を受け継いでいても不思議はない」 彼は、全てを見抜いていたのだ。自分がこの町で、生きるために必死に行っていたことさえも、彼の手の上で観察されていたに過ぎない。その事実に、セレスティナは軽い眩暈を覚えた。 この男の前では、何もかもが暴かれてしまう。ライナスは、椅子から立ち上がると、彼女が眠る寝台のそばまで歩み寄ってきた。その巨躯が近づいてくるだけで、部屋の空気が圧迫されるような錯覚に陥る。
セレスティナは、恐怖で身を縮こませた。 だが、ライナスは彼女に触れることなく、ただその場に立ち止まると、決定的な言葉を告げた。「セレスティナ・アルトマイヤー」
彼は、彼女の名を呼んだ。
その声は、命令を下す時と同じ、低く、揺るぎない響きを持っていた。「お前は、今日から俺の城で暮らせ。これは、保護だ。そして、命令でもある。拒否は認めん」
有無を言わさぬ、絶対的な宣告。
セレスティナは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。保護。そして、命令。その二つの相反する言葉が、彼女の頭の中で渦を巻く。 この男は、自分をどうするつもりなのか。反逆者の娘として、再び牢に繋ぐのか。それとも、アルトマイヤー家の名を利用して、何かを企んでいるのか。 だが、今の彼女に、それを問い質す力も、彼の命令に逆らう気力も残ってはいなかった。 あの路地裏の恐怖と絶望を思えば、この男の庇護の下にいる方が、遥かに安全であることは事実だった。たとえ、それが狼の巣の中であったとしても。 彼女は、何も答えられなかった。ただ、彼の金色の瞳を見つめ返す。その瞳の奥にある真意を、必死に読み取ろうとして。 ライナスは、彼女の沈黙を承諾と受け取ったようだった。彼は、それ以上何も言わず、踵を返して部屋を出て行こうとする。 その背中に向かって、セレスティナは、かろうじて声を振り絞った。「あ…あの…」
ライナスの足が、ぴたりと止まる。彼は、振り返らないまま、先を促した。
「…なぜ、私を?」
なぜ、助けたのですか。なぜ、ここに置くのですか。
その問いに、ライナスはしばらくの間、沈黙していた。 やがて、彼はゆっくりと振り返った。その金色の瞳には、これまで見せたことのない、複雑な光が宿っていた。それは、憐憫でも、同情でもない。もっと深い、理解しがたい感情の色だった。「お前が、使えるからだ」
彼は、そう言い放った。
「お前の知識、お前の家名、そして、お前が持つヴァインベルクへの憎しみ。その全てが、俺の目的のために、役に立つ」 その言葉は、冷たい刃のように、セレスティナの心に突き刺さった。 やはり、そうだったのだ。この男は、自分という存在を、ただの駒としてしか見ていない。彼の優しさに見えたものも、全ては自分の目的を達成するための、計算ずくの行動だったのだ。 絶望が、再び彼女の心を覆いかけた。だが、不思議と、以前のような底なしの闇に引きずり込まれる感覚はなかった。 なぜなら、彼の言葉は、彼女をただのか弱い被害者としてではなく、価値のある「駒」として認めていることの裏返しでもあったからだ。 無力ではない。役に立つ。 その事実が、皮肉にも、彼女の心の奥底で忘れかけていた、アルトマイヤー家の人間としての誇りを、かすかに刺激した。「今は、休め。話は、それからだ」
ライナスは、今度こそ一方的にそう告げると、部屋を出ていった。重い扉が閉められ、セレスティナは再び一人になった。
部屋には、暖炉の炎が静かに揺れているだけ。 彼女は、ライナスの残した言葉を、何度も心の中で反芻した。 使えるから。 その言葉は、残酷で、打算的だ。だが、それは同時に、彼女に一つの道を示してもいた。 復讐。 父の、母の、そしてアルトマイヤー家の無念を晴らす。その目的を、この男は自分と共有している。いや、彼は彼の目的のために、自分を利用しようとしているだけだ。 だが、それでもいい。 利害が一致するのなら、この狼の力を借りて、ヴァインベルクに一矢報いることができるかもしれない。 セレスティナのすみれ色の瞳に、初めて、復讐という名の、暗く、しかし力強い光が宿った。 それは、まだか細く、不確かな光だった。だが、彼女がこの灰色の町に来てから、初めて自らの意志で掴もうとした、未来への道筋だった。 彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上のスープを口に運んだ。 生きなければ。 この男に利用されるためでも、駒として使われるためでもない。 自らの手で、復讐を成し遂げるために。 その決意を固めた時、彼女の心は、不思議と凪いでいた。 保護という名の命令。それは、彼女にとって、新たな戦いの始まりを告げる、狼煙だったのだ。狼の巣の中で、虐げられた白百合は、静かに、しかし確かに、反撃の牙を研ぎ始めていた。春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。
辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ
王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと
辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那
湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。 辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。 かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。 それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。 この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。 五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。 最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」 白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」 診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、
夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま







