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第18話 狼の問い

last update Last Updated: 2025-08-19 20:17:52

 意識の浮上は、まるで深い水の底から、ゆっくりと水面へ押し上げられるような感覚だった。最初に感じたのは、温もりだった。路地裏の凍てつく石畳とも、廃屋の冷たい床とも違う、穏やかで優しい温もり。

 セレスティナは、重い瞼をわずかに持ち上げた。

 ぼやけた視界に映ったのは、見知らぬ天井だった。黒々とした太い梁が渡された、飾り気のない、しかし頑丈そうな木の天井。鼻腔をくすぐるのは、埃と黴の臭いではなく、清潔なリネンと、微かに薫る薪の匂いだった。

 ゆっくりと、首だけを動かす。

 そこは、簡素だが広々とした部屋だった。壁は磨かれた石材で、床には動物のものらしい厚手の毛皮が敷かれている。窓の外はまだ暗いが、部屋の隅にある暖炉では、ぱちぱちと音を立てて静かに炎が揺れていた。

 自分の体が、柔らかな寝台の上に横たえられていることに気づく。かけられているのは、昨日彼が与えてくれたものとはまた違う、さらに分厚く上質な毛布。そして、自分が着ているものも、泥と血に汚れた囚人服ではなく、簡素だが清潔な、木綿の寝間着に変わっていた。

 誰が、着替えさせたのだろう。

 その考えに至った瞬間、昨夜の記憶が奔流のように押し寄せ、彼女ははっと息を呑んだ。

 男たちの下卑た笑い声。引き裂かれる衣服。頬を打たれた衝撃。そして、絶望の淵で見た、あの金色の瞳。

(夢では、なかった…)

 腫れぼったい頬の痛みと、体のあちこちに刻まれた打撲の痕が、それが紛れもない現実であったことを告げていた。

 ここは、どこなのだろう。あの後、私はどうなったのか。

 混乱と恐怖で心臓が早鐘を打つ。彼女は身を起こそうとして、全身を走る痛みに顔をしかめた。

 その時、部屋の扉が静かに開き、一人の男が入ってきた。

 セレスティナは、息を止めた。

 辺境伯、ライナス。

 彼は、あの夜の黒い軍服ではなく、簡素なシャツに革のズボンという、くつろいだ姿をしていた。だが、そのラフな服装が、かえって彼の鍛え上げられた肉体の厚みと、獣のようなしなやかさを際立たせている。

 彼は、セレスティナが目を覚ましていることに気づくと、わずかにその金色の目を細めた。だが、何も言わず、部屋の隅の椅子にどさりと腰を下ろす。その所作には、貴族的な洗練さなど欠片もなかったが、絶対的な支配者だけが持つ、揺るぎない落ち着きがあった。

 気まずい沈黙が、部屋を支配する。暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響いた。セレスティナは、どうしていいか分からず、ただ毛布を胸元まで引き上げ、身を固くする。

 恐怖。それは確かにある。だが、昨夜の絶望的な恐怖とは質が違っていた。目の前の男は、自分をあの地獄から救い出してくれた。その事実は、彼女の心に恐怖と相反する、微かな安堵の感情を生んでいた。

 しばらくして、ライナスは部屋の外に控えていたらしい侍女に、低い声で何かを命じた。彼の声は、命令する響きの中にも、不思議な落ち着きがあった。

 やがて、初老の侍女が、盆に載せた食事を運んできた。まだ湯気の立つ温かいスープと、焼きたてのパン、そして薬草の香りがするハーブティー。それは、セレスティナがこの辺境に来てから、いえ、アルトマイヤー家が没落してから、一度も目にしなかった「まともな食事」だった。

 侍女は、セレスティナが身を起こすのを手伝うと、ベッドの脇のテーブルに食事を置き、無言で一礼して部屋を出て行った。

「食え」

 ライナスが、短く言った。それは命令だったが、拒絶を許さないというよりは、事実を告げるような、淡々とした響きだった。

 セレスティナは、目の前の食事をただ見つめた。空腹のはずなのに、食欲は全く湧いてこない。緊張と、昨夜の出来事の衝撃で、喉がカラカラに渇いて何も通りそうになかった。スプーンを持つべき手は、意思に反して微かに震えている。

 彼女は、ただ俯いて、その震える手を見つめた。

 ライナスは、彼女を急かすでもなく、責めるでもなく、ただ静かに椅子に座ったまま、その様子を観察していた。彼の金色の瞳は、何もかも見透かしているようで、セレスティナは顔を上げることができない。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。

