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第19話 保護という名の命令

last update Last Updated: 2025-08-20 20:23:24

 どれほどの時間、眠っていたのだろうか。

 セレスティナの意識は、温かい羽毛の海からゆっくりと浮上するように、穏やかに覚醒した。最後に記憶にあるのは、自分を抱きかかえる力強い腕の感触と、どくん、どくん、と響く、規則正しい心臓の音。そして、絶望の淵で見た、あの金色の瞳だった。

 重い瞼を押し上げると、見知らぬ天井が視界に広がった。黒く太い梁が渡された、質実剛健な造りの天井。鼻をかすめるのは、清潔なリネンの香りと、暖炉で薪が燃える微かな匂い。彼女が横たわっているのは、驚くほど柔らかな寝台の上だった。

 何ヶ月ぶりかに感じる、まともな寝具の感触に戸惑いながら、ゆっくりと身を起こす。体中が軋むように痛んだが、あの路地裏で受けた傷や打撲には、すでに手当てが施されているようだった。そして、自分が着ているものも、汚れた囚人服ではなく、簡素だが肌触りの良い木綿の寝間着に変わっている。

(ここは…)

 部屋の中を見回し、セレスティナは息を呑んだ。

 そこは、城の一室らしかった。壁は磨かれた石で覆われ、床には厚手の絨毯が敷かれている。彼女が眠っていた寝台の他に、簡素なテーブルと椅子が二脚、そして衣類を収めるための木製の箪笥が置かれているだけだったが、そのどれもが上質で、手入れが行き届いていた。窓の外はまだ薄暗く、夜が明けたばかりのようだった。

 昨夜の出来事が、悪夢ではなかったことを理解する。あの絶望的な状況から、自分は救い出されたのだ。あの男、辺境伯ライナスによって。

 その名を思い浮かべた瞬間、部屋の扉が音もなく開いた。

 心臓が、鷲掴みにされたかのように跳ねる。扉の向こうに立っていたのは、やはり彼だった。

 ライナスは、昨夜の黒い軍服ではなく、ラフなシャツ姿だった。だが、その簡素な服装が、かえって彼の鍛え上げられた肉体の厚みと、内に秘めた獣のような獰猛さを際立たせている。彼はセレスティナが目を覚ましているのを確認すると、何も言わずに部屋へ入ってきた。その金色の瞳は、感情の色を一切映さず、ただ静かに彼女を見据えている。

 セレスティナは、咄嗟に毛布を胸元まで引き上げ、身を固くした。恐怖。それは確かにある。だが、それだけではない感情が、彼女の心を複雑にかき乱していた。この男は、自分をあの地獄から救い出してくれた恩人でもあるのだ。

 気まずい沈黙が、部屋に重くのしかかる。暖炉の炎がぱちりと音を立てるのだけが、唯一の音だった。

 やがて、ライナスは部屋の隅の椅子に腰を下ろすと、低い声で言った。

「気分は、どうだ」

 問いかけ。それは、彼女がこの辺境に来てから、初めて向けられた、体調を気遣う言葉だった。その事実に、セレスティナの心は微かに揺れる。

「……おかげさまで」

 かろうじて、かすれた声を絞り出す。何か月もまともに言葉を発していなかった声帯は、うまく震えてくれなかった。

 ライナスは、彼女の返事を聞くと、わずかに頷いた。彼の視線が、彼女の腫れた頬に向けられる。その視線に、セレスティナはびくりと肩を震わせた。

 彼は、この傷を見て、何を思うのだろうか。

 だが、彼の口から発せられたのは、予想外の言葉だった。

「あの者たちは、ヴァインベルクの手先だ」

 セレスティナは、はっと顔を上げた。

 ライナスは、彼女の反応には構わず、淡々と続ける。

「俺が中央の役人どもを粛清した後、運良く逃げ延びた残党だろう。奴らは、俺が辺境伯になった当初から、この町に潜り込んでいた。ヴァインベルクが、俺を監視するために放った犬だ」

 その言葉は、セレスティナに二つの事実を突きつけた。一つは、ライナスが宰相ヴァインベルクと明確に敵対しているということ。そしてもう一つは、彼が昨夜の襲撃者たちの正体を、正確に把握しているということだった。

「奴らは、お前がアルトマイヤーの娘だと知っていたわけではないだろう。だが、お前が俺の『庇護下』にあると見て、嫌がらせのために手を出した。俺に対する、当てつけのつもりでな」

 ライナスの声は静かだったが、その奥には、氷のような冷たい怒りが感じられた。それは、彼女個人に向けられた同情ではなく、自らの縄張りを荒らしたハイエナに対する、支配者の怒りだった。

「なぜ…私が、アルトマイヤーの…」

 セレスティナは、思わず問いかけていた。彼は、なぜ自分の正体を知っているのか。

 ライナスは、その金色の瞳で、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。

「お前のその瞳の色だ。王都では、ちと有名だったらしいな。すみれ色の瞳を持つ、アルトマイヤーの白百合、と」

 その言葉に、セレスティナは唇を噛んだ。かつては誇りであったその特徴が、今では忌まわしい過去を呼び覚ます、呪いの刻印のように思えた。

「それに、お前の薬草の知識。あれは、ただの素人が持つ知識ではない。アルトマイヤー公爵は、薬草学に造詣が深いことで知られていた。その娘であるお前が、知識を受け継いでいても不思議はない」

 彼は、全てを見抜いていたのだ。自分がこの町で、生きるために必死に行っていたことさえも、彼の手の上で観察されていたに過ぎない。その事実に、セレスティナは軽い眩暈を覚えた。

 この男の前では、何もかもが暴かれてしまう。

 ライナスは、椅子から立ち上がると、彼女が眠る寝台のそばまで歩み寄ってきた。その巨躯が近づいてくるだけで、部屋の空気が圧迫されるような錯覚に陥る。

 セレスティナは、恐怖で身を縮こませた。

 だが、ライナスは彼女に触れることなく、ただその場に立ち止まると、決定的な言葉を告げた。

「セレスティナ・アルトマイヤー」

 彼は、彼女の名を呼んだ。

 その声は、命令を下す時と同じ、低く、揺るぎない響きを持っていた。

「お前は、今日から俺の城で暮らせ。これは、保護だ。そして、命令でもある。拒否は認めん」

 有無を言わさぬ、絶対的な宣告。

 セレスティナは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。保護。そして、命令。その二つの相反する言葉が、彼女の頭の中で渦を巻く。

 この男は、自分をどうするつもりなのか。反逆者の娘として、再び牢に繋ぐのか。それとも、アルトマイヤー家の名を利用して、何かを企んでいるのか。

 だが、今の彼女に、それを問い質す力も、彼の命令に逆らう気力も残ってはいなかった。

 あの路地裏の恐怖と絶望を思えば、この男の庇護の下にいる方が、遥かに安全であることは事実だった。たとえ、それが狼の巣の中であったとしても。

 彼女は、何も答えられなかった。ただ、彼の金色の瞳を見つめ返す。その瞳の奥にある真意を、必死に読み取ろうとして。

 ライナスは、彼女の沈黙を承諾と受け取ったようだった。彼は、それ以上何も言わず、踵を返して部屋を出て行こうとする。

 その背中に向かって、セレスティナは、かろうじて声を振り絞った。

「あ…あの…」

 ライナスの足が、ぴたりと止まる。彼は、振り返らないまま、先を促した。

「…なぜ、私を?」

 なぜ、助けたのですか。なぜ、ここに置くのですか。

 その問いに、ライナスはしばらくの間、沈黙していた。

 やがて、彼はゆっくりと振り返った。その金色の瞳には、これまで見せたことのない、複雑な光が宿っていた。それは、憐憫でも、同情でもない。もっと深い、理解しがたい感情の色だった。

「お前が、使えるからだ」

 彼は、そう言い放った。

「お前の知識、お前の家名、そして、お前が持つヴァインベルクへの憎しみ。その全てが、俺の目的のために、役に立つ」

 その言葉は、冷たい刃のように、セレスティナの心に突き刺さった。

 やはり、そうだったのだ。この男は、自分という存在を、ただの駒としてしか見ていない。彼の優しさに見えたものも、全ては自分の目的を達成するための、計算ずくの行動だったのだ。

 絶望が、再び彼女の心を覆いかけた。だが、不思議と、以前のような底なしの闇に引きずり込まれる感覚はなかった。

 なぜなら、彼の言葉は、彼女をただのか弱い被害者としてではなく、価値のある「駒」として認めていることの裏返しでもあったからだ。

 無力ではない。役に立つ。

 その事実が、皮肉にも、彼女の心の奥底で忘れかけていた、アルトマイヤー家の人間としての誇りを、かすかに刺激した。

「今は、休め。話は、それからだ」

 ライナスは、今度こそ一方的にそう告げると、部屋を出ていった。重い扉が閉められ、セレスティナは再び一人になった。

 部屋には、暖炉の炎が静かに揺れているだけ。

 彼女は、ライナスの残した言葉を、何度も心の中で反芻した。

 使えるから。

 その言葉は、残酷で、打算的だ。だが、それは同時に、彼女に一つの道を示してもいた。

 復讐。

 父の、母の、そしてアルトマイヤー家の無念を晴らす。その目的を、この男は自分と共有している。いや、彼は彼の目的のために、自分を利用しようとしているだけだ。

 だが、それでもいい。

 利害が一致するのなら、この狼の力を借りて、ヴァインベルクに一矢報いることができるかもしれない。

 セレスティナのすみれ色の瞳に、初めて、復讐という名の、暗く、しかし力強い光が宿った。

 それは、まだか細く、不確かな光だった。だが、彼女がこの灰色の町に来てから、初めて自らの意志で掴もうとした、未来への道筋だった。

 彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上のスープを口に運んだ。

 生きなければ。

 この男に利用されるためでも、駒として使われるためでもない。

 自らの手で、復讐を成し遂げるために。

 その決意を固めた時、彼女の心は、不思議と凪いでいた。

 保護という名の命令。それは、彼女にとって、新たな戦いの始まりを告げる、狼煙だったのだ。狼の巣の中で、虐げられた白百合は、静かに、しかし確かに、反撃の牙を研ぎ始めていた。

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