 ライナスが、静かに口を開いた。

「お前、何者だ」

 その声は、驚くほど静かだった。尋問のような威圧感はない。ただ純粋な、真実を知ろうとする探求者のような、深く落ち着いた問いだった。

 セレスティナの肩が、びくりと震えた。

 何者か。

 その問いに、どう答えればいいというのか。

 私は、セレスティナ・アルトマイヤー。かつては王国の四大公爵家の一つに数えられた、アルトマイヤー家の令嬢。

 違う。

 今の私は、囚人番号三百十二番。反逆者の娘として、全ての身分と名誉を剥奪され、この最果ての地に追いやられた罪人。

 名乗るべき名など、もう、どこにもない。

 彼女が何者であるかを明かすことは、あの忌まわしい過去を、偽りの断罪を、裏切りの記憶を、全てこの男の前に引きずり出すことだった。それは、ようやく薄い氷で覆った傷口を、自らこじ開けるような行為に思えた。

 彼女は、何も答えられなかった。ただ、唇をきつく結び、再び俯いてしまう。その姿は、頑なな拒絶というよりは、怯える小動物が、自分の殻に閉じこもる姿に似ていた。

 ライナスは、彼女の沈黙をじっと見つめていた。

 彼の視線は、彼女のやつれた顔、泥と埃で輝きを失った銀髪、そして恐怖に揺れるその細い肩を、ゆっくりと見ていく。どんなにボロボロの姿になろうとも、その所作の端々には、どうしても隠しきれない気品と、育ちの良さが滲み出ていた。地面に落ちてもなお、その香りを失わない白百合のように。

 そして、何よりも。

 彼女が恐怖に顔を上げた瞬間に見えた、その瞳の色。

 すみれ色。

 ライナスの脳裏に、数年前に傭兵として王都に滞在していた頃、耳にした噂が蘇った。

『アルトマイヤー公爵家のお姫様は、それは見事な美しさだそうだ。特にその瞳は、まるで春先に咲くスミレの花を溶かし込んだような、それはそれは美しい色をしているらしい』

 アルトマイヤー家。清廉潔白で知られ、民からの信望も厚かったが、それゆえに宰相ヴァインベルクに疎まれ、無実の罪で断罪された悲劇の一族。

 目の前の、衰弱しきった娘の姿と、かつて王都の華と謳われた令嬢の姿が、ライナスの頭の中でゆっくりと結びついていく。

 もし、この女が本当にあのアルトマイヤー家の生き残りなのだとしたら。彼女は、どれほどの絶望を味わい、どれほどの屈辱に耐えてきたというのか。

 ライナスの金色の瞳の奥に、ヴァインベルクという男に対する、静かで冷たい怒りの光が宿った。彼は、腐敗した貴族社会そのものを憎んでいた。その中でも、ヴァインベルクのような、己の権力欲のために、無辜の人間を平然と陥れる輩を、心の底から軽蔑していた。

 目の前の娘は、その最大の被害者だった。

 彼は、これ以上彼女を追い詰めるのは得策ではないと判断した。問いを重ねることはせず、静かに立ち上がる。その気配に、セレスティナは再びびくりと体を震わせた。

「…今は、休め」

 ライナスは、それだけ言うと、彼女に背を向けた。

「怪我の手当ては、後で侍女にさせる。何か必要なものがあれば、その女に言え」

 その声は、相変わらず無骨で、感情が読めない。だが、その言葉の端々には、セレスティナを気遣う響きが確かにあった。

 彼は一度も振り返ることなく、部屋を出ていく。重い扉が閉められ、部屋には再び、セレスティナと暖炉の炎だけが残された。

 一人になったことで、張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩む。セレスティナは、大きく息を吐き出した。

 彼の最後の言葉が、頭の中で反響する。

 怪我の手当てをさせる。必要なものがあれば言え。

 それは、彼女がこの辺境に来てから、誰からもかけられたことのない、人間としての扱いだった。

 彼は、自分の正体に気づいたのだろうか。気づいた上で、あのような問いを?

 それとも、まだ疑っている段階なのか。

 もし、私がアルトマイヤーの名を明かしたら、彼はどうするのだろう。反逆者の娘として、蔑むのだろうか。それとも、同情してくれるのだろうか。

 いや、あの男が、同情などという感傷的な理由で動くとは思えない。彼には、何か別の目的があるはずだ。

 混乱が、彼女の心を支配する。

 恐怖の対象だったはずの「狼」。だが、彼は自分を救い、温かい寝床と食事を与え、そして、人間として扱ってくれている。

 彼女は、おそるおそる、テーブルの上のスープに手を伸ばした。まだ温かい。スプーンで一口すすると、滋味深い味が、冷え切っていた体にじんわりと染み渡っていく。

 それは、ただのスープではなかった。

 失いかけていた、人間としての尊厳を、少しだけ取り戻させてくれるような味がした。

 彼女のすみれ色の瞳から、一筋、熱いものがこぼれ落ちた。それは、絶望や悲しみの涙ではなかった。何ヶ月ぶりかに感じた、人の温かさに対する、戸惑いの涙だった。

 狼の問いは、彼女の閉ざされた心の扉を、ゆっくりと、しかし確実にこじ開け始めていた。

 その扉の先に何があるのか、彼女にはまだ、知る由もなかった。

